モーハンで聯隊(歩兵第 128 聯隊)に着任
ホピンの師団司令部を後にした私たち 4 名の仲間は疲れきった身体に鞭打って聯隊本部のあるモーハンに向かった。 モーハンの部落に入り川があり、水流もたいしたことは無いと思い軽く渉れると思ったのに、私は足を水流にとられ転んでしまった。 これを見ても当時、相当身体自体衰弱していたと思った。
やっとの思いで聯隊本部について、私たちは岡田聯隊長に着任の申告をすることが出来た。 聯隊長はこの厳しいビルマの戦場にありながら、温顔で暖かい気持ちで私たちを迎え入れて、ご苦労であるが身体に気をつけて軍務に精励するよう訓示された。 当時(19 年 8 月 〜 10 月)聯隊はモガウン方面の戦闘で戦力の大半を失い、戦力の拡充と次の戦闘に備え掩蓋壕の構築中であった。
私は第 3 大隊第 3 機関銃中隊に配属され小隊長をすることになった。 大隊長は士官学校出の世良大尉、軍医さんとして年配の古畑見習士官が居られた。 この軍医さんにはモーハンで特別にお世話になった。 毎日毎日、ビタミン B の注射をうって頂いた。 栄養失調だったのであろう、現在元気で居られるのも軍医さんのお陰と感謝している。 古畑軍医さんは現在 96 歳位、まだまだお元気で毎年京都の慰霊祭には最高年齢で参加されておられる。
第 3 機関銃中隊は中隊長高野中尉で、将校は私を含め 2 名、下士官は山岡曹長 1 名、兵隊さんは田中兵長、細見・原田上等兵等数名を数えるのみであった。 肝心の 92 式重機関銃は 3 挺あったが、これを担ぐ兵員が居ないので 2 挺だけ残し 1 個小隊(2 個分隊)の編成をした。
弾薬は弾薬箱(30 発 x 20 連)数個だけ、搬送用の駄馬(日本馬)は既に全滅、94 式眼鏡照準具はレンズに雲がかかり使用不能の状態であった。 通常 1 個中隊は 4 個小隊、8 個分隊、重機関銃 8 挺、駄馬 16 頭等から成っている。 このように私が聯隊に着任した時には既に、装備抜群な英印軍と対等に戦闘が出来る状態にはなかったのである。
9 月に入って兵員の補充を受けた。 先ず昭和 18 年徴集の現役兵、京都の伏見の原隊で第 1 期の教育訓練を受け検閲を終ったばかりのバリバリの新兵さんである。 6 - 7 名位来たと思う。 然し 1 期の検閲を受けただけの新兵さんには、ビルマは余りにも過酷な戦場であった。
私の頭の中に残っている、市川・湊・小林さんたちも夜間の転進(実は退却)中に落伍したり戦死したりして、殆どの方は日本に帰還されていない。 訓練不十分の新兵を第 1 線に送るなど旧日本軍のお粗末さがここにも現われている。
また 9 月の半ば頃には 1 年志願の少尉を含む将校と、下士官・兵約 700 名の多数の補充を受けた。 この様に兵員の補充と食糧補充は若干あったものの、兵器・弾薬・医薬品・被服の補充は全くといっていいほど無かったのである。 兵員が補充されたことにより、掩蓋壕の工事は各隊とも順調に進んだようであった。
然し、雨季の末期であり内地からの長旅の疲れや栄養不足の上、脚気やマラリアによる体力の衰え等が原因で戦病死するものが増えてきた。 ビルマに来て一度も戦闘をしない内に、戦病死するとは甚だもって残念なことであろうと思われた。 私の隊でも補充で来られた比較的年配の長弥太郎さんが戦病死された。 亡骸は陣地の近くに丁重に埋葬され墓標も立てた。 遺骨は小指を切り落としてこれを焼き、人事担当の下士官がこれを所持した。
戦場でも、ここは陣地であるのでこの様に遺骨を残すことが出来たが、負け戦では戦場整理も出来ないので、ビルマでは残念なことではあるが、戦死された亡骸はそのままとされた。 これが負け戦の現実の姿である。 また遺骨を残したとしても、それを所持した者が内地まで持ち帰ることは困難なことと思われる。
モーハンの陣地構築には約 2 ヶ月かかった。 丁度雨季で敵機の襲撃も比較的少なく、ジャングルの中に中隊毎竹とアンペラの仮設の住まいを作りそこに寝泊りしていた。 当時米は支給されていたと思うが、その他は現地で求めたジャングル野菜と称する野草と岩塩が主で、時たま現地人から、使い果たされた瘠せた牛を購入してそれを射殺してその肉や肝を食べたこともあった。
また蚊が多く夜は安眠を妨げられた。 個人用の蚊帳は無く、頭だけにかぶる蚊帳ではどうにも成らなかった。 従ってマラリアの熱病は殆ど全員がかかり、発熱する患者が多かった。 熱帯地の戦争経験の無い日本軍はこの様な事態に対処する研究はなんら為されていなかったのではなかろうか。
大和魂だけあれば戦争には勝てると本当に考えていたのでしょうか。 内地からまっさらな身体で何等の訓練も受けずに、この悪疫瘴癘の地ビルマに来て、この悪条件の元で過酷な作業を続ければ病気になって当然と思う。 ビルマで積極的に戦争を指導した軍首脳達は、このような第 1 線の実状を把握していたのであろうか、甚だ疑問である。
敵は優勢な航空機(主として、B-25、P-38)によって完全に制空権を握っていたし、陸上部隊も強力な迫撃砲部隊に支援されていたので、中々侮り難い兵力を持っていた。 10 月 25、6 日頃から、我が方に対する敵の攻撃は熾烈と成ってきた。 然し、2 ヶ月余りもかかって構築した掩蓋壕によって、守備していたのであるから、相当期間は堅持することが出来ると思っていた。
ところが、戦闘が開始されてから 2 日目には、歩兵第 119 聯隊側から撃ち崩され、私たちは緒戦を戦わずして後退せざるをえない状況になってきた。 折角構築した陣地ではあったが、残念ながらここを捨てて夜陰に乗じて後退した。
私としては初めての戦闘で、重機の発射音も聞かずに転進したことは真にもって心残りであった。 京都の原隊で第 1 期の検閲を受けた現役兵にとっても初めての戦闘である。 戦争未経験の下級指揮官と戦争未経験の初年兵、何か失敗があって当然。 思いもしないことが起っていた。
モーハンの陣地を撤退したのは夕刻。 撤退など考えていなかったので準備不十分のまま夜間行軍となった。 翌朝、ナンシャン川岸の新陣地についた。 早速兵員・武器・弾薬の点検をしたところ弾薬箱が 1 箱足りなかった。 事情を調べたところ現役兵の 1 人が夜行軍の途中、余りにも重すぎたので道路わきに捨てたことが判った。
武器弾薬の後方補給の無い現状では大変なことである。 戦地でこの様なことが起こることを想像していなかったが、起きたことを責めるより、事後の方策を考えた。 事実、弾薬箱は其の儘担ぐことは困難である。 従って弾薬箱から保弾板(弾丸 30 発)を取り出し弾薬箱は捨て、保弾板を各兵に 2 〜 3 連ずつ携帯天幕に包んで持たせることにした。 予期せぬことが起こるものである。
さて、戦闘は川をはさみ敵と対峙していたが、敵は優勢な迫撃砲による砲攻撃を主としていた。 それでも川の対岸まで敵兵の姿は見えていた。 我々は重機による攻撃と、手榴弾の投擲、小銃での射撃、擲弾筒による攻撃を続けながら守備していた。 然し戦闘は夕刻まで膠着状態が続いた。
この戦闘で、我々第 3 機中隊の左翼に布陣していた第 10 中隊の小隊長の士官学校出の八旗少尉が、壮烈な戦死を遂げられた。 着任後間もなくでもあり、惜しい人物を亡くした。 時は昭和 19 年 10 月 29 日であった。 夜になって転進命令が出たので、ジャングルの中を後方に退いた。
夜のジャングルは全くの闇であった。 戦争経験の無い私は判断に困ったが、部下に先導者から離れることなく急がずとも着いて行くことを指示した。 昼でも歩行困難なジャングルを、30 キロもある重機の銃身・脚を担いで行軍するのであるから余計大変なことであった。 この様な状況の中、運悪く私は右足首を捻挫してしまった。 注意して歩いていたのであるが、捻挫しては中隊と行動を共にすることは出来ない。
足の状況を診て段々腫れがくると思ったが、処置の仕様が無いので靴は脱がずにそのままゆっくり歩行を続けることにした。 敵に見つかれば手榴弾で自爆するか捕虜になるかである。 死に物狂いで歩くしかないのである。 只でさえ歩行困難な夜のジャングルの中、腹を決めて歩くことにした。 一晩中何とか歩き続けて夜明け頃、やっと中隊に追いつくことが出来た。 (2005-1-9 記)