ビルマ ( 現ミヤンマー ) は大東亜戦争開始直後の昭和 17 年 1 月から、日本陸軍は軍司令官飯田祥二郎中将率いる第 15 軍(林集団)・第 33 師団(弓兵団)、第 55 師団(楯兵団)の 2 ケ師団をもって、泰緬(タイとビルマ)国境を突破して南部ビルマに進攻した。
この時、アウン・サンの率いるビルマ独立軍が日本軍と共に、この進攻作戦に参加し、3 月 8 日には首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥れた。 また、シンガポールの陥落(昭和 17 年 2 月 15 日)に伴い、日本軍は更に、第 18 師団(菊兵団)、第 56 師団(龍兵団)の 2 ケ師団を海路ラングーンに上陸させ北進を開始させた。
当時の敵は、英第 1 ビルマ軍団(2 ケ師団と 1 戦車旅団)と中国遠征軍(約 10 ケ師団)であり、現地人の話によると、ボロボロの軍服を着た日本軍が攻めて来ると、イングリ(英印軍をビルマ人はそう呼んでいた)は為すすべもなく、ただ敗走したと言っていた。 昭和 17 年 5 月末にはこれ等の敵をビルマ国外に撃退しビルマ戡定作戦は終了した。
戡定作戦終了後のビルマは、比較的平穏に見えたが、インドおよび中国を基地とする米英空軍の飛躍的な増強、東部インドの航空基地の拡大、ビルマに対する空襲の激化、援蒋空輸量の増大等により、連合軍反攻が濃厚になってきた。
その後 11 月末にはアキャブ地区に対する英軍の反攻、18 年 2 月中旬には北ビルマ、ミイトキーナ鉄道沿線シュエボーカレワ地区に、ウインゲート旅団による襲撃などがあり、日本軍はビルマ防衛力の強化が焦眉の急となり、18 年 3 月 27 日新たにビルマ方面軍(森方面軍)が編成された。
然し、その後終戦まで、日本軍はビルマで英印軍・中国遠征軍との長い長い泥沼の戦争(負け戦)へと突き進むのである。 では、何故に日本軍は日本より遥かに遠い遠いビルマの地に軍を進めたのであろうか?
主たる目的としては、援蒋ルート(支那の蒋介石軍の戦闘を援助するため米・英が軍需物資を輸送する道路)であるレド公路(北東印度のレドから北ビルマを経て中国の雲南へ通じる道路)を、日本軍が確保しこれを遮断することであった。
付随して考えられることは、かの有名なインパール作戦の目的の一つとなった、スバス・チャンドラ・ボーズ率いる印度国民軍の印度進攻を達成させ、チャンドラ・ボーズによる印度独立(当時印度は英国の植民地)の野望を遂げさせること。
余談になるが、インパール作戦は広大なるビルマの防衛が、当時の日本軍だけの勢力では、到底連合軍の反抗を阻止することは出来ないので、むしろ攻勢をとり、連合軍反攻の策源地インパールを覆滅するのが最良の方策であろうと考えるようになった。 然し、この方策は第 15 軍(林集団)牟田口廉也中将軍司令官の表向きの目的であって、本来の目的は作戦をやらんが為の作戦であったのではなかろうかと、私には思われます。
その理由は、
制空権は完全に敵に握られていた。
インパールまでの行程は山腹の山道であり、途中チンドウイン河(雨季になると水量が増し大河となる)、険峻な二千メートル級の山々が続くアラカン山脈があり、不毛地帯であるので兵站(戦場の後方にあって食糧・弾薬などの軍需品を補給するための機関)は通常の二倍が必要とされるに、作戦中、食糧・武器弾薬・医薬品・まして衣服等の補給は殆ど為されなかったと思われる。 聞くところによると、食糧・弾薬・医薬品等などインパールにありとして、軽装備にて食糧も約 30 日分位しか携行しなかったようである。
この作戦自体、計画当初からその成功を危惧される方々もおられ、作戦に慎重派と見られた当時の第 15 軍の参謀長小畑信良少将は更迭された。
作戦は昭和 19 年 3 月 8 日から一斉に行動を開始し、3 月 15 日にはチンドウイン河の奇襲渡河に成功し、烈(第 31 師団)はコヒマに、祭(第 15 師団)主力はインパールに向かい、弓(第 33 師団)はトンザンに向かい、夫々アラカンの峻険を越え突進を開始した。 然し、天長節(4 月 29 日)までにはインパールを陥落するという目標も達成できないまま死闘を繰り返していた。
この間、15 軍司令部と、各師団司令部に統帥上の軋轢があったようで、5 月以降、弓兵団第 33 師団長柳田元三中将の解任があり、かの有名な「抗命」の烈兵団第 31 師団長佐藤幸徳中将の戦線放棄、また祭兵団第 15 師団長山内正文中将の病状悪化による解任など、作戦開始時の 3 師団長に解任等の、通常では考えられないことが起こったのである。 この作戦が如何に無謀なものであったかを如実に物語るものと思われる。
これ等の目的を達成させるために、日本軍は昭和 20 年 8 月 15 日の終戦に至るまで、ビルマ方面軍(森)として第 15 軍(林集団)、第 28 軍(策集団)、第 33 軍(昆集団)の 3 ケ軍を編成し、これに 10 ケ師団、1 飛行師団、3 ケ混成旅団他を配し、実に合計 328 千余名の兵員を動員したのである。 このうち戦没者は 190 千余名の多数となり、生還者は 137 千余名となっている。
これだけの多数の兵力を動員し、これだけ多数の犠牲者を出したビルマ作戦の失敗の責任というか、戦争責任は誰がとったのであろうか? 確かに終戦当時の方面軍司令官であった木村兵太郎大将は、A 級戦犯者として極東国際軍事裁判で処刑されています。 しかし、その他の作戦指導者は解任、転属等で日本内地に無事帰還され昇進された方々も多数おられると聞いています。
ビルマ戦線だけでも以上のような数字が挙げられています。 この様な戦略が何処で、誰によって計画され、作成され、どんな戦争指導者(国家の為政者)の決定により、実施が下命されたのであろうか? 現在の私たちの常識を遥かに超えたものです。 教育・訓練というものの恐ろしさと、制度のあり方と、それによる戦争指導者(国家の為政者)の施策が如何に重要なものであるか、を深く考えさせられます。