縁とは不思議なもの
或る冬の寒い日、会社の仕事を終えて帰宅すると、家内が「お父さん! 今日長野県の木曽の湯川さんという方から電話がありましたよ。 帰りましたらお電話頂きたい。」と、伝えてくれた。
長野の湯川さん? 記憶にもないし一面識もない方だが、どんな用件かなあ、と考えながら夕食をとった。 食事が済んで家内がメモしてくれた番号で電話をかけた。 「モシモシ! 湯川さんですか? 私小安です。 今日お電話頂いたそうで、どういうご用件でしょうか?」 「小安さんですか、実は私、あなた方が書かれた『私たちのビルマ戦記』を読みました。 その中で、小安さんが書かれた文中の、長野県出身の日赤の看護婦さん御子柴さん、を知っています。」と、思いがけない返事が返ってきた。
或る冬の寒い日とは、五年前の昭和五十七年二月半のことである。 電話で湯川さんが云われたことによると、湯川さんは長野県木曽郡木祖村薮原の宿場町に住んでおられ、長らく小学校の先生として教鞭をとっていたが、最近定年で職を辞され、好きな読書生活に浸っておられた。 偶々、朝日新聞の新刊本紹介欄に、「私たちのビルマ戦記 『安』歩兵第 128 聯隊回想録」の評が掲載されていたのを見て、取り寄せて読まれた。
その時、私が書いた日赤看護婦御子柴さんという項を読んで、ことによると湯川さんが知っている近所の日赤看護婦さんが、御子柴さんを知っているかもしれないと思い尋ねたところ、偶然にも知っているということであった。 それによると、御子柴さんは内地帰国後結婚され、現在は長野県茅野市に住んでおられる原秋子さんであることが判った。
湯川さんは親切にも原さんに電話をかけて、ビルマに従軍しカロー野戦病院に勤務したことを確認して、私にこの旨を電話で知らせてくれたのである。 その後、私は親切な湯川さんのご好意に報いるべく、お二人と連絡を続けた。
その年(昭和五十七年)の夏の七月末に家族旅行で信州白馬に行った帰途、茅野駅で下車し、態々木曽の薮原から来られた湯川さんと、原秋子さん(旧姓御子柴さん)が待つ茅野駅頭にて、劇的な初対面と、ビルマで別れて以来三十七年半振りの再会がなされたのである。 尤も、原さんとしては戦地で沢山の戦傷病患者に接しておられたので、私との対面は初対面と同様なものだったことでしょう。
御子柴さん達は、私とカローの野戦病院で別れた(昭和二十年一月)後、ビルマの戦況が悪くなり、タイ国経由で苦労されて三十六歳で復員され、その後縁あって茅野市の方の後妻として結婚され一女をもうけられた。 ご主人が亡くなられた後、民生委員としてご活躍され県知事表彰をお受けになられる等、老後を社会奉仕に尽くされています。 今年七十六歳のなかなか立派なお祖母さまです。
私と湯川さんは原さんに種々手厚い心のこもったもてなしを受け、ビルマ戦線の思い出話に花を咲かせた。 一面識もない湯川さんが、戦記の一節を偶然読まれたことと、その親切心より、この様な素晴らしい再会が果たされたことは、縁とは不思議なものであると、ただただ感激するのみである。 (この項、昭和六十二年二月末 記)
おわりに
あの広大なビルマの戦場で、敵のチェコの重機で戦傷を負った一人の下級将校が「しらみ」のついた衣服を纏い、昭和十九年の年末に近い或る寒い日、避暑地であったカローの野戦病院に入院した。 そこでその患者のお世話をしてくれた方が日赤の看護婦さん御子柴さん(現姓原さん)である。
私は御子柴さんに傷の手当ては勿論、「しらみ」とその卵が群生する衣服を煮沸消毒してもらった。 また昭和二十年の元日には当時の皇后陛下から下賜の包帯を頂いた。 そのことを私は戦記に書いたのである。
その後、私たち三人は現在まで、毎年年賀状の交換を行っている。 第一回の初対面・再会から十六年後の平成十年五月二十日頃、湯川さんと私は再度茅野市の原さん宅を訪ねた。 原さんは老いても益々お元気で、喜んで私たち二人を迎い入れて下さった。 以前お会いしたときのお話やビルマの話をされる原さんは、とても生き生きとされていて八十七歳を過ぎられた老婦人には見られない若々しさが感じられた。
今年、原さんは九十三歳の高齢になられたが、年賀状も頂いているので現在もお元気なことと想像している。 また機会をえて湯川さんと二人でお伺いしたいと考えている。 ちなみに湯川さんと私は同年の八十三歳である。 (2004-10-10 記)