「ファッション イン ジャパン」島根県立石見美術館で - カワイイもサステナブルも、日本の流行を辿る
企画展「ファッション イン ジャパン 1945-2020 - 流行と社会」
もんぺからサステナブル、さらにその先へ - - 戦後日本のファッションをたどる
島根会場では“紙と布”に関する特別展示も同時開催
(画像は左右にスライドしてください。)
企画展「ファッション イン ジャパン 1945-2020 - 流行と社会」が、島根県立石見美術館にて、2021 年 3 月 20 日(土・祝)から 5 月 16 日(日)まで開催され、その後東京の国立新美術館に巡回する。 なお、島根会場では、特別展示「コズミックワンダーと工藝ぱんくす舎 ノノ かみと布の原郷」も同時開催される。
A. 山縣良和 《ドレス》 written afterwards 11th collection 「After All」より 2020 年春夏 written afterwards 蔵 Photo by Yuji Hamada
独自の展開を広げる日本のファッションは、1970 年代以降、世界の注目をも集めてきた。 企画展「ファッション イン ジャパン 1945-2020 - 流行と社会」は、衣服だけでなく、写真や雑誌、映像といった豊富な資料から、"もんぺからサステナブル、さらにその先" の未来まで、戦後日本のファッションの展開をたどる展覧会だ。
B. 森英恵 《赤いバラ柄のイヴニングドレスとロングガウン》 1970 年代 撮影 : 岡田昌紘 [島根会場のみでの展示]
本展は、首都東京と地方の美術館のタッグによる稀な展覧会であると同時に、「ファッション」をテーマの 1 つとして収集を続けてきた石見美術館にとって、その活動の集大成となる。 これまで同館で開催してきたファッションの展覧会での調査や、それらの活動を通じて作品所蔵者とともに培ってきた関係を活かすことで、戦後日本のファッションの展開を概観できる充実した展示を展開する。
流行の発信者と受容者、メディアから探るファッション
C. BABY, THE STARS SHINE BRIGHT 《はわせドールワンピース》 2002 年 BABY, THE STARS SHINE BRIGHT 蔵
戦後以降の日本のファッション = 流行を、3 つの軸から考察する「ファッション イン ジャパン 1945-2020 - 流行と社会」。 衣服やアイディアを生みだすデザイナー、衣服をまとい、時として流行の源ともなる消費者に加えて、それら両者を結びつけるメディアの視点も射程に入れ、戦後の各時代におけるファッションと社会の関わりをひもとく。
1945-50 年代 : 戦後と洋裁文化
D. 中原淳一 《サーキュラースカート 「つぎはぎのたのしさ」》 1957 年 ひまわりや蔵 撮影 : 岡田昌紘 [島根会場のみでの展示]
明治期以降、近代化を推進した日本では、社会や文化の大きな変容を遂げた。 衣生活も例外ではない。 洋装を取り入れ、洋服・和服を公私に応じて使い分けていた時代を経て、もんぺや公式の国民服が普及した第二次世界大戦期ののち、洋服が日常着として定着するようになった。
戦後に洋服が普及する背景にあったのが "洋裁" だ。 限られた物資を衣服に作りかえるため、戦中から洋裁学校のニーズは高まっていたが、戦後には入学者が殺到。 洋裁を学んだ女性たちが、衣服の製作法を掲載した雑誌やスタイルブックを参照して自ら洋服を作り、日本全国に洋服が浸透することとなったのだ。
E. 森英恵 《アロハシャツ(映画『狂った果実』衣裳)》 1956 年 日活株式会社蔵 撮影 : 杉本和樹
加えて、1950 年代には映画が黄金期を迎え、「太陽族」ファッションなどの流行を生む契機ともなった。 会場では、中原淳一によるスカートや、映画『狂った果実』の衣裳・森英恵によるアロハシャツなどから、戦後における洋服の広まりを紹介する。
1960-80年代 : デザイナーと "個性" のファッション
F. 《変形学生服(短ラン、ボンタン)》 1980 年代 児島学生服資料館蔵 撮影 : 岡田昌紘
1960 年代には消費が拡大するとともに、上質な既製服の生産が可能となり、洋服は徐々に購入するものへと変化した。 70 年代に入ると、海外のコレクションに参加する気鋭の日本人デザイナーが登場。 また、原宿は "若者の街" へと変貌し、雑誌『アンアン』などの創刊もファッションの関心を後押しした。 そして日本の経済成長が頂点を極めた 80 年代は、しばし「感性の時代」と謳われるように、デザイナーの個性を打ち出した「DC ブランド」が最盛期を迎えることとなる。
G. 鋤田正義/Kansai Yamamoto x デヴィッ ド・ボウイ/1973 年
会場では、島根会場のみの展示となる森英恵によるイヴニングドレス、山本寛斎が手掛けた衣装に身を包むデヴィッド・ボウイの写真など、個性豊かな日本人デザイナーによる装いを紹介。 また、80 年代の "変形学生服" 短ランやボンタンは、画一的な制服を自らの個性に合わせてアレンジした装いと見ることもできるだろう。
1990-2000年代 : 原動力としての "ストリート"
H. 《『FRUiTS』 8 月号 No.13 表紙》 1998 年 ストリート編集室発行 個人蔵
バブル崩壊後の 1990 年代、流行は "ストリート" から生まれた。 デザイナーよりもむしろ、街ゆく若者が主体となって、裏原系や渋谷系といったファッションを発信したのだ。 また、インターネットがいまだ黎明期であった 90 年代後半には、『FRUiTS』のようなストリートスナップ専門誌やコギャル向けなど、テーマを細分化した雑誌が続々と登場。 巧みな着こなしをする読者モデルが流行を牽引したのだった。
I. 廣岡直人 《ボーダーダメージモヘアニット、チェックボンテージパンツ》 2002 年 h. NAOTO 蔵
そうしたストリートの動向は、2000 年代になるとデザイナーの製作の源泉ともなった。 原宿を中心に人気を集めた「ゴシック系」や「ロリータ」をはじめ、西洋のファッションを独自に再解釈したスタイルなどが流行し、「Kawaii」カルチャーとして世界にも広がる。 会場では、 ベイビー・ザ・スターズ・シャイン・ブライトのワンピースや、ゴスロリファッションを代表する廣岡直人による衣服などを展示する。
2010年代 : SNS 時代のファッション
J. Mame Kurogouchi 《ジャケット、ニット、スカート、ソックス、バッグ、シューズ》 2020 年秋冬 Mame Kurogouchi
2010 年代の日本社会は、2011 年 3 月 11 日の東北大震災とそれに続く原発事故、そして低迷する景気に特徴付けられる。 環境負荷と経済負担の少ない「サステナブル」な社会が志向されるとともに、リラックス感あるシンプルな装いや "ていねいな暮らし" が人気を集めることになる。
他方で、インターネットを介した個々人の交流も定着。 消費者はウェブを通じてブランドの世界観にふれ、同時にブランドは SNS 上の「いいね!」によって、より直接的に反応を見ることができるのだ。 そして "大きな" 流行源としての街の存在感は影を潜める一方、少数の人びとの共感を呼ぶ "小さな" 動向がいくつも沸きたつというように、流行も新たな局面を迎えることとなった。 会場では、マメ クロゴウチを筆頭に、いわば衣服の "現在形" にふれることができる。
"未来のファッション" とは - -
K. コズミックワンダー 《かみのひかりのあわ 紙衣》 大麻の繊維と野草の破片を混ぜた手漉き和紙・こんにゃく加工、2015 年、コズミックワンダー蔵 撮影 : 仲川あい [島根会場のみでの展示]
今や SNS の浸透によって、都市と地方、日本と世界が網目状に、瞬時に繋がるとともに、加速する消費サイクルのなかで「サステナブル」なもの作りはアクチュアリティーを増している。 本展の終章では、山縣良和によるリトゥンアフターワーズ (written afterwards) のドレスや、"紙と水" に着目して日本人の自然観・宇宙観を再考してきた 「コズミックワンダーと工藝ぱんくす舎」のプロジェクトなどを通して、来たるべき未来のファッションへと思いを馳せることができるのではなかろうか。
島根会場では "紙と布" に関する特別展示も同時開催
島根会場では「ファッション イン ジャパン 1945-2020 - 流行と社会」展と同時に、特別展示「コズミックワンダーと工藝ぱんくす舎 ノノ かみと布の原郷」も開催。 本展示は、日本各地に古くから伝わる 紙と布”を通して、日本各地の多彩な風土や人びとの暮らし、精神性を考察するものだ。
L. 工藝ぱんくす舎 《木頭村 那珂川での楮さらし》 2020 年 撮影 : 前田征紀 山深い徳島県那珂郡那珂町木頭には、太布作りが現在も継承される
江戸時代中期に木綿が広まる以前、人びとは身近にある草木から糸を作り、布にして、衣服や暮らしの道具としてきた。 藤や葛、大麻などの繊維を素材に作られた「自然布」は、それを生みだした地域の文化を色濃く反映しているのだ。
会場では「自然布」に加えて、布の跡が残る縄文時代の土器片、そして「コズミックワンダーと工藝ぱんくす舎」による、手漉き和紙を用いた新作やパフォーマンス、撮り下ろしの映像や写真などを通して、自らが根ざす自然環境に敬意を払いつつ暮らしてきた、古の営みを探る。
自然と人間の関係を再考するこれらの展示からは、先を急ぐように儚く過ぎゆくモードの時間に抗い、深く緩やかに呼吸をする自然の時間に寄り添う価値観がみとめられ、未来のあり方へのヒントを得られるかもしれない。 (FashionPress = 2-12-21)
10 億円超稼いだ風力発電に迫る耐用期限と事業継続の判断
「やさしい風の吹くまち」を掲げ、風力発電事業に取り組む鳥取県北栄町で、風車の建て替え計画が暗礁に乗り上げている。 運転している風車 9 基の耐用期限が 2 年後に迫る中、町は事業継続の前提となる新風車関連の予算案を町議会に 3 度提出したが、いずれも否決されたのだ。 累計 4 億円以上を繰り出して町財政を潤し、環境施策のシンボルにもなっている看板事業。 9 月からの「すったもんだの議論」では何が問題視されたのか。
予算案を 3 度否決
12 月議会に町側が提案した予算案に盛り込まれたのは、風力発電が生み出す電力を買い取るため、中国電力が実施する工事の負担金 3,300 万円。 負担金の拠出は、国の「固定価格買い取り制度 (FIT)」の認定条件となる。 採決が行われた同 16 日の本会議では、議長を除く議員 14 人のうち 8 人が反対討論に立った。 「新風車の建設費は 47 億円。 財政のか細い町にはリスクが大きすぎる。」 「子や孫に大きな負担を残すことがあってはならない。」 「町民の健康や景観に影響し、不安材料が大きい。」
こうした声のほか「(計画の賛否を問う)住民投票だってできた。 すべてが遅すぎた。 駆け込み予算に正当性はない。」と不信感をあらわにする議員もいた。 採決の結果は、賛成 5 に対し反対 9。 9、10 月議会に続く 3 度目の否決となった。 2 日後の 18 日に迫っていた FIT 申請の締め切り日を前に、町が描いた計画は白紙となった。
かみ合わぬ議論
実は、ある議員が反対の根拠とした 47 億円もの建て替え費用は、FIT 申請を前提とした試算段階の数字だった。 建て替え後の事業採算性を考えると、市場価格よりも高値である FIT 価格での売電が望ましい。 そこで風車建て替えの是非に関する判断を先送りし、まずは申請をしておくというのが町の考えだった。 町の担当者は「申請が認められた後、実態に合わせて数字を修正し、計画に無理があると判断されれば撤退することもできる。 負担金の拠出を盛り込んだ予算案は、新風車建設や事業継続の是非を問うものではない。」と話す。
これに対し、反対派の議員は「ここで前に進めば、詳細な環境影響評価の調査や風況調査などに入る。 仮に撤退した場合、2 億円程度かかる調査費は捨て金になる。」と指摘する。 さらに「47 億円が試算段階の数字とはいえ、莫大な費用がかかるのは間違いない。 予算規模 100 億円程度の町で数十億円の借金を抱えることになる。 今の風車事業では利益が出ているが、新しい風車建設ではもうけは出ない。」などと採算性を疑問視。 議論は平行線をたどった。
52 億円の売電収入
北栄町で町営風力発電事業が始まったのは平成 17 年だった。 高さ約 103 メートル、羽根(ローター)直径約 77 メートル、発電力 1,500 キロワットの 9 基を日本海沿いの砂丘地に建設。 生まれた電力を中国電力に売電した。 年間の発電量は約 6 千世帯分の電気使用量にあたる 2 万 1 千メガワット時で、町の全世帯分(約 5,400 世帯)を上回っている。 町によると、運転開始から 15 年間で計約 52 億円を売り上げ、建設費や維持費などを差し引いた上で、現在の「貯金」は 7 億円。 さらに 25 年度からは毎年 5 千万円程度、計 4 億円以上を町の一般会計に繰り出している。 町はこのお金で太陽光発電の設備設置費を補助したり、小中学校の照明 LED 化などの事業を推進したりしている。
町は新風車について、現行の 1.5 倍規模で 4 - 5 基の建て替えを目指している。 試算によると、発電力は 1 基当たり 3,200 - 4,300 キロワット。 建設費は 47 億円を見込む。 建て替え計画が明らかになった後の近隣住民調査では、現行風車について「音や振動を感じてイライラする」、「見るとストレスや不安を感じる」といった健康への影響や、「風車の近くで作業したくない」、「景観が不愉快」などの否定的な意見が寄せられた。 県はこの計画に対し、環境保全の見地から「風車の倒壊、ブレードの破損など万一の事故が起こっても、山陰道(北条道路)に影響が及ばない位置を選定すること」などと知事意見をつけた。
一方で、町が昨年度実施した町民アンケートによると、風力発電所を生かしたまちづくりについて「十分満足」、「まあ満足」とする回答が 63% を占め、「全く不満」、「やや不満」の 21% を大きく上回った。 さらに町は「温室効果ガス排出量の削減への貢献」を風力発電事業推進の根拠として強調する。
5 年先まで事業継続
町は、各地区の自治会長らで構成する「北条砂丘風力発電所設備更新検討会」に建て替えの是非について諮問した。 検討会は FIT 申請手続きを認めた上で、環境や採算性、町民合意に配慮し「更新について継続して検討し、3 年以内に結論を出す」よう答申。 議会とは異なる結論を出した。 予算案の否決を受け、松本昭夫町長は「理解を得られなかったことは残念。 今後どうするかは未定だが、現行風車の耐用年数はまだ 2 年ある。 現在の FIT 価格は 5 年先まで維持されるので、風力発電事業は継続できる」と説明。 その上で「今後、国が有利な風力発電施策を打ち出す可能性もある」と述べ、事業継続に向けて模索する考えを示唆した。 事業継続か否か、最終結論に至るまでにはなお曲折がありそうだ。 (sankei = 12-28-20)
島根銀、SBI が迫る変革 「モノ売り」から伴走型へ
資本提携から 1 年余
SBI ホールディングスとの資本・業務提携から 1 年余り、島根銀行が変革を図ろうとしている。 これまでは金融商品の「モノ売り」としての連携策が目立ったが、それでは新型コロナウイルスの影響で傷んだ地場企業を救いきれないとの危機感が芽生えてきた。 SBI が最初に出資した地銀である島根銀が目指す再起の動きは、全国からも注目されている。
昨年 9 月に SBI との資本・業務提携を発表する前、島根銀の本業のもうけを示すコア業務純益は 3 年連続で赤字となっていた。 長引く低金利で利ざやを確保できず、2017 年 2 月に新築した本店ビルの減価償却費も重荷となっていた。 金融庁も業績の動向に目を光らせ、一時は再編の可能性も取り沙汰された。 そうしたなかで、同行は SBI の出資を受けて単行としての姿を残すことを選んだ。
「ちょっと話を聞いてほしいと言われる存在を目指そう - -。」 10 月中旬、島根銀の社外取締役を務める森田俊平氏は全支店長にこう呼びかけた。 森田氏は SBI の専務でもあり、これまで同行との主要な連携策を推進してきた。 島根銀と SBI は、様々な施策を矢継ぎ早に打ってきた。共同店舗「島根銀行 SBI マネープラザ」を開設し、山陰地方ではまだ利用が少ない金利変動タイプの住宅ローンなどの取り扱いも始めた。 運用関連では、SBI のノウハウをもとに有価証券の構成を見直したこともあり、島根銀は 20 年 4 - 9 月期にコア業務純益を 4 年ぶりに黒字転換することができた。
一方で、同行の株価は伸び悩んでいる。 SBI が出資を発表した直後と比べ、足元では 1 割ほど水準を切り下げている。 PBR (株価純資産倍率)も解散価値の 1 倍を依然として下回ったままだ。 森田氏は「黒字化を果たすことを優先し、まずは手っ取り早く連携できるものから着手した」と振り返る。 ただ、このままモノ売りにまい進するだけでは島根銀の企業価値の向上はおろか、地域金融機関として求められる役割も果たせない。 同行と SBI のこうした危機感は、長引くコロナ禍で改めて浮き彫りになった。
■ 転身仕掛ける SBI
「しまぎん改革」が 2 年目を迎え、ここにきて SBI と島根銀は急激に「リレーションシップバンキング(リレバン)」へのシフトを志向し始めている。 顧客との深い関係性から得られる信用情報を生かして、融資や本業支援で伴走するのがリレバン。 きっかけとなったのは SBI が 8 月末に立ち上げた地方創生パートナーズ(東京・港)の外部アドバイザーとして金融庁参与の多胡秀人氏を引き入れたことだ。
多胡氏は東京銀行(現三菱 UFJ 銀行)や外資系銀行などを経て、現在は複数の地銀や信用金庫の社外取締役などを務める。 金融庁や地域金融かいわいではリレバン派の重鎮として知られる。 島根県出身ということもあり、同地域の行く末には特に思い入れが強い。 事業自体はキャッシュを生み出せているが、月々の借入金返済で損益が赤字となっている地方の中小・零細はことのほか多い - -。 こうした問題意識を持つ多胡氏が説くリレバンの手法は、まずお金の貸し方を見直すことから始まる。
借り換えを含めて顧客の資金繰りを立て直し、事業を回すために必要なキャッシュを正常運転資金として据える。 お金の出入りを借り手とともに把握し、商流や業況をつかむ。 顧客が本業に集中できるような体制を整えた上で、販路開拓といった事業支援に注力する。 多胡氏が描く草の根金融のあり方に対して、同じ島根県出身の川島克哉・SBI 副社長が共鳴している。 SBI の軌道修正に呼応するように、島根銀も変革を急ぐ。 12 月 1 日に企業支援室を設け、事業再生のプロを外部から引き抜くことを狙う。 経営改善が必要な取引先を洗い出し、まずは社数を絞って重点的な支援に乗り出そうと準備を進めている。
黒字転換を果たせたことで、目先の止血は終わった。次は地域のために取引先の事業再生にどこまで踏み込めるかが問われている。 脱モノ売りからリレバンへのシフトは、まだ始まったばかり。 島根銀の転身は、SBI が掲げる地銀連合構想そのものの成否をも握るカギになりそうだ。
■ SBI 副社長「ファンド通じて地方企業に資本支援も」 地銀と連携
SBI ホールディングスが掲げる「地銀連合構想」が始動してから 1 年余り。 同社が出資した地銀は 7 行にのぼる。 第 1 弾となった島根銀行の改革の進捗をどう見ているのか。 また、地銀の再編に注目が集まるなか、連合構想が目指す方向性をどう考えるか。 出資する地銀との連携策や戦略づくりで中核を担う、島根県出身の川島克哉・SBI 副社長に聞いた。
- - この 1 年、島根銀との連携策は、供給者目線のプロダクトアウトが目立ちました。
「まずは目先の収益を好転させるために、手っ取り早かったからだ。 市場運用の方針を見直し、無駄なコストを省くことは多くの人が必要となる力仕事ではない。 コア業務純益を黒字に戻しただけでも行員や取引先企業のマインドは変わった。 現場の若い行員の目の色が変わったという話も聞く。 この 1 年の成果はこういったところにあったと思う。」
- - 島根銀は最近、顧客の事業支援に注力するリレーションシップバンキングへのシフトを急いでいます。
「そもそも金融業は顧客とのリレーションがあって初めて成り立つ。 そういう意味では本来あるべき地銀の原点に回帰しようとしているのだと思う。 ただ、限られた行員で昔ながらのリレバンをやるのには限界もある。 それを補うのが SBI のテクノロジーやノウハウだと考えている。」 「我々は創業以来、ベンチャー企業の投資に力を入れてきた。 目先の資金繰りの心配をせずに、本業に集中してもらえるような環境を整えるのは得意領域だ。 蓄積してきたノウハウは出資行にも提供していきたい。」
- - 出資行は 7 つまで増えました。 今後は何を目指しますか。
「数が増えることでサポート実績がたまる。 集まった好事例を各行で共有するだけでも意味がある。 個別行ごとに事情は異なるが、市場運用回りやシステムコストの削減といった土台のサポートは着実にできている。 こうした取り組みは 1 - 2 行では不十分だが、何十行もやるのは厳しい。 一つの目安として 10 行を目標にしている。」 「個別での対応になると思うが、今後は地銀と連携して、ファンドを通じた地方企業への資本支援も検討する。 SBI はデジタル技術を活用した本業支援や成長促進のノウハウを持っているが、何より現場や取引先のことを分かっているのは地銀だ。 どちらかだけでは足りない。 共にやることが地方創生につながる。」
- - 新型コロナウイルス禍で中小企業の事業再生も今後重要なテーマです。
「事業再生ができる人材は足りていない。 ただ出資先の地銀やその周辺の組織にノウハウを持つ人はいる。 事業再生にたけた人材を相互に送り合えるようなプラットフォームの構築も考える必要がある。 これも地銀連合構想があるからこそできることだと考えている。」
- - SBI は地銀再編の台風の目になりますか。
「我々は再編論者ではない。 地銀の数は多いのかもしれないが、少なくするために SBI が何かをする気はない。地域が経済活動を続ける上で地銀の果たす役割は今後も大きく変わる。 我々はあくまで縁の下の力持ちとして手伝う立場だ。 SBI ブランドにはこだわらず、むしろホワイトラベルでいいと思っている。」
■ 業況厳しい顧客の本業支援にどこまで踏み込めるか
島根銀行の収益が悪化した背景は、低金利やコスト増だけではない。 島根県のある金融関係者は「顧客との関係性が薄れたことにこそ原因があった」と指摘する。 一時、県外での市場開拓を進めた同行が 2010 年ごろに県内回帰を志向した際、「顧客と深く向き合う構えをとれなかった」と同行幹部は振り返る。
現在は SBI からの出資で収益や財務は落ち着いた。 今後も安定して黒字を維持できるかどうかは、業況が厳しい取引先の本業支援にどこまで踏み込めるかにかかっている。 金利競争をすべき局面と、顧客の存続支援に徹する場面とを丁寧に切り分ける必要がある。 SBI が提供するツールをうまく使えたとしても地場企業との深い接点は島根銀の行員にしかつくれない。 「リレバン」への転身はこれからだ。 (田口翔一朗、nikkei = 12-5-20)
日本と台湾を結ぶ美酒「台中六十五」 : 島根で酒米作りから取り組む台湾人蔵人の物語
台湾の日本統治時代に誕生したジャポニカ米「台中 65 号」でおいしい酒が醸造できると信じてきた筆者は島根県で酒造りに従事。 その酒は国際的な賞をいくつも受賞、脚光を浴びている。 酒米の栽培から醸酒まで、長きにわたり日本人が従事してきた伝統を台湾人蔵人が守る … 農業と酒造りを巡る新たな日台交流の産声が上がろうとしている。
2020 年、世界レベルで新型コロナウイルスがまん延する中、日本酒業界は前例がないほどの厳しい状況にある。 毎年開催される 100 年以上の歴史を持つ全国新酒鑑評会が予選にあたる予審のみの開催となり、そのほか世界各国の清酒の品評会も中止または延期となった。 そんな状況下で戦前の台湾で開発された米「台中 65 号」を使って醸造した酒「台中六十五」が全米日本酒歓評会の吟醸部門の準グランプリを受賞した。 「日台ハーフ」と言えるこの酒の名がついに世界に羽ばたいたのだ。
日本酒業界への第一歩
台北で日系企業の社長秘書として働いた後、私は子どもの頃から憧れていた日本へ飛んだ。 2008 年、28 歳の時に島根大学に入学したのだ。 日本でのキャリアをスタートするにはやや年をとっていたかもしれないし、何の力もない私にとって日本での道のりは決して平たんとは思えなかった。 それでも、時間をかけて日本社会に溶け込む覚悟で、社会人になってから貯めていた貯金を元手にして、私は 2 回目の大学生活をスタートした。
留学先に島根を選んだのは、単純に日本の神話に興味があったからだ。 また、地方なら生活費もあまりかからないという読みもあった。 当時は、奨学金と学費の減免制度を利用しても、まったく生活に余裕はなかったが、自由があり、たくさんの友人と知り合うことができた。 サークルの飲み会で、部長が松江の地酒を持ってきてくれたことがあり、私は一口飲んで、その豊かな味わいと香りのとりこになってしまった。 台湾でも日本酒が出回っているが、紙パック入りであまり印象はよくなかった。 島根の酒は、それまで私が知っていた日本酒とは全く別物だったのだ。 しかし、あの時の酒が、私と日本酒との切っても切れない深い縁の始まりになるとは思いもよらなかった。
20 歳そこそこの日本人の大学生に交じって、30 歳過ぎの台湾からの留学生が就職活動するのはかなり目立った。 しかも、当時は今以上に、外国人社員を受け入れる風潮もなかった。 在学中に休学して働きに来ないかと言ってくれる企業もあったが、奨学金を受けている身であり、志も半ばだ。 また、せっかく取った単位がもったいない気もしてその企業からの誘いは断った。 何社かの面接を受けた後、就職活動で知り合った山口県の飲食業の社長が私の卒業後の進路と方向性を心配してくれていた。 丁度、山口県岩国市の日本酒「獺祭(だっさい)」に興味を持っていたので、その社長が蔵元の「旭酒造」に問い合わせの電話をしてくれたのだ。
旭酒造で面接を受けたものの、その後、何の連絡もこない。 そこで、当時の桜井博志社長(現会長)宛に「インターンシップに参加させてほしい」と直訴の手紙を書いたところ、1 週間の実習生として迎えてくれた。 その頃、「獺祭」は既に真夏の暑い時期も含めて通年で酒を仕込む「四季醸造」に取り組んでおり、1 日に洗うコメの量は 700 キロ以上にもなっていた。 酒造りの全ての工程を体験し、最終日に桜井社長から入社の意思を尋ねられ、私ははっきりとこの伝統ある業界に入りたいという思いを伝えた。 こうして、2012 年春、大学を卒業し旭酒造への入社を果たした。 私は酒造り人生のスタートラインに立ったのだ。
酒造りの研さんの道
旭酒造での 1 年目は、少しでも早く日本酒の製造過程を覚えるために、各部門を回り勉強した。 仕事の後には専門書を読み知識を得ようとした。 極度の品薄状態を解消するため、旭酒造は 2015 年に酒造メーカーの常識を破る 12 階建ての工場で大量生産を始めたのだが、私が入社した当時は、建物は半木造で、いわゆる昔ながらの酒蔵だった。 私はここで伝統と現代が共存する技術を学んだのだった。 2 年目には輸出業務にも携わった。 台湾を中心に香港、シンガポールでもイベントを行った。 だが当時、獺祭は生産が追いつかず、海外で売ろうにも売る酒がない状態だった。 「やりたい気持ちはあるのにできない」というもどかしさの中、私は旭酒造を辞め東京の出版社へ転職することにした。
東京へ「逃亡」して 1 年、私はやはり酒造りの喜びを忘れることができなかった。 そこで香港で知り合った島根県の李白酒造の田中裕一郎社長に連絡し、蔵人(くらうど)として酒造りを極めていきたいと思っていることを伝えた。 私は留学時代に経験した島根での生活が気に入っていたし、台南出身であるせいか、神々の息吹に包まれた島根という場所が好きだった。 田中社長は私の申し出に快く応じてくれて、2015 年に私は再び島根に戻ることになった。 こうして私は本格的に酒造りの道を進むことになった。 東京農業大学卒の田中社長の方針は、酒造りの知識を持ち研究を進めることができる正社員の育成である。 そんな李白酒造で私は知識と実際に現場で使われている技術をより深く結び付けることができ、国家資格である酒造技能士にも合格した。
戦前の台湾で生まれた米「台中65号」との出会い
日本酒業界に入ってしばらくたち、技術もある程度身についてきた頃のことだ。 私は自分で 1 から新しい酒を造ったら、その酒はどんなものになるだろうと考えるようになった。 酒造りはチーム戦だ。 伝統的な酒造りは杜氏がリーダーとなって職人を率い、1 つの目標に向かって一同で協力していくものである。 杜氏になるなんて、当時の私にはまだずっと先のことのように思えた。
島根県に来る外国人旅行者数の中で、最も多いのは台湾人だ。 だが島根県民の台湾への理解は決して高いとは言えなかった。 2016 年、島根県の人にもっと台湾を知ってもらうために、自ら費用を工面して台湾のイラストレーター「KCN」さんの展示会を開催した。 KCN さんは戦前の台湾で活躍した日本人を題材としたイラストの制作を中心に活動している。 作品には日本と台湾の歴史的な関係が取り入れられているのだ。
その展示会用に「台湾農業の父」と呼ばれる戦前の農学者・磯永吉の紹介文を書いているとき、私は戦前の台湾で開発された米「台中 65 号」のことを知った。 しかも台中 65 号は島根の亀治米と兵庫の神力米を掛け合わせて誕生した米だったのである。 亀治米と神力米は、日本で酒米として酒造りに使われることもある。 私は台中 65 号には酒米になる可能性が秘められていると直感した。
台湾で栽培されるジャポニカ種のコメの総称を「蓬莱米」という。 日本統治時代初期に登場した蓬莱米には日台の深い関わりがあり、そして台湾の食文化に大きな影響を与えたという歴史がある。 蓬莱米の普及により、台湾の食生活は細長いインディカ米から丸い粒のジャポニカ米へと変化したのだ。 そこで、私は台中 65 号で自分の酒を造ろうとひらめいたのだった。
蔵人の修行は水田から始まった
酒造りは奥が深い。 昔の蔵人は夏場は農業に従事し生計を立てていたとことから、蔵人は米にも精通していることが求められた。 つまり酒造りへの精進のためには、米作りも避けて通れないのだ。 台中 65 号で酒を造りたいと考えた私は種もみ探しに着手した。 台湾では新品種の登場で台中 65 号は栽培されなくなって久しい。 また見つかったとしても植物検疫の関係で台湾から日本への持ち込みはできないだろう。 そこで私は日本の学術機関の種子庫を探すことにした。 台中 65 号の種もみは、まず九州大学の種子庫で見つかった。
しかし規定により 10 粒しか持ち出しができないとのことだった。 発芽率がどうかも分からない。 最終的には、九州大学の規定上、個人への譲渡は認められず私は諦めるしかなかった。 その後、ネットで沖縄の農家が台中 65 号を栽培しているという情報を得た。 沖縄では 1995 年まで台中 65 号が奨励品種として栽培されていたこともあり、現在も一部の農家が栽培していたのだ。 台中 65 号で酒を造りたい、そう思い描いてから種もみを入手するまでに 1 年の時間がたっていた。
種もみを入手した私は、次に栽培できる水田を探した。 当時の日本は減反政策をとっていて、水田探しは容易ではなかった。 多くの日本の友人が探してくれたが、育苗期の直前になっても水田は見つからなかった。 もう諦めるしかないのかと思ったとき、李白酒造の同僚で醸酒歴 40 年以上のベテラン蔵人が使っていない水田の提供を申し出てくれたのだ。 こうして 2017 年 4 月、世界最北限の台中 65 号の栽培が島根県松江市のわずか 7 アール(700m2)の田んぼで始まった。 亀治米の DNA が 100 年の時を経て島根に戻ってきたのだ。
実は、現在に至るまで本州における台中 65 号の栽培記録はない。 近隣の農家は「蓬莱米」という名称さえ聞いたことがないという。 栽培のポイントが分からないまま、私は車で往復 2 時間かかる水田に行き、水田の様子を観察した。 研究資料も探し、島根県農業センターの専門家や農家の友人の助けを借りた。 そしてついに台中 65 号の稲穂が顏を出した。
品種「台中 65 号」から銘柄「台中六十五」へ
李白酒造で学ぶべきことは学べた。 そう思った私は台中 65 号の醸造のために李白酒造を去ることにした。 次に入ったのは島根県雲南市の木次酒造だ。 木次酒造がある雲南市はヤマタノオロチ伝説の舞台である。 設備はシンプルで、醸造量は多いとは言えないが、酒桶ひとつひとつを丁寧に造っている蔵だ。 蔵人としての経験を積むためにも、台中 65 号の醸造のためにも非常に良い環境だった。
台中 65 号の醸造のために、私は自費で国立酒類総合研究所や各地の杜氏組合の醸造講習会に参加し、併せて各地の蔵の杜氏に教えを請うた。 台中 65 号での酒造りには経験者がいない。 記録もなければその特性を知る人もいない。 初めての台中 65 号での醸造では精米の特性をテストするため、精米歩合 50% の無濾過純米吟醸を目標とし、木次酒造の手動精米機で精米した。
醸造期はちょうどいいことに大雪と重なった。 酒造内の部屋は昼間でも気温が 2℃ 前後。 麹を作る「製麹(せいきく)」と呼ばれる工程は徹夜仕事になった。 毎日、発酵した醪(もろみ)を分析し、その出来を見ては時に杜氏と衝突する … こうやって熟成した醪をしぼり、2018 年春、台中 65 号を使った酒「台中六十五」は完成した。 初めての「台中六十五」は 400 瓶にも満たなかったが、この酒は酒であると同時に 3 年の時と多くの人の助けにより編まれた物語となったのだ。
前出のイラストレーター KCN さんと出会って十数年がたつ。 最初に KCN さんを知ったのは彼のブログだ。 KCN さんのブログではオリジナルのイラストと共に、日本統治時代に台湾に貢献した偉人の物語が紹介されていた。 私は磯永吉先生の台湾における実績をここで知った。 KCN さんは彼のやり方で日本統治時代を紹介している。 私のやり方は、台中 65 号を使って酒を造り、台湾の蓬莱米の父である磯永吉先生と末永仁(めぐむ)先生に敬意を表することだ。
だから新しい酒の名前は「台中六十五」とした。 台中六十五のラベルは KCN さんと 2 人で議論の末に決めたものだ。 ラベルには旧台中市章と台湾総督府の紋章内にある「台」の字のデザイン部分を使うことにした。そして毎年、「台中六十五」が完成すると広島県の日彰館高校にある磯栄吉先生の記念碑に行き、献酒式を執り行い感謝を奉げている。
日台ハーフの「台中六十五」
島根に根を張った台中 65 号は、今年でもう 4 年目に入った。 今年の台中 65 号の収穫も目前だ。 木次酒造の後、私は島根県の板倉酒造を経て、今は佐賀県の宗政酒造にいる。 台中 65 号の栽培や各地の酒造での異なる醸造経験からは、技術だけでなく、皆さんの醸造哲学を学んだと思っている。
台中六十五の醸造のために、私は、毎年クラウドファンディングサイトで日本と台湾から資金を募っている。 台中六十五が日台ハーフと言えるのは、酒米と技術だけでなく、日台の多くの人の助けのもとに完成したという点でも同じだろう。 私は、台中六十五が日本と台湾を結ぶ酒になることを願っている。 そしてより多くの人に蓬莱米の物語を知ってもらい、日台の食文化において食事の基本要素である「米」にも深いつながりがあることを知ってもらいたいと思う。
この 3 年間、毎年異なるテーマを持っていた台中六十五は、さまざまな清酒品評会で賞を獲得してきた。 今の私の願いは、遠くない将来、自分の酒蔵を持ち、技術を伝えるとともに醸酒業と地域文化のつながりを深めていくことである。 台湾人に島根県と日本酒業界をより深く知ってもらうために、毎年、島根県では酒造団体による台湾人を対象としたツアーを実施している。 このツアーでは島根の酒造や神社を巡っているが、今年は新型コロナウイルスの影響で中止となってしまった。 1 日も早く日常を取り戻し、日本酒業界も以前の活気が戻るよう願うばかりである。 (陳韋仁、nippon.com = 11-14-20)
台中六十五 受賞記録
2019年 ロンドン酒チャレンジ 純米吟釀部門 銀賞
2020年 南部杜氏自醸清酒鑑評会 純米酒部門 優等賞
2020年 フェミナリーズ世界ワインコンクール 日本酒純米吟釀部門 銀賞
2020年 KURA MASTER 純米酒部門 プラチナ賞
2020年 ロンドン酒チャレンジ 純米吟釀部門 金賞 x 2 銅賞
2020年 全米日本酒歓評会 吟醸部門準グランプリ、山廃特別賞
陳 韋仁 (Chen Weijen) : 台湾台南生まれ。 日本企業の台湾支社で総経理秘書を務めた後、2008 年に島根大学に留学。 留学中に日本酒と出会い、卒業後は山口県岩国市の旭酒造で蔵人として在籍、海外業務も担当する。 2 年後に東京に渡るも、酒造りの喜びを忘れることができず、2015 年に島根県松江市の李白酒造に入社。 蔵人として醸造技術の向上に精進する。 2016 年に戦前の台湾で開発されたジャポニカ米「台中 65 号」の種もみを探し出し、翌 2017 年に栽培を開始。 2018 年に台中 65 号を使った日本酒「台中六十五」を完成させた。 酒造技能士、清酒専門評価者、山陰地域限定通訳案内士。 遣島使(島根県ふるさと親善大使)、松江市観光大使としても活動中。
|