野生イノシシは地域の資源だ! 島根県美郷町「おおち山くじら生産者組合」がマイナスをプラスに変えてきた歴史

里山に住んでいる私は、地元のおじいちゃんおばあちゃんに、昔は山道を歩いて学校に通っていた、帰りが遅くなると提灯を灯して帰った、なんて話を聞くことがあります。 いつか、尋ねたことがありました。 「猪や熊に遭遇したりはしないんですか?」 すると、笑ってこう返されたのです。 「そんなもん、昔はちっとも出なかったよぅ。」 日本で畑が荒らされたり、家畜がやられるなどの鳥獣害が深刻になったのは、じつはここ 30 年程のこと。 人間が、山や畑の管理をしきれなくなり、山と集落の境目が曖昧になった結果、野生動物は安易に食料調達ができる人里に降りてくるようになりました。

農家さんにとっては生活に関わる深刻な問題。 ときには人間に危害が及ぶこともあり、全国的に、対策が急務とされています。 そんな中、鳥獣害対策の先駆的な取り組みを行なっていることで知られるのが、島根県美郷町の「おおち山くじら生産者組合」です。 美郷町では中山間地の課題であるはずの猪の増加を逆手にとり、地域資源として活用する仕組みを 10 年以上前から構築してきました。 「組合の仕事に、ここにしかない価値とやり甲斐を見出している」と話すのは、美郷町に移住し、組合の運営を手がける森田朱音さんとじ亮さん。 おおち山くじら生産者組合の今とこれからを、そんなふたりの視点から伺いました。

おおち山くじら生産者組合って?

島根県邑智(おおち)郡美郷町は、島根県の中央部、広島県との県境に位置する中山間地のまちです。 人口は約 5,000 人。 雄大な江の川とその支流の浸食によって形成された急峻な地形で、まちの総面積の 90% を山林が占めています。 美郷町では 1990 年ごろから、猪による農作物被害に悩み始めました。 そこで狩猟免許を取得した農家を中心に駆除班を結成。 駆除捕獲した猪を食肉利用できないかと研究を始め、2004 年「おおち山くじら生産者組合」が設立されました。

もともと、急峻な地形のおかげで運動量が豊富、かつ猪が好んで食べる植物が多く生えているため、雑味がなく、肉質がいいと言われてきた美郷町の猪。 冬の狩猟期には、東京の一流ホテルのレストランでも御用達になっているほど、おいしい猪肉なのだそう。 組合では、ジビエシーズンと言われる秋冬に捕獲される猪だけでなく、農作物被害が起こる春夏の駆除期の猪も、食肉として利用しています。 都市部の飲食店などを中心に出荷され、今では年間 400 頭、町内で駆除捕獲される猪の約 8 割を、おおち山くじら生産者組合で取り扱っています。

組合の事業の柱は捕獲した猪の食肉製造です。 そして、食すことのできない猪皮は、レザーとして活用。 それでも利用できない部位はペットフードやセメント原料として活用しています。 命をいただくのだから使える部分は極力使う、という理念は今に至るまで一貫しており、常に新たな活用方法を模索し続けています。 「おおち」は地名の邑智(おおち)、「山くじら」は猪のこと。 事業とはいえ、あくまで目的は野生動物と共存していくこと。 むやみやたらに乱獲するのではなく、山と人里との境界線上に罠を仕掛け、人里に降りてきた猪だけを捕獲しています。

生体搬送に見る、地域の一丸さ

こうした組合の取り組みには、他地域にはない、いくつかの特色があります。 その最大の特徴が「生体搬送」を実現していることです。 生体搬送とは、猪を箱罠や囲い罠で捕獲したあと、生きたまま食肉処理場まで運ぶこと。 ただでさえ罠にかかり興奮状態にある猪を、搬送用の檻に 1 頭 1 頭移し、軽トラに乗せ、処理場まで運ぶ …。 少し想像しただけでもその大変さは想像がつきます。 繁忙期には、休む間もなく朝から晩まで、搬送が続くこともあるそうです。

しかし生体搬送には、食肉処理をするうえで多くのメリットがあります。 たとえば、興奮状態の猪が落ち着くまで待つことで、余計な血の気を抑えられること。 その場で処理を始めてしまうと一連の作業をすぐにやらなければいけませんが、そうでなければ慌てる必要がなくなり、処理を翌日に回すといったこともできます。 そしてもちろん、処理場ですべてを行なったほうが鮮度が保て、衛生的にも安心安全。 ジビエ肉には、臭みが強いという印象を持つ人も多いかもしれませんが、こうした丁寧かつ迅速な解体処理を行なえば、臭みのない、おいしい食肉の製造につなげることができるのです。

一方で、やはり搬送の手間は大変ですし、生きたままの捕獲には猟師さんの理解と協力は必要不可欠。 一朝一夕で真似できるものではなく、生体搬送をこれだけの規模で実現できているのは、美郷町以外にはまだないそうです。

もうひとつの特徴が、まさにこのこと

つまり、地域が一丸となって組合の取り組みに協力しているのです。 美郷町には狩猟免許をもっている住民が 100 人以上もいるのだそう。 人口比で見ると、これは異例ともいえる多さだそうです。 また、猪皮を使った商品は、婦人会のみなさんが毎週 1 回、集会所に集まって製作。 ペンケースやキーホルダー、ブックカバーなど、どれもデザイン性がよく、つくりもしっかりしていることから、お土産品として人気を博しています。

森田さん : せっかく行政などが処理施設をつくっても、猟師さんは、面倒くさいからというのでそのまま山に捨ててしまったり、自分たちで直接売買して、こうした取り組みとは決別してしまうケースも多いんです。 でも美郷町では、地元の人たちがちゃんと猪を施設に入れてくれる。 みんなが一丸となって協力してくれるというのは、本当にすごくありがたいし、恵まれた環境だと思います。

そしてもうひとつ。森田さんやじさんのような若いスタッフを、他地域から積極的に入れていることも特徴といえるかもしれません。 森田さんは約 3 年前、組合の事業を担当する地域おこし協力隊として赴任しました。 東京で働いていた時に狩猟免許を取得するなど、もともとジビエ産業に興味があった森田さん。 期間限定で島根県海士町で働き、次のステージを模索している際、個人的につながりのあった株式会社クイージの石崎社長から、美郷町で組合の仕事をやってくれる若い人を探しているという話を聞きました。

森田さん : 組合は、それまでずっと地元のおっちゃんたちがやっていました。でも解体処理できる人もどんどん高齢化していくし、取り組みの幅を広げていくためにも、外から若い人を入れていかないといけないよねっていう話があったらしくて。それに乗っかってくれる人誰かいないかなっていう話を聞いて、乗っかったんです(笑)。

株式会社クイージは、野生鳥獣肉を使った商品の製造や販売、経営コンサルティングなどを手掛けている会社です。 組合とは 2014 年に製造体制の安定化と販路の拡大を目指して業務提携を結び、2015 年には、美郷町と「地域活性化包括連携に関する協定」も締結しました。 その一環として、美郷町内に支店をおき、若いスタッフの導入も検討されたのです。 当初は組合が直接雇用するという話もあったそうですが、なにせ初めてのこと。 まずは助走期間として 3 年間、協力隊制度を利用させてもらい、スタートを切ることになりました。

当初、雇用されたのは森田さん含め 3 名のスタッフ。 これまでの業務の継続と改善を地道に行なう一方で、新たに進めたのが6次産業化です。 カレーのチェーン店「CoCo 壱番屋」の島根県内の店舗限定で、おおち山くじらブランドの猪肉を使ったカレーを提供したり、ソーセージや缶詰などの商品化を手がけたり。 昨年から始めた缶詰は、レシピ開発を共同で行なったアクタスの店舗やオンラインショップ、地元の道の駅や東京のにほんばし島根館などで購入できるほか、鳥獣害対策の視察にやってくる方々のお土産品としても大人気となっています。

6 次産業化が新たな売り上げに結びつくことはもちろんですが、これまで在庫として余りがちだった部位を活用できたり、生肉と違って各地に持っていっての販売もできるため、組合の PR もしやすくなりました。 また、地域に雇用を生むことにもつながっています。 2017 年 3 月に発売になった「おおち山くじら イノシシの缶詰」。 ポトフ、黒ビール煮込み、スパイス煮込みの 3 種類のラインナップ。 無添加・無着色で、地域のお母さんたちが手作業で製造しています。 ウェブストアから購入もできますよ。

持ち帰りやすいお土産がつくれないだろうか、精肉として使いづらい部位を活用できないだろうか。 「そういう目の前に現れた課題に、ただ必死に取り組んできただけ」と森田さんは話します。 そうした中に、処理スタッフの増員という課題もありました。

つらい時もあるけど、それ以上に充実している

1 年半ほど前、組合スタッフのブログをたまたま見て、処理スタッフを募集していることを知ったじさん。 前職をやめ、しばらくのんびりするつもりだったというじさんは、大学では生物学を専攻し、解剖などの知識もあったことからこの募集に興味を持ち、メールを送りました。 そこからとんとん拍子に話がまとまり、株式会社クイージ美郷支店の社員として、昨年 7 月に美郷町にやってきました。 猪の解体処理という珍しい職種ゆえ、募集をかけてもそれほど反応がない中、じさんは興味を持って問い合わせをしてくれた「レアな人物」だったそう。

処理スタッフとしての経験がまだ 1 年ほどのじさんは、ようやく仕事をひととおり覚えたばかり。 現在も試練の連続だそうですが、それでも「体がつらいとか、頭がつらいってときはあるけど、ここでの仕事は面白いし充実している」と話します。

じさん : 組合の業務は東京のクイージのスタッフを含めても 4 人ぐらいの規模でやっていて、何をやるにも自分たちでいろいろ決めていかないといけません。 でも、決めたことはどんどん採用されて、実際にそのとおりになっていく。 うまくいったりいかなかったりはあるけど、それがすごくやりがいがあるし、楽しいんです。

自分がやらなければ何も進まない。 だけど、やろうとすればそれはどんどん形になる。 その実感と手応えが、仕事のプロセスそのものを、彼らの自分ごとに昇華しているのでした。 じさんの仕事は基本的には猪の解体処理なのですが、最近はつい気になった在庫管理や生産体制の管理についても改善に乗り出しているそう。

ここには、ちゃんと私たちの役割がある

じつは筆者と森田さんは、2013 年に島根県海士町のまちづくり会社「株式会社巡の環」が実施した地域コーディネーター養成講座「めぐりカレッジ」中級コースの二期生同士。 その関係もあり、じつは彼女が移住してまもない頃に、美郷町を訪れたことがあります。 そのとき、彼女は「ここでずっと暮らしたい」、「自分の食い扶持を自分で見つけて、この仕事を続けたい」ということをきっぱりと話していました。 森田さんのように、やりたい仕事があって移住してきたミッションタイプの移住者の場合、じつはここまできっぱりと「ずっと暮らしたい」と言い切る人はあまり多くありません。 なので当時、その言葉がとても印象に残っていました。 今もその気持ちは変わらないのか、聞いてみました。

森田さん : うん。 変わらないですね。 おおち山くじらの取り組みって、全国的にも最先端をいっていると思うんです。 だから、ジビエ産業に関わりたい人間からすると、ここにいればいちばんに情報が入ってくるし、トライアル的な動きもいろいろできる。 あと、とにかく私はちゃんと収益を上げて、その収益で事業を回していきたかったので、補助金をほとんどもらわずにやっていることにもすごく魅力を感じています。 そういういろいろな価値がここにはあるんです。

森田さん : それともうひとつ。守ってもらえているっていう感じが常にある。 それが本当にありがたいなって思う。 なんて言えばいいんだろう? 地域の人たちに大事にされているっていう安心感があります。 山くじらの取り組みをやっているから特にそうなんじゃないかな。 役場の方や地元の人がコツコツつなげてきた今までの仕組みやみんなの思いも含めて、ちゃんと私たちも一緒にやる仲間として入れ込んでもらえているって感じるんですよね。

それは、森田さんだけでなく、じさんも同じように思っているそう。

じさん 確かに、すごく必要とされてるって感じます。 僕なんて、まだ美郷にきて 1 年の、要はよそ者です。 まちの人から見たらひよっこみたいな存在だと思うんだけど、でも山くじらの事業のコアな部分をさっと任せてくれました。しかも任せるだけじゃなくて、僕が足りない部分とかしんどい部分のサポートもすごくしてくれるんです。そういうまちの許容力というか。 美郷にくるまでは、田舎って、いろいろ積み重ねて徐々に信頼してもらわないといけないものだと思っていたんです。 でも美郷では、いつのまにか大事にしてもらっているんですよね。

森田さん : ここには、ちゃんと私たちの役割がある。 信頼して役割を投げられたら、そこから逃げたくないし、やるしかなくなるんですよ。

組合の食肉処理場

森田さんは今年 5 月で地域おこし協力隊としての 3 年の任期を終えました。 現在は事業を継続していくための新会社設立に向けて、クイージとともに準備を進めています。 いよいよ本当に「自分の食い扶持を自分で稼ぐ」ことが始まります。 「この事業をずっと続けていくのが、なによりの当面の目標」と言いつつ、具体的な今後の計画についても話してくれました。

森田さん : 今は邑智郡の他の自治体と協定を結んで、近隣のまちからも猪が入ってくるように話を進めています。 もう少し広い意味でのおおち山くじらブランドをつくっていきたいですね。 あと、飲食店に直接肉を卸すだけじゃなくて、もっと一般の人にも買ってもらえるような仕組みをつくっていこうとしています。 缶詰もその一環ですけど、オンラインストアでスライスの猪鍋のセットやバーベキューのセットも売り始めました。

じさん : 僕はとにかく人手が足りないので、まずは後輩を育てないと … 育てられるのかな、僕に(笑) わからないけど、やるしかないので頑張ります。

地域ならではの課題を、地域の特色としてプラスに転換したおおち山くじら生産者組合の取り組み。 命をいただくとはどういうことか、命を相手に地域で仕事をつくるとはどういうことか。 その最前線の現場には、立場を越えて手と手を取り合う一丸さと、明るく前向きな風通しの良さがありました。 それはきっと、厳しい山間部で生き抜くために自然と身についた姿勢のようなものなのかもしれません。 目の前に出てきた課題にその都度向き合い、ポジティブに解決していこうという "切り拓く" 精神が美郷町にはある。 だからこそ、この取り組みは地道で、力強く、たくましい。そう感じるのだと、思いました。

この先もますます、鳥獣害対策の重要性は増していくでしょう。 その先頭を走り、野生動物と人間との共存を模索する「おおち山くじら生産者組合」がどう歩みを進めていくのか。今後の展開も楽しみです! (平川友紀、Greenz = 9-5-17)


島根富士通に初の生え抜き社長が誕生した理由

富士通製ノート PC の生産を行っているのが、島根県出雲市にある島根富士通だ。 需要にあわせて生産品目や生産量を自在にコントロールでき、1 品ごとに異なる機種の生産が可能な「超フレキシブル生産システム」を導入。 アームロボットやゲンコツロボットのほか、IoT などの最新技術を活用することで、品質向上とリードタイムの短縮化、コスト削減などを実現。 自動化にも積極的に取り組んでいるのが特徴だ。 富士通グループのなかでもその取り組みは先進的であり、国内外の製造業関係者をはじめとして、年間約 5,000 人の見学者が訪れていることからもそれが裏付けられる。

2017 年 4 月には、島根富士通の社長に神門明(ごうどあきら)氏が就任。 1989 年の同社設立以来、6 代目の社長となる神門氏は、同社初の生え抜き(プロパー)社長でもある。 富士通の PC 事業が富士通クライアントコンピューティング (FCCL) として独立し、新たな体制となってから 1 年半を経過するなか、今回の神門新社長の就任は、富士通の新たな PC 事業体制を形成する動きの 1 つともいえる。

島根富士通の神門明社長に、これからの島根富士通について聞いた。

島根富士通の新社長に、2017 年 4 月 1 日付けで神門明氏が就任して、約 5 カ月が経過しようとしている。 島根富士通は、1989 年 12 月に設立。 1990 年 10 月から操業を開始した、国内最大規模の PC 生産を行う製造拠点だ。 当初は、FM TOWNS をはじめするデスクトップ PC の生産を行なっていたが、1995 年には、ノート PC の生産に特化。 2013 年には操業以来の累計生産台数が 3,000 万台に達している。 島根富士通は、1990 年 10 月からの操業開始に向けて、同年 4 月以降、富士通からの出向者に加えて、第 1 期となる社員の中途採用を開始。 神門社長もその 1 人として、1990 年 6 月に島根富士通に入社した。

神門社長は、入社から約 5 年間は、ワーカーとして生産ラインに立ち、FM TOWNS や FMR シリーズなどの組み立てを行なっていた経験を持つ。 「島根富士通での PC の生産は、1 日数十台単位で始まった。 いまから考えると、当時は、なにもない状態からのスタートであり、試行錯誤の連続だった。」と、神門社長は振り返る。 神門社長は、その後、品質試験や部品供給、生産計画、製造技術、生産革新などに携わり、社長就任前の常務取締役時代には、総務や経理部門なども統括した。 「食堂を除けば、島根富士通のすべての業務を担当している」と、神門社長は笑うが、まさに島根富士通のすべてを知り尽くしている人物である。

2017 年 4 月に社長に就任した神門新社長は、創立以来6代目の社長となるが、歴代の社長はすべて富士通の出身者であった。それに対して、神門社長は初の島根富士通生え抜きの社長となる。 「島根富士通の歴史をすべて掌握していること、強みも弱みも認識していること、現場の課題も熟知していることが、自分の強みになる」と神門社長は語る。

生え抜き社長の誕生は FCCL の思惑?

島根富士通の新社長に、同社出身者が就任したのは、2016 年 2 月にスタートした富士通クライアントコンピューティングによる PC 事業の分社化が背景にありそうだ。 それまで島根富士通は、富士通の 100% 出資子会社であったが、富士通クライアントコンピューティングの設立後、島根富士通は同社の 100% 子会社へと移行。 同じ立場にあるのは、シンガポールのフジツウ PC アジアパシフィックだけだ。

ちなみに、富士通ブランドのデスクトップ PC である ESPRIMO シリーズは、福島県伊達市の富士通アイソテックで生産されているが、同社は、依然として富士通の 100% 出資子会社であり、サーバーやプリンタなどの生産も同時に行なっている。 つまり、富士通クライアントコンピューティングから見れば、島根富士通と富士通アイソテックには、「血」のつながり方に差があるのだ。 こうした状況を考えれば、富士通クライアントコンピューティングの直系会社である島根富士通に、初の生え抜き社長が誕生した背景には、富士通クライアントコンピューティングの齋藤邦彰社長の思いが強く反映されていることは想像に難くない。

開発部門を統括し、島根富士通の役員も務める富士通クライアントコンピューティングの仁川進執行役員は、「富士通クライアントコンピューティングとして分社する前から、島根富士通への生え抜き社長の就任は検討していた」と明かしながら、「富士通クライアントコンピューティングが新たなチャレンジを開始するには、生産拠点である島根富士通には、島根富士通の独自性を理解し、現場で働いている人たちを熟知している生え抜き社長へと、たすきを渡すことが最適であると考えていた。 今回の社長人事は、そうした思いを実現するものになった。」と語る。

一般論でいえば、新たな職場を理解するには、一定の期間を要する。 とくに専門的な用語が日常的に使われている生産現場をしっかりと理解するには、「2 - 3 年は必要(関係者)」というのも間違いはないだろう。 島根富士通初の生え抜き社長の就任は、こうした新社長による現場理解に要する時間をゼロにすることにもつながる。 前社長からたすきを渡された新社長が、すぐにスタートダッシュできる移行だともいえる。

基本方針を踏襲し、つながる工場を目指す

神門社長は、「『卓越したものづくり力の追求とものづくり力を生かしたサービス企業への展開』という経営方針には変更がない。 これまでの方針を踏襲していくことになる。」と語る。 前社長である宇佐美隆一氏とともに確立してきた経営方針は、神門社長にとっても腹落ちした経営方針。 「いままでやってきたことをベースに、より積極的に ICT やロボティクスなどの先進技術を取り入れ、『つながる工場』を目指したい」とする。

「つながる」という言葉には、現場で働く社員とつながり、社員がやりたいと思うことを取り入れる風土を継続。 富士通とつながることで、富士通の最新テクノロジを積極活用し、そして、地域や外部の企業ともつながる工場という意味を持たせている。 「社員の意見を積極的に取り入れた改善を続けるだけでなく、インダストリー 4.0 が注目を集めるなか、富士通の持つ技術を活用し、IoT やロボティクス、AI などの先端技術も取り入れていく。 そして、富士通グループにおける生産革新のショールームとして、島根富士通の生産ノウハウを外販する役割も担う。」とする。

じつは、島根富士通には数多くの見学者が訪れている。 2015 年度には年間 331 件 5,046 人、2016 年度も 343 件 4,913 人の見学者を受けて入れている。 そのうちの約半分は地元の小中学生であり、ここでも地域とのつながりを実現しているが、残りの約半分は、国内外の製造業からの訪問だ。 自動車、家電、食品などの幅広い企業のほか、海外からの視察も相次いでいる。 「ドイツの製造会社が複数社まとまって視察に訪れた例もあった。 どのように改善をしたら良いのか、ICT をどう活用したら良いのかといった点に関心が集まっている。」という。

島根富士通は、トヨタ生産方式をベースにした独自の「FJPS (Fujitsu Production System)」による生産革新を続けており、1 台ずつ仕様が異なる PC やタブレットの生産が可能だ。 こうした仕組みを確立している点は、多くの製造業にとって高い関心事となっている。 神門社長は、「基本的に見学を断ることはない。 また、何度来ていただいても構わない。」と語る。 競合する PC メーカーの幹部が視察に訪れたこともある。 だが、それによって、国内外の企業に、島根富士通の製造ノウハウを盗まれることはないのだろうか。

それに対して、神門社長は次のように語る。 「設備だけを見ても、マネはできない。 ノウハウの多くは、それを使いこなす人材にある。 そこに島根富士通の特徴がある。」 島根富士通には、「ものづくりは、人づくり」という言葉があるが、人づくりに対する自信と実績があるからこそ、工場見学を幅広く受け入れているともいえる。

柔軟性と品質に強みを持つものづくり

島根富士通の強みはなにか。 改めて、神門社長に聞いてみた。 神門社長が最初にあげたのが、「先進的なものづくり」である。 先にも触れたように、島根富士通では、1 台ずつ異なった仕様の PC を量産ラインのなかで生産することが可能だ。 同社では、これを「超フレキシブル生産システム」と呼ぶ。 ここでは、スペックが異なる製品を生産するだけでなく、PC とタブレットを 1 台ずつ流すことができる、混流ラインとしている点が見逃せない。 この仕組みは、顧客ニーズにあわせた PC を生産したり、需要の変動にあわせて生産品目を変更したりといったメリットを生むことができる。

企業からの一括受注の場合にも、それぞれのユーザーにあわせて設定し、1 台ずつカスタマイズすることが可能であり、エンドユーザーは製品を受け取った時点で、個別に設定することなく、すぐに、自分の PC やタブレットとして利用することが可能になる。 しかも、それを短期間に納めることができるのは国内生産である島根富士通ならではの特徴の 1 つだ。 そして、この超フレキシブル生産システムの仕組みは、昨年度に行なった出荷体制の見直しにおいても大きな威力を発揮した。

島根富士通では、組み立てが完成した PC を、トラックに積載するまでの作業を従来の外注方式から内製化。 これにより、積載が遅延することで発生していた無駄取りを実現している。 従来の仕組みでは、トラックの定期便が発車するまでに積載が遅れ、その分の待機費用が発生していたが、この運用を内製化することで、課題を見える化。 運用方法の見直しにより、トラックの待機費用は 5 分の 1 にまで大幅に削減できたという。

これを実現できた背景には、超フレキシブル生産システムの存在が見逃せない。 定期便に積み込む予定の PC やタブレットを優先的に生産。 しかも、それが 1 台単位で生産できるため、定期便の出発にあわせて個別に生産計画を変更し、定期便の出発時間を遅らせることなく、出荷が可能になったという。 ものづくりの強みは、柔軟性のある生産体制だけではない。 品質においては、工程で作りこむ体制を確立。 検査工程を随所に取り入れ、早い段階で不具合などを発見できるようにしている。 「プロセス全体で、品質を高める仕掛けを採用している」という。

さらに品質については、新たに「One 品証」と呼ぶ仕組みを、富士通クライアントコンピューティングを設立した 2016 年 2 月から導入している。 これまでは開発部門に設置していた品質保証組織を、島根富士通にも設置し、同組織を中心に、サプライヤーを巻き込んだ品質向上への取り組みを行なっている。 「これまでの仕組みでは、工場に入ってきた部品をチェックして、ラインに流すというスタイルであった。 だが、サプライヤーの工場にまで出向いて、やり方に課題があれば、それを指摘し、一緒にプロセスを改善し、部品の品質を高めるといった取り組みを開始した。 島根富士通からは、月に数人が、定期的にサプライヤーの中国の生産現場を訪れている。

より現場に近い場所で、さらに上流工程の近いところで品質を管理することで、品質問題を早期に発見。 工程の最後で発見することにより発生する負のコストを大幅に削減することができた」とする。 この動きを開始して以来、品質保証については島根富士通の役割が大きく増している。 さらに、富士通クライアントコンピューティングの開発部門と連携し、開発段階から島根富士通の社員が参加。 高い品質で量産できるようにするための設計を行ない、量産化までの時間を短縮化。 高い歩留まり率で垂直立ち上げができるようにしている。

「開発の品質、部品の品質、生産の品質を一気通貫で取り組むことで、製品全体の品質を高めることができるのが島根富士通によるものづくりの特徴である」とする。

ロボティクスの専門職制度を開始

島根富士通の 2 つめの強みが人である。 神門社長は、「実践を通じて人を育てることが、島根富士通の基本方針。 組織全体で教育を行なう仕組みを構築しており、就業時間の5%を教育に充てている。」とする。 先に触れたように、島根富士通が広く見学を受け入れているのは、人にノウハウが蓄積させており、設備を見ただけではマネできないという自負があるからだ。 それだけ、人材には自信を持っており、人材を育てるための教育体制の確立と投資に力を注いでいる。

その島根富士通が、昨今で力を注いでいるのが、ロボティクスに関する教育だ。 基板製造ラインや組立ラインでも自動化を推進し、ロボティクス技術の活用においては富士通グループのなかでも先進的な島根富士通だが、昨年度から本格的に、ロボティクスに関する教育を開始。 ロボットを制御するための専門職制度をスタートし、組み立ての自動化を促進するとともに、同社が進める「人と機械の協調生産」を実現。

「すでに、基板への部品の組み込みや最終検査、切断作業の完全自動化や、ポートリプリケータの組み立ての自動化などでロボットを活用した実績がある。 アームロボットを 2 基組み合わせて、双腕ロボットのような動きをさせたり、力覚センサーを用いた細かい動作を行なったりといったことも可能になっている。 2017 年度下期からは、アクセサリの組み立てにおいて、部品供給から検査までを含めて完全自動化するラインを構築する計画であり、液晶パネルのアセンブリの自動化にも着手していく。」とする。

ロボティクスに関する専門職は、毎年 1 人ずつ増やしていく計画であり、生産ラインのスタッフもより付加価値が高い作業へとシフトしていくことになる。 さらに、情報セキュリティに関する教育も開始。 情報セキュリティマネジメントシステム (ISMS) を取得し、IoT の活用とともに課題となる情報セキュリティリスクへの対応も図っている。 「IT システム技術部の設置により、ものづくりの現場を知りながら、ロボティクスの制御技術や情報セキュリティ、画像解析技術などに精通した人材の育成に取り組んでいく」と意気込む。 ロボティクスや IoT の活用の広がりとともに、生産現場でも求められる人材が変化してきている。 そうした変化に対応する人材の育成にも余念がない。

混流生産と自動化に取り組む 2017 年度下期

島根富士通にとって、2017 年度下期の重点課題が、生産ラインにおける自動化の促進だ。 「いかに生産現場のなかに、自動化設備を組み込んでいくかが課題。 上期での評価を経て、下期からこれを実装し、現場の生産性を高めたい。」とする。 また、島根富士通の特徴の 1 つである混流生産も、さらに強化させる考えだ。 現在、20 本の生産ラインを持ち、そのうち 19 本が定常的に稼働。 14 本で混流生産が可能になっている。 これによって需要の変動にも対応。 1 台ずつの異なる製品の生産も可能だ。

2013 年度末から 2014 年度上半期の Windows XP の買い替え特需から約 4 年を経過し、法人ユーザーでは、すでに 2 巡目となる需要が始まっている。 こうした需要の変動にも対応できる体制を、超フレキシブル生産システムによって、実現しているというわけだ。 「今後は、多能工化の促進により、1 人の作業者が複数の作業を行なうことで、約 10 人で組み立てている生産ラインだけでなく、4 - 5 人で組み立てることができるショートラインを新たに構築し、物量への変動や、組み立てる製品の種類にも柔軟に対応できる環境を確立したい。」

「ショートラインは、作業工数が少ないアクセサリなどの組み立てにも適しているほか、異常の見える化にも適している。 また、混流生産をすべてのラインに展開することで、出荷までを含めたジャストインタイムを実現でき、部品在庫や完成品在庫の削減にもつなげることができる」とする。

島根富士通は、2020 年に創業 30 周年を迎える。 神門社長は、「世界をリードする製造会社として、Made in Japan だからこそできる高品質の実現、スピーディーでフレキシブルな製造体制の構築をこれからも進めていく」とし、「これまでの基本方針は変えない。 だが、新たな技術を取り入れ、改善を進める速度は緩めない。 ものづくりにおける AI の活用にも積極的に取り組みたい。 改善と進化には終わりがない。」とする。

また、その一方で、「富士通クライアントコンピューティングとの一体化を強める一方で、自立した経営が行なえる体質を目指すことも必要。 次の 30 年に向けた体質強化に挑みたい。」と語る。 富士通の PC 事業は、レノボとの統合が遅れているが、富士通の PC 事業の力を最大限に生かすためには、島根富士通の存在抜きには考えられない。 島根富士通初の生え抜き社長の誕生は、富士通の PC 事業をさらに加速するために重要な社長人事であり、それによって、富士通クライアントコンピューティングと島根富士通との連携が強化されたともいえる。 富士通の PC 事業にとって、島根富士通の存在はますます重要になっている。 (大河原克行、PC Watch = 8-21-17)


秋田県の人口、2060 年には島根以下?

秋田県の人口はいまのままでは、2060 年に島根県の人口(4 月 1 日現在で 68 万 4 千人、全国 46 位)を下回り、37 万人台になる - -。 秋田市で今月開かれた地域社会学会のシンポジウムで、研究者が衝撃的な予測を示した。 一方で、定住者を増やし、出生率を上げれば活路は開ける、ともした。 予測を報告したのは、一般社団法人「持続可能な地域社会総合研究所(島根県益田市)」の藤山浩所長。 藤山氏は 10 年と 15 年の国勢調査での秋田、島根両県のデータを用い、60 年までの人口予測に取り組んだ。

それによると、秋田の場合、特に女性が 20 歳前後で就職や進学などを機に県外へ流出している。 20 代後半になっても流出分を補えるほど U ターンや I ターンで県内へ戻っていない。 若い女性が減り、4 歳以下の乳児が急減している。 同じ傾向が続くと、人口は 30 年には 80 万人を割り込み、50 年にはいまの半分の 49 万 6,390 人となる。

少子高齢化も進む。 子どもの数は 20 年ごとに半減する。 予測最終年の 60 年の小中学生の人口は、それぞれ 15 年と比べて 4 分の 1 以下に落ち込み、小学生は 1 万 694 人、中学生は 5,878 人と試算する。 逆に、15 年に 33.8% だった高齢化率(人口に占める 65 歳以上の割合)は上昇し、50 年には 50% を超え、60 年には 51.7% に達する。

一方、島根は 20 歳前後で流出した人口を、U ターンなどで 20 代後半でかなり取り戻す。 合計特殊出生率(一人の女性が一生涯に産む子どもの数)も高い。 15 年は全国 2 位の 1.78 で、全国 44 位の秋田 (1.35) を大きく引き離す。 藤山氏は「10 年前は島根が全国一厳しかったが、地域と行政が危機感をもって取り組んできた成果だ」と話す。 従って人口減少のペースは比較的緩やかとなる。 いまの人口は秋田の方が 31 万人多いが、60 年には逆転し、島根の方が 2 万人近く上回ると分析する。 同年の高齢化率も 40.1% にとどまるとみている。

人口の安定には戦略が必要

会場で、藤山氏は「人口をどこかの水準で安定させる戦略がないと、地域社会がきちんと継承されない」と危機感を伝えた。 藤山氏によると、秋田の人口を 100 万人の水準で安定させるには、毎年定住者を県人口の 1% 分(約 1 万人)増やす必要がある。 計算上は、▽ 20 代前半の男女、▽ 30 代で子 1 人の夫婦、▽ 60 代の帰郷夫婦が、それぞれ毎年 1,465 組ずつ定住すれば達成できるという。 そのうえで、合計特殊出生率を 1.80 に上げ、さらに 10 代後半 - 20 代前半の県外流出者を半分ほどに減らす必要もある、とした。

近ごろは田園回帰の動きが全国的に広がるとはいえ、定住者を 1% 増やすだけでも高いハードルのように映る。 だが、藤山氏は「それぞれの地域社会で『100 人につき 1 人だ』と焦らずにやれば、十分できる」と主張する。 そして「300 人から 3 千人ほどの地域ごとに、人や物をつなぐ『小さな拠点』を作り、お年寄りの小さな労働力と人々の細かいニーズを結びつけたり、地域内でお金を循環させたりすることで、地域の持続性を高めてほしい」と語った。 (茂木克信、asahi = 5-26-17)

藤山浩(ふじやま・こう) 1959 年 10 月、島根県益田市生まれ。 一橋大経済学部卒。 高校教諭、島根県立大連携大学院教授、県中山間地域研究センター研究統括監などを歴任し、今年 4 月から現職。 著書に「田園回帰 1% 戦略」など。


広島の過疎の町が外国人との共生を選んだ理由

気がつけば移民国家

広島県の山間部にある安芸高田市では、外国人を「いつか帰る人」ではなく、「共に暮らしていく人」として受け入れる取り組みをはじめている。 人口減少が続くなかで、外国人を受け入れていかないと、町自体が消滅してしまうという危機感からだ。 2004 年に合併した当初 3.4 万人いた人口は、2.9 万人まで減少している。

この町には留学生はいないが、外国人技能実習生、日系人など合わせて 576 人ほどの外国人が暮らす。 彼らの生活をサポートしたり、地元で行われるイベントや、祭りへの参加を促したりという取り組みを 2010 年から続けている。 実際に町の祭りを訪ねると、技能実習生たちが出店を出すなど、周囲にとけ込んでいる様子だった。

安芸高田市の浜田一義市長は「言葉は通じなくても、『(外国人に対して)あなた方を大切する』という気持ちを持つことが大事」と話す。 以前、町のプログラムで海外ホームステイをした中学生に「言葉で苦労しなかった?」と尋ねたところ、「意思を持っていれば、言葉が通じなくても相手に伝わります」と言われて、感心したという。 「外国人ウェルカム」という姿勢を町の人々が共有することによって、外国人も周囲に馴染みやすくなる。

技能実習生の場合、3 年で帰らなければならないが、それでも「安芸高田でいい思い出を作って帰ってもらいたい」と、ファン作りをしている。 これは近い将来、定住外国人を受け入れるべく国も制度を変えざるを得ないとみているからだ。 浜田市長は「我々は先取りしているだけです。 じきに他の町もこの問題と向き合わなければならないようになります。」と話す。

急増する留学生アルバイト

人口減少に長らく直面してきた地方に追いつく形で、都会でも人手不足が目立つようになってきた。 東京で、中国、台湾人など外国人材の派遣業を営む会社社長は「インバウンド対応として語学ができる人材が欲しいということではなく、『とにかく人手が欲しい』というニーズが多い」という。 いま、日本で起きているのは、空前の人手不足だ。 有効求人倍率は 1.45 とバブル期の水準に戻った。 少子高齢化が常態化するなかで、日本人だけでは、回らなくなった現場が増えている。

ただ、それはこれまで都会で暮らす人々の目につかなかっただけで、製造業、農業といった現場では、20 年以上前にスタートした技能実習生制度を活用して、人材確保をしてきた。 それがコンビニ、居酒屋、外食チェーンなど、都会人の目につく場所でも、外国人労働者が増えてきた。 この背景にあるのが留学生の急増である。 留学生は週 28 時間までであれば、就労が許可されている。 技能実習生の場合、働くことのできる業種が限られるため、レジ打ち等の仕事はできないが、留学生の場合、基本的にそのような制約がない。

ある日本語学校の経営者によれば、2011 年の震災によって中国、韓国人の語学留学生が減ったことで新しい国からの留学生のリクルートがはじまり、ベトナムやネパールからの留学生が増えたという。 実際、留学生数の統計によれば、中国、ベトナム、ネパールの順になっている。 ただ、技能実習生、留学生たちが日本の人手不足の現場を補ってくれても、まだ足りないというのが、今の実態だ。 というのも『厚生労働白書』で生産年齢人口(15 - 64 歳)をみると、ピークだった 1995 年には 8,716 万人だったが、2015 年は 7,708 万人と 1,000 万人も減っているのである。

外国人労働者も、2011 年に 70 万人弱だったところから、2016 年には約 108 万人となり、初めて 100 万人を突破した。 しかし、労働人口の減少に比べると、外国人労働者の助けを借りてもまだまだ足りない状況にある。 しかし、「技能実習生」や「留学生」は本来、人手不足の穴埋めをするために来日しているわけではない。 技能実習生は「技能を習得して母国で活かす」ことであり、留学生は「日本に来て学問を修める」ことが本来の目的だ。 それなのになぜ、このようなことが起きているのか?

外国人労働者という都合の良い存在

それは日本政府が「単純労働」を目的とした来日を認めていないからだ。 国民も、身近に外国人が増えているということに気づきながらも、「いつかは帰る人たち」、「他者」として無関係を装ってきた。 現在の生活を維持するために、外国人労働者を「都合の良い存在」としてあつかってきたともいえる。

しかし、このような状況はいつまでも続けられない。 外国人労働者を確保することが難しくなってきているからだ。 例えば、技能実習生の受け入れ数は長らく中国人がトップだったが、2016 年、はじめてベトナム人がトップになった。 現場からは「中国国内の経済が発展したため、わざわざ日本に来なくても、国内で良い仕事が見つかるようになってきており、中国人の良い人材を獲得することが難しくなってきた」という声が増えている。

ベトナムの人たちも、いつまでも日本を魅力的な国としてとらえてくれるとは限らない。 ベトナム経済が発展すれば、現地に魅力的な仕事が増え、給与水準も上がっていくだろう。 「日が沈む国(日本)」と、「日が昇る国(東南アジア)」の違いを認識しておかなければならない。 シンガポールやバンコクはもちろん、クアラルンプールやジャカルタ、ヤンゴンを訪れると、その活気、熱気にいつも圧倒される。 街行く人々が「もっと豊かになりたい」とギラギラしている。 まったりしている日本とは大違いだ。 将来的には日本人のほうが、アジアの国々に出稼ぎに出なければならなくなるのでは? とさえ思えてくる。

そんな思いを裏付けてくれるのが、堀江貴文氏の『君はどこにでも行ける(徳間書店)』で、「日本はいまどれくらい『安く」なってしまったのか』と、アジアにおける日本の序列変化について記している。

今こそ問題に向き合うべきとき

技能実習生については「3 年で帰ってもらうのはもったいない」という、企業からの声も少なくない。 せっかく戦力となってくれたのに 3 年で帰ってしまえば、またゼロから育てなければならない。 一方で製造業などでは、「日本の若い子はなかなか興味をもってくれない」、「3 年どころか、3 カ月ももたない」という声を聞いた。 「3 年いてくれるだけでもありがたい」ということだ。

何年も前から人手不足という問題に直面していたにもかかわらず、技能実習生や留学生といった「建前」で、人手の補充という「本音」を隠してきた。 いまだに外国人労働者の問題について、新たな仕組みを考えていこうといった機運が盛り上がっているとは言えず、実習期間を 3 年から 5 年にするなどという野放図さが目立つ。 そうしている間に、低賃金で過酷な労働を強いられる一部の外国人が日本を嫌いになって帰っていくということも続いている。 今こそ、自分たちの問題として外国人労働者について考えるべき時が来ている。 (友森敏雄、WedgeInfunity = 5-22-17)