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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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ビルマ戦記 - 1 〜 4

ビルマ戦記 - 1 (2002-9-11 発信)

戦況は第二大隊と並進のかたちをとっていた第三大隊においても酷似した苦戦の様相となった。 第三大隊第三機関銃中隊小安歸一少尉は ・・・

「ちょうど第十一中隊の十数名の将兵が、くぼ地になったところを全員一列で、通りかかったとき突如、前方の敵(英印軍)陣地から、猛烈な機銃(チェコ重機関銃)の掃射を受けた。 自分があっという間もなく、眼前の市原広次少尉をはじめとする第十一中隊の隊員がほとんど将棋倒しになるのを見た。 自分もその瞬間、身を伏せていた。

我々は夜明けと同時に敵の陣地の背後をついたのであったが、我々の突撃よりもはやく敵の方が機銃で射撃を開始した。」

「この第十一中隊の全滅に近い状況を前に、自分は重機(九二式重機関銃)による攻撃を加えるしかないと判断し、百メートルほど前方の敵陣を掃射すべく重機を据えるや、すぐに撃ち方を命じた。

その重機が順調な発射音を響かせはじめた直後、まだ一連(三十発の弾をはめ込んだ真鍮板)も撃ち切らないうち、射手の細見光成上等兵が敵弾を顔面に受けた。 その刹那、細見上等兵は鼻と口からすさまじい血をふき出し、がっくりと傾いた頭部の鉄かぶとが重機の銃身にカチッとあたった。 射撃はすぐに代わりの兵士が続行したが、敵からの銃火は一層に激しくなるばかりで友軍の損害は急速に増えはじめた。

すぐ横を見ると中隊長高野問一郎中尉が小銃隊のやられて放りなげられた小銃を拾って応射中だった。 自分も同じように小銃を拾って射撃をしようと、すぐ近くの小銃をつかんだ刹那、頭部に言いようも無い衝撃をうけた。 自分はその場に昏倒した。」

この小安少尉を倒した銃弾は、彼の鉄かぶとの正面に二個の弾孔を刻み、その鉄かぶとの後方はざくろの裂け口のごとく破られていた。 そして、前方からの銃火はなおも執ように標的を求めていたのか、この頭部の衝撃で昏倒した小安少尉がようやくにして我にかえり再び、体を動かそうとした直後、さらに新たなる一弾が彼の右大腿部をかすめた。

彼は急ぎその場にて擦過傷口を三角巾で包むべく仮包帯にかかった。 小安少尉は彼我双方の激しい撃ち合いの間、さらに右大腿部に盲貫銃創の重傷を負って大隊本部にて軍医の治療を受けつつあった。

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私のビルマ戦記 - 1 は、私たちのビルマ戦記、「安」歩兵第百二十八聯隊回想録を京都新聞社の久津間保治さんが読まれて「防人の詩」の「ビルマ編」として執筆編著されたものからの引用です。 原本は私たち戦友が原稿を書いて出版したものです。 これは昭和 19 年 11 月 14 日払暁、北ビルマのピンウエイの戦闘の一部で私が経験したものです。

私は今年 10 月で 81 歳になります。 SSM の総会(幕張パソコン教室幕張メデイアサーフインのメールグループ)に出席した際、小安さんの終戦時はときかれ、ビルマのシッタン河畔のザロッキーです、とお話しました。 それならメールで戦記でも書かれたら、とのご希望もありました。

然しそうは言われても、戦記をメールで書くことはなかなか大変なことです。 私は戦争経験者として、戦争には絶対反対です。 しかし世界からは紛争・戦争は無くなったことがありません。 どうしたら真に平和な世界ができるのでしょうか? 私の拙い戦記でもお読みいただく奇特な方がおいででしょうか ・・・


ビルマ戦記 - 2 〜 4 (2002-10-20 / 10-27 / 12-7 発信)

ビルマ戦記は書き出すと長編になってしまいますので、まず私がビルマで戦争を体験して感じたことを色々と書いてみたいと思います。

  1. 日本陸軍は昭和 12 年 7 月 7 日の盧溝橋事変以来、支那全土、仏印、さらには昭和 16 年 12 月 8 日に米英等の同盟国に宣戦布告し、マレー半島、シンガポール島、蘭領インド(現在インドネシア)、ニユーギニア、および近隣の諸群島と、タイ国、ビルマまで戦線を拡大し、戦争に勝つ自信があったのであろうか? また如何にして終戦処理をしようとしていたのであろうか?

    今現実の問題として考えてみるだけで、余りにも規模壮大(無限大といっても過言では無いと思われる)で、当時の国際情勢と、時の勢いとはいえ、無謀にもよくこれだけのことをやったなあと憤りを感じます。

    この戦争により数百万人の尊い人命を失い、また国土を焼失する等の犠牲を払ったことを代々忘れないことと、関係諸国とその国民にも筆舌にて言い表すことの出来ない犠牲を強いたことを率直に認め、深く深く謝りお詫びし、再びこのような戦争を起こさないことを誓いたいと思います。

    国の為政者は、戦争は絶対やってはならないものと肝に銘じ、あくまで話し合いによる外交をトコトン尽くすべきと思います。 そうは言っても古今東西無くならないのがこの戦争です。

  2. ビルマ ( 現ミヤンマー ) は大東亜戦争開始直後の昭和 17 年 1 月から、日本陸軍は軍司令官飯田祥二郎中将率いる第 15 軍(林集団)・第 33 師団(弓兵団)、第 55 師団(楯兵団)の 2 ケ師団をもって、泰緬(タイとビルマ)国境を突破して南部ビルマに進攻した。

    この時、アウン・サンの率いるビルマ独立軍が日本軍と共に、この進攻作戦に参加し、3 月 8 日には首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥れた。 また、シンガポールの陥落(昭和 17 年 2 月 15 日)に伴い、日本軍は更に、第 18 師団(菊兵団)、第 56 師団(龍兵団)の 2 ケ師団を海路ラングーンに上陸させ北進を開始させた。

    当時の敵は、英第 1 ビルマ軍団(2 ケ師団と 1 戦車旅団)と中国遠征軍(約 10 ケ師団)であり、現地人の話によると、ボロボロの軍服を着た日本軍が攻めて来ると、イングリ(英印軍をビルマ人はそう呼んでいた)は為すすべもなく、ただ敗走したと言っていた。 昭和 17 年 5 月末にはこれ等の敵をビルマ国外に撃退しビルマ戡定作戦は終了した。

    戡定作戦終了後のビルマは、比較的平穏に見えたが、インドおよび中国を基地とする米英空軍の飛躍的な増強、東部インドの航空基地の拡大、ビルマに対する空襲の激化、援蒋空輸量の増大等により、連合軍反攻が濃厚になってきた。

    その後 11 月末にはアキャブ地区に対する英軍の反攻、18 年 2 月中旬には北ビルマ、ミイトキーナ鉄道沿線シュエボーカレワ地区に、ウインゲート旅団による襲撃などがあり、日本軍はビルマ防衛力の強化が焦眉の急となり、18 年 3 月 27 日新たにビルマ方面軍(森方面軍)が編成された。

    然し、その後終戦まで、日本軍はビルマで英印軍・中国遠征軍との長い長い泥沼の戦争(負け戦)へと突き進むのである。  では、何故に日本軍は日本より遥かに遠い遠いビルマの地に軍を進めたのであろうか?

    主たる目的としては、援蒋ルート(支那の蒋介石軍の戦闘を援助するため米・英が軍需物資を輸送する道路)であるレド公路(北東印度のレドから北ビルマを経て中国の雲南へ通じる道路)を、日本軍が確保しこれを遮断することであった。

    付随して考えられることは、かの有名なインパール作戦の目的の一つとなった、スバス・チャンドラ・ボーズ率いる印度国民軍の印度進攻を達成させ、チャンドラ・ボーズによる印度独立(当時印度は英国の植民地)の野望を遂げさせること。

    余談になるが、インパール作戦は広大なるビルマの防衛が、当時の日本軍だけの勢力では、到底連合軍の反抗を阻止することは出来ないので、むしろ攻勢をとり、連合軍反攻の策源地インパールを覆滅するのが最良の方策であろうと考えるようになった。 然し、この方策は第 15 軍(林集団)牟田口廉也中将軍司令官の表向きの目的であって、本来の目的は作戦をやらんが為の作戦であったのではなかろうかと、私には思われます。

    その理由は、

    1. 制空権は完全に敵に握られていた。

    2. インパールまでの行程は山腹の山道であり、途中チンドウイン河(雨季になると水量が増し大河となる)、険峻な二千メートル級の山々が続くアラカン山脈があり、不毛地帯であるので兵站(戦場の後方にあって食糧・弾薬などの軍需品を補給するための機関)は通常の二倍が必要とされるに、作戦中、食糧・武器弾薬・医薬品・まして衣服等の補給は殆ど為されなかったと思われる。 聞くところによると、食糧・弾薬・医薬品等などインパールにありとして、軽装備にて食糧も約 30 日分位しか携行しなかったようである。

    3. この作戦自体、計画当初からその成功を危惧される方々もおられ、作戦に慎重派と見られた当時の第 15 軍の参謀長小畑信良少将は更迭された。

    4. 作戦は昭和 19 年 3 月 8 日から一斉に行動を開始し、3 月 15 日にはチンドウイン河の奇襲渡河に成功し、烈(第 31 師団)はコヒマに、祭(第 15 師団)主力はインパールに向かい、弓(第 33 師団)はトンザンに向かい、夫々アラカンの峻険を越え突進を開始した。 然し、天長節(4 月 29 日)までにはインパールを陥落するという目標も達成できないまま死闘を繰り返していた。

    この間、15 軍司令部と、各師団司令部に統帥上の軋轢があったようで、5 月以降、弓兵団第 33 師団長柳田元三中将の解任があり、かの有名な「抗命」の烈兵団第 31 師団長佐藤幸徳中将の戦線放棄、また祭兵団第 15 師団長山内正文中将の病状悪化による解任など、作戦開始時の 3 師団長に解任等の、通常では考えられないことが起こったのである。 この作戦が如何に無謀なものであったかを如実に物語るものと思われる。

    これ等の目的を達成させるために、日本軍は昭和 20 年 8 月 15 日の終戦に至るまで、ビルマ方面軍(森)として第 15 軍(林集団)、第 28 軍(策集団)、第 33 軍(昆集団)の 3 ケ軍を編成し、これに 10 ケ師団、1 飛行師団、3 ケ混成旅団他を配し、実に合計 328 千余名の兵員を動員したのである。 このうち戦没者は 190 千余名の多数となり、生還者は 137 千余名となっている。

    これだけの多数の兵力を動員し、これだけ多数の犠牲者を出したビルマ作戦の失敗の責任というか、戦争責任は誰がとったのであろうか? 確かに終戦当時の方面軍司令官であった木村兵太郎大将は、A 級戦犯者として極東国際軍事裁判で処刑されています。 しかし、その他の作戦指導者は解任、転属等で日本内地に無事帰還され昇進された方々も多数おられると聞いています。

    ビルマ戦線だけでも以上のような数字が挙げられています。 この様な戦略が何処で、誰によって計画され、作成され、どんな戦争指導者(国家の為政者)の決定により、実施が下命されたのであろうか? 現在の私たちの常識を遥かに超えたものです。 教育・訓練というものの恐ろしさと、制度のあり方と、それによる戦争指導者(国家の為政者)の施策が如何に重要なものであるか、を深く考えさせられます。

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