ピンウエの戦闘で負傷
ナンシャンの戦闘の後、転進した我が聯隊は、パーパン、トンロンの戦闘を経て 19 年 11 月初めに師団命令により、ピンウエの死守を命ぜられていた。
敵の攻撃は相変わらずで、夜明けとともに我々の頭上に偵察機(弾着修正)がブルンブルンと飛び回り、その連絡により迫撃砲の発射音がトロントロンと太鼓を叩くような音が聞こえて、暫くすると今度は砲弾がヒューンヒユーンと音をたてながら我々の身近に迫った。 何ともいえない不気味な音である。 これが日暮れまで間断なく続くのである。 まともな神経ではとてもこれに耐えることは出来ない。
迫撃砲の恐ろしさはこれだけではない。 砲弾が着地して破裂する時の破裂音がまた凄まじい。 また、破裂した破片は大小様々で四方八方に広く飛び散り、破片の先端が不規則に鋭利に鋭く尖っているのが特徴である。 これ等が被服を突き抜けて人間の身体に食い込むのであるから、即死する致命傷もあるが、迫撃砲破片創といって傷口が化膿する厄介な大怪我にもなる。
11 月 10 日頃、戦線は相変わらず膠着状態であり、その上、武器弾薬、食糧の後方からの補給もよくなく、且つ又、師団からの命令もあったので岡田聯隊長はこの地を死守することに決心を固められた。 そして各隊に「聯隊はここにて玉砕を覚悟して戦う。 壕は出来るだけ深く堀り、軍事機密となる書類等は処分し、各人最後の内地への便りをしたためよ。」との命令が伝達された。
各隊各兵とも、いよいよこれが最後の戦闘になるのかと夫々覚悟を決めた。 私たちも書類を集めて処分し、各自がそれぞれタコ壺なる壕を深く掘った。 その後、日本の妻子親兄弟に宛てて手紙を書き、後方に下がる人にこれを託した。 第 1 戦の将兵は自分の身辺が片付くと、覚悟が出来たせいか比較的皆落ち着いていた。
師団司令部では岡田聯隊長の決意に対して、未だその時期ではない、弾薬も食糧も出来るだけ補給するから、玉砕は見合わせよ、と武田師団長自ら岡田聯隊長を慰留に来られた。 その日は、師団長閣下のお土産ということで、「汁粉」や「ぜんざい」をたらふく食べた。 そのうちに命令が変更になって、ピンウエの敵陣地に聯隊が攻撃することとなって、11 月 13 日の夜半より、各大隊ごとに行動を起こすこととなった。
今までは敵の攻撃に対して守備にばかり回っていたが、今度は日本軍より敵に対して攻撃をするのである。 わが第 3 機関銃中隊全員といっても重機 2 挺の 1 個小隊分しかないが、そのうちから精鋭 1 個分隊、すなわち重機 1 挺の編成で出動ということになった。
中隊長は高野中尉、小隊長が私、他に中隊付で山岡曹長、分隊長が勢田伍長であった。 私は本来なら四番射手は田中兵長にすべきところを今度の戦闘の容易ならざるを感じ、田中兵長を予備として温存して、細見上等兵を四番射手に抜擢し、二番銃手に田栗兵長を据えた。
夜半から行動を開始して隠密裏にジャングルの中の敵陣に接近した。 昼間に、師団長のお土産としていただいた「汁粉」を、久し振りに食べたことと、これが今生の食い納めと思い食べ過ぎのせいもあり、行軍中にしばしば下痢に悩まされた者が多かった。 しかし、夜明け前には敵陣地付近に到着していなければならないので、深夜の闇のジャングルを北へ北へと急いだ。 夜明け前に、目的地である敵陣地付近に到着することが出来た。
確か 11 月 14 日午前 6 時を期して、第 3 大隊は一斉に敵陣地に向かって前進を開始した。 わが第 3 機中隊は第 11 中隊の後方に位置して進んだが、ジャングルは比較的密林が厚く、我々が進むことの出来る道は細いのが一条のみであった。 それで第 11 中隊は市原小隊長を先頭に、10 数名の兵が一列になって前進していた。
私は第 11 中隊のすぐ後ろから進んでいたので、この隊形で進むことの危険を感じ、私は 11 中隊の兵に大きな声で注意を喚起した。 「一列になって前進すると 1 発の弾で数珠繋ぎにやられるから、散開して前進せー!」と、何度も大声を出して指示した。 しかし、それでもジャングルには細い一本道があるだけで、兵隊達は小隊長に従って一列のまま前進していた。
丁度、第 11 中隊の 10 数名の将兵が凹地になったところを一列になって通過中、突如として前方の敵陣からチェコの軽機関銃の猛烈な射撃を受けた。 私がアッという間もなく、眼前に市原小隊長をはじめとする第 11 中隊の隊員殆どが将棋倒しのようにひっくり返るのを見た。 私も反射的にその瞬間身を伏せていた。 (戦没者名簿見るとこのとき戦死したのは市原少尉以下 11 名の将兵の名が載っている。 合掌。)
しかし、私も後で気が付いたのであるが、私の右腕は敵の弾の破片で数ヶ所傷付けられていた。 我々は夜明けと同時に敵の背後を衝いたのであるが、我々より先に敵がチェコの軽機で射撃してきたのには驚いた。 尤も敵陣地は蜂の巣陣地といって円形で四方八方何処から攻撃を受けても対応が出来る陣地になっていた。 (市原少尉は一年志願の出身、召集までは一般市民。 私も戦争未経験。 敵を背後から突くにしても、もっと策を練らねばと思った。)
第 11 中隊がほとんど全滅になってしまったので、私は重機で直接攻撃をするしかないと判断し、百米位前方の敵陣を射撃して小銃部隊の攻撃を容易ならしめようとした。 まず重機を据え、目標と距離を示し、撃ち方始めを命じた。 わが重機もダダッダダッと順調に発射音を響かせていたが、まだ一連も撃ちきらないうちに、射撃していた細見上等兵が敵のチェコの軽機の弾を顔面に受けた。 鼻と口からドット血を噴きだし彼の鉄帽が重機の銃身にガツンと当たり一瞬にして倒れた。
私はそれを見て大声で「田中! 田中!」と呼び、四番射手の交替を命じた。 田中兵長はすぐさま重機に近付いて倒れた細見上等兵の両足をつかんでグウイと後に引くなり、直ちに重機の射撃を開始した。 何かしら今度の戦闘は編成時から予感があったようで、細見上等兵には申し訳ない感じがしたが、戦場では私心が無く細見上等兵も自ら進んで名誉の四番射手を希望したものであった。
この戦闘では二番銃手の田栗兵長も重機に当たった敵チェコの跳弾で膝をやられ交替した。 暫くして重機を敵前近くまで陣地変換して攻撃を続けたが、敵のチェコ軽機による射撃も中々で、友軍の受けた損害は大きかった。 高野中隊長も私の近くに居って戦況を見ていたが、小銃隊がやられて放り投げになっている小銃を拾ってそれで敵を射撃していた。
戦闘の状況も膠着状態になっていたので、私も小銃を拾って射撃しようと思い、近くにある小銃をとろうとした瞬間、頭にガアーンという猛烈な衝撃を受けそのまま倒れてしまった。
どれだけの時間そこで気を失って倒れていたか分からない。 気が付いたときには、右隣にあった重機も、中隊長も、他の兵隊も誰一人おらず私一人だけ取り残されていた。 ただ重機がはるか右方で射撃している音が聞こえた。 頭が痛むので鉄帽をとってみると、鉄帽の前方に弾の入った痕が二つあって鉄帽の後方は大きく破れていた。 これでよく助かったものだと思った。 あのまま気を失い続けていれば当然死に至っていたことだろう。 勿論、亡骸は其の儘である。
ここでどのように行動するかを考えた。 敵前数十米である。 動けばやられる。 どうやって味方の陣地に行くか、横に突っ走れば必ずやられる。 かといって敵に背を向けて下がるわけには行かない。 15 〜 6 米後方に身を隠す地隙があったので、そこまで何としても下がらねばならない。
結局大胆にも敵陣を睨みながら足を前にだし、両手で身体を支えながら後ずさりをして後退した。 地隙まで今少しというところで、敵弾が一発ビシッと私の右大腿部をかすめた。 その瞬間、私は痛さも忘れて飛ぶように走って地隙に身を隠していた。 そこで身の安全を確認してから跨(ズボン)と跨下(ズボン下)を破って三角巾で擦過した傷口をつつんで仮治療をした。 夢中だったせいか脚に余り痛みは感じなかった。
その後、地隙沿いに 3 機の重機の陣地に急いでいった。 3 機の指揮は高野中隊長、山岡曹長が取っていた。 敵陣は前にも書いたとおり蜂の巣陣地になっていて、東西南北何れの方向から攻撃されても防御できるようになっていた。 その上、我に勝る銃砲火器弾薬があって、92 式重機や 96 式軽機の遠く及ぶところではなかった。
早朝からの戦闘でどれだけ時間が経ったのやら、食事もせずに戦い続けていた。 通常の戦闘であれば重機が援護射撃すると、敵が沈黙する間に、歩兵部隊が突撃を敢行するのであるが、重機を撃った位では敵は沈黙せず、歩兵部隊の突撃も中々実施し難い状況にあった。 従来、日本軍がとっていた戦略戦術では通用しない敵との力の差を感じた。
そのうちに私の右隣に居った高野中隊長に、敵の射撃した跳弾が右前膊の中ごろを横に貫通した。 出血は多量で顔色も悪くなった。丁度そばに居った原田上等兵が三角巾で仮包帯をし、右上膊で止血をして大隊本部の軍医のところまで下げた。 その後も、敵味方の撃ち合いは激しく行われ、この戦闘は何時終るともなく至近距離で続けられた。 そのうちに私もまた右大腿部に盲貫銃創をうけて歩行困難となり、後事を山岡曹長に託して大隊本部に下がり軍医の治療を受けた。
本部には負傷した将兵が多く軍医や看護兵の手当てをうけていた。 先ほど負傷した高野中隊長は重傷であったので、原田上等兵が付き添って陽のあるうちに聯隊本部を目指して下がったとのことであった。 私も大隊本部で治療を受けた後、10 数名の負傷した将兵(患者)を引率して、陽のあるうちに出発して聯隊本部まで下がるよう大隊長の命を受け下がることとした。
北ビルマのこの地方の地図は持っていないので、磁石を頼りに、先ず敵中から離れるため、進路を西にとりそれから南下することにした。 私は右大腿部をやられて歩行は困難であったが、軍刀を杖代わりに足の長さの歩幅だけ一歩一歩、長時間かけてゆっくり歩くことは出来た。 然し、ジャングルの中であるので大木が横倒しになっているところもあって、この時は左右どちらの足から先に出せば痛くないか考え考え歩いた。
この逃避行で注意したのは先ず敵に発見されないことであり、次に一番困ったことは第 10 中隊の増田少尉が腹部盲貫銃創で、止血が出来なくて歩くとポタッポタッと血がたれ、その上痛みも相当なものだったと思う。 若く元気な当番兵1名を連れて下がってきたのであるが、歩く速さははやいが連続しての歩行が続かなかった。
一行は予定の距離も行軍しないうちに太陽は沈み暗くなったので、やむを得ず敵中に夜営することになった。 ジャングルの中、しかも敵中で各自傷ついた身体を横たえても、ゆっくりと休むことは出来なかったはずである。 それでも昨夜からの行軍に続く激戦で疲れていたせいもあって、何時の間にか寝てしまっていた。
それから何時間たったであろうか。 バアーンという爆発音と同時に、被って寝ていた携帯天幕の上にバラバラと破片と土塊が飛び散ってきた。 敵の襲撃を受けたのかと吃驚して跳び起きたところ、増田少尉の当番兵が走ってきて「隊長が手榴弾で自爆されました。」と報告した。 腹部の盲貫の痛みは耐え難いと聞いていたが、自分で自分の身を始末しなければならなかった増田少尉の気持ちを考えると、胸が締め付けられる思いがした。 合掌。
夜明けには未だ少し時間があったが、敵に察せられてもまずいと思い、早速患者を集合させ、直ちに出発して聯隊本部へ向かって行動した。 幸いその後何事もなく、一行は 11 月 15 日、太陽がとっぷり暮れてから聯隊本部に着くことが出来た。 聯隊の主力は昨夕の反撃を中止して基地ピンウエに帰還していた。 (2005-1-11 記)
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この戦闘で私は鉄帽に 2 発の銃弾を受けながら奇跡にも助かった。 弾が当たった瞬間は大変な衝撃を受け、暫く気を失っていた。 通常鉄帽に弾が当たると、弾は鉄帽の後方の壁にまた当たって回転して頭の後ろを貫通して、頭の前へ抜けて即死するものだそうだ。
私は鉄帽をかぶる時、何時も浅くかぶっていたので、鉄帽の上の部分は空間があったと思う。 それで頭の上部はかすり傷があり血も流れていたが、当たった弾は抵抗が少なく鉄帽の後ろの壁を難なく突きぬけて、私の命は救われたものと思う。 鉄帽の後部はそれは見事に割れていた。 私はその後も戦闘が続いたのでまたその鉄帽をかぶって戦った。
聯隊本部に無事帰還して後方に下がった時、これは尊い記念になると思い他の装具とともに携行したが、歩行困難な負傷で鉄帽は重かったので途中田圃の中に捨てた。 (2005-1-12 記)
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後日のことになるが、玉砕するというこ とで将兵は皆、内地の家族宛、最後の便りを書いてこれを送った。 私も手紙を書いてお袋さんに送った。 その時、前から聞いていたことであるが、戦地から手紙よりお金を送ると必ず届くということであった。 当時手紙のような書類は輸送船若しくは飛行機で送られたと思う。 それに引き換え、お金は野戦郵便局から、内地の郵便局へ直接無線で送られると思うので、速くしかも確実であったのだろう。
それで私はその時手元にあったお金 150 ルピー(円と同じ)をお袋さん宛に送金を頼んだ。 内地に復員してこのことをお袋さんに話したら、郵便貯金通帳を持ってきて私に見せてくれた。 貯金通帳にはちゃんと 150 円が入金されていた。 お袋さんはそれ以前に送ったお金も、この 150 円も使うことなく大切にそのまま貯金していた。 昭和 21 年 3 月には新円切り替えになっていた。 お袋さんは亡くなるまでこのお金を使うことは無かった。 私事で大変失礼をしました。 お許し下さい。 (2005-1-15 記)