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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

*** I ***

私のビルマ戦記 - 4 & 5

  1. 一挺の重機を大事に

    私たちは夜の明けるのを待って聯隊本部の在りかを捜しに行った。 3 月 6 日の朝のことである。 昨夜の戦闘の激しさを物語るように、聯隊本部にも何やら落ち着きがなかった。 すぐ菊池聯隊長に退院、原隊復帰の申告を行った。 しかし、噂に聞いていたようなこともなく、「よく帰ってきてくれた。 すぐ中隊に行き戦闘に参加せよ。」とのお言葉であった。

    大隊長も、中隊長も初めての方々であった。 大隊長は米沢少佐、中隊長は服部中尉であった。 中隊のメンバーも殆ど変わっていた。 ジャングル・マスターの田中兵長だけは相変わらず元気でおった。

    肝心の重機は一挺だけが健在で残っていた。 当時、重火器は聯隊でも数少なく、兵員が少ないせいもあるが、聯隊砲 1 門、大隊砲 1 〜 2 門、重機も各大隊に 1 挺で計 3 挺程度であった。 これに軽機関銃と 38 式小銃である。 夫々の弾薬も数が知れていた。 この様な装備で優勢なる敵と戦うのであるから、その勝敗は自ずから明白であった。 それでも尚、戦わねばならないところが問題である。

    さしたる戦闘もなくその日は暮れた。 夜になってから命令があり、原隊復帰したばかりで地理や戦況不案内の私に、将校斥候に出よとのことで、すぐ下士官、兵を選抜して敵情偵察に出た。 当時、将校斥候に出せる若手将校が如何に少なかったかを如実に表していた。 その後も、将校斥候にはよく使われていた。 然し、敵の陣地は 5 〜 6 名の斥候で、そう簡単に捜索できるような陣地ではない。

    鉄条網が 2 重 3 重に張り巡ぐらされており、これを切断する鋏も無いし、また仮令、鋏があったとしても電流やその他で連絡が取れるようになっていたと思うので、これを突破して前へ進むことは出来なかったと思う。 斥候も 2 〜 3 名の少人数で本当に隠密裏に、敵が居るか居ないか位の偵察なら有効と思われるが、敵情を仔細に偵察することは言うべくして、中々出来ることではなかった。 日露戦争、日支事変当時ならいざ知らずである。

    この様に敵の陣地は中々堅く、容易には近寄れるものではなかった。 またそれ以上突き進めば必ず死を招き、斥候本来の目的の達成が出来ないことになる。 当時の戦争でも斥候とは中々難しい任務であった。 命令する側は簡単に命令するが、これを行うのは大変な事であった。

    翌 3 月 7 日は夜明けと共に、敵迫撃砲の攻撃で始まった。 トロン、トロン、トロンと太鼓を叩くような発射音が聞こえると、間もなくしてヒュルン、ヒュルンという音と同時に、ドカンドカンと破れるような弾着音が響き渡った。 これが 1 時間から 1 時間半も休み無く続く。 迫撃砲の恐ろしさはギザギザで先の尖った破片が身体に突き刺さることであった。

    滅多に直撃弾が当たることはないが、下手な鉄砲数撃ちや当たるで、中々怖いものである。 この時、私は遮蔽物が何もなかったので、大きなサボテンの樹に隠れて迫撃砲の破片を防いでいた。 その内に、敵は M3 型の中戦車による砲撃を加えてきた。 私たちは一挺の重機だけであるので、これの応戦は不利と考え後退しつつ地隙のある所まで下がった。 大掛かりな敵の攻勢に対して、味方の大隊、聯隊の戦闘指導も困難となり、各隊ともかなり混乱状態に陥っていた。

    私はこの戦闘で初めて敵が戦車攻撃を仕掛けてきたのを見た。 制空権を握っているから、戦車攻撃は更にその威力を発揮するのである。 日本の玩具のような中戦車でなく、米国製の M3、M4 型の戦車は形も大きく、前甲板は 75 ミリ以上あると聞いていた。 日本の対戦車砲の速射砲や機動砲では歯が立たず、聯隊砲でやっと擱座させることが出来た。

    戦車砲は迫撃砲と異なり砲身が長いので、発射音が聞こえると同時に弾着音がズシンズシンと重い響きが聞かれるので、これは更に怖いものであった。

    地隙に難を逃れていた我々は、そっと地上を見るとすぐ近くの道路上に M3 の中戦車があり、その後ろに歩兵部隊が随伴していた。 我々は地隙から出るに出られなくなり時の来るのを待っていた。 その内に、第 2 大隊の聯隊本部との連絡兵が地隙に入ってきた。 「戦闘は激しく、わが方は全面後退し、聯隊本部を探しているうちにここに来てしまった。 第 2 大隊も逐次後退を余儀なくされている。」とのことであった。

    その連絡兵に色々と状況を聞いていて、皆その話に気をとられて前方の警戒が疎かになっていた。 突然、地隙の我々の前面に一人の英軍兵士が現れ、手榴弾一発を投げ、アルミ製の皿のような鉄帽を落として慌てて逃げ去った。 この投げられた手榴弾の破片で連絡兵と他一名が負傷した。 連絡兵は腹部を、もう一人は足をやられていた。

    私は直ぐ図嚢からカロー野戦病院で頂いた皇后陛下よりの包帯を取り出して傷口を巻いてやった。 負傷した二人は直ぐ動くことは無理であったが、我々の居場所を敵に知られたので、直ちに移動することにした。 二人の兵は手持ちの水も少なかったので、各自の水筒から水を少しずつ分けてやった。 また自決用の手榴弾も持っていなかったので、これも一発ずつ分かち与え、夜陰に乗じて下がるよう指示した。

    二人を寝かせその上から携帯天幕を被せてあたかも戦死者のように見せかけた。 この時分隊長から隊長である私に、「重機を捨てて負傷者二人を連れて下がりましょう。」という意見具申があった。 私は即座に、この重機は大隊に唯一挺の重機だぞ、これを大事にしなければ、とその意見を入れなかった。

    近くに敵の戦車と歩兵部隊がいるので、我々は 1 挺の重機を中心にして、出来るだけ静かにして、速やかに地隙から移動した。 幸い敵方に察知されること無く下がることができ、夕方近く、大隊主力に合流することが出来た。 戦闘の結果は明らかで、その夜のうちにキャウセに後退せよとの命令がだされ、聯隊はまた南下したのであった。 昼間、地隙に残してきた負傷兵二人のことが気になっていたが、その後二人とも無事であることが分かった。 1 挺の重機を大事にしてよかったとつくずく感じた。 (2005-1-16 記)

  2. キャウセ、パヤガスの戦闘(戦友今井少尉負傷)

    イラワジ河畔イワボウの戦闘は、今まで北ビルマのジャングル地帯の戦闘であったのが、平坦地の戦闘に変わった。 敵の攻撃態勢も従来の迫撃砲の集中砲撃に加え、 M-3、M-4 型の戦車を駆使する広範囲の攻撃に変わってきたと感じた。 又、これにより我々が受ける重圧は、今までより強く損害もまた増大した。

    イワボウを撤退した我々は、次の防衛線をキャウセとして、残り少ない砲は牛車で運び、重機は相変わらず分解搬送で後退を続けた。 私も入院により体力を回復したので兵に交じり、重機の銃身(重さ 30 キロ)を代わる代わる担いだ。 一人でも担ぎ手が多ければそれだけ兵は助かるのである。 重機の脚(これも約 30 キロ)も同じように搬送した。

    このようにして目的地のキャウセに着くことが出来た。 軍からの命令はキャウセ防衛 100 日、ここをどうしても死守しなければならないという。 私たちもビルマにおける戦争そのものに、懸念を持ち始めていた。 初めは戦争未経験な下級将校、お国のために戦うことは恐ろしくなかった。 日時が経つにつれ攻撃命令は来るものの、武器弾薬、医薬品、被服、食糧等どれ一つとして補給は無い。

    悪疫瘴癘の地、その上、天候も雨季(5 月 〜 10 月)には連日ドシャ降りの雨、乾季(11 月 〜 4 月)には炎天続きの酷暑で、大切な水の補給が困難となる。 戦闘では彼我の戦力の差が大きすぎ、我が方の尊い命を多く奪はれる。 従い、我々は自衛の策として、命令は命令として従うが、出来るだけ兵の命の損傷を少なくするよう配慮するなどした。

    昨年からフーコン、インパール等大きな作戦の失敗があり、今現実に、敵にイラワジ河を渡られ、この様に攻撃を受けている。 中央ビルマの突破も敵には容易に出来ることで、目前に迫っている状況にある。 キャウセ防衛 100 日もお題目だけで何の意味も持たないと思った。

    キャウセに着いて陣地構築に取り掛かるのであるが、資材も無いので重機の銃座を十字鍬で掘ってつくり、後は個人用の壕を掘るだけで精一杯である。 我々は全て徒歩、しかも重機を背負っての移動であるのに対し、敵は全て車両による追撃である。 防衛 100 日といっても、どうにもならないことは自明の理である。 戦闘は迫撃砲の砲火で開始された。 砲火が暫く続くと、その後歩兵部隊がのこのこと我々の眼前に現れてきた。

    これを射撃すれば味方の陣地が明白となり、また降るような迫撃砲弾の洗礼を受けることになる。 かといって我々の眼前を通過させるわけには行かない。 英印軍の兵士の中にヒマラヤ山脈の麓の国ネパール出身のグルカ兵がいる。 このグルカ兵は死を恐れない。 頭は丸刈りの坊主頭で、頭の天辺に 2 〜 30 本の長い毛を残し、死んだら神様がその長い毛をつかんで天国に昇天させてくれると信じているのである。 従ってグルカ兵は敵前でも平気で身を隠すことなく進んで来る強い兵である。

    我々は敵を十分引き付けてから重機を発射させた。 眼前の敵は倒れるものが多く、それでもあわてて逃げ帰るものもおった。 それから暫くして案の定、敵は迫撃砲弾の雨を我々の頭上に長い時間にわたり降らせた。 また敵は、日本軍が一兵でも陣地を守っていれば、歩兵部隊が突撃してくることはなかった。 しかし戦闘はこの日一日だけで、わが軍は優勢な敵砲火に随所が撃ち砕かれ後退の止むなきに至った。

    敵は我々がこの戦闘を戦っている間に、主力はイラワジ河を渉り戦車を含む優勢なる機動部隊で、中部ビルマの要衝メークテーラを落し、首都ラングーンに向かって南下しているとの情報であった。 そこで我々はキャウセから南下して後退することが出来ず、キャウセから東側の山岳道路を南下したのである。

    キャウセからの山道を何時ものように、重機の重い銃身と脚を交代で担いで下がった。 私も出来るだけ多く銃身を担ぐよう心掛けた。 数日かけてやっと目的地のカロー街道に、その日の暮頃着くことが出来た。 疲れた身体を一寸休めようとする暇もなく、聯隊本部より呼び出しがあり、急いで行くと各大隊から夫々一組の将校斥候を出すという命令であった。

    その後、当時聯隊に一枚しかない 25 万分の一の地図を前にして説明があり、私はその地図の概要を書き取り、直ぐに大隊本部に帰った。 斥候の目的地までは約 40 キロ位あり一晩で行動するのであるから、足の強そうな下士官、兵を選んで 5 名の編成をした。 疲れも忘れて直ぐ出発した。

    カロー街道はアスファルト舗装されていたので歩き易く西に向かってどんどん進んだ。 途中師団の三宅参謀に会い、斥候の目的など聞かれ、しっかりやるように励まされた。 参謀が持っておられた 5 万分の一の地図を見せてもらったところ、目的地のパヤガスまでは一枚の地図では足りず二枚にわたっていた。 あらためて 40 キロの道程の遠さを思った。 明朝までに敵情を報告せねばならぬので先を急いだ。

    進んで行くうちに道路わきの大きな竹藪の中に、方面軍か軍の貨物廠の野戦倉庫があった。 我々一行の中に私をはじめとして軍靴を履かず地下足袋のものが居ったので、斥候中ではあったがこれからの戦闘のことも考え、貨物廠の係りに軍靴を呉れるよう交渉した。 然し、係官は夜も 7 時を過ぎていたこともあったのか、所属部隊が違うと云って結局支給してくれなかった。

    更に驚いて目を疑ったのは、ビルマの戦線で竹藪の遮蔽された中に日本家屋のあることだった。 しかも青畳、明り障子、襖、床の間付で青い蚊帳も吊られていた。 貨物廠の司令官の仮住いとのことであった。 前線の師団長とは雲泥の差があると思った。

    我々には軍靴一足も支給してくれないのに、この様に贅沢な日々をビルマの戦場で送っているとは厭きれ果てたものである。 戦況によりこの貨物廠は数日後、自ら火を放って倉庫の物資を焼く運命にあったと聞いている。 此処にも日本軍の体質の悪さが如実に表現されていた。

    斥候に出て敵が近いか遠いか、又、居るか居ないか、現地のビルマ人の行動をよく観ると判るものである。 一般にビルマ人は人懐こい性格を持っている。 日本軍が強いと見ている間は日本人につき、英印軍が優勢になってからは、日本人を見ると逃げ出すようになった。 それ故、我々は常日頃からビルマ人の行動はよく注意して観察していた。 一晩中懸命に歩いたが、それでも目的地のパヤガス付近に着いたのは夜が明けてからであった。 付近には現地人の姿は見られなかった。

    暫く注意深く進んで行くと、ビルマ人が牛の群れを連れて水を探しているのに出会った。 丁度乾季の末期で、大抵の池は干上がっていて水のある池は少なかった。 それでも小さい水溜りを見つけ、赤茶けた水を牛に飲ませているところであった。 敵が近くにいることは我々も承知はしていたが、念のため牛飼いに「この部落に英軍はいるか?」と尋ねたら、案に相違して「英軍は居ない。」と云う返事が返ってきた。

    私は牛飼いに、英軍が居ないならお前も一緒に行こうと言って、牛飼いを先に歩かして近くの部落に向かった。 我々は部落には英印軍が居るものと注意深く牛飼いの後を付けていった。  暫く行って林を出た途端、我々は英印軍の兵数名と鉢合わせに出会った。

    予期していたことであるが、余りにも突然であったので、お互いに吃驚して敵味方双方後退した。 我々は斥候であるのでの撃ち合うことはしなかった。 敵も余程驚いたと見えて我々に攻撃することはなかった。 部落とその後方には相当数の英印軍の部隊が居ることが確認された。

    丁度その頃、我々の北側にて突如として英印軍からの猛烈な射撃音が聞かれた。 恐らく第 2 大隊から出されていた野村少尉の将校斥候が敵に発見され、それで射撃されたものと思われた。 敵の所在も確認したので、我々は聯隊本部を目指して来た道を急ぎ引き返した。 北側の敵の射撃は執拗に続いていた。

    各斥候の敵情報告により聯隊はパヤガス高地に陣地を配することになった。 昭和 20 年 4 月半ば過ぎと記憶している。 パヤガス高地に陣地を作るといっても、重機の銃座と我々兵の各々の壕を掘るだけのことである。 乾季も末期で地面はカンカンに乾燥していて堅く、十字鍬を振り打ち下ろしてもカーンと跳ね返へり、壕を掘ることは容易ではなかった。

    この戦闘もこれまでのパターンと同じく、迫撃砲の集中砲撃で始まった。 従来と違うのは、始めから戦車部隊を繰り出してきて、戦車を押しては退き、退いては押す、これを繰りかへし繰りかへして攻撃をしてきた。 そこでわが方としては、敵戦車がまた来るであろうと予想される道路上にアンパン(対戦車用地雷)を埋めて、敵戦車を 2 〜 3 両擱座させたことが精一杯の戦果であった。

    しかし、この戦闘も彼我の戦力の差は歴然としており、聯隊はカロー街道のピンヤンに転進のやむなきに至った。

    〜 ・・・ 〜 ・・・ 〜 ・・・ 〜 ・・・ 〜

    この戦闘で、戦友の第 2 機関銃中隊の今井少尉は迫撃砲の破片が背中などに当たり後方に下がった。 戦場ではあったが偶然にも下がり際に、彼と顔をあわせることが出来たので「元気になって早く帰ってこい。 また会おう。」と、声を掛け励ました。 しかし、彼はカローからタイ国のチャンマイに下がる途中で戦傷死した模様である。 戦後、内地には帰還していない。 合掌。 (2005-1-25 記)

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