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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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私のビルマ戦記 - 3

  1. 戦傷病患者の生活

    私は 19 年 11 月 14 日に北ビルマのピンウエの戦闘にて右大腿部等を負傷して、15 日、陽が暮れて遅く聯隊本部に帰還した。 翌 11 月 16 日から戦傷患者としての生活が新たに始まり、年明けて昭和 20 年 3 月 6 日、イラワジ河畔のイワボウで聯隊に復帰した。 その間の出来事、体験したこと、また感じたこと等を書いてみたい。

    1. 負傷から野戦病院入院まで

      私たちが聯隊本部に着いた時には、原田上等兵が付き添って下がった重傷の高野中隊長は、第 3 大隊本部の古畑軍医により、野戦では大変困難な血管の外科手術を行ってもらい、一命は取り留めたと聞いた。 古畑軍医は腕のいい外科医であると聞いていた。 本当によかったと思った。 (軍医は京都・亀岡市におられる。)

      今日から愈々独歩患者として、第 1 線の戦場を離れて後方に下がるのである。 聯隊の皆に別れの挨拶をして、高野中尉も原田上等兵を連れて下がるというので同行することにした。 原田上等兵は聯隊の食糧補給をやっていたのでビルマ人の扱いは慣れたものであった。 それで途中の食糧や民家との交渉などには大変助かった。

      しかし私は脚を負傷していたので皆と同じようには歩けなかった。 何時の間にか私は一人で行動するようになっていた。 また厭でも応でも自分の足で歩く以外、鉄道の列車があるところまでは交通機関はなかった。 確か当時はメザ河の鉄橋を越えなければ列車は走っていなかったと思う。 そこまで痛む足を引きずりながら、ある時は敵の空襲を受けて避難したり、またある時は食糧探しに民家に行った。

      この道は約 3 ヶ月前に前線へ行く時通った、あの北ビルマの白骨街道である。 今自分自身、独歩患者として一人この道を歩いている。 あの時目にしたような行き倒れの独歩患者にはなりたくないと、自分に強く言い聞かせながら一歩一歩、歩んだ。

      数日後、大腿部の傷口の痛みが酷いので包帯を取って傷口を見ると、何と驚いたことに傷口に蛆がわいていて、これが膿を吸うので痛むことが判った。 早速蛆を取り除いて新しい包帯に取り替えた。 メザから先は台車や列車に乗せてもらい、約 1 週間くらいかかってやっとサガインの第 53 師団(安兵団)の第 2 野戦病院にたどり着いた。

      先ず軍医さんによる診察があって、早速右大腿部の手術にかかり、簡単に鉛の塊の弾を取り出してくれた。 噴霧冷却による局部麻酔をして痛みが少ないように処理してくれたようである。 弾は 1 センチ位の鉛の塊で先は尖っていて片方は丸くなっていた。 鉛が出てきたのには驚いた。 敵はダムダム弾でも使っていたのであろうか。

      とも角、体内から異物を取り出してもらい、その夜はグッスリ眠ることが出来た。 右手甲の傷は手術に手間がかかるので後方の病院でやるよう説明があった。 安の野戦病院では 2 - 3 日休養してまた後方に下がった。

    2. 岡田聯隊長戦死の情報は速かった

      安の野戦病院を後にして、サガインのイラワジ河の渡河点に来ていた。 イラワジ河はビルマ第 1 の大河である。 サガインと対岸のマンダレーを結ぶ大鉄橋は今敵の爆破により破壊されていた。 従って私たちは工兵隊の鉄舟に乗ってマンダレーの渡河点まで行くのである。 マンダレーはビルマ第 2 の都市で、旧王宮の跡がある古い街である。 またビルマの中央に位置し交通の要衝で、戦時中でも物資の集まるところであった。

      マンダレーの兵站か兵站病院で偶然にも高野中尉一行と出会った。 私が一人で行動しているのを見て、原田上等兵が 3 大隊本部の吉見衛生兵長を私に紹介した。 若しよければ、私の当番兵としてはどうかということであった。 私も身体の具合はだいぶ良くなったが、食事から何から自分一人やっていることも大変であったので、暫くの間、面倒を見てもらうことにした。 衛生兵なら何かの時に役立つとも思った。

      大きく見た戦場というものは、第 1 線の敵と直接戦闘をしている戦場、この第 1 線の将兵に武器弾薬・医薬品・食糧・被服などを輸送する兵站、野戦病院、通信、航空等と、後方の軍司令部等、様々な機能から構成されている。 そしてこれ等の機能が正常に適時適切に働いてはじめて、戦争の戦略戦術がうまく運ばれると思う。

      難しいことはさておき、私の目に写った戦場離脱者(遊兵)と思しきものの多さである。 原隊を離れる時は戦傷者・戦病者として軍医や所属隊長の許可の下、後方に下がるのであるが、一旦原隊を離れると直接の管理者が居なくなる。 そこで病院ゴロとか兵站ゴロとか言う心得違いのものが出てくるのである。 これは何処の世の中でもあることで、ある程度はいたし方のないことと思う。

      私が吉見兵長を当番兵として使うことを躊躇した所以である。 マンダレーから直接兵站病院のあるメークテーラに行こうとしたが、直行の列車が取れず、途中のキャウセで降ろされた。 キャウセでは何もやることは無かったのである。 メークテーラへ行く中継点として寄ったのである。 街は爆撃で被害を受け閑散としており、ここにも日本兵の患者や遊兵と見られる者が多かった。 私たちも次の列車待ちで、市街の民家の軒下に佇んで、時の過ぎるのをじっと待っていた。

      確か 12 月の 3 〜 4 日と記憶している。 何処からと無く「岡田聯隊長が戦死された。」と言うニュースが聞こえてきた。 あの温厚な情の厚い聯隊長が、と我が耳を疑った。 普通なら前線のニュース等入らないのに、聯隊長戦死の報はどうしてキャウセに居る私に伝わったのだろう。 不思議なことだと思った。 誠にお気の毒なことと、遥か北方の空を拝んでその冥福の安らかなことを祈った。

      後日分ったことであるが、岡田聯隊長には 12 月 1 日付きにて陸軍少将に昇進され、ラングーン兵站司令官に転補される旨のご沙汰があったのに、ピンウエの南方にあるナバにて敵迫撃砲弾の破片により致命傷を受けられ戦死なされたと聞いている。 本当に惜しい方を失ったものである。 合掌。 岡田聯隊長の後任には、菊池大佐がラングーンより来られたとのことであった。

      その後も、キャウセから何時メークテーラに下がる当てもなく民家の下で数日を過ごした。 戦争というものは、第 1 線で戦闘している者、負傷病気で後方に下がる者、また傷病が治って前線復帰する者など色々であった。 しかし、哀れに感じられるのは傷病兵の後方に下がる姿であった。 所持品といえば飯盒、水筒を持っていればまだいい方であった。 衣服にしても、服は汚れてボロボロ(ボロ安の姿)、靴だって満足に履いている兵隊は少ない。

      その上、大抵の傷病兵は食糧不足や栄養不足から脚気にかかって脚が膨れ上がっていた。 また顔から足の先まで疥癬にかかって皮膚は黒ずんでいる者が多かった。 これ等の傷病兵は当てどもなく食糧を探し回り、そのうちに疲れ果てて行き倒れになり、死んでいった者が随所に見られた。 言うなれば、この世の地獄ともいうべき光景である。 行き倒れになった者が何か持っていないかと探している内に、その本人も重なり合って死んでいたりしていた。

      そうこうしている内に、私は幸い列車でメークテーラの兵站病院に入院することが出来た。 メークテーラは中部ビルマにある要衝の都市であるので、兵站病院も規模は大きく患者も沢山居たようであった。 私は此処で診察を受けたが 2 〜 3 日で、次の兵站病院のあるカローに移るよう指示された。 私はこれから先どこまで後送されるか分からないので、当番兵の吉見兵長を原隊復帰させることにして、本人にこのむね伝えてメークテーラで別れた。 短い期間ではあったが、いろいろと世話になったことを感謝した。

      メークテーラの兵站病院からカローへはトラック輸送ということで、患者の将兵が大勢積み込まれた。 ビルマにてトラックが街道を走るのを見たことがあったが、トラックに乗せてもらい輸送されたのは初めてであった。 敵飛行機の襲撃を避けて夜半に出発し翌朝早くカローに着いた。 時に昭和 19 年 12 月 20 日ごろであった。 (2005-1-13 記)

    3. 避暑地のカロー野戦病院

      カローはビルマの避暑地として有名で、シャン高原の入り口に位置した風光明媚な小都市である。 松や桜の樹もあって、日本の風土に似た地であった。 野戦病院も中央に比較的大きな洋館が本部で、後は松林の中に普通の家のような洋館の小病棟が点在していた。 私は将校用の外科の小病棟であった。

      丁度冬の時期であったので、朝は霜が降りるほど寒かった。 寝具は粗末ではあったが布団が用意されていて、落ち着いた病室であった。 とてもビルマの戦場にいるような気分ではなかった。 それに、この野戦病院には日赤出身の看護婦さんがいたのが、私の目には新鮮に映った。 ビルマに入って日本女性にお目にかかったのは、前線に赴く途中、メイミョウの偕行社で勤務していた、女学校を卒業したばかりの若い女性数人に会っただけであった。

      我々ビルマの第一線で戦争を経験した将兵は、おそらく全員が虱のお世話になっていたことと思う。 後方におれば入浴、水浴が自由にできるが、第一線は思うに任せない。 それにビルマ人の民家に一晩ご厄介になると、必ずといっていいほど虱のお土産を貰ってきた。 一人が虱を貰って来ると同居している者に、次から次へと移って全員が虱のお世話になるのである。

      一度虱が移ると、これの絶滅は第一線では困難であった。 第一線で夜明けとともに頭上には敵の偵察機が、迫撃砲の弾着修正のためブルンブルンと舞い始める。 我々はその下で恐れることもなく襦袢を脱ぎ、その縫い目に群生している虱を、一匹一匹両親指の爪で潰すのが日課の一つであった。

      最初は虱を潰すのが厭で、一匹抓んではではこれを捨てたものである。 慣れてくるとそれが何ともなくなり、爪を虱の吸った血で赤くしながら潰したものである。 それでも虱を絶滅することは出来ず、襦袢には白く光る虱の卵が沢山ついていた。 戦場における虱談義を終る。

      さて、カローの病院に入院して間もなく、担当の日赤看護婦さんが私の虱に気が付いて、「持っている衣類を全部出して下さい。 熱湯で煮沸して虱を全部退治してあげます。」と云ってくれた。 寒い時期であったが、布団があったのでその間寝ていることにして、衣類全部を看護婦さんに頼んで虱退治をしてもらった。 お陰様で虱のお世話にならず安眠することが出来た。

      その日赤の看護婦さんは長野県出身で姓を御子柴さんということだけは記憶しているが、無事内地に帰還されたかどうかは知る由も無い。 (この項が、別記した「縁とは不思議なもの」の原点となった。 まさか、これを書いた時にはあのようなことが起こるとは思ってもいなかった。 しかし出身県と姓を書いたのであるから、何か淡い期待はあったのではなかろうか。)

      カローの桜は 12 月末頃から花が咲き始め、日本の桜のように花弁が散るのではなく、花全体が散るのには驚いた。 樹も樹皮も枝も花も、見た目には全く日本の桜と変わりないのにと思った。 カローの野戦病院で、ちょうど昭和 20 年の元旦を迎えた。 正月料理に雑煮や餅が出されたかどうかは忘れたが、戦傷患者には皇后陛下が御自らお巻きになられた包帯を、病院から下賜されたことは憶えている。

      病院で戦傷やマラリアの治療は受けていたが、1 月の 10 日頃シャン州の州都タウンジーにある兵站病院に後送されることになった。 ビルマに 3 年余生活したが、カローのこの 3 週間が最も住み心地がよかったと思う。

    4. タウンジー兵站病院とインレ湖温泉療養所

      当時ビルマ全土の制空権は完全に敵側にあって、後方の道路、要衝などは B-25 (街道荒しと呼ばれていた)を主力とする敵航空部隊による攻撃を受けていた。 それ故、患者の輸送も専ら夜間トラックで行われていた。 その夜も 10 時過ぎごろカローの病院を出発した。 南国ビルマでもシャン州は高原で、1 月は霜も降りる寒さであった。 我々は酷暑の平地で戦闘していたので、襦袢(半袖開襟シャツ)一枚、着のみ着のままであった。

      トラックの走る速さも加わって、その寒さの身に沁みたこと、後まで忘れることはなかった。 やっと携帯天幕で身を覆って寒さを凌ぎ、夜明け前にタウンジーの病院に到着した。 この夜は幸いなことに敵の空襲は無かった。 ちなみに、この道路はタイ国のチェンマイに通じていて、終戦前から終戦時にかけてビルマの戦傷病患者、野戦病院等はこの道路つたいに下がって、大勢の人々が助かった街道であった。

      タウンジー病院は兵站病院としては最後方の病院だけあって、規模は大きく患者も沢山収容されていたようであった。 私は右手甲の負傷について綿密に色々と診察を受けたが、結論として野戦では手術が困難なことと、手術後の結果が危ぶまれるということで見合わせとなって、もっぱらマラリアの治療に力がいれられた。

      私の隣の病床に入院してきた准尉さんは、健康そうで病人らしくなかったが、痔が悪いとのことであった。 早速手術してきたのだろう、麻酔が切れたのか一晩中大きな呻き声をあげていた。 然し、それから 4 〜 5 日たつと、さっと退院していった。

      私は 10 日ほどで退院が決まったが、総合的に体力が落ちているので、体力を回復することが必要として近くのインレ湖畔の温泉療養所に送られた。 此処は退院患者の前線復帰のための訓練と、疥癬患者のための硫黄泉療養とを兼ね備えた温泉療養所であった。

      私はここで十分体力を回復させて前線に復帰したいと思った。 丁度、退院前に病院で俸給 3 ヶ月分 500 ルピー(軍票で円と同価値)あまりを貰った。 ビルマに来て初めての俸給であった。 私は療養所で給与される食事のほかに、その金で栄養になる食べ物を現地人から買い求めて、これを食べて体力の増進に努めた。 体重も入院中は 50 キロそこそこであったのが、半月もすると 57 キロにもなり、段々と体力も付いてくるのがわかった。

      しかしこの様な生活が何時までも続くとは思っていなかった。 毎日温泉に入り、限られてはいるが好きなものを食べ、体力をつけるため運動するのが日課である。 第一線の戦場では考えられないことである。

      2月の中頃だったと思うが、聯隊本部付の松本軍医が後方の野戦病院・兵站病院を回って入院患者の状況を調査に来られた。 インレ湖の温泉療養所にも来られた。 調査とは名目で、事実は戦争離脱者(遊兵)の第一線への復帰の督戦隊の任務を持っておられた。

      私も温泉療養所にて約 1 ヶ月療養して、重機を担げる体力は十分ついたと確信して此処を退所することにした。 只、残念なことは、退所間際に私自身疥癬に感染していたことである。 当時疥癬は日本軍には効く薬が無く、罹ると痒さとその膿みで悩まされた。

      第一線を離れてから約 3 ヶ月半が経っていた。 後方に下がっていると、ビルマ全土で戦闘がどのように進展しているのか、私たちには皆目分からなかった。 ただ優勢なる敵の砲火に押されて、わが軍は転進に次ぐ転進で、イラワジ河畔まで後退していることは明らかであった。 タウンジー兵站病院等の退院患者を集めて、トラックに乗りインレ湖畔を出発した。 一行はカロー、メークテーラなどを経てイラワジ河目指して急行した。

      途中例によって街道荒らしの敵機の銃爆撃の洗礼を幾度となく受けた。 噂によると新聯隊長の菊池大佐は、退院の将校が聯隊に復帰すると、「軍人に賜わりたる勅語」を全文奉唱させるということであった。 またこれを間違って奉唱すると、鞭で殴ると聞いていた。 その他、新聯隊長に関する噂は、後方まで響きわたっていた。

      目的地であるイラワジ河の南に位置するイワボウに到着したのが 3 月 5 日の夜半で、丁度敵味方の区別がつかないほどの激戦中で、砲火は昼を欺かんばかりの明るさであった。 とても聯隊本部に近寄れない凄まじい状況であった。 この様に戦場の後方と前線では、極楽と地獄の違いより、もっともっと大きな差があつたのではなかろうか。 (2005-1-14 記)

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      ピンウエの戦闘で右手甲に負傷し、入院中も各病院で診察を受けたが、野戦での手術の困難と、その後の成果の見透しがたたないことで取りやめていた。 日本に帰国して仕事で小樽に出張していた時に、右手甲が痛み出し腫れてきた。 小樽市立病院の外科に行き診察を受けて、早速レントゲン写真を撮った。 小さい破片が 4 個位あり、帰京したら慶応病院で手術するよう医師に薦められた。 然し、破片は今もまだ入っている。 昭和 31 年 8 月 17 日のことである。

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