コカイン収容所の生活(蟻が多かった)
終戦から早一年近く たっていた。 然し、帰国の話も無しに酷暑の地ビルマで裸同然の姿で、毎日毎日、英軍の辛い作業をやっていた。 そしてキャンプの移動である。 また一からやり直しである。 健康面は先述したが軍医さんが居ったので、具合が悪い時には直ぐ診てもらえたので、ある程度の安心感はあった。 歯は治療する術が無いので、奥歯など悪くなって欠けるだけ欠けて無くなってしまうのであった。 歯は健康の元であるので、これがどうにも成らなかったことは心配の種であった。
コカインのキャンプに来てよかったことは、何といってもビクトリア湖が直ぐ近くにあったことである。 酷暑の地でマンデー(水浴)が簡単に出来た。 一寸土手を越えると湖である。 一汗流して一杯、と言うわけにはいかないが、大変お世話になった。 困ったことは樹木の下に蟻の巣があり、黒い大きな蟻でかまれると大変であった。 この蟻が多いのには閉口したものである。
このキャンプにても英軍の作業は、アーロンキャンプの時とほぼ同じ作業場が多かった。 従って生活のリズムも住居地が変わっただけで、さほど大きな変化は無かった。 ただこの時期になって英軍から待望のタバコが週に 3 個(10 本入り)支給されたことである。 我々にとっては大きな出来事であった。 銘柄はネプチュン・ネイビーカットで英軍ではインド兵などに配給される普通品であった。
支給されると人間と云う生き物はまたその上の欲望を発揮して、一日一箱のタバコを吸いたいと思うようになった。 偶々、炊事場でエバミルクが食料として英軍より支給されていた。 皆の要望として、このエバミルクを現物で各自に支給することにした。 このエバミルク 1 本をバリケートの外のビルマ人にたのんで売ると 1 ルピーの現金になった。
この 1 ルピーをタバコ 4 個にするためには色々と工夫があった。 作業に出た時インド兵のキャンプの仕事に当たると、インド兵はお金が欲しいのでタバコ 4 個と交換してくれるのである。 一般的には 1 ルピーでタバコ 3 個にしかならなかった。 こんな苦労もあったのだった。
またこの頃英軍から個人用の蚊帳が支給された。 長い間、ビルマの戦線に参加して以来の願望であった蚊帳が支給されたのである。 これによって夜蚊の襲撃から解放されてゆっくり寝ることが出来るのである。 皆が待ち望んだ蚊帳、大喜びであった。 この様に英軍の我々を処遇する態度が少しづつ良くなってきたのは嬉しいことであった。
作業には毎日出かけていた。 以前と変わった事といえば、監視の英兵の数が少なくなった事と、監視が幾分緩やかになった。 それは作業場で現場監督と我々が仕事のやり方に付いて交渉を持ち、タスクワーク(task-work 割り当て仕事)といって、我々は当時請負仕事と理解していて、一定の仕事量を決め、それが終れば何時でもキャンプに帰れることにした。
仕事の終ったグループから帰るので監視の英兵も分散されて、時によっては監視の英兵が居ない時もあった。 そんな時には、兵隊はぶらぶらとラングーンの街を思い思いに歩いたものである。
然しこの仕事のやり方は、日本の兵隊の気質からいって不利であった。 仕事が割り当てられると、兵隊は一目散になって短時間のうちに仕上げようとする。 そして仕上げて早く帰ろうとする。 此処が問題で、ビルマでは休まず働かずぶらぶらして、時間を過ごすのが賢明と考えている。
案の定、翌日からは現場の監督は交渉で仕事の量を増やしてきた。 それでも兵隊は出来るだけ短時間に仕事を終りたがる。 此の交渉に預かる引率の将校は堪ったものではない、苦労は多かった。 日本人には基本的にこのように計画的でないというか、人が好いというか、甘い気質があるようである。 兵隊も段々分って来た様であった。
食糧の宝庫である貨物廠の作業には、その後も毎日、兵隊は代わる代わる行っていた。 従って、缶詰等を持ち帰る事故は何度も起きて、英軍と日本軍の間で、これの処理について話し合いがもたれていた。 然し、そうした事には関係なく、一般の兵隊はちゃんと作業をしているのに、そこから抜け出して一人ドンゴロスを担いで、これという目ぼしい物をその袋の中に入れ、これを人目を忍んで競馬場の塀の外に出すのである。
塀の外にはビルマの現地人が待ち受けていて、これを持ち去るのである。 この問題はここまでエスカレートしたのである。 英軍は裁判にかけるとか云ったようであったが、事実がどうなったかまでは承知していない。 その金で帰国する時には、背広、革靴等身の回りの品々を揃えたとか、まるで嘘の様な、本当のような噂が広がった。
英軍は 17 年のビルマ戡定作戦の時、ラングーンを放棄し敗走してインドに逃げ去った。 その時英軍は、戦死した英兵を仮埋葬していたのである。 この仮埋葬された遺体を掘り起こして墓地に本埋葬する作業があった。 英軍の作業の中で、糞尿処理の作業も最低で皆から嫌われていたが、この遺体処理の作業はそれよりももっと厭な作業であった。
と言うのもこの遺体処理作業を指揮する英軍の将校が、これまた、程度の悪いいやらしい人間であった。 我々を敗残兵扱いにし、蔑んだ目で我々を見下ろし、威張った口のききかたで指示をしていた。 我々もこの様な作業は初めてであったので戸惑ったものである。
先ず指示された場所をスコップで掘り起こし、毛布に包まれた英兵の遺体を土の中から掘り出すのである。 次に、掘り出した遺体を新しい別の毛布に丁重に移し替えるのである。 それを墓地までトラックで運び、その毛布に包まれた遺体を埋葬し、墓標を建てるのである。 この作業を朝から夕刻までやらされた日は、心身ともに疲れ果てて参ったものである。
その日の夕食にコンビーフの料理でも出ようものなら、思い出して食べられたものではなかった。 何が厭など贅沢なことは言わないが、しかし、このような作業はやりたくないと思った。 敗戦国の惨めさをつくずく味わされたものであった。 この作業は最も屈辱的なものと思い知らされた。
この他、作業は先述したように 3K のものが多く、我々は屈辱と苦労に耐えながら、日本へ帰れる日の一日も早からん事を祈っていたのである。 このコカインキャンプには英軍の「禿げ鷹」軍曹と呼ばれた有名な名物軍曹がおった。 何時も朝早くから営門の側に立って、大きな声を出して怒鳴るのである。 カムオン! カムオン! とよく怒鳴っていた。 大柄で身体に刺青をしていて、上半身裸で怒鳴ると白い肌が赤くなった。 恐らくオーストラリア人と思われた。 中々ユーモラスな人間だった。
またキャンプでは野外の娯楽として、兵隊による演劇会が時々催された。 脚本を書く者。 演劇を指導する者。 小道具、大道具、衣装、鬘などを作る者。 役者になる者。 特に女形になる者は人気があり、普段も女のような所作をしていた。 一寸した劇団であった。 キャンプにおって、よくこれだけの道具を集めたものと感心したものであった。
スポーツでは野球が盛んとなり、六大学野球の早稲田の香川投手なども居て大いに盛り上がったものである。 この様なことをしながら月日は経ち、我々の部隊もやっと帰国の順番が近くなり、昭和 22 年 6 月 1 日、コカイン収容所を後にして、アーロン乗船滞留キャンプに移動した。
アーロン乗船滞留キャンプの生活
ここは日本への帰国のための、乗船待ちの部隊のキャンプである。 従って大した作業も無かった。 帰還が近いのでキャンプの雰囲気は何か落ち着きが無かった。 何年かぶりに苦しい戦闘から解放され、終戦後、約 2 年近くの屈辱的英軍作業に耐えて、やっとこの時を迎えたのである。 皆がそわそわ、わくわくするのは当たり前のことと思った。
このキャンプに来て最も気をつけたのが健康であった。 というのも、キャンプでは既にアメーバ赤痢が流行していた。 伝染力が強く、悪性の腹痛を伴う下痢が激しい病である。 特効薬としてドイツ製の注射薬エミチンがあったが、キャンプなので中々手に入りにくかった。 それ故、キャンプ内ではこのエミチン注射薬は闇取引されていた。 タバコ幾つとか、また現金ルピーでも高値がついていたという噂は聞いた。
そうこうしているうちに、私が運悪くもアメーバ赤痢に伝染してしまった。 帰国乗船も近いというのに何と言うことかと心痛めた。 激しい腹痛とともに、絞るような下痢が激しいので、夜中に何回もトイレに行くのは苦痛であった。 早速、手島軍医に診てもらった。 幸いなことに、軍医は手持ちの注射薬エミチンを持っておられるという事で、直ぐ私にその注射をしてくれた。
エミチンは 3 クール(1 クールは 3 日うって 1 日休んだと思う)位うたないと完治はしなかった。 軍医さんのお世話で、私は乗船前にアメーバ赤痢を治すことが出来た。 今でも思い出して感謝している。 手島軍医さんは帰国後、千葉の館山医師会病院の副院長をされていたが、平成 7 年 11 月に病を得て亡くなられている。 合掌。
6 月も末になり愈々乗船が近いとのことで、身の回りの整理などをした。 所持品といっても殆んど何も無いのであるが、英軍から支給された個人用の蚊帳がある。 蚊帳は皆支給されて持っているが、乗船前に、これを現地人とタバコと交換することが通常行われていた。 持って帰っても日本では余り使うことも無いので、帰る船の中で吸うタバコという考え方のようである。 私はタバコ(10 本入り) 35 〜 36 個と交換したと記憶している。 これで身の回りの整理はついたのである。
後はキャンプの中で親しくなった人々の内地の住所などを、トイレットペーパーとして英軍から貰っていた半紙でノートを作り、これに書きつずり整理した。 このノートは大変役立ち今も保存している。 イラワジ河畔のラングーン港に我々の乗船を待つ、復員船攝津丸に我が部隊の兵がゆっくりゆっくり、船腹に垂れ下がったタラップを一歩一歩踏みしめながら昇っていった。 時に昭和 22 年 7 月 7 日ことである。