はじめに
今まで書いた「私のビルマ戦記」はメールで送ったものを纏めたもので、一部実戦記録とビルマにおける戦い方に対する私なりの考え方と、一般の戦争というものに対する私見を述べさせて戴いたものである。 これから述べるところの記述は、私が実際に経験した事を基にして、その時その時、私の心に感じたことを、今思い起こして書き綴ってみたいと思う。
何せ 60 年前のことを思い起こしてボツボツとパソコンを叩いて文章にするのであるから、如何なるものが纏まり、出来上がることでしょう。 表題にした「生と死の分かれ目」は、軍の命令、戦場における指揮官の命令が、それを受けるものにとって、それから先の運命に大きく作用する重大なことと感じたので付けたものである。
私の軍隊への入隊以降、ビルマの第一戦部隊である京都伏見の歩兵第 128 聯隊、第 3 機関銃中隊に着任するまでの間に経験した「生と死の分かれ目」について述べてみる。
ビルマ方面軍に転属
東京青山にあった東部第 7 部隊(近衛歩兵第 4 聯隊補充隊)に赤紙(臨時召集)で入隊したのが、東京に初空襲があった年の昭和 17 年 10 月 1 日であった。 機関銃中隊に配属された星一つの新兵さんは、来る日も来る日も厩当番で、朝早くから馬の寝藁干しと馬の手入れ(毛付け)で、馬の小便の臭いが身体に沁み付いたものです。 手の甲はヒビ・アカギレで可哀そうな姿をご想像下さい。
その後、甲種兵科幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校を 18 年 12 月 25 日卒業。 兵科見習士官としてシンガポール南方軍総司令部参謀部付にて、19 年 1 月 20 日輸送船三池丸(郵船貨客船) にて門司港を出港し、シンガポールに向かった。 後で分かったことであるが、偶然にも、この輸送船三池丸には当時の安兵団師団長河野中将や敦賀聯隊の聯隊長浅野大佐が乗っておられた。 不思議な縁であると後で感じたものである。
19 年 1 月 29 日正午、昭南港 ( シンガポール ) に無事到着した。 丸 9 日間の船旅であったが、途中台湾海峡で敵潜水艦の魚雷襲撃を受けた時は 7 隻の船団が散り散りとなり、マニラに向かった 5 隻は途中撃沈されたと聞いている。
その後、私は昭南防衛司令部(第 18 独立守備隊司令部)に転属し、現地義勇軍教育のため蘭領リオ群島(現在インドネシア領シンガポールの南の島々)のビンタン島タンジョンピナンに赴任した。 当時のシンガポールや島での生活は戦争は何処でやっているのか、というのんびりしたものであった。 私は、この様な生活は長く続くものではないと思い、心身の鍛錬には気を配っていた。
4 月 30 日、運命の転属命令が来たのである。 第 7 方面軍(南方総軍の後、シンガポールに新設、土肥原大将が軍司令官 ) に転属を命ずる。 嗚呼、これで運命のビルマ行が決まったと思った、と言うのも、当時巷間聞こえて来るのは、ビルマ方面の状況が悪い悪いという情報ばかりであったのである。 今思うと、この時期はインパール作戦が期待通りの成果が揚がらず、むしろ後退気味の態勢にあったのである。
私は急ぎ義勇隊の残務を整理し、シンガポールの防衛司令部に向かった。 司令官閣下に転属の申告を済まし、直ちに第 7 方面軍司令部に赴いた。 ここであらためて第 7 方面軍司令部よりビルマ方面軍司令部への転属命令が出されたのである。 私の予想通りの結果となったのである。 私と同時にビルマ方面軍に転属になった仲間は、私も含めて前橋陸軍予備士校出身 5 名、仙台陸軍予備士校出身 1 名の 6 名であった。
いざビルマへ(ビルマは遠かった)
軍司令部を後にした私たちは、シンガポール市内のオーチャロードにある兵站ホテルの富士屋ホテルに、出立命令があるまで滞在することとなった。 将校用のホテルであるが、最下位である見習士官たる私たちはエレベーターも無い最上階 7 階の部屋が割り当てられた。 常夏のシンガポールで 1 階から 7 階まで、足で 1 日数回上り下りすることは大変な苦労であった。
特に夜遅く酩酊の態で階段を 1 歩 1 歩上がる姿をご想像下さい。 宿泊料は 1 日 3 食付サービス料のみ、が 70 銭であったので、致し方の無いことと諦めて我慢することにした。
私達のビルマ国ラングーンまでの行程は軍司令部で受領した出張命令書に記載された通り行動しなければならず、勝手に変更は出来ないものであった。 富士屋ホテル滞在は 3 週間を超えるものとなった。 幸いなことに任官用の軍装費として 5 百円が軍から支給されたのでお金には困らなかった。 しかし毎日毎日やることも無く 1 日を過ごすことは大変な苦労であった。
漸く 19 年 5 月 25 日に昭南駅集合の命が下りた。 シンガポールを起点として、ジョホール・クアラルンプール・イポーなどマレー半島を縦断して、タイ国のクラ地峡チュンポーンを経由してバンコク行きの国際列車に便乗した。 途中ペナン島の入り口の駅(バターワース)にて燃料補給のため長い時間停車し、タイ国のチュンポーンで下車したのは 3 日目か 4 日目であったと記憶している。
私たちはチュンポーンから日本軍の鉄道部隊が新たに敷設した鉄道を利用して、ビルマ国境のカオファージという町に行く予定であった。 ところが列車は不通で何時乗れるか分からないと云うので、取り敢えずチュンポーンの兵站宿舎にお世話になることにした。 兵站宿舎とは名ばかりで、竹とアンペラの床で屋根はニッパの葉で作られた大変お粗末なものであった。 まさかここに 20 日以上もお世話になるとは思ってもいなかつた。
タイ国は独立国である。 従って軍票(軍が占領地で発行する通貨)は使用できず、タイの通貨バーツ ( 円と軍票のルピーも交換レートはパーであった ) に交換しなければならなかった。 但し交換できる金額に制限があり、私たちはシンガポールで 30 バーツだけ交換することが出来た。
兵站の食事はお粗末なもので栄養不良にならぬよう、街の食堂に昼飯を食べに行くと 1 回当り 4 〜 5 バーツ、バナナ ( 緑色で熟していないように見えるが中々美味しい) 1 房 1 バーツ。 所持していた 30 バーツはアット云う間に少なくなり、先が思いやられた。 街には交換所も無く、後は物々交換でその場を凌ぐことになった。
チュンポーンに到着して 20 日位が過ぎた頃、突然シンガポールの第 18 独立守備隊司令部(元昭南防衛司令部)の部隊が、タイ国に移駐のため当地を通過した。 司令部の高級副官が私達に気付き、お前達、未だこんなところに居るのかと理由を聞かれた。 早速、鉄道連隊に事情を話してくれて、2 〜 3 日中には何とか乗車出来ることとなった。 先述の通り出張命令書に書かれた経路で行動しなければならず、勝手に泰緬鉄道を利用するということは出来なかったのである。
2 〜 3 日後、チュンポーンから鉄道を列車で国境の町カオファージに行くことが出来た。 時間にして幾らもかからないところであったが、鉄道敷設には大変な困難と苦労があったと聞かされていた。 いよいよビルマが目と鼻先に見えてきた。 カオファージから船に乗ってビルマ最南端の町ビクトリアポイントにやっとの思いで到着することが出来た。
既に 6 月も 20 日頃となっていたと記憶しているが、雨季の走りに入っており乾季には水無し川も増水して、ビルマ鉄道のある最南端の町イエまでのトラック輸送は困難が予想された。 乾季であれば川底は舗装されていて道路として車の通行が出来るが、雨季になり川に水が流れるようになれば川には橋が架かっていないので舟で渡るしか方法が無いのである。
私たちはビクトリアポイントからイエまでの陸路 5 百キロメートルを超える道程を、トラックと舟を乗り継ぐ困難に耐え、途中メルギー、タボイ等の兵站にお世話になりながら数日をかけて行動したのである。 イエまでは戦地に行っているという感じは余り無かった。
イエから列車でビルマ第 2 の大都市モールメンに到着するや否や敵爆撃機の襲来を受けた。 いよいよ戦場に来たなあという感じがひしひしと全身につたわった。 敵の襲来を受けたのは台湾海峡の魚雷攻撃以来である。 ビルマにはイラワジ河・サルウイン河・シッタン河の 3 大河があり、モールメンは第 2 の大河サルウイン河口の都市で、対岸のマルタバンを結ぶ大鉄橋は当時爆撃により破壊されていた。
よって私たちは便船でマルタバンに渡り、マルタバンから列車でシッタン河を経由して、いよいよ最初の目的地であるビルマの首都ラングーンに向かったのである。
生と死の分れ目
英印軍の戦闘機や爆撃機の攻撃を受けながらも何とか無事にラングーンに到着したのは、昭和 19 年 7 月 1 日シンガポールを出立してから実に 38 日目であった。 長い長い道程であった。 これからのビルマでの道程は更に長いものであろう。
私たち 6 名の見習士官は緊張した面持ちでビルマ方面軍司令部を訪れた。 早速着任の申告を行った。 その後、私たちは夫々転属先の師団名が示された。 この命令が私たちにとって、正に生と死の運命を決定付ける命令となったのである。
兵科見習士官 | 井納 理 | 第 18 師団司令部 (菊兵団) |
兵科見習士官 | 大瀧 武 | 第 53 師団司令部 (安兵団) |
兵科見習士官 | 伊藤 延男 | 第 53 師団司令部 (安兵団) |
兵科見習士官 | 今井 学 | 第 53 師団司令部 (安兵団) |
兵科見習士官 | 小安 歸一 | 第 53 師団司令部 (安兵団) |
兵科見習士官 | 佐々木 正拳 | 第 53 師団司令部 (安兵団) |
私たちはこの運命を決定付ける命令を受けた後申告を行った。 別室で中尉の情報将校から命令簿を示されて、北ビルマの戦況が変わったので、君達の配属先もこの命令簿に記載されているように変更されたと説明があった。 命令簿は和紙の縦書きの罫紙で、毛筆で 6 名全員が第 18 師団司令部と書かれていたものを、5 名は筆で縦に消されその横に第 53 師団司令部と訂正されて添え書きされていた。
菊兵団は九州、久留米の編成で、マレー作戦をかの有名な牟田口師団長で戦い、ジョホール水道からシンガポール作戦を勝ち抜いた戦歴のある勇猛な兵団である。 一方、安兵団は京都で編成された師団で南方軍の予備師団として南方に派遣された師団である。 それがビルマの戦況が悪化したので、急遽第一線であるビルマに仏印・シンガポール等から進駐してきたばかりで、まだ第一線に追求中の部隊もあった。
私はこの後、色々な戦闘経験を経て、この命令の変更がこれから先の私たち 6 名の見習士官の生と死の運命を決定付けたとの思いを強く抱いています。
第 7 方面軍司令部のあるシンガポール - 当時、明かるく戦争何処吹く風といった感じの近代都市型の街。 それに引き換えビルマ方面軍司令部のあるラングーン - 空襲の被害もあるが暗い感じのする森の都。 兵站宿舎もシンガポールは曲がりなりにもホテル、ラングーンは兵站宿舎。 後方と戦場の違いがはっきりしていた。
兵站宿舎は長居がご法度。 翌日にはラングーン駅から木材を燃料とする列車に乗り、ビルマ中部のマンダレーに向け出発した。 途中、街道荒らし B-25 敵爆撃機の洗礼を何度もうけた。 やはりビルマは戦場であるという認識が、私たちの身体に徐々に沁み付いてきた。 マンダレーは旧王室のあった古い街で王城の跡も残っていた。 マンダレーで列車を下りた私たちは、第 33 軍司令部(昆集団)のあるメイミョウ向け列車を乗り換えた。
当時、菊兵団も安兵団も共に第 33 軍司令部の隷下にあった。 メイミョウは高原の風光明媚な街で英領時代は避暑地として広く利用されていたと聞いている。
メイミョウに着いて軍司令部にて着任の申告が終った途端、居並ぶ軍参謀から一斉に君達見習士官は何のためこのメイミョウまで来たのか? 第一線は、君達のような若い将校を待っているのだ! 君達は将校である。 兵よりも早く前線に行ける筈だ! 一刻も早くここを出発して前線に行け、と発破をかけられた。 後で考えると、この参謀の中にはかの有名な辻大佐が居ったのではないかと思われた。
私たちは言い訳が許されないが、勝手に来た訳でも無く、出張命令書により行動しただけのことである。 ところが、別室に私たちが移ると、軍の別の将校が直ぐやって来て、ここに退院患者の兵・下士官が 30 〜 40 名いるのでこれ等を第一線まで引率してくれとのこと。 参謀の舌の根も乾かぬ内にこの始末。 表と裏は戦場でも変わらないものと思った。
メイミョウの街には余り長い時間滞在したわけではないので良く分からないが、偕行社があり、当年女学校を出たての若い日本人の女性が数人働いているのを見かけた。 ビルマに来て日本人女性を見たのは初めてであった。
これも後になって噂として聞いた話であるが、ビルマの戦況が著しく悪くなってから、メイミョウの偕行社で働いていた日本人女性はマンダレーの南にあるキャウセという街で敵機の空襲で全員亡くなられたと聞いている。 後方の一部の特権階級の将校が利用する偕行社の職員としてビルマまで来て戦死するとは、余りにも悲しいことである。 合掌。
ここで菊兵団へ赴任する井納見習士官と安兵団赴任の 5 名の見習士官は別れてそれぞれ別行動をとったのである。 内地出発以来の者もあり感無量であった。 またこれが運命の別れ目ともなった。 昭和 19 年 7 月 10 日頃と記憶している。
所属聯隊に着任まで
メイミョウを出発して以来、殆ど徒歩で然も雨季のさなか、30 〜 40 名の退院患者を引率しながら、食うことから寝ることから歩くことから、時には敵の戦闘機や爆撃機の退避まで、今まで誰もが経験したことの無いことを、試行錯誤しながら咄嗟の判断で物事を処理しなければならなかった。 また悪疫瘴癘地で風土病のデング熱やマラリヤの熱病、脚気アメーバー赤痢など、また疥癬の皮膚病にも気を付けなければならなかった。
8 月 20 日頃、北ビルマのホピン付近にあった第 53 師団の司令部にたどり着くまでには、私たち 5 名の見習士官は心身ともに疲れ果てておった。 それでも皆協力して何とか師団司令部に到着し、退院患者を関係部署に無事に引き渡すことができた。 その後 5 名の見習士官は着任の申告をした。
申告が終ると担当の師団の将校から、君達 5 名の見習士官は昭和 19 年 7 月 1 日付きにて陸軍少尉に任官した旨の電報が入っている。 階級章を付け替えて再度申告するよう指示されたのでそのようにした。 その後所属聯隊の命令が下達された。
陸軍少尉 | 大瀧 武 | 歩兵第 119 聯隊 (敦賀 36 部隊) |
陸軍少尉 | 伊藤 延男 | 歩兵第 128 聯隊 (伏見 37 部隊) |
陸軍少尉 | 今井 学 | 歩兵第 128 聯隊 (伏見 37 部隊) |
陸軍少尉 | 小安 歸一 | 歩兵第 128 聯隊 (伏見 37 部隊) |
陸軍少尉 | 佐々木 正拳 | 歩兵第 128 聯隊 (伏見 37 部隊) |
私たちは 3 度目の申告をしたのである。 これでビルマの第一線で戦闘をする聯隊は京都の部隊と決まったのである。 敦賀の聯隊に配属となった大瀧少尉とここホピン別れたが、後日の消息によると赴任後間もない戦闘で戦死されたとのことであった。 この配属命令一つをとっても、人間の生と死の分れ目があるのを私は強く感ずるのである。
京都の聯隊に配属になった私たち 4 名はホピンより少し後方に位置するモーハンに向かった。 モーハンには 128 聯隊の聯隊本部があり、私たち 4 名が聯隊本部に着いたのは昭和 19 年 8 月 26 - 27 日頃と記憶している。
到着後直ちに岡田聯隊長殿に着任の申告を行った。 聯隊長は温顔な眼差しで、私たちの長途の行動をねぎらい、また現下の戦況についてのお話があり、身体に気をつけて軍務に励むよう訓辞された。 その後、門聯隊副官から配属中・小隊が示された。 伊藤少尉が第 6 中隊、今井少尉が第 2 機関銃中隊、小安少尉が第 3 機関銃中隊、佐々木少尉が第 3 歩兵砲小隊に夫々配属となった。
この命令で、また生と死の分れ目が近い将来に出るであろうとは、誰もが分からないことである。 その人、その人に与えられた運命と云えばそれまでであるが、戦場における転属・配属命令はその人の生と死の分れ目を決定つけるものである。 現に今井少尉は第 2 機関銃中隊に配属されて以来、数度の戦闘を切り抜けて健在であった。
それが昭和 20 年 4 月 10 日頃、敵戦車部隊の攻撃を受けたパヤガス付近の戦闘で、機関銃小隊を指揮している最中、不運にも敵迫撃砲弾の破片が今井少尉の背中に突き刺さり、この破片創が元で後方に下がったが、タイ国に入る前に戦傷死したと聞いている。 パヤガスで負傷した後、彼と顔をあわせ、早く良くなれよと一言掛けたのが最後の別れとなった。
おわりに
ここまで私が戦地で経験した「生と死の分れ目」について書いてきましたが、これはそのほんの一例であって実際にはもっと数多くの分れ目があると思います。 ただ私たちにはそれが気付かないだけだと思考されます。 私たちの先々の運命は宿命的に決められているのだと思うことはせず、そこに自分自身で切り開いて行く努力や、その他の何かが必要ではないかと思います。
しかし、私たちがビルマの戦場で常識では考えられない過酷な環境のなかで、先のことなど考える余裕など無く、その日その時を生き長らえるのに精一杯というのが実状でした。 多くの戦友の方々を亡くしました。 あれから 60 年の歳月が流れました。 私たちも齢 80 を超えています。 しかし生ある限り亡き戦友の御霊をお慰めしなければならないと思っています。 そこに 128 ビルマ会の存続が意義あるものとなります。 (2004-9-18 記)