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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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平成 17 年 3 月 10 日

「私のビルマ戦記」をお読みの皆様へ

小 安 歸 一

拝啓 三月に入り寒い日もありましたが、二三日前位から少し暖かになって参りました。 皆様にはお変わりも無くお元気でお過しの事と拝察いたしております。 この度「私のビルマ戦記」をお読み頂けますこと光栄に思います。

さて、平成 14 年 9 月、パソコンのメールで書き始めたビルマ戦記や、昨年京都の 128 ビルマ会が原稿募集したときに書いたものと、稿を新たにした私のビルマ戦記と、終戦後約 2 ケ年間の収容生活の模様を書き加えて、茲に「私のビルマ戦記」として纏めました。

今までに、既にその一部はお手元に差し上げたものもありますが、改めてお送り致しますのでお暇な折にでも、ご一読頂ければと存じます。 何せパソコンでポツポツ叩いて作成したもので、校正が上手く出来ていない箇所があると思います。 出来るだけは誤りのないよう努めたのですが、誤字、脱字、言葉の使い方、また記憶違い等による事実との違いがあると思われます。 この点何とぞご叱正賜れば幸せと存じます。

年をとりまして如何に余暇を過ごすかということで始めたパソコンの腕の悪さと、60 年前の事を思い起こして文字にする難しさが重なって、苦労は致しましたが何とかここまでやれました。 ご一読後ご意見頂ければと存じます。 ご家族の皆様にも宜しくお伝えください。 

敬具


☆ ☆ ☆ 目 次 ☆ ☆ ☆

元著 : 私のビルマ戦記 「安」歩兵第 128 聯隊回想録

A「私のビルマ戦記」行動表

B & Cビルマ戦記 - 1 〜 4

  • ビルマの日本軍は何故敗れたか?

D生と死の分れ目

  1. はじめに
  2. ビルマ方面軍に転属
  3. いざビルマへ(ビルマは遠かった)
  4. 生と死の分れ目
  5. 所属聯隊に着任まで
  6. おわりに

E続 生と死の分れ目(北緬の白骨街道を往く)

  1. はじめに
  2. 雨季の鉄路を徒歩で北へ
  3. 白骨街道を北へ往く
  4. マラリヤとレーション (Ration)
  5. おわりに

F - M私のビルマ戦記

  1. モーハンで聯隊(歩兵第 128 聯隊)に着任
  2. ピンウエの戦闘で負傷
  3. 戦傷病患者の生活
    1. 負傷から野戦病院入院まで
    2. 岡田聯隊長戦死の情報は速かった
    3. 避暑地のカロー野戦病院
    4. タウンジー兵站病院とインレ湖温泉療養所
  4. 一挺の重機を大事に
  5. キャウセ、パヤガスの戦闘(戦友今井少尉負傷)
  6. 迫撃砲の煙弾を至近に受ける
  7. 重機と籾つき
  8. シッタン河畔の湿地帯の戦闘
  9. 終戦、武装解除について
  10. 英軍監視下の収容所生活(英軍作業に従事)
    1. パヤジ収容所の生活
    2. アーロン収容所の生活(蝿と悪臭に悩まされる)
    3. コカイン収容所の生活(蟻が多かった)
    4. アーロン乗船滞留キャンプの生活
  11. 復員船攝津丸にて帰還、復員
  12. 終わりに
  13. ビルマ戦記を書き終えて

M縁とは不思議なもの

  1. はじめに
  2. 縁とは不思議なもの
  3. おわりに

 
「私のビルマ戦記」行動表
昭和 17 年10 月1 日東京青山東部第 7 部隊(近衛歩兵第 4 聯隊補充隊)、第 2 機関銃中隊入隊
昭和 18 年5 月10 日群馬県相馬ヶ原、前橋陸軍予備士官学校第 1 機関銃中隊入校。 兵科甲種幹部候補生教育
12 月25 日同校卒業。 曹長の階級に進め兵科見習士官命ず
同 日南方軍総司令部参謀部付を命ず(異民族軍隊指導要員)。 軍用列車にて東京品川経由広島宇品港暁部隊(船舶部隊)に向う
12 月27 日広島宇品の暁部隊到着。 昭和 19 年 1 月 16 日、門司港(現北九州市)に集合。 それ迄各自自宅待機
昭和 19 年1 月19 日門司港にて輸送船(郵船貨客船)三池丸乗船
1 月20 日正午、門司港出港、途中台湾沖にて敵魚雷襲撃うく
1 月29 日正午、昭南港(シンガポール)に無事到着。 昭南ステーションホテル泊
1 月30 日南方軍総司令部参謀部に申告。 第 18 独立守備隊司令部(昭南防衛司令部)に転属。 前橋予備士校出の 40 名の異民族軍隊指導要員の集合教育(約 2 週間)。 その後各任地に向う
2 月島嶼義勇隊勤務を命ぜられ、リオ群島ビンタン島タンジョンピナン(インドネシア)に赴任。 義勇隊の集合教育に当たる
3 月集合教育終了義勇兵出身島に帰任 クンドル島カリモン群島モロ諸島の担当となる
4 月30 日第 7 方面軍司令部に転属を命ぜらる(シンガポール)。 同日付にてビルマ方面軍司令部に転属。 富士屋ホテルに滞在
5 月25 日昭南駅(シンガポール)を国際列車に乗車、マレーシア縦断タイ国チュンポンに向かう。 途中ペナン島の対岸の駅にて燃料補給の大休止あり
5 月タイ国チュンポン到着。 タイ・ビルマ国境の街カオファージまでの鉄道が不通のため兵站宿舎に約 3 週間留まる
6 月20 日鉄道にてチュンポンからカオファージに到着。 船にてビルマ最南端の街ビクトリアポイントに着く。 既に雨季になっていたのでトラックと舟の乗り継ぎでメルギー・タボイを経由して、ビルマの鉄道最南端の駅イエ到着
6 月下 旬ビルマ第 2 の都市モールメン到着。 ビルマ第 2 の大河サルイン河を船で渡り対岸のマルタバンに着く。 此処から首都ラングーンまで列車。 途中ビルマ第 3 の大河シッタン河を渡る
7 月1 日ビルマの首都ラングーン着。 ビルマ方面軍司令部に申告。 第 53 師団司令部(京都「安」兵団)に転属を命ぜらる。 マンダレー経由メイミョウへ
7 月10 日メイミョウにて第 33 軍司令部に申告。 マンダレー、サガイン、メザを経て北ビルマのホピン目指して、ミートキナに続く鉄路を北上した
8 月20 日ホピンにて漸く第 53 師団司令部に到着申告し、歩兵第 128 聯隊勤務が発令された。 また 7 月 1 日付にて陸軍少尉に任官していた
8 月モーハンにて歩兵第 128 聯隊本部到着。 岡田聯隊長に申告。 第 3 大隊第 3 機関銃中隊付となった。 これから雨季明けの 10 月末まで掩蓋壕造りが続いた
10 月26 日モーハンの戦闘続いてナンシャの戦闘
11 月14 日ピンウエの戦闘にて負傷、後方に下がる。 サガインの 53 師団野戦病院にて右大腿部盲貫銃創の弾を摘出、マンダレーを経てキャウセ
12 月3 日キャウセにて岡田聯隊長の戦死の報を聞く。 メークテーラの兵站病院を経てカローへ
12 月20 日カロー野戦病院着。 日赤看護婦御子柴(原秋子)さんにお世話になる。 昭和 20 年の新年をカローにて迎える
昭和 20 年1 月10 日タウンジー兵站病院に後送される。
1 月20 日タウンジー兵站病院退院し、インレ湖畔の温泉療養所に入る。 療養 1 ヶ月余り
2 月下 旬インレ湖畔温泉療養所出所、前線へ
3 月5 日夜半マンダレー西南西のイラワジ河畔イワボーに到着。 翌早朝聯隊本部にて菊池聯隊長に申告。 第 3 機関銃中隊に復帰。 直ちに戦闘に参加
3 月中 旬イワボーの戦闘後キャウセに撤退し、更にキャウセからカロー街道まで一月足らずかけて後退して、パヤガスの戦闘に備えた
4 月15 日パヤガスの戦闘
4 月29 日ピンヤンの戦闘
5 月初 旬カローを出発し、モチ高原を雨季の中、長途に渡り南下しシッタン河畔ザロッキー目指して行軍する
6 月22 日ザロッキー到着。 最後のシッタン河畔戦のミッチョウ作戦に備える
7 月初 旬雨季の大河シッタンの濁流を越えてミッチョウ作戦開始。 7 月 8 日菊池聯隊長戦死。 この作戦も初期の目的を達成できずザロッキーに撤退する
8 月15 日大東亜戦争終結
8 月20 日陸軍中尉に昇進(所謂ポッダム中尉)
9 月23 日モパリンコールにて武装解除
10 月1 日パヤジーにて英軍の監視の下キャンプに入る
11 月6 日パヤジーより列車にてラングーン市アーロン収容所に移動、またその後ラングーン市コカイン収容所に移動し英軍作業に従事する
昭和 22 年6 月1 日コカイン収容所を後にして、アーロン乗船滞留キャンプに移動した
7 月7 日イラワジ河畔のラングーン港にて復員船摂津丸乗船内地向け出港した。 途中給油の為シンガポール島セレター軍港に立ち寄った。
7 月20 日広島の宇品港に入港した
7 月24 日復員

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