戦略・作戦計画の杜撰
インパール作戦に見られるように、作戦計画そのものは、周到な計画が練り上げられ、図上作戦も何度も繰り返されたと聞いてはいる。 然し、実戦そのものは前述のとおり 3 個師団からなる兵力を十分に活用できる態勢で発進したのであろうか? 準備不十分のまま弾薬・食糧はインパールにありとして、後方補給の兵站を疎かにした作戦が始めから成功するはずも無い無謀なものであったと思われる。
軍として実戦訓練の不足・不徹底
内地で動員が発令され新しい部隊が編成されて、新部隊として十分な教育・実戦的訓練が為されない内に、海外に派遣され長途の困難な種々の輸送経路を辿り、第一線に投入されるのである。 輸送中内地と気候風土の違いにより或る者は病にたをれ、或る者は体調を崩し第一線に着くまでに、部隊は兵力的に相当消耗している。 悪疫瘴癘の地、北ビルマでは、殆どの将兵はデング熱・悪性マラリアに罹っていた。
事実、ビルマ戦に於いて、後方よりの武器弾薬・食糧・医薬品の補給は殆ど皆無に等しかったが、将兵の補充は、昭和 19 年 9 月頃、北ビルマのモーハン陣地構築時に相当数(約 700 人位)あった。 この中に昭和 18 年徴集の若々しい現役兵が相当数いた。 彼等は現役兵として京都伏見の歩兵聯隊(我々の原隊)に入隊し、第一期の初年兵教育(3 ヶ月間)を受け、戦艦大和に便乗してシンガポール経由にてビルマの第一線に到着したとのことであった。
逞しく若々しく見えた現役兵であったが、北ビルマの気候風土、劣悪なる居住環境、後方よりの補給無き食糧(米と岩塩とジャングル野菜、時には牛肉もあった)事情等により、マラリア、脚気、栄養失調などに罹り体調を崩す者が多かった。
また、2 ヶ月余かかって構築した掩蓋陣地も、19 年 10 月下旬、英印軍の攻撃により多方面の陣地が突破されたので、2 〜 3 日の防御で放棄せざるを得なくなり、転戦(退却)命令で後退した。 私が所属したのは機関銃中隊で 92 式重機関銃が僅か一挺ではあったが、運搬は銃身(約 30 キログラム)、脚(約 30 キログラム)に分解し、兵員による人力搬送であった。
また、弾薬は 20 連(一連は弾 30 発が真鍮板の保弾板にはめ込んである)が頑丈な木函(弾 600 発重さ約 26 キログラム)に入っており、背嚢の上に担ぐのは中々大変である。 (通常は駄馬が搬送する。) 現役兵の初年兵は戦場は始めてであり、行軍の訓練も不足しており、夜間で且つ道路が悪い条件の中でもあり、落ちる者(落伍者)が出たのは当然であった。 然しここは戦場である。 行軍中落ちると言うことは死または捕虜を意味する重大なことである。
僅か 3 ヶ月しか基本訓練を受けていない初年兵を、当時のビルマの第一線に戦力として送り込んでくる軍首脳部の計画の無さが問題であり、此れでは到底米英軍に勝つことは出来ない。 敗因の一つである。
事実、私たちが前橋陸軍予備士官学校で受けた教育・訓練でも精神面が重視され、実戦的訓練が不十分であることを強く感じた。 最近テレビニュースで米軍の実戦訓練の有様が放映されるのを見ると、さすが物量豊かな米軍の真に迫った訓練だと感じる。 この訓練が日本軍では徹底されていなかった。
軍の装備に雲泥の差があり過ぎた。
種 類 | 日 本 軍 | 米 英 軍 |
銃 | 38 式歩兵銃 | 自 動 小 銃 |
戦 車 | 中 戦 車 | M3/M4 戦車 |
航空機 | な し | P38B、25B 24 偵察機、輸送機 |
物量の差は問題にならぬ程であり、初めから喧嘩にならない戦争であった。 我が軍が一発撃つと、お釣りに迫撃砲弾が一時間から二時間、時にはそれ以上飛んできた。 物量の輸送、兵員の輸送等に於いても機械化されたものと、人力によるとでは問題にならないことである。 昭和 20 年に入ると戦車攻撃による中央突破が行われ、メークテーラ付近はこの犠牲になっている。 これも物量による制空権を握っているから出来る戦闘である。
地図・情報の不足。
私たち見習士官が、昭和 19 年 7 月 1 日当時のラングーンのビルマ方面軍司令部にて、第 53 師団に転属命令を受けた後、当師団が北ビルマにて戦闘している地域の地図を数枚受領した。 その地図は英国製で 13 万 5 千分の 1 であった。 中々緻密でよく出来ていたと思ったものである。 然し、時日の経過と共に地図には無い地域に移動し戦闘をしていた。 即ち、我々は地図も無しに命令されるままに戦闘をしていたのである。 今考えても無謀そのものであつたと思う。
20 年 4 月 10 日頃、中ビルマのキャウセから転進していた部隊は、日暮れ直前にカロー街道に到着した。 到着と同時に休む暇も無く私は聯隊本部に呼ばれた。 重機関銃の搬送も手伝っていたので、体は相当草臥れていた。 本部に行くと各大隊から将校斥候を出すと言う命令であった。
将校斥候は通常小銃中隊から出ており、機関銃中隊からは出ていなかった。 然し、若い将校が少ないので重機中隊の私に命令が来たのである。 命令は下士官以下数名の兵を率いて、カローから西約 40 キロの地点にあるパヤガス付近の敵情を偵察し、明朝までに本部に報告せよとのことであった。
命令受領後、本部で 25 万分の 1 の地図を見せてもらい概略を模写した。 (聯隊には、この地図は一部しか無かったのである。) 斥候に出て暫くして第 53 師団の三宅少佐参謀と会い、何処へ行くのかと尋ねられた。 これからパヤガス迄斥候ですと答えると、「ご苦労! 地図は有るのか?」と言われたので、「聯隊本部で見て写してきました。」と答えたら、参謀は図嚢から地図を取り出し私に見せてくれた。
その地図は 5 万分の 1 で本部で見たものよりは、より詳しく記されており、目的地までは一枚の地図では間に合わず二枚にわたっていた。 戦争をやるのに地図が第一線の士官に渡っていないこと。 また私たちに分かっているのは、目の前の状況・戦況だけで、自分たちの中隊・部隊が全ビルマの如何なる立場におかれているか等の情報は皆目わからなかった。 井の中の蛙大海を知らず、と言う立場で戦争をしていたのである。
実情は情報よりその日その日の食べ物や、今日、明日を如何に生き抜くか目先のことに心を砕いていたのである。
戦争指導・作戦指導の責任者の責任の取り方が極めて曖昧であった。
作戦計画の実施発動についても、夫々上級軍司令部、例えばインパール作戦は第 15 軍司令部からビルマ方面軍司令部に上申し、方面軍司令部は作戦計画の可否を判断の上、南方軍総司令部に上申される。 総司令部にても上申の可否を検討の上大本営に上申され、御前会議を経て天皇陛下の裁可が下りるのである。
実際面では、計画の段階で軍・方面軍・総軍の参謀・参謀長・総参謀長・総副参謀長等と軍司令官も加わり作戦計画の検討、また図上作戦を繰り返し実施して事前の確認は行われるのである。 この様にして裁可された作戦は現地軍司令官により、作戦命令が出されるのである。
インパール作戦は不調に推移し、終結を迎えたときも上記の上申の順序により、ご裁可を得て撤退したと聞いている。 この作戦の現地責任者である第 15 軍司令官牟田口廉也中将は、第 15 軍司令官を解任され内地帰還となり、帰国後、軍の要職に就いたと聞いている。 また当時ビルマ方面軍の最高責任者である軍司令官河辺正三中将も内地に帰還の上、大将に昇進され、これまた軍の要職に就いたと聞いている。
当時の軍の司令官は雲の上の方々であられたから、責任はあってもその責任の取り方が極めて曖昧・不明瞭なものであった。
ビルマ方面軍で約 19 万余の戦死・戦傷病死者を出している。 私が推測すると銃弾や爆撃による戦死者よりも、戦傷病死者(病に倒れたもの・落伍し往き倒れになったもの・戦傷者が後方の野戦病院等に収容される前に餓死した者等)の方が多いのではないかと思われる。
昭和 19 年 7 月 〜 8 月、私たち見習士官は、第一線を目指してマンダレーからサガインに行き、イラワジ河を渡り、そこから鉄道で台車に乗り、メザまで割合早い時間で行ったと記憶している。 メザ河のつり橋を渡ってからは鉄道線路上を只管徒歩で北進した。
雨季に入っており、枕木から枕木とへと歩を進めるのであるが、足を滑らし転んだことも度々あった。 また、夜行軍で先が見えず線路上を歩いていると、突然ぐにゃっとしたものを踏んだ。 よく見るとそれは何と友軍の兵隊の死骸であった。 行き倒れになりそのまま息を引き取ったものと思われた。
その頃から、鉄道の駅舎近くになると異臭が鼻を突くようになった。 駅舎付近には真っ黒に蝿がたかり蛆がうようよしている死骸が、数え切れないほど散乱しているではないか。 また疥癬にでも罹っているのだろうか顔から足まで黒くただれ歩くのも儘ならぬ体で、ボロボロの汚れた服装で、「兵隊さん兵隊さん食べ物を下さい。」と、空の飯盒を差し出して物乞いをする見るも無残な哀れな兵隊が数人居たのには驚いた。
これが皇軍と言われる軍隊の兵であろうかと目を疑った。 これが第一線の裏舞台かと気が引き締まる思いがした。 後日、ここが北ビルマの白骨街道であることを知らされた。
この様な状態はビルマの戦場では何処でも見られた惨状である。 勝ち戦なら後で戦場を整理することも出来るが、負け戦ではそれも出来ず、そのまま放置されたのが実情である。 戦争には、これらのことは付きものと思われるが、軍上層部の責任はどうなるのであろうか。
内地では英霊として靖国神社に神とし祭られているが、大いなる疑問を感ぜざるを得ない。 亡き英霊のためにも、日本国いな全世界から戦争と言うものが無くなる様にしなければならぬと思う。