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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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私のビルマ戦記 - 6, 7 & 8

  1. 迫撃砲の煙弾を至近に受ける

    ピンヤンはカロー街道を挟んで南北から山が迫っていて、街道の北側には流れの少ない川があった。 南側の山は石や岩の多い岩山であった。 我々の重機中隊はこの南側の山の道路沿いで、カロー街道を見通せるところに陣地選定をした。 壕を掘ることは出来なかったが、岩山の岩石を利用して銃座をつくった。 北側の山には友軍の小銃中隊が守備をしていた。 街道の南北から山が迫っているので、敵は飛行機を自由に使うことは困難なようであった。

    また、南の山側は急斜面で深い地隙が数多くあった。 明日は天長節。 戦場でも何かいいことがあるようにと、祈る心の余裕はあった。 大東亜戦争も緒戦の頃は、祝祭日には必ずといっていい程、輝かしい戦果が発表されたものである。 しかし、当時の状況ではそのようなことは考えられなかった。 パヤガス高地からピンヤンに転進の途中、貨物廠の野戦倉庫がその持てる物資を後方に運ぶことも出来ず、自ら火を放ってその物資が炎炎と燃えていた状況を思い返していた。

    4 月 29 日はそろそろ雨季に入る時期ではあったが、朝から上々の天気であった。 敵はキャウセの戦闘の時と同じように、グルカ兵と思しき兵からなる小部隊を、堂々と道路北側の川沿いに我が陣地に侵入させてきた。 これを撃つと必ず迫撃砲の一斉砲撃を受けることは分っているが、かといって、この小部隊を黙って通過させる訳にもいかず、結局、射撃するところとなった。

    敵の小部隊は相当数の損害を出したであろう。 慌てて逃げ出していった。 やや暫くしてから案の定、迫撃砲 の煙弾を撃ちはじめて弾着の調整を始めた。 普通なら敵は空から偵察機によって弾着を修正するのであるが、南北から山が迫っていたのでこれが困難なためであった。

    そこうしているうちに、銃座の近くにいた私と奥野上等兵の 1 メートル位左に迫撃砲の煙弾が落下した。 煙弾は落下と同時に火花と白煙を吐いた。 火花は私と奥野上等兵の襦袢に飛び散って、襦袢はボツボツと焦げて背中は火傷だらけになった。

    その時迫撃砲の破片か、飛び散った岩の固まりか、瞬間であったので良く分からないが、私は口を負傷し、前歯門歯 3 本を折ってしまった。 負傷はしたが戦闘はそのまま続けた。 銃座は敵前方はよく見通せたが、また敵からも格好の目標ともなった。 ここしか銃座は選定できなかったのである。 その後も、迫撃砲による砲撃、チェコ軽機の猛射は続いていた。

    わが方の乏しい火器では応戦の方法も無く、損害も多くなったので、止む無く山上へ陣地変換するために岩山を登った。 これを見た敵は砲の攻撃からチェコ軽機の射撃に重点をおいて攻撃してきた。 途中、私の当番兵をしてくれていた松井一等兵は、敵軽機の銃弾を受け名誉の戦死をしたのは残念であった。 合掌。

    岩山には山頂に登りつめる手前に大きな洞窟があったので、重機と共にその中に入り、全員難を逃れた。 洞窟は中が二重になっていて、何人でも入ることの出来るほど大きなものであった。 早速、洞窟の入口に銃座をつくり、重機を据えて射撃を開始した。 敵の攻撃はその後も激しく続いたので、我々は洞窟を出ることが出来ず、夜を迎えることになった。

    敵は我々に夜間照準を合わせていて、夜間まで洞窟めがけて軽機の射撃を続けていた。 私も敵の情勢は如何かと洞窟の入り口を覗いた途端、夜間に関らず敵弾が飛んできた。 間一髪でやられるところであり本当に命拾いをした。

    大隊本部からは 4 月 30 日夜半まではこの陣地を守るよう命令が来ていた。 夜明け前に我々は洞窟を出て、今日一日保持できるような陣地を探した。 地隙は沢山あり、そのうちの適当な地隙に、重機はカロー街道と川沿いに射撃が出来る銃座に据え、人員は皆地隙の中に入った。 この地隙は人間がやっと入れる位の幅だが、縦に深く細長いもので対地、対空に安全なところであった。 昨日に引続いて朝から迫撃砲の攻撃は激しかったが、チェコの軽機の射撃は殆ど無かった。

    また歩兵部隊による攻撃も無く、迫撃砲の攻撃以外はなくて比較的平穏に日暮れを迎えることが出来た。 夜半になって後退の命令が出た。 私は口の負傷と背中の火傷で参ってはいたが、行軍することが出来たのは不幸中の幸いであった。

    この様な先の見えない無意味とも思われる戦闘を繰り返へし繰り返へしやり、我々は今日も一日命が永らえた、との思いを抱きながら、重い足取りで重い重機を担いで一歩一歩後方へ下がった。 当時ビルマの首都ラングーンは敵の機甲部隊による攻撃で敵側にあり、日本のビルマ方面軍司令部は、既に 4 月 23 日にはラングーンを放棄して、サルウィン河畔ビルマ第 2 の都市モールメンに転進していた。

  2. 重機と籾搗き

    ピンヤンを後にした我々は、ビルマの避暑地であるカローの街を通過して、モチ高原を北から南へ縦走し、マルタバン湾に注ぐシッタン河口に近いザロッキーまで徒歩で大移動することとなった。 記録によると、5 月初めカローを出発し、ザロッキー到着は 6 月 22 日となっている。 生憎、雨季が始まり毎日毎日降り続く激しい雨の中の難行軍であり、我々の想像を遥かに超えたものであった。 これが約一月半の長旅である。

    戦闘中、行軍中の食糧は軍から支給されるものはごく稀で、殆どの食糧は自給自足せねばならなかった。 軍から偶々支給されるのは野菜(主としてジャングル野菜)、牛肉類でごく稀であった。 ビルマは幸いなことに農業国であり、米作が主で各農家は夫々家ごとに米を籾のまま保存していた。

    住民は戦争が激しくなって家を捨てて逃げる時も、籾はそのまま農家に残されていた。 我々はこの籾を無断で失敬して、農家にある臼と杵で米を必要なだけ搗いて精米して、これを靴下や背嚢に入れて行動した。

    毎日重機を担いで行軍するのは重労働であるので、本来から云えば一日 5 〜 6 合の米は食べるが、重機と米の重さを考えて、どうしても米の量を加減して持つようになった。 その他、常食としては岩塩があった。 これも農家から無断借用して必需品として所持していた。 これだけあれば生命だけはどうやら維持することが出来た。

    この長途の行軍は我々もある程度の覚悟を以って望んだのであるが、雨季に入ったこともあり、重機を担いでの毎日のことであるので、重機中隊はどうしても一般小銃中隊に遅れることになった。 この遅れを取り戻そうとして色々工夫して、今まで銃身と脚に分解しての搬送であったのを、すぐさま戦闘ということもない状況と判断して、銃身を更に特別分解し、兵各自に部品として搬送するようにした。

    それほど皆が心身ともに疲れ果てていたのである。 疲労に雨! 当然マラリアのため発熱するものが多かった。 これ等の悪条件のため一日の行軍は 20 キロが精々であった。 行軍途中で携帯の米がなくなると部隊は大休止して、一日休んで籾を搗いて精米を作るのである。

    携帯する米の量は持てる限界までであるが、次の大休止の予定地までの行動予定日数分は、どうしても米にしてこれを持たなければならなかった。 ある時は、大休止の予定地に着く前に私の中隊は米が無くなり、私は各自の背嚢の底にこぼれた米を拾い集めさせ、また足りない分は他の中隊の兵から分けて貰ったこともあった。 米は我々には何にも代えがたい食糧であった。

    この様な苦労を重ねて行軍し、目的地のシッタン河畔にたどり着くことが出来た。 この長途の行軍で重機の搬送を従来の分解搬送から、普通は決してやることの無い特別分解をして、重機の部品の形態で搬送した。 雨季で激しい雨が降るので重機の錆が心配された。 ザロッキーに着いてこれを点検したところ、矢張り「キンテイカン」が錆びていた。 然し射撃には異常が無かったのでホットした。

  3. シッタン河畔の湿地帯の戦闘

    当時(昭和 20 年 6 月頃)、既に首都ラングーンは陥落しており、ビルマ方面軍司令部はモールメンに転進していたことは先述の通りである。 それまでビルマの南西部(アキャブ方面)にあった第 28 軍(策集団)は、マンダレー街道とラングーンが敵側に占領されたため、退路を遮断されてペグー山系中に取り残された形になった。

    我々はシッタン河畔東岸のザロッキーに布陣して英印軍と対峙していた。 また一方においては、第 28 軍がイラワジ河を渡り、敵中のマンダレー街道を横断して、雨季で増水したシッタン河の濁流を筏で渉ってくるのを援助した。 ビルマの雨季は連日殆ど終日激しい雨が降るので、乾季には水無川の河川もすぐに水嵩を増した。

    敵中突破作戦が始まる前の第 28 軍は殆ど無傷であったが、撤退作戦開始後は雨季のイラワジ河の渡河とマンダレー街道の横断作戦で相当数の兵力を消耗し、シッタン河畔に着いた時には既にその数は半数位になっていた模様である。 その上シッタン河の渡河に当っての筏つくり等の大変な苦労をしたようであった。

    雨季のシッタン河は文字通りの大河となり、濁流渦巻く悪魔の河であった。 従って、折角シッタン河畔まで到着し筏をつくって渡河した将兵が、またここで尊い生命を数多く失っている。 聞くところによれば無事にシッタン河を渡河した将兵は約二割程度とのことであった。

    (ここで回想してみると、第 28 軍は 2 ヶ師団と 1 ヶ旅団で兵員約 46 〜 47 千人の編成である。 当時情報の少なかったことにもよるが、第 28 軍が撤退作戦を取らず、英印軍と戦闘をしたとしてもこれだけの大きな犠牲は払わなかったと思われる。 最高指揮官の判断はこれだけ重いものと痛感する。)

    ザロッキーに到着してから、師団や聯隊が戦力低下のため、その数を減らすということであった。 我々の第 3 大隊もなくなるので、私の重機中隊は第 2 機関銃中隊と一緒になるということで、私は一時、第 2 機関銃中隊付になった。 然しその直後、第 1 中隊に配置替えになった。 3 大隊から 1 大隊へ、しかも重機中隊から小銃中隊への配置替えである。

    私としてはどうなっているのか、よく分からないがやるしかないと思った。 1 中隊へ行ったが兵が 10 名位居るだけで、他に将校も下士官も居なかったと思う。 何せ、兵の顔も名前も皆目分らないのだから始末が悪い。 その後、中隊長として西村中尉が来られた。 大隊長は村上大尉であった。

    一般中隊は初めてのことであったが、配属の直後小哨に出された。 小さい川を渉って、甘蔗(砂糖黍)畑を通って行ったシッタン河岸に近い小高い丘に小哨が置かれた。 この丘からシッタン河越に敵陣地が一望することが出来た。 我々は 10 名位からなり、聯隊砲中隊から砲隊鏡を借り、係の下士官にも応援してもらった。 この砲隊鏡によって夜明けから日没までの敵情を監視していた。 また日没から夜明けまでは、部落の灯火の状況などについて監視し、その状況を逐一聯隊本部に報告していた。

    当時、聯隊はこの戦争最終の補充として、ジャワで幹部候補生教育を受けた見習士官(第 12 期)が 10 0数名配属された。 若手将校が少なかったことと、シッタン河畔はデルタ地帯になっていて敵情偵察が困難なこともあって、将校斥候には中隊長級、あるいは古参中尉も出されていた。 そこへ若い元気溌剌たる見習士官が配属されてきたので、聯隊ではすぐ、各方面にこれ等若い見習士官を将校斥候として出した。

    しかし、これ等の見習士官は戦場は初めてであり、戦況その他地理不案内と、その上、雨季で湿地のデルタ地帯等の悪条件も重なって、斥候に行った幾組かは不幸にして帰還しない者もあった。 将校斥候については以前にも書いたが、将校斥候は只出せば効果が得られるものではないと思う。 その時々の戦場の状態、状況により、より適切に上司が判断せねばならぬことである。

    この戦闘に於ける将校斥候については後日談が色々とあった。 何せ目の前は濁流渦巻くシッタン河があり、デルタ地帯である。 これを将校斥候だけで渉れるはずが無い。 また当時、敵側の勢力が圧倒的に強かったので、現地の住民は皆といっていいほど我々を敵視していた。 従い、皆敵の土匪となっており、若い戦争未経験の見習士官が将校斥候に出たとしても、何もせずに捕虜になるのは当然のことであった。 私は小哨に出ていたので、この将校斥候の難からは逃れることが出来た。

    6 月も末の頃になって、聯隊は 7 月初めからシッタン河を渡河して敵陣地を攻撃するから、その準備を整えるように命令があった。 先ず食糧の準備であった。 デルタ地帯で湿地が多く、飯を炊くことは困難であったので干飯を作った。 飯を炊いてこれを乾かすのであるが、雨季で連日の降雨で、困難かつ良いものができなかった。 それに副食として水牛の干肉を作った。

    私は雨と疲労のためにマラリアがおこり、連日 40 度からの熱を出していた。 私は今度の戦闘には参加したくなかったのが本音であったが、我儘は言えず 7 月 1 日に陣地を出発し、シッタン河を工兵隊の鉄舟で渉り、それからデルタの湿地帯を行軍した。 然し、熱が下がらず苦痛の行軍であったが、それでも何とか隊列に付いていけた。

    小川は行く手にいくつもあり、これは舟なしで渡るので、雨と渡河で全身ビショ濡れである。 またこの小川には人間が一歩川の中に足を入れると、ヒルの群れが一斉に我々に向って来るのには、本当に身の毛がよだつ思いであった。

    更に深く敵中に入り、工兵隊の応援を得て鉄舟で敵前上陸を敢行したこともあった。 鉄舟に乗る前から敵の射撃を受けていた。 鉄舟に乗って身を隠し工兵隊の指導に従って、川岸近くの川中に飛び降りたのであるが、背が届かず慌てて足を浮かせて泳ぎやっと川岸に着いた。

    敵前で弾の飛んでくる中、やっとのことで陸地に這い上がり、先ず袴(ズボン)の中に入った水を吐き出すことが先決であった。 私の経験として敵前上陸はこれが始めであり終わりであった。 この様なことをしながら、聯隊はミッチョウにある敵陣地を攻撃すべく、デルタ地帯の民家が点在している地に展開したのであった。 上空から見れば恐らく点在する島島に、聯隊全員がポツンポツンと折るように見えたことであろう。

    7 月 8 日、私はこの日も発熱して最前線の民家に横たわっていた。 朝から敵の地上攻撃機ボーファイター(米国製の新鋭機)の銃爆撃が続いていた。 寝ながらその攻撃の音を聞いていたが、何時もの攻撃とは違うように思えた。 私はこれは如何と感じ、直ぐ飛び起きて屋外に出て椰子の木に身を隠した。

    と、同時にボーファイター数機が、私が今まで寝ていた民家に機関砲の射撃を激しく浴びせかけて来た。 空を仰ぐと、何時もは一定方向から編隊で攻撃して来るのに、今日の攻撃は機数も多く数方向から編隊による攻撃であった。 私は屋外に出て良かったと思った。 あのまま寝ていたら機関砲の銃撃でやられたであろう。 勘が働いて一命を取り止めた。 これも戦闘経験を積み重ねて出来ることである。

    今日の空襲によって菊池聯隊長が戦死されたとの報が流れた。 また民家の中に居て機関砲の直撃で戦死したものが多かった。 敵は主として民家攻撃をしたようであった。 機関砲の弾が腕にでも当たると、腕はもげてしまうほどの威力があった。

    この戦闘もわが方は、聯隊長戦死等の大きな損害を受け、撤退しなければならないこととなった。 戦闘の結果は初めから分かっていることではあるが、残念にもザロッキー陣地に引き返した。 出発から 10 日以上も湿地帯で戦い、またヒルの害を防ぐため巻脚絆をしていたので、大方の将兵は両脚が膝から下はズル剥けとなり、化膿などして、これが治療に暫くの間専念しなければならなかった。湿地の水が悪いことと、長い間乾かすことなく常に濡れた衣類を肌につけていたことが原因と思われた。

    その後は戦闘も膠着状態が続き、敵は専ら空からの攻撃が主となっていた。 師団や聯隊の再編成も具体的に行われないまま、7 月末、8 月初めを迎えていた。 この頃になると、敵は空から盛んに伝単をよく撒くようになった。 伝単は日本語で書かれ写真も載っていて、広島に特殊爆弾投下、ソ連の参戦、続いて長崎にも特殊爆弾投下等のニュースを伝えてきた。

    またその外にも日本側の戦況の不利を伝え、連合軍側の勝利を伝えるものであった。 我々はこれを見て、デマも程ほどにしろと言ってはいたが、或いはという感じがしないでもなかった。

    そういう状況下にあって、前日まで飛行機も我々の上空を飛び、敵の弾も飛んできていたのに、8 月 15 日は夜明けから敵の砲撃もピタリと止り、敵機もわが陣地の上空は飛ぶが、銃爆撃を加えることは無かった。 我々はおかしいな、おかしいなと言いながら、何か大きな変化があったのだろうと話し合っていた。

    そのうちに敵機からの伝単には、日本国はポツダム宣言を受諾して、日本軍は無条件降伏をしたというニュースが書かれていた。 我々はこの様な伝単のニュースを信用することは出来なかった。 開戦以来、今日までの将兵の苦労を考えると、無条件降伏ということは何としても受け入れることの出来るものではなかった。 敵の砲撃、空襲は無くなったが、我々は従来通り薄暮に敵から火が見えない様に、また煙が目立たないように、何時もの通り注意しながら炊飯をした。

    敵の伝単は、南方軍総司令部総参謀長沼田中将が、ビルマの日本軍が無条件降伏するという降伏文書に署名した、というものまで撒かれていた。 8 月 16、17 日の 2 日間は何とも云えない不気味な状況の中で過ごしたのであった。 そうして来るべき時が遂に来たのである。 (2005-1-31 記)

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