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私のビルマ戦記 - 小安歸一さん

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ビルマ戦記 - 2 〜 4 (続き)

  1. ビルマの日本軍は何故敗れたか?

    1. 先ず第一に挙げられるのが、日本軍は精神面(大和魂)を重視し、後方支援による補給を軽視した。 これに反し、連合軍は兵員の生命を第一とし、物量による攻撃は我が方の想像を遥かに超える徹底したものであった。

    2. ビルマの制空権は完全に連合軍が握っていた。

    3. 敗戦の原因を深く突詰めることは大変困難であるが、私見として考えられることは、

      1. 戦略・作戦計画の杜撰なこと。

      2. 軍として実戦訓練の不足・不徹底。

      3. 兵器・火砲・戦車・航空機・輸送機器等、何れを比較しても雲泥の差がありすぎた。

      4. 第一線部隊の地図の不足、情報の不足等々、数え挙げれば限りが無いほど、全てのことに格段の差が歴然としていた。

      5. 最も重要なことは、戦争指導と言うか作戦指導に失敗した責任者の責任の取り方が極めて曖昧であった。

    確かに、大東亜戦争は緒戦から日本軍は破竹の勢いで連合軍を破り、一時期はシンガポール・ビルマ・蘭領印度諸島(現インドネシア)・ニューギニア(パプア)島およびその近海の諸群島まで戦線を拡げ、オーストラリアまで攻撃するような勢いがあった。 それが、海軍のミッドウエイ近海の航空戦、続いての海戦で米軍に苦杯を喫して以来、ガダルカナル島・パプア島東海岸・その近海諸群島等が次々と連合軍の反攻を受け完全に負け戦となった。 ビルマに於いてもまた然りであった。

    これ等の敗因を具体的に記述してみると、

    1. 私が所属することになる京都伏見の歩兵第 128 聯隊は、昭和 19 年 5 月初旬、北ビルマのモール付近の緒戦にて、ウインゲート少将率いる空挺兵団と戦闘し致命的な損害を被った。 聯隊は昭和 18 年 12 月動員にて編成され、同月中に内地を出発し輸送船にて、上海を経由し当時仏印のサイゴンにて待機中であった。 それがビルマの戦況が悪くなり、急遽ビルマ戦線に投入されたのであった。

      編成は現役兵(戦争未経験)と召集兵(支那事変経験者と戦争未経験者)により為されていた。 編成後の訓練も十分とは言えず、装備も 38 式歩兵銃、擲弾筒、94 式軽機関銃、92 式重機関銃、歩兵砲(大隊砲)、対戦車砲(速射砲・機動砲)、聯隊砲(42 式山砲)の火器からなり、重火器・弾薬の輸送は駄馬・挽馬(日本の馬)により行われた。

      支那事変で中国軍を相手に戦った装備とほぼ同じである。 火器はともかくとして、重火器を輸送するのに動物である日本馬を使うとは、如何なる発想から出てきたものであろうか。

      動物はご承知のように先ず食料が欠かせない。 気候風土に敏感であり、それ自体の輸送が大変である。 案の定、日本馬は第一線に着くまでに全滅となった。 その後の重火器の輸送は兵員による人力搬送が主で、時には現地の牛や牛車により行われたこともある。

      長途の困難な移動と、旧式な装備を以って、悪疫瘴癘(第一線に到着するまでにデング熱や悪性のマラリヤに殆どの兵員は罹っていた)の地北ビルマで、強固な蜂の巣陣地を構えた英印軍に日本軍特有の肉弾突撃戦を繰り返したのであるから、犠牲の大きかったことは想像以上のものであった。

      後方からの補給は悪く、第一線の将兵の食糧として籾が配られ、将兵はその籾を鉄棒に入れ円匙(スコップ)の柄の丸い先にて搗き、生米のまま食べたと言う話も聞いている。 此れに引き換え英印軍は、空挺部隊で敵中に陣地構築をしたので、後方からの補給は輸送機にて自軍の頭上に飛来し、食糧・医薬品・弾薬など色分けされたパラシュート降下によるものであった。 尤も、日本軍もそのお裾分けを受けたものもある。

      この様に大和魂を前面に出した突撃戦法と、これでもかこれでもかという大量な物量による戦法とでは、自ずから勝敗は決まっていたのである。

    2. 次に制空権の掌握が近代戦の勝敗を決する。

      私がビルマ戦線に参加した昭和 19 年 7 月以来、20 年 8 月 15 日の終戦までの 1 年余の間、友軍機を只の一度も見たことが無かったのである。 即ち、当時ビルマの制空権は完全に米英軍に掌握されていたことになる。 主要な輸送機関である鉄道もマンダレー以北の橋梁は、サガインの大鉄橋をはじめとして殆どの鉄橋は空爆により破壊されていた。

      また主要道路も、夜間だけ走る限られた友軍のトラックを襲う、街道荒しの異名をとるボーイング B25 双発中爆撃機の機銃掃射と爆撃により危険極まりないものであった。 ビルマ上空に飛来した米英の航空機はロッキード P38 双胴戦闘機・コンソリデイーデット B24 四発重爆撃機で、終戦直前に英軍地上攻撃機ビューファイター(ボーファイター)が出現した。

      昭和 20 年 7 月 10 日、シッタン河畔のデルタ地帯での、ビューファイター(ボーファイター)による空中からの機銃掃射は敵ながら中々見事な攻撃で(今だから言えることで、正直、私もこれは遣られたと思った)、地上に於ける日本軍の損害は非常に大きかった。 (聯隊長菊池大佐も大腿部に受傷し亡くなられた。 ご冥福をお祈りします。)

      この攻撃は今までに経験したことのない凄まじいもので、地上攻撃機による数方向からの同時攻撃で、機上から発射された機関砲の弾がビュンビュンと私の身に迫り、真に恐怖を身近に感じたものであった。 今でもその時の情景がはっきり眼前に浮かんでくる。

      また夜が明けると共に、英印軍の偵察機は今日もまた我々の陣地の頭上に飛来し、低空でブルンブルンという嫌らしい偵察機特有のエンジン音をたてながら、迫撃砲の弾着の修正を日暮れまで終日行うのである。 英印軍の地上における攻撃の特徴は日本軍を発見すると、先ず迫撃砲で一時間以上、わが陣地に、これでもかこれでもかと言うほど迫撃砲弾を打ち込むのである。

      ところがこの迫撃砲はなかなか上手く当らないので、ついには偵察機のお世話になる。 これも制空権を完全に掌握しているから出来る作戦である。 因みに、迫撃砲は炸裂音が凄まじく、弾の破片は先が尖り大小になって四方八方に広く飛び散るので、迫撃砲弾破片創(きず)は中々厄介な怪我であり、時には人命を奪うこともある。 破片はギザギザで肉体に突き刺さると戦場での処置は困難であった。

    3. 戦力・戦略の不備

      1. 戦略・作戦計画の杜撰

        インパール作戦に見られるように、作戦計画そのものは、周到な計画が練り上げられ、図上作戦も何度も繰り返されたと聞いてはいる。 然し、実戦そのものは前述のとおり 3 個師団からなる兵力を十分に活用できる態勢で発進したのであろうか? 準備不十分のまま弾薬・食糧はインパールにありとして、後方補給の兵站を疎かにした作戦が始めから成功するはずも無い無謀なものであったと思われる。

      2. 軍として実戦訓練の不足・不徹底

        内地で動員が発令され新しい部隊が編成されて、新部隊として十分な教育・実戦的訓練が為されない内に、海外に派遣され長途の困難な種々の輸送経路を辿り、第一線に投入されるのである。 輸送中内地と気候風土の違いにより或る者は病にたをれ、或る者は体調を崩し第一線に着くまでに、部隊は兵力的に相当消耗している。 悪疫瘴癘の地、北ビルマでは、殆どの将兵はデング熱・悪性マラリアに罹っていた。

        事実、ビルマ戦に於いて、後方よりの武器弾薬・食糧・医薬品の補給は殆ど皆無に等しかったが、将兵の補充は、昭和 19 年 9 月頃、北ビルマのモーハン陣地構築時に相当数(約 700 人位)あった。 この中に昭和 18 年徴集の若々しい現役兵が相当数いた。 彼等は現役兵として京都伏見の歩兵聯隊(我々の原隊)に入隊し、第一期の初年兵教育(3 ヶ月間)を受け、戦艦大和に便乗してシンガポール経由にてビルマの第一線に到着したとのことであった。

        逞しく若々しく見えた現役兵であったが、北ビルマの気候風土、劣悪なる居住環境、後方よりの補給無き食糧(米と岩塩とジャングル野菜、時には牛肉もあった)事情等により、マラリア、脚気、栄養失調などに罹り体調を崩す者が多かった。

        また、2 ヶ月余かかって構築した掩蓋陣地も、19 年 10 月下旬、英印軍の攻撃により多方面の陣地が突破されたので、2 〜 3 日の防御で放棄せざるを得なくなり、転戦(退却)命令で後退した。 私が所属したのは機関銃中隊で 92 式重機関銃が僅か一挺ではあったが、運搬は銃身(約 30 キログラム)、脚(約 30 キログラム)に分解し、兵員による人力搬送であった。

        また、弾薬は 20 連(一連は弾 30 発が真鍮板の保弾板にはめ込んである)が頑丈な木函(弾 600 発重さ約 26 キログラム)に入っており、背嚢の上に担ぐのは中々大変である。 (通常は駄馬が搬送する。) 現役兵の初年兵は戦場は始めてであり、行軍の訓練も不足しており、夜間で且つ道路が悪い条件の中でもあり、落ちる者(落伍者)が出たのは当然であった。 然しここは戦場である。 行軍中落ちると言うことは死または捕虜を意味する重大なことである。

        僅か 3 ヶ月しか基本訓練を受けていない初年兵を、当時のビルマの第一線に戦力として送り込んでくる軍首脳部の計画の無さが問題であり、此れでは到底米英軍に勝つことは出来ない。 敗因の一つである。

        事実、私たちが前橋陸軍予備士官学校で受けた教育・訓練でも精神面が重視され、実戦的訓練が不十分であることを強く感じた。 最近テレビニュースで米軍の実戦訓練の有様が放映されるのを見ると、さすが物量豊かな米軍の真に迫った訓練だと感じる。 この訓練が日本軍では徹底されていなかった。

                          
      3. 軍の装備に雲泥の差があり過ぎた。

        種 類日 本 軍米 英 軍
        38 式歩兵銃自 動 小 銃
        戦 車中 戦 車M3/M4 戦車
        航空機な しP38B、25B 24 偵察機、輸送機

        物量の差は問題にならぬ程であり、初めから喧嘩にならない戦争であった。 我が軍が一発撃つと、お釣りに迫撃砲弾が一時間から二時間、時にはそれ以上飛んできた。 物量の輸送、兵員の輸送等に於いても機械化されたものと、人力によるとでは問題にならないことである。 昭和 20 年に入ると戦車攻撃による中央突破が行われ、メークテーラ付近はこの犠牲になっている。 これも物量による制空権を握っているから出来る戦闘である。

         
      4. 地図・情報の不足。

        私たち見習士官が、昭和 19 年 7 月 1 日当時のラングーンのビルマ方面軍司令部にて、第 53 師団に転属命令を受けた後、当師団が北ビルマにて戦闘している地域の地図を数枚受領した。 その地図は英国製で 13 万 5 千分の 1 であった。 中々緻密でよく出来ていたと思ったものである。 然し、時日の経過と共に地図には無い地域に移動し戦闘をしていた。 即ち、我々は地図も無しに命令されるままに戦闘をしていたのである。 今考えても無謀そのものであつたと思う。

        20 年 4 月 10 日頃、中ビルマのキャウセから転進していた部隊は、日暮れ直前にカロー街道に到着した。 到着と同時に休む暇も無く私は聯隊本部に呼ばれた。 重機関銃の搬送も手伝っていたので、体は相当草臥れていた。 本部に行くと各大隊から将校斥候を出すと言う命令であった。

        将校斥候は通常小銃中隊から出ており、機関銃中隊からは出ていなかった。 然し、若い将校が少ないので重機中隊の私に命令が来たのである。 命令は下士官以下数名の兵を率いて、カローから西約 40 キロの地点にあるパヤガス付近の敵情を偵察し、明朝までに本部に報告せよとのことであった。

        命令受領後、本部で 25 万分の 1 の地図を見せてもらい概略を模写した。 (聯隊には、この地図は一部しか無かったのである。) 斥候に出て暫くして第 53 師団の三宅少佐参謀と会い、何処へ行くのかと尋ねられた。 これからパヤガス迄斥候ですと答えると、「ご苦労! 地図は有るのか?」と言われたので、「聯隊本部で見て写してきました。」と答えたら、参謀は図嚢から地図を取り出し私に見せてくれた。

        その地図は 5 万分の 1 で本部で見たものよりは、より詳しく記されており、目的地までは一枚の地図では間に合わず二枚にわたっていた。 戦争をやるのに地図が第一線の士官に渡っていないこと。 また私たちに分かっているのは、目の前の状況・戦況だけで、自分たちの中隊・部隊が全ビルマの如何なる立場におかれているか等の情報は皆目わからなかった。 井の中の蛙大海を知らず、と言う立場で戦争をしていたのである。

        実情は情報よりその日その日の食べ物や、今日、明日を如何に生き抜くか目先のことに心を砕いていたのである。

      5. 戦争指導・作戦指導の責任者の責任の取り方が極めて曖昧であった。

        作戦計画の実施発動についても、夫々上級軍司令部、例えばインパール作戦は第 15 軍司令部からビルマ方面軍司令部に上申し、方面軍司令部は作戦計画の可否を判断の上、南方軍総司令部に上申される。 総司令部にても上申の可否を検討の上大本営に上申され、御前会議を経て天皇陛下の裁可が下りるのである。

        実際面では、計画の段階で軍・方面軍・総軍の参謀・参謀長・総参謀長・総副参謀長等と軍司令官も加わり作戦計画の検討、また図上作戦を繰り返し実施して事前の確認は行われるのである。  この様にして裁可された作戦は現地軍司令官により、作戦命令が出されるのである。

        インパール作戦は不調に推移し、終結を迎えたときも上記の上申の順序により、ご裁可を得て撤退したと聞いている。 この作戦の現地責任者である第 15 軍司令官牟田口廉也中将は、第 15 軍司令官を解任され内地帰還となり、帰国後、軍の要職に就いたと聞いている。 また当時ビルマ方面軍の最高責任者である軍司令官河辺正三中将も内地に帰還の上、大将に昇進され、これまた軍の要職に就いたと聞いている。

        当時の軍の司令官は雲の上の方々であられたから、責任はあってもその責任の取り方が極めて曖昧・不明瞭なものであった。

        ビルマ方面軍で約 19 万余の戦死・戦傷病死者を出している。 私が推測すると銃弾や爆撃による戦死者よりも、戦傷病死者(病に倒れたもの・落伍し往き倒れになったもの・戦傷者が後方の野戦病院等に収容される前に餓死した者等)の方が多いのではないかと思われる。

        昭和 19 年 7 月 〜 8 月、私たち見習士官は、第一線を目指してマンダレーからサガインに行き、イラワジ河を渡り、そこから鉄道で台車に乗り、メザまで割合早い時間で行ったと記憶している。 メザ河のつり橋を渡ってからは鉄道線路上を只管徒歩で北進した。

        雨季に入っており、枕木から枕木とへと歩を進めるのであるが、足を滑らし転んだことも度々あった。 また、夜行軍で先が見えず線路上を歩いていると、突然ぐにゃっとしたものを踏んだ。 よく見るとそれは何と友軍の兵隊の死骸であった。 行き倒れになりそのまま息を引き取ったものと思われた。

        その頃から、鉄道の駅舎近くになると異臭が鼻を突くようになった。 駅舎付近には真っ黒に蝿がたかり蛆がうようよしている死骸が、数え切れないほど散乱しているではないか。 また疥癬にでも罹っているのだろうか顔から足まで黒くただれ歩くのも儘ならぬ体で、ボロボロの汚れた服装で、「兵隊さん兵隊さん食べ物を下さい。」と、空の飯盒を差し出して物乞いをする見るも無残な哀れな兵隊が数人居たのには驚いた。

        これが皇軍と言われる軍隊の兵であろうかと目を疑った。 これが第一線の裏舞台かと気が引き締まる思いがした。 後日、ここが北ビルマの白骨街道であることを知らされた。

        この様な状態はビルマの戦場では何処でも見られた惨状である。 勝ち戦なら後で戦場を整理することも出来るが、負け戦ではそれも出来ず、そのまま放置されたのが実情である。 戦争には、これらのことは付きものと思われるが、軍上層部の責任はどうなるのであろうか。

        内地では英霊として靖国神社に神とし祭られているが、大いなる疑問を感ぜざるを得ない。 亡き英霊のためにも、日本国いな全世界から戦争と言うものが無くなる様にしなければならぬと思う。

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結び〉 私が下級将校として実戦約 1 年 2 ヶ月と終戦後約 2 年の収容生活をビルマで経験し、内地復員後各種戦記本を読んで、経験したことと書物を読んで得た知識とを元として、感じたことを書きました。 記述に事実と異なることや、間違って見ている事もあるかも知れません。 この点、若しありましたらお許し下さい。

然し戦争と言うものは非常に酷いもので、絶対にやってはならぬものであることを、声を大にして申し上げる次第である。 湾岸戦争も、あの年の 1 月 15 日、ジュネーブで、イラクの当時のアジス外相が平和を受諾することを私は願っていた。 残念ながら不調に終わり、湾岸戦争は行はれた。 今またアメリカによりイラク攻撃が行われるような国際情勢にある。 私は話し合いにより解決し、戦争にならないことを祈る次第である。

拙い私のビルマ戦記をお読み頂き有難うございます。 何れ日をあらためて個々の続編を書きましょう。 ひとまず終わります。

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