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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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続 生と死の分れ目 (北緬の白骨街道を往く)

  1. はじめに

    メイミョウから師団司令部のあるホピンまでの約 40 日間(昭和 19 年 7 月 10 日頃から 8 月 20 日頃まで ) の私たちの行動は、何らかの形で文章に残して置きたいとの思いで書いたものである。

    ここで私たちが自分の身体で体験し、自分の目で見たこと、自分の頭で考えたこと、自分の心で感じたこと等、殆どのことがかつて経験したことの無いことばかりであった。 戦争・戦場とはこう云うものか、前線と後方の中間地帯の傷病兵の置かれている状態等について、私の感じたことを述べたいと思う。

  2. 雨季の鉄路を徒歩で北へ

    ビルマの避暑地メイミョウを出発した私たち 5 名の見習士官と、第一線まで引率する退院患者の兵・下士官の一行は、列車にて先ずマンダレーに行った。

    マンダレーの貨物廠にて背嚢・飯盒・水筒など戦地で通常必要とする装具の支給を受けた。 マンダレーの兵站にお世話になり、サガインでイラワジ河を工兵隊の鉄舟で渡り ( サガインの大鉄橋は爆破されていた ) 、次の渡河地点メザまで列車で行くことが出来た。 戦地で 30 - 40 の兵員が共に行動することは、建制の部隊ならいざ知らず、見習士官が引率する寄せ集めの集団では大変な困難を伴った。

    鉄舟・列車に乗るにしても交渉相手は、戦地に経験の浅い見習士官の言うこと等オイソレと聞いてくれない。 そこで 5 名の見習士官は相談の上、もう任官している筈だと云うことで、曹長の襟章を少尉の襟章に着け代えることにした。 見習士官と陸軍少尉とではこれまでと違い、全ての交渉ごとがスムースに出来るようになった。

    一難去ってまた一難、ビルマ新参の私たちは、次々と風土病のデング熱に罹り、熱にうなされ行動が遅遅として進まなかった。 メザから先は列車も無く、無蓋の台車を牽引車が引いて北進した。 雨季も最盛期になり行動は困難なものであったが、未だ台車に乗せてもらっている間は良い方であった。 その台車もやがて無くなり、雨の降りしきる中、鉄道線路の枕木の上を、一行は自分の脚で一歩一歩北へ向けて前進を続けたのである。

    鉄道線路は、この先終点のミイトキーナまで延々続いているのである。 ただ列車が走っていないだけである。 北進を続けて行くうちに日中の行動は、街道荒らしの異名をとる敵爆撃機 B-25 の格好の攻撃目標となり危険を感ずるようになった。 そこで私たちは日中避難して休み、夜間行軍することにしたのである。

    北ビルマには兵站が少なかったと記憶している。 そこで近くの民家などを探して世話になったこともあった。 ある民家には品のいい初老の婦人が一人で暮らしていて、私たちと親しく家族の状況など話したこともあった。 家の中にはシンガーのミシンが置いてあった。 ビルマは英領であったので肯けるが、シンガーのミシンがこんな奥地まで販売されていることには驚かされた。

  3. 白骨街道を北へ往く

    連日雨が降りしきる中、日が暮れる頃から、私たち一行は鉄道線路の枕木の上を一歩一歩踏みしめながら、北を目指してひたすら進んだ。 ある夜、私が一行の先頭を何時ものように枕木の上を歩いていた。 雨が降り暗いので線路と枕木だけを見ながら歩いていたら、突然グニャッとするものを踏んだのである。 ビックリしてよく見るとそれは友軍の兵隊の屍骸であった。 前線から負傷か病気で下がってくる途中で行き倒れになり息絶えたものと思われた。 これが戦地に来て死者を見た初めである。

    これから先は鉄道の駅舎に近着くと、先ず死臭が鼻をつくのである。 駅舎付近にはボロボロの汚れた軍服を着た屍骸がゴロゴロ横たわっており、また中には虫の息の兵隊が、「兵隊さん、水を下さい」と哀れな声を掛けてくる者もいた。 この区間の鉄道線路は鉄橋が殆ど爆撃で落ちていたので列車は走っていなかった。

    トラックなど走る道路はあったであろうが、地図を持たない者は線路を徒歩で歩く以外の交通手段は無かったのである。 それ故、戦傷患者や戦病患者(所謂、独歩患者)は、後方の野戦病院に収容される前に力尽きて行き倒れになり、駅舎付近などで息絶える者が多かった。

    北ビルマの駅舎付近はどの駅でも同じような状況であったので、北緬の白骨街道と云われるようになったのであろう。 今静かに考えるとこの仲間の中には、128 聯隊の戦友の方で、モガウンなどの緒戦に戦傷・戦病になられた方も居られたのではないかと思うと甚だ心痛むものがあります。 ご冥福をお祈りするだけです。

    またこの様な状況にあったことは、軍の参謀や上層部は分かっていたことで、ただ前線に将兵を送り戦闘をさせることばかりが戦争では無いと思います。 軍の参謀や上層部は後方におって何らの処置もせず、これ等の状況を放置していたことは許せないことです。 尤も制空権は敵が反攻に転じてからは完全に敵側にあり、私もビルマ来て以来一度も日本軍の飛行機にお目にかかったことはありません。

  4. マラリヤとレーション (Ration)

    連日の雨中の夜行軍、何時しか疲労も重なりマラリヤに罹る者が多くなった。 毎日の食糧も当時どうやって手当てしたか、今考えてもよく分からない。 何とか食い繋いで来たのであろう。 一行の健康状態や栄養状態は悪くても良いはずはない。 マラリヤは初めのうちは 30 分位寒気がして身体がガタガタ震え、その後 40 度位の高熱が出てうなされたりして、体力が極度に消耗する熱病である。

    食欲が無くなり、また気力も無くなる。 蚊が媒介する伝染病で 3 日熱・4 日熱・熱帯熱の 3 種類があり、永くマラリヤに罹っているとこれ等 3 種類の菌が混合して、何時でもマラリヤによる熱発を起こすことが当り前(常習)になる。 マラリヤは熱病そのものより、熱病による余病が多くあり、実はこの余病が恐ろしいのである。 余病の主なものは脚気、脳症(悪くすると気が狂うこともある)など、死に至る恐ろしい病であり、将兵の殆どはマラリヤに罹っていた。

    当時の日本軍で、マラリヤの治療薬としては特効薬キニーネがあったのみで、余りビルマのマラリヤには効き目が無かったと記憶している。 軍としてはマラリヤ対策など余り関心が無かったのではないかと思われる。

    戦場の前線での食事は通常各自が携行している飯盒で飯や汁を炊き食べるのである。 北ビルマでは後方からの食糧・弾薬・医薬の補給は殆ど無く、現地で籾・岩塩・ジャングル野菜(野草)を調達していたのが実状であった。 従って、私たち一行もある時は兵站から、またある時は原住民から、ある時は自分達で米を炊いたりして飢えを凌ぎながら北進したのである。

    一方敵は、陸上輸送の出来ないところは、完全に制空権を握っているので輸送機からパラシュートを降下し、食糧・弾薬・医薬を色分けして補給していた。 それが敵の陣地に落ちないで、偶々原住民の部落に降りた食糧のパラシュート、それを拾った原住民は中のレーション(1 日分の食糧・ビスケット・チョコレート等とタバコ 3 本入り)を、私たちに 1 個 25 ルピアで売り付けたのである。

    我々も物珍しさと空腹を癒すため、高いと思いつつも一つ買い求めた。 流石、アメリカ製、カロリーは中々高いものであった。 この様に日本軍と敵との優劣は兵員・武器弾薬・航空機・兵站何れを見ても比較にならない事実を、戦う以前に見せ付けられた。 こんなことを経験しながら私たちはホピンの師団司令部にたどり着いたのである。

  5. おわりに

    茲まで私が経験してきた 40 日間のあらましの行動について述べてきた。 第一線で戦闘をする前に経験したことを、現在の環境で思い起こして書いているので、ある面では思い違いもあり、またある面では忘れたこともあるので、この点はご了承願うこととする。 この様な状況下にあったビルマに、何の目的があって 30 萬名超の兵員を送り込んだのか、その真意が分からない。 また、送り込んだら最後まで面倒を見るのならいざ知らず、置き去りにされた兵員はどうなるのであろう。

    「一将功成りて万骨枯る」と云う諺があるが、結果的には一将の功も成らなかったのである。 合掌。 (2004-9-26 記)

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