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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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私のビルマ戦記 - 9 & 10

  1. 終戦、武装解除について

    終戦という事実が我々に分かったのは 8 月 18 日であった。 その朝、重大な発表があり、「日本は天皇陛下の名において、米英連合国と停戦協定を結んだ。 ビルマ方面には、陛下の御名代として閑院宮春仁王殿下が派遣され、親しく停戦協定についてお話がある。」と、云うことであった。

    我々はこれを聞かされて、停戦協定という事で、正直! 将兵全員が「よかった、よかった。 これで助かった。 日本に帰れる。」と思ったと想像される。 事実は、日本が無条件降伏したのであるが、あの時の我々の置かれた状況からすれば、発表が無条件降伏ということであれば、我々は素直に降伏したか否かは当時の感情からは何ともいえない。

    各自は停戦協定でよかったと安堵したのであったが、ただ敵の伝単による無条件降伏なら、我々はどのように処置されるかに一抹の不安はあった。 停戦発表後も、暫くは今まで通り陣地で過ごしたが、その後、聯隊は一箇所の集落に集まった。

    戦争は一応終ったようであったが、その後どのようになるかは皆目不明であった。 皆夫々の考え方で、シンガポール位までは何とかなるのではないかとか、いやいや満州だけで、その他は皆返還せねばならないのではないか、とか、いろいろの意見を云う者がいた。 無条件降伏、ポツダム宣言なるものについて全然無知であった。

    そういうことはとも角として、現実にこれから先、我々がどのようにして生活し、何時どうやって日本に帰還することが出来るか、という議論には及ぶが、皆自分達の都合のいい考え方だけであって、結論は出なかった。 然し先はどうあれ、生きるという希望だけはお互い確かめ合ったのは事実であり、最も喜びと思ったことである。

    軍は終戦になって暇が出来たせいか、シッタン河畔に近い集合地の全く物も買えないところで、戦闘中に支払うことの出来なかった将兵の俸給を精算して軍票で支払った。 終戦近くなってからは日本軍のビルマにおける威信もがた落ちとなり、これに伴って軍票の価値もなくなっていた。

    我々は第一線で戦闘また戦闘でこの事実を知らなかったから、この時期に支給された軍票を貰ったものの、後で考えると滑稽なことであった。 然し、軍も軍で中々強かであったと思う。 この軍票も後日、武装解除後に英軍により全部没収された。

    終戦になったので部隊の再編成は無くなったが、この後は戦闘の為でなく軍の規律を保つため、聯隊の編成を建制の形に整えることになった。 そこで私は 9 月初めに、第一中隊から第一大隊砲小隊長に配置替えを命ぜられた。 第一大隊砲小隊は 3 月 5 日イラワジ河畔のイワボウの戦闘で、小隊長大倉少尉(京都・伏見の酒造月桂冠の子息)が戦死 されて以来、小隊長が不在のままであった。 聯隊はその後も内地帰還復員まで、建制のまま維持された。

    終戦になって先ず普及したのが麻雀であった。 丁度、竹藪の中で生活していたので、器用な人が早速その竹を切って牌を作り、それにインクで書いて使用した。 次いで彫刻した竹の牌を作るようになった。 終戦になってからは、此れと言って決まってやることもなく、麻雀の流行は当然の流れであった。

    そうしている内に、英軍の指示でシッタン河を渡ってその西側に移動した。 武装解除は 9 月 23 日にモパリンコールで行われた。 鉄道線路脇に設けられた武器集積所に、個人装備の三八式歩兵銃(予め、菊の御紋章は鑢で消しておいた)、軍刀、拳銃、双眼鏡、磁石等は各自が夫々集積所に持っていった。 軽機、重機等は纏めて集めた。 この武装解除によって日本軍は完全に英軍に降伏したという実感がわいてきて、万感胸に迫る思いであった。

    私はこの武装解除の時、英軍用の懐中磁石を持っていたが、何らかの疑いをかけられても困ると思いこれを出さなかった。 個人の所持品検査等はなかったが、後日、移動中にこの懐中磁石を道路脇に捨ててしまった。

    その後、我々は鉄道線路上をジープが牽引する台車に乗せられて、ペグーに近いパヤジの英軍収容所に収容された。 収容所といっても英軍キャンプの近くに張られた天幕の粗末なもので、我々が持っていた携帯天幕一枚を地面に敷きその上に寝たものである。 砂地であったせいもあり蠍が多かったのには驚いた。

    これから愈々、英軍監視の下に収容所生活が始まるのである。 私は昭和 20 年 8 月 20 日付にて陸軍中尉に昇進していた。 所謂、ポツダム昇進である。

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    ジープは終戦になって初めてお目にかかった。 普通道路を走る時はタイヤを車輪につけて走る自動車である。 然しタイヤを外して鉄道のレールの上を、牽引車として走ることには真実驚いた。 (2005-2-4 記)

  2. 英軍監視下の収容所生活(英軍作業に従事)

    1. パヤジ収容所の生活

      パヤジの英軍収容所に着いたのは 10 月 1 日であった。 此処は仮の収容所で天幕が張られているだけで、何の施設も無く雨露を凌ぐだけであった。 それでも日本軍と違って、食糧は量が少なかったが支給され、また医療施設はマラリア、疥癬等日本兵が困っていた病を治す特効薬があったことである。 流石に熱帯地方に多くの植民地を持ち、特有の病気に対する処置や特効薬の研究は進んでいたと思う。

      私はマラリアをこの特効薬の後療法で完治し、日本に帰国後も一度も再発していない。 苦しみに苦しみぬいた疥癬も、英軍から貰った軟膏の特効薬で完全に治ったのである。 パヤジ収容所には約 1 ヶ月余り居たが、この間に多くの日本兵はこの特効薬で救われたことと感謝している。

      只惜しむらくは、私の小隊の辻衛生兵長が、声門腫瘍(破傷風による)で亡くなったことである。 折角此処まで耐えて来たのに、ここで命を落とすとは誠に残念なことであった。 合掌。 此処の収容所では、特に英軍の作業は無かった。 また監視もそれ程厳しくなかったと記憶している。 日本の軍票は支給されて以来 1 ルピーも使うこと無く、ここで全額没収された。

      11 月 6 日パヤジを発って列車輸送にて、ラングーン市郊外に位置するアーロン収容所に移動した。

    2. アーロン収容所の生活(蝿と悪臭に悩まされる)

      アーロン収容所は、四方有刺鉄線で囲まれた平坦な広い土地に、ニッパ椰子の葉の屋根にアンペラで囲いをした急造の仮小屋といったものが、幾棟も並んで建っていた。 床は無く地べたに、直接我々の携帯天幕を敷いての生活となった。

      収容所(これからキャンプということにする)には衛兵所があり、此処には英軍の監視兵がおり、また周囲には監視塔もあり、四六時中監視の兵が見張りや巡回をしていた。 このキャンプの中には、我々の聯隊の兵だけで無く、他の部隊の兵も数多く収容されていた。

      食事は各部隊に炊事場があり、英軍から現物支給されたもので調理して、各隊に配分され各自に分配されるのである。 収容当初、主食として 1 日米 5 オンス、アッタ粉(小麦粉の荒い粉) 5 オンス(1 オンスは 16 分 1 ポンドで、約 28.35 グラム)、計 10 オンス(約 283.5 グラム)で、1 日 3 食顔が映る様なシャブシャブな雑炊がやっとで、常にひもじい思いばかりしていた。

      タバコは 1 年近く支給されなかった。 また蚊帳も 1 年くらい支給されなかったので夜寝るのに苦労をした。 衣服も当初は支給されなかったが、段々と歳月が経つうちに少しつつ支給されるようになった。

      キャンプでの我々の取扱は、国際法やジュネーブ条約による戦争捕虜の待遇では無く、日本降伏軍人 (Japanese surrendered personae) として国際法に抵触しない取り扱いをした。 戦争捕虜であればそれなりの制約を守らなければならないが、話し合いで出来るので英軍の方が有利なことは自明の理である。

      我々はキャンプに居ってもやることも無く、一日中空腹で食べることだけ考えていた。 そこへ英軍から作業をやる指示が来たので、直ぐそれにのって営外の作業をやるようになった。

      前日の夕刻までに作業の内容と人員ついて指示が来ると、聯隊内で、またこれを各隊に割り当てるのである。 作業種類はその時々によりいろいろであり、軽労働、重労働、今云う 3K のものが多かった。 当時は外に出て、空腹を忘れて過ごすことが第一であったので、屈辱的な作業もあったが、兵たちはこれを乗り越えて作業に従事した。

      将校に引率された一行は、英兵の監視の下、トラックまたは徒歩で作業場に行くのである。 初めは監視が厳しく、特にグルカ兵がサントリー (sentry) 監視につく歩哨を通常こういっていた)につくと、生真面目な彼等は日本人の性格を解らないせいもあるが、時には本気になって剣の着いた銃を我々に突きつけたこともあり、注意して付き合わねばならなかった。

      キャンプに来て困ったことの一つにタバコが自由に手に入らないことであった。 ビルマ人は普通「セレ」という、玉蜀黍の葉に木屑とタバコの葉を刻んだものを混ぜて包んだ物を吸っていた。 紙巻タバコは市販では高かった。 日本軍はジャワ島のチレボンで作った「興亜」を南方では配給していたが、ビルマの第一線までは来なかったようである。 従って兵隊は戦争中からタバコには不自由していた。 タバコは貴重品であった。

      このような事情にあったので、作業で営外に出た途端、道に落ちているタバコの吸殻を我先にと拾ったのである。 所謂「もく」拾いである。 これは人間としての本能であって、この置かれた環境で日本人とか日本軍の兵士とかの問題ではないと、寂しいけれどそう思った。 吸殻のタバコの中には、恐らく英軍の女の兵士が吸ったであろうと思われる、赤い口紅の付いたものもあった。

      流石に将校は面子もありこのような行動はしなかった。 然し将校も人の子、タバコを吸いたい気持ちは皆一緒、後で兵隊が工面してきたタバコのお裾分けには預っていたのである。 タバコには苦労したものである。

      英軍の作業でよく行ったのはラングーン競馬場の観客席のスタンドを、食糧等の倉庫に使っていた軍の貨物廠である。 この広大なスタンド一杯に木箱入り、ダンボール箱入りの食べ物類の缶詰が山積みされていた。 米国製、豪州製が多く南米やその他世界各国の食糧があった。 このような作業場に腹がペコペコにへった兵隊が仕事に行ったのだから堪らない。

      缶詰類は品名が全て横文字で書かれている。 兵達は作業の合間に監視の目をぬすんで、山積みされたダンボールの山の陰に隠れて缶詰の缶を開けるのである。 それが上手く直ぐ食べられるものに当たれば幸いであるが、往々にして野菜の水煮の CARROT (人参)などに当たると、兵隊さんはがっかりしてナアンーダという顔をして、また次の缶詰を開けるのである。

      最初の頃は腹が減っての出来心であったが、度重なると、これは段々見過ごすことの出来ない問題であった。 一日の作業が終ってキャンプに帰るときは、必ず英軍の所持品検査があった。 兵の中には衣類などに隠して缶詰を一つ二つ持っていて、検査に引っかかるものがいた。 英兵は怒って引率の将校に「如何してくれるんだ。」とばかり食いかかる。 当初は将校が兵を殴ることによる芝居でその場を凌いだが、これも回を重ねることにより効果がなくなった。 この問題は段々エスカレートして来た。

      タバコ類、アルコール類は特別に作られた倉庫に厳重な鍵をかけて保管されていた。 タバコは英国製のプレーヤ・ネイビカットの 50 本入りの缶入りや、葉巻等、酒類はウイスキー、ラム酒、ブランデー等、色々の種類が沢山貯蔵されていた。 勿論、兵隊達は作業で此処にも出入りしていた。 此処はこの倉庫を出る度に所持品検査は必ずあった。 それでも兵たちは巧みにも、この厳重な所持品検査をすり抜けてタバコや酒類をキャンプに持ち帰っていた。 その根性、パワーには恐るべきものがあった。

      キャンプでの食料の配給の少なさと、過酷な労働、屈辱的労働、諸々の恨みに対して憂さ晴らしをした。 それはエバミルクの缶を数個、木箱の板の先に着いた釘で孔を開けて逆さにしてダンボール箱に入れ、山積みされたエバミルクの最上段に置くのである。 数ヶ月経つとこのエバミルクのダンボール箱の山は完全に錆びて中身は腐敗しているのである。 このような悪いことも偶にはやったのである。

      この倉庫でもドンゴロスに入った小麦粉や飼料の入った 100 キロ位の重さのものを担いで、スタンドの階段を上り下がりするようなつらい作業もあった。 このほか作業は道路工事、建設現場、汚物処理等々、所謂 3K の仕事も多かった。 また我々はキャンプの住まいを改善すべく、作業所から板や木材等を貰いうけ、土間の生活から床上げして板敷きする等、自らの手で改良を加えた。

      食糧も英軍との長い交渉により段々とよくなり、米の量も一日 16 - 18 オンス位で定着した。 毎日の過酷な重労働からすれば、支給された食料は必ずしも満足するには程遠いものであった。

      我々の気晴らしの娯楽は矢張り何と言っても麻雀であった。 アーロンに来て作業に出るとチーク材があるので、これで早速牌を作り、これに本格的に彫刻を施し立派な牌ができた。 皆、盛んに遊んだものである。 また碁・将棋も材料が入るので碁盤、碁石、将棋盤、将棋の駒が幾組も作られこれも盛んにやるようになった。 花札はタバコの空き箱に図柄を書き込み、これを蝋をとかして油揚げとして、見事な花札が出来ていた。

      あれだけの数の人がいると、何でもやれることに本当に感心したものである。 私も終戦と同時に麻雀を覚え、ここで囲碁を初歩から教わり、初めは井目風鈴付きでやって頂き、段々と一目一目と強くならしてもらった。 このことは今でも感謝している。

      このキャンプで最も悩まされたのは蝿の多いことと、悪臭の酷いことであった。 しかもこれは四六時中であるので、毎日毎日の生活は本当に厭な思いで過ごしたものである。 この原因はキャンプの近くにラングーンの大規模な塵埃処理場があり、ここで発生する蝿とそこから出てくる悪臭がその源なのである。 我々がこのキャンプに居住したのは乾季であったので、特に酷く感じた。

      そのほか健康的には軍医も居ったので問題は余り無かったが、食料が少なかった頃、特に野菜が少なく、皆が便秘には悩まされた。 しかし我々は内地に何時かは帰還するという、一縷の希望を胸に抱きながらあらゆる屈辱や苦難に耐えようと努力したのである。 このような苦しい生活を続けながら、昭和 21 年 7 月 24 日、次なるキャンプ地ラングーン市ビクトリア湖畔のコカインに移動したのであった。

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