島根県の海士町という離島を取材してきて思うこと

どうも鳥井(@hirofumi21)です。 先週、島根県の海士町(あまちょう)に取材に行ってきました。 海士町は、島根県の隠岐諸島の中のひとつで人口 2,400 人ほどの島にも関わらず、今も I ターン希望者が後を絶たない場所です。 徳島県神山町と並んで、いま日本で注目されている地域のひとつ。 その島根県海士町でいま何が起きているのか、自分たちの目で見てみたかったので実際に取材に行ってきました。

"離島" だからこそ

海士町も、日本の過疎地域がよく抱える問題を抱えています。 しかし、これまで行ってきた過疎地域とはまた全く異なる価値観も垣間見ることができました。 住民の方々の考えも、これまでに訪れた地方にはない特徴的なものが多かったです。 特に一番印象的だったのは、島の中で循環させようとしていること。 なぜ、この島の人々はそのような考えに至ったのか。

理由を色々と考えてみたのですが、やっぱり答えは単純で「島だから」だと思います。 離島であるという地理的な要因がとても大きく作用しているのだと思います。 本土から、フェリーで約 3 時間ほどかけて向かう島。 海が荒れればその島からでることさえ許されない "離島" だからこそ、一般的な過疎地域とは違う感覚が生まれてくるのでしょう。 日本の過疎地域がそのまま真似できるものではないけれど …。

海士町の素晴らしさや、海士町の中で成功している事例というのは、必ずしも日本の過疎地域が真似できるものとは限りません。 まったく同じように取り入れることは不可能でしょう。 でも、この取り組みを参考にして「だったら自分たちの場合はこんなことができるかも!?」と考える事はできるはず。 そんなヒントが島中にゴロゴロと転がっているように感じました。

また、「日本の中の海士町という離島」という位置関係は、見方を変えれば「世界の中の日本という島国」であるという関係性にも類似しています。 海士町に生きる人々が何を想い、何に幸福感を感じているのか。 何に危機感を感じて、何に不満に思っているのか。 そしてこの先どこに向かおうとしているのか。 ここにこれからの日本の過疎地域が生き残るため、グローバル競争の中で日本が生き残るためのヒントがあるような気がしました。

最後に

マスメディアから発信されるその土地の印象を真に受けて、そればかりを信頼してしまうと本当のその町の姿というのは見えてきません。 「すごい! 新しい! 画期的!」と礼賛されている地方には、それと同じくらい苦悩や葛藤も存在します。 前回の「徳島県神山町特集」と同じように、今回もそんな声も含め取材してくることができました。

3 月下旬から 4 月上旬にかけて「灯台もと暮らし」で公開予定です。 魅力的な地方に I ターンしたいと思っているような若者、特に「地域おこし協力隊」などに応募したいと思っている若者にはぜひ読んで欲しい記事になると思います。 ぜひご期待ください。 それでは今日はこのへんで! ではではー! (鳥井弘文、Blogos = 3-9-15)


短期バイトのはずが、古民家の宿経営に 隠岐の島町

日本海に浮かぶ隠岐諸島。 島根半島より北へ 40 - 80 キロほどのところに大小約 180 の島がある。 有人島は全部で 4 つ。 "島前(どうぜん)" と呼ばれる知夫里島(ちぶりじま)、中ノ島、西ノ島の 3 島と、"島後(どうご)" と呼ばれる隠岐の島町だ。 歴史は旧石器時代までさかのぼり、平安時代以降は後鳥羽上皇や後醍醐天皇など身分の高い人々の流刑地としても知られている。 2013 年に「世界ジオパーク」に認定された雄大な自然も魅力のひとつだ。 その隠岐諸島の中で最大の "隠岐の島町" は面積 243 平方キロ。 円形の島で、出雲や大阪からの飛行機が発着する空港もある。

西郷港から車で 20 分ほど、島の北部にある中村集落に、2014 年 6 月、新しい宿ができた。 その名も「隠岐の島暮らし体験ゲストハウス 佃屋」。 建物は築 120 年を超える屋敷で、外には大きな蔵や井戸、納屋なども残っている。 もともとは庄屋だったという建物の正面の引き戸を開けると、広い土間があり、襖の向こうには囲炉裏のある大広間や、畳の部屋がいくつもつながっている。 水回りは改装されているが、それ以外は昔のまま。 まるで「田舎の実家」に帰ってきたような、どこか心落ち着く空間だ。

寝室は基本的に共同部屋。 キッチンは自由に使える。 島の暮らしを体験するための宿なので、旅館のような細かいサービスはないが、近くの海で釣った魚をさばいて食べたり、地元の人や泊まり客と一緒に酒を酌み交わしたり、普通のホテルや旅館では決して味わえない時間が過ごせる。 昨年の夏は、8 月だけで宿泊数が 100 泊ほどを数え、すでにリピーターもいる。 オープンから 1 年たたずして "話題の宿" となった。

この宿を立ち上げたのが、美人 "大将" の宮本咲季さん (29)。 隠岐にきて 3 カ月足らずで構想を思いつき、企画書を書いてあちこち奔走。 10 カ月後にはたった一人でオープンにこぎつけた。 「島に来たときは、数カ月後に自分がゲストハウスをやるなんて、想像さえしませんでした。」 そう話す宮本さんは静岡県沼津市の出身。 高専時代に米カリフォルニア州のサンノゼを訪れたことがきっかけで、旅に目覚めた。 英語が通じなかったのがショックで、帰国後は真剣に勉強を始めた。 それからは、休みの度にオーストラリア、カナダ、アジア、ヨーロッパなどへ行き、"旅する人生" が始まった。

卒業後は、都内にあるウェブ・マーケティングの会社でアルバイトを始め、半年後にそのまま正社員に。 クライアントのホームページの製作をすることが主な仕事だった。 その会社を選んだポイントも旅だった。 「クライアントに旅行会社や航空会社が多かったんです。 6、7 人の小さい会社でしたが、社長も旅好きで、社員にどんどん旅をさせる風潮があって。 人生を楽しむことがいい仕事につながるからと、旅行支援金まで出してくれたんです。 スタッフはみんな語学堪能で旅好き。 休暇は取り合いでした。」

社風が肌に合い、仕事も楽しく充実していたが、宮本さんは 3 年ほど働いて会社を辞めた。 その理由もやはり旅だった。 「英語が上手な会社の人を見ていて、私ももっと勉強したい、一度海外に住んでみたい、という思いが大きくなったんです。 たまたまクライアントにオーストラリア関係の人が多かったので、じゃあ、オーストラリアにいってみようかなと思って、ワーキングホリデーで行くことにしたんです。」 現地では飲食店で働いたり、ウェブの仕事をしながら、国内やバリ島などを旅してまわった。 当時 25 歳。 好奇心の赴くまま新しい世界を広げていった。

1 年ほどして、実家のある沼津に戻ったが、世界を見てきた宮本さんには、少し刺激が足りなかった。 地元は大好きだが、「ちょっと戻るのが早かったかな」と感じた。 もう一度大きな都市へ出て、ウェブの仕事のレベルアップをしたくなった。 東京は一度住んだことがあるので、他の場所に行ってみたい。 「大阪、名古屋はぴんとこなかった」が、「福岡ならいいかも」とひらめいた。 友達もいたし、ウェブの仕事も進んでいる。 次なる拠点を福岡に絞ると、ウェブ関連の会社で仕事を見つけ、すぐに引っ越した。

福岡の雰囲気は大好きだったが、勤め先がまったく合わなかった。 結局、半年で会社を辞めた。 さて、この先どうするか。 選択肢は 3 つあった。 気に入っている福岡で同じ業界の会社を探すか。 もしくは、業界を変えて転職するか。 はたまた、自分で何かを始めてしまうか。 とはいえ、何をしたらいいのかもわからないし、資金もない。 まずはお金を貯めながら次にやることを考えよう、と決めた。

お金を貯めたいときに、一番ネックになるのが家賃だ。 ただ寝て起きているだけで、まとまった額が毎月引かれて行く。 「いっそのこと、家賃のかからない住み込みのバイトを探そう!」 そう思いつき、宮本さんはリゾートバイトを探し始める。 日本には、リゾートバイトを専門にあっせんしてくれる会社がある。 そこに登録すれば、全国どこでも行きたい場所を選んで、現地の宿泊施設に住みながら働くことができる。

季節は夏のハイシーズン前。 屋久島や小豆島にはすでに空きがなかった。 さてどうしよう ・・・。 そこにあった日本地図に視線を落とすと、隠岐の島が目に入ってきた。 ちょうど数カ月前、旅好きの友人が「行ってみたいところ」と話していた。 あの子が行きたいと言っている島なら、おもしろいんじゃないか。 「隠岐の島はどうですか?」と聞いてみると、島で一番大きなホテルに空きがあった。 (宇佐美里圭、asahi = 1-20-15)


移住促進、山村の挑戦 島根・邑南町ルポ

地方が深刻な少子高齢化、過疎にあえぐ中、東北など全国から視察が相次ぐ自治体がある。 中国山地の奥深く、島根県邑南町(おおなんちょう)。 子育て世代への手厚い支援と幅広い移住促進策などを展開し、都市部に流出が続いていた社会動態を増加へと転換させた。 人口 1 万ちょっとの小さな町が目指す未来に「地方創生」のヒントを探った。

「日本一の子育て村を目指して」と書かれた約 6 メートルの大看板が、役場正面で来庁者を出迎える。 構想は 2010 年秋にスタートした。 年 200 人の人口減少に歯止めをかけるには、0 - 18 歳人口の確保が欠かせない。 中学校卒業までの子ども医療費と第 2 子以降の保育料、保育所給食のそれぞれ無料化などを矢継ぎ早に打ち出した。

併せて、専従職員として定住支援コーディネーターを採用。 子育て世代に U ターンを促し、I ターン組も積極的に受け入れる態勢を整えた。 コーディネーターの横洲竜さん (41) も広島市からの移住者。 来年、2 人目が生まれる子育て世代の 1 人だ。 住まいや仕事探し、近所付き合いの悩みまで「おせっかいを焼くのが自分の仕事」と自任する。

11 - 13 年度の定住実績は 83 世帯、128 人に上る。 毎年、数十人ずつ減っていた人口の社会動態は改善に向かい、13 年度は 20 人のプラスに転じた。 新婚や小さな子どもがいる家族からの問い合わせが急増している。 子ども 2 人を抱えるシングルマザーだった石田麻衣さん (32) は 11 年 3 月、広島市から移り住んだ。 「離婚後、生活に追い詰められて孤独だった。 心の余裕を取り戻し、救われた。」と振り返る。

昨年 4 月に町内の男性と再婚。 今は移住者をつなぐ中心的な存在だ。 就農希望者が全国から集まる「アグリサポートおおなん」のスタッフとしても働く。 新たな定住の橋渡し役として、好循環が生まれ始めている。

女性や若者を引きつけるため、町が「攻め」の定住政策に掲げるのが「食」を軸にした起業や就業スタイルの提案だ。 全国で初めて 11 年に農林商工等連携ビジョンを策定。 豊かな農産物はあるが、少量多品種では市場流通に太刀打ちできない。 山村の閉鎖性を付加価値にした食体験を「A 級グルメ」と銘打ち、ブランド化を構築した。

発信拠点は町営のイタリアンレストラン「味蔵」。 中国地方で唯一、在日イタリア商工会議所の品質認証を取得し、地産地消の推進で多くの研修シェフを受け入れる。 東京のレストランから昨年 11 月に転職した統括マネージャーの佐藤聡さん (33) は「お金を追い掛けるのではなく、地域や食文化への貢献など働く意味を見いだしたかった」と話す。 3 月には妻と子ども 2 人が合流し、新生活を始める予定だ。

ビジョン策定から 4 年、町内には新たな飲食店が 6 店舗オープン。 野菜料理などの女性プロデューサー 2 人の定住も実現した。 「A 級グルメ」を点から線に、面へと広げる土壌ができつつある。 石橋良治町長は「人口減少を止めるのは難しいが、地域を挙げて次世代を受け入れ、育てることはできる。 地方の力が試されている。」と語る。 (元柏和幸、河北新報 = 1-1-15)

島根県邑南町] 2004 年に 2 町 1 村が合併して誕生。 人口は 1 万 1,501。 65 歳以上の高齢化率は 41.9% (昨年 11 月末現在)。 日本創成会議による将来推計では 40 年の人口は 6,781、若年女性人口は 58.4% 減ると試算されている。


この島で生きる 島根県海士町ルポ

"人づくり" を島おこしの軸に 移住者ら再生の起爆剤に

内外の英知を結集す

海士町は、一貫して "人づくり" を島おこしの軸にしてきた。 人口減少で "地方消滅" という問題に直面する中、町の将来を見据えて一層、教育に力を入れなければならないと思う。 私は島の高校生に「仕事を創りに帰ってきてほしい」と呼び掛けている。 いつか、この自然豊かなふるさとで、世界とつながりながら夢を実現させてもらいたい。 島根半島の北約 60 キロ、本土からフェリーで約 3 時間、自然に恵まれた海士町は、半農半漁の小さな町だ。 承久の乱で敗れた後鳥羽上皇の流刑地として知られ、独自の歴史と文化に彩られている。

2000 年代初頭、公共事業で町の財政は借金が膨らみ、まさに破綻寸前だった。 「自力で町の展望を開かねば!」 04 年、山内道雄町長ら行政と地元住民が団結し、わずか 3 カ月で自立促進プランを練り上げた。 以来、大胆な行財政改革と "なりわい" 創出へ、あくなき挑戦を続けてきた。 大きな突破口を開いたのは、05 年に完成した CAS 凍結センターだ。 町が設立した第三セクター「株式会社ふるさと海士」が運営している。

CAS (Cells Alive System) とは、磁場エネルギーで細胞を振動させることによって、生きたままのような状態を維持し冷結保存する画期的なシステム。 このシステムの導入によって、岩ガキやイカなど島の海産物の鮮度を落とすことなく、市場に届けることが可能になった。 本土に届くまで輸送時間がかかり、鮮度が落ちるという離島のハンディを克服。 島にとっては、まさに経済発展をもたらすイノベーション(技術革新)となった。

海産物を島のブランド商品として、首都圏の飲食店などに出荷できるようになり、インターネットでの通信販売も可能になった。 同社の奥田和司社長補佐役は、「漁業者の手取り収入の増加につながり、地元漁業の維持に貢献している」と胸を張る。 さらに、不漁が続いても、海産物を使ったフライなど加工品を製造・販売することで、安定した雇用を生み出せるようになった。 売り上げも順調に伸び、今年度は 1 億 8,000 万円を超える見込みだ。

それまで商品価値のあることすら気付かなかったものが、外から見れば魅力となる。 その例が「島じゃ常識 さざえカレー」だ。 さざえカレーは、もともと地元の食文化として定着していた。 それを商品化しようと思い付いたのは、島外からの移住者だった。 現在、同商品を作る平野雅士さんは求人でさざえカレーに興味を抱き、京都から移住。 島で結婚もした。 やりがいを感じる毎日だ。 「新商品を開発したい」と夢を語る。

豊かな海産物をブランド化すれば売れる -。 海士産の岩ガキ「春香」が後に続いた。 出身地に戻り定住する U ターンと、都市部などから移住する I ターンの人々が地元漁師と協力し、養殖に成功。 首都圏内のほとんどのオイスターバーに卸す。 町が 06 年 10 月に立ち上げた「海士いわがき生産株式会社」が年間 30 万個を生産するが、供給が追い付かない状況だ。 同社の大脇安則代表取締役は「ブランド化が大きな役割を果たし、収入も安定してきた。 後継者を育てたい」と、先を見詰める。

新たな産業創出の立役者は I ターン者ばかりではない。 松阪牛など全国区のブランド牛に劣らぬ評価を受ける「隠岐牛」の飼育を担うのは、地元の建設業者。 畜産業に参入するため「有限会社隠岐潮風ファーム」を 04 年に設立。 農業参入への規制を緩和する潮風農業特区の認定を国から受けた。 現在、約 600 頭の肥育・繁殖牛を飼育する同社の田仲寿夫代表取締役は、「出荷頭数を倍増させたい」と意欲を燃やす。

島には I ターン者を引きつける魅力があるようだ。 宮ア雅也さんは国立大学に在学中、島の子どもたちとの出会いがきっかけで、卒業して 3 日後、海士町に渡った。 半農半漁の暮らしにひかれて移住を即決。 現在、民宿を手伝いながら、自ら起こした株式会社で、干しナマコを生産。 中国へも出荷している。

島では 04 年から 10 年間で 294 世帯 437 人の 1 ターン者が移住してきた。 そのうち、約6割が定住。 これは、実に人口の 1 割を占める。 その理由は何か。 「I ターン者の本質は『覚悟がある』ということ。 家族で移住する彼らには、この島で生きていく覚悟がある。(町交流促進課の青山富寿生課長)」 地域への愛着こそ、地方創生の出発点といえよう。

日本海に浮かぶ隠岐諸島の一つ、中ノ島にある島根県海士町。 人口約 2,300 人、1 島 1 町の小さな町だ。 人口減少、財政難など日本社会が抱える課題の縮図のような地域だが、島外からの移住者と地元住民が力を合わせ、教育と産業振興に奔走し "輝く島" へと変わった。

「島留学」で全国から生徒を募集

高校消滅の危機回避 今では学級数が増加

海士町が産業創出とともに重視しているのが教育だ。 昨年 12 月のある日、海士町の玄関口である菱浦港近くの公民館を訪ねた。 夜 7 時過ぎ、県立隠岐「夢ゼミ」に学ぶ高校 1 年の生徒たち。

千葉県出身の茂呂大紀君は「町に来て地域のつながりの大切さを知った。 将来の夢は医師として海士町に戻ること。」と語った島前高校の生徒が続々と集まってくる。 お題は「聴く」。 良いコミュニケーションの在り方をめぐってグループディスカッションなどを行った。 終了時刻は夜 9 時半。 皆の表情は生き生きとしている。 参加した同校1年の久保鈴夏さんは「相手の話を聞くことがなぜ大切か、勉強になりました!」と語った。

これは、公営塾「隠岐國学習センター」による講座「夢ゼミ」の一コマ。 同センターは、生徒一人一人の多様な進路や幅広い学力への対応を充実するため、2009 年に発足した。 豊田庄吾センター長は「島前地域では教員数も少なく民間教育機関もない。 学校と連携しながら個人指導と自立学習を支援したい。」と語る。 学習センターと隠岐島前高校の教員は毎週、ミーティングを行い、生徒の進路指導などを協力して進めている。

ここまで来る道のりは順風満帆ではなかった。 同町内にある唯一の高校である隠岐島前高校は、入学者が 77 人(1997 年)から 28 人(2008 年)に減り、3 学年とも 1 学級に。 地域から高校がなくなると、本土への移住を加速させかねない。 学校の存続は、地域の存続に直結する課題だった。

そこで、08 年から始めたのが「高校魅力化プロジェクト」だ。 高校を地域づくりと人づくりの拠点と再定義。 10 年度からは、全国から生徒を募集する「島留学」を開始。 今では、全校生徒の 4 割超が町外の出身者だ。 11 年度から、国公立や難関大学などへの進学をめざす「特別進学コース」と、地域住民の知恵や資源に実践的に触れながら地域づくりのリーダーを育成する「地域創造コース」を創設。 高校 2 年生は全員、海外研修に出て、イェール・シンガポール国立大学でプレゼンテーションを行うなど、世界にも触れさせる。

こうした取り組みの結果、入学者は大幅に増加。 12 年度からは同高の入学定員を 2 学級 80 人へ増やし、3 学年とも 2 学級になった。 同プロジェクトの中心者、岩本悠さんは、「地域外の人と交流させることで、地域づくりの担い手を "自給自足" できるよう取り組みたい」と語る。 (公明新聞 = 1-1-15)


廃校寸前の小学校を救え! 島根県の中学 1 年生がネットで資金調達

廃校寸前の小学校を救うために、地元の中学 1 年生が立ち上がった。 クラウドファンディングで 600 万円の資金集めに挑戦しており、現在、134 人から 510 万円以上が集まっている。 ひとりの若者から始まったこの動きに、地元集落や NPO が加勢し、廃校を阻止するために、地区一丸となっている。

その若者とは、左鐙(さぶみ)中学 1 年の鈴木智也くん (12)。 今回、智也くんが小学 6 年生に転校してきた左鐙小学校の廃校を阻止しようとしている。 智也くんは、2013 年 3 月に茨城県筑波市から島根県津和野町左鐙地区に、母親と妹の 3 人で引っ越してきた。 左鐙とは縁はなかったが、母親が子どもたちを、山や川に囲まれた自然のなかで育てたいと思い、同地区に決めたという。

左鐙小学校が廃校に追い込まれている理由は、生徒数が少ないため。 同県の教育委員会は 2013 年 9 月、同校に 2015 年 4 月までにおよそ 16 人が通っていないと「統廃合」と宣告。 現在、通っているのは6人で、そのうち 1 人が 6 年生なので、来年には生徒数が 5 人となる。

そこで、智也くんは、地区の空き家を改修し、子ども連れの家族が引っ越せるように動き出した。 同地区には、空き家はあるのだが、古くて住める状態にはない。 そのため、移住希望者が来ても、住む家がなくて、諦めてしまっていたという。 空き家の改修費は 800 万円かかる。そこで、集落の人で 200 万円を出し合い、残り 600 万円をクラウドファンディングで集めることにした。

今回、クラウドファンディングで資金を集め、空き家 2 棟分を改修する。左鐙地区には 2015 年 4 月までに入居が可能な住宅として、津和野町の「若者定住促進住宅」が 2 棟建つため、計画通りにいけば合計で 4 棟の住居ができることになる。 同地区の空き家は広く、かつ、時間も経過しており、さびれている。 そのため、建物すべてを改修するには 800 万円以上かかる。 今回の資金では、トイレやお風呂、床ずれなどを改修し、最低限生活できるようにする考えだ。

智也くんの活動を応援しようと地元の大人たちも立ち上がっている。 津和野町を活性化する Founding Base (ファウンディングベース)の社員や地元活性化の取り組みをおこなうう NPO さぶみのが、クラウドファンディングで集めた資金管理やリターン品の準備を手伝う。 智也くんは同地区の生まれではないが、今回クラウドファンディングに挑戦した理由を、「大事なものを守りたいから」と話す。 「左鐙小学校は、左鐙地区の中心的存在。 運動会や発表会では、地域のおじいちゃんやおばあちゃんが集まり、料理をもってきてくれる。」

同小学校は木造平屋の 2 階建て。 校庭はきれいな緑色をした芝生で、地域の人たちがボランティアで手入れしている。 智也くんは、同校がなくなることで、一番気がかりなのは、そのような地域の人ではないかと心配する。 小学校がないことで、子ども連れの家族が隣町に引っ越してしまい、ますます高齢化が進み、限界集落となってしまうからだ。 タイムリミットとなる 2015 年 4 月まで、残り 4 ヵ月。 同校を存続させるためにも、最低で 10 人の小学生が必要となる。

同地区では小学生の生徒数が減りだした 2007 年から、地元の人で NPO を立ち上げて、移住者を増やす取り組みをおこなってきた。 教育委員会は 2009 年に、2014 年の同校の生徒数を 1 人と予測していた。 しかし、2014 年の生徒数は 6 人で、そのうちの 5 人が I ターンで来ている。 このような数字を実現した背景には、NPO の存在があった。

智也くんは、子どもの数は増えているのに、学校をつぶすのはおかしいと力を込める。 田舎だからこそできる、少人数制の密度の濃い教育の良さも実感している。 「人数が少ないという理由で、学校をつぶしてしまっていいのか。 たとえ国の考えだとしても、ぼくは違うと思う。 みんなが集まる大事な場所を残したい。」と訴える。 (池田真隆、現代ビジネス = 12-7-14)


「地に足をつけて」 国連インターンから、島根県津和野町へ

島根県津和野町と、岡山県和気町でまちづくりの活動に取り組む株式会社 FoundingBase。 この取り組みの面白さは、都市部の若者が地方に移住し、その地方のいち住民となり、地元の人々と協力しながら、地道に一歩一歩、取り組みを進めているところだ。 取り組みに参加する若者たちは「ある」もの尽くしの東京から、「ない」ものだらけの津和野町や、和気町に移り住む。 彼らは、何故、地方を選んだのだろうか。

今回は、上智大学を卒業後、昨年 10 月から津和野に移り住み農業分野で活動する栗原紗希さんにお話を伺いました。

国連で痛感した「歯痒さ」

- - まず、FoundingBase に参加するまでどんなことをしてきたのかを聞かせてください。

栗原 : 静岡県浜松市に生まれました。 実家では昔から外国人留学生のホームステイを受入れていて、外国の方と接する機会がたくさんありました。 物心がついた頃には海外に興味があって、高校に入ってからは、タイへのスタディーツアーに参加したり、一年間イギリスに留学したりしました。 そういった海外での見知から「格差」をキーワードにして、いつかは国連で働いて、世界中に存在する「格差」を無くしていく仕事がしたいと考えていました。

- - 国連ですか! でも今は津和野にいますよね。 国連と津和野では大きく違うと思うのですが、どうして津和野にいるんですか。

栗原 : 実は大学在学中に一度、国連でインターンをしたんです。 クウェートの UNDP (国連開発計画)で半年間。 昔から憧れていた国連機関で実際に働いてみて感じたことは、大きな組織だと中々身動きがとれないこと、国同士の政治的な利害調整に追われてなかなか業務を遂行できていないこと、というような、表面的には見えない国連の実態でした。

もちろん、どの国連の機関も悪いというわけではない。 けれど、本当に自分が変えたいことを実行しようとするならば、国連の組織のありかた自体を変えるくらいにならないとできないと感じたんです。 国連でインターンしている間、ずっと、本当に困っている人たちにどうやったら手が届くんだろうと考えていました。

そうした気づきを得た上で、本当に困っている人を助けたいと考え、国連のインターン後に友人と団体を立ち上げて、インドネシアの農家さんを支援する活動を行ったりもしました。 仲間を募り、たくさん考えて自分たちが立てた仮説に従って支援策を作ったけれど、現地調査を行ったときに、私たちが考えていたことは全く現場の意見を踏まえたものではなかったと、気づいたんです。

本当に困っている人を助ける、誰かの力になるためには、もっと現場に根ざした所で、現場に住み着いて、現場と向き合う経験が必要だと考えたんです。 そういう風に考えていた時に、津和野での FoundingBase の活動を知りました。 津和野に根ざして、津和野に住み着いて、津和野に向き合って活動を進める姿勢に惹かれて、参加したいと感じました。

それに、津和野や日本のいわゆる「過疎地」と言われているところで見受けられる課題って、世界で議論されている課題と似ていると思うんです。 津和野が発展途上国というわけではないのですが、例えば、津和野で課題がある分野って、農業、医療、教育、インフラ。 これって、世界で議論されている課題と似通っていると思うんです。 そうした津和野と世界のつながり、ここで小さな変化を起こすことが、世界を変えることに繋がる、そんな思いもあって、津和野に来ました。

「人」と向き合って変わった自分

- - 実際に津和野に来てみて、普段は何をしているんですか。

栗原 : 津和野では町内の地場野菜を町内の飲食業者へ流通させる仕組みを構築しています。 津和野の農家さんは少量多品種の栽培が主であることから、一度野菜を一括で集めて出荷することで、安定した供給量で卸すことができるので、そのようなシステムを作ることを目指してます。 津和野に来る前から農業の分野で活動したいと考えていましたが、津和野で二人の農家さんと出逢ったことで、更に熱が入りました。

- - 二人の農家さん? 津和野で農業をされている農家さんですか?

栗原 : はい。 二人とも、昨年の集中豪雨で被災した農家さんなんです。 一人は、木村さん。 とてもシャイな人なんですが、男気がある。 彼は、豪雨で津和野にあった田んぼが流されてしまったんです。 彼は山口に住んでいるので、豪雨後、津和野ではなく、山口で農業を再開しようと思えばできたのに、津和野で農業をやることにこだわって、災害後に津和野で苺を作り始めました。

「なんで苺なんですか?」って聞くと、「自分の好きな場所で、好きなものを作りたいから、ただそれだけだよ」って答えが返ってきて、そんな風に自然と向き合って、自分の想いを貫く彼の姿勢に胸を打たれました。 もう一人は、吉田さん。 彼は元々お茶農家で、彼も豪雨でお茶畑が流されたんですが、同じ場所に新しくお茶を植え始めています。 もしかしたら、また豪雨で災害が起こるかもしれないのに、同じ場所でチャレンジするひたむきな姿に感銘を受けました。

彼には小学生になる子どもさんたちもいて、この子たちがひたむきなお父さんの背中を見て育つのは素敵なことだなあと感じたんです。 この二人は自分が作ろうとしている町内に向けた野菜の流通システムにも協力してくれている農家さん。 この人たちの力になりたい、ひたむきに、自然と向き合っている人たちの力になりたいと感じたので、自分の活動にも熱が入ります。

- - 名前のわからない「誰か」のためでなく、目の前に居る「◯◯さん」のために仕事ができるって、素敵なことですね。

栗原 : そうなんです。 それでしかないって感じています。 自分がこの人のために力になりたいと思って、スピード感を持って走り抜く。 なんとしてでも、この人たちのために、やりきりたい。 やっぱり、人の顔が見える距離感で仕事ができるって素敵なことだと思います。

例えば都市で仕事をしていて、それって誰のためにやってることなんだろうって見えにくいと思うんです。 大きな事業、大きなインパクトのあるプロジェクト、そういったこともやりがいを感じる一つだとは思いますが、自分の一挙手一投足が「この人」の役に立っていると実感できる規模感。 津和野の良い所の一つだと感じています。

「何をするか」も大事だけれど、「誰とやるか」も大事

- - なるほど。 言われてみると、そうかもしれません。 都会にいて就活したり、働いたりしているとついつい見落としがちなことですね。 津和野で活動していて、嬉しいことばかりじゃないと思うんですが、つらいことがあったとき、どうしてるんですか。

栗原 : 嬉しいことばかりじゃないですね(笑)。 実際に、地元の人とコミュニケーションがうまくいかないこともたくさんあります。 つい先日も、一緒にマルシェ (※) を運営する地元の人たちとしっかり信頼関係が築けてなくて、衝突したこともありました。 でも、そんなときにモデルにする人がいるんです。 この人も津和野で農家、畜産をしている人で、京村さんっていう方。

津和野の山奥の山頂にある牧場に嫁いできて、子どもを 4 人育て上げて、部外者だと思われてもおかしくない立場で、地域の人たちをまとめて教育事業に取り組んでいる方なんですけど、大変なことなのにいつも「やりたいから、やってる。 やりたいから、思いっきりやるんだよ。」とニコニコしている。

そんな彼女を見ると、学生時代の自分なんて本当にくだらないって感じてしまうんですよね。 国連でインターンしたり、学生団体で活動していたけれど、全部表面的なところだけで、「やったつもり」になってた。 仲間と夜な夜なカフェに集まって、模造紙を広げて、付箋をぺたぺた貼って、現場を知ったつもりになって、がんばってる風だった。

そんな自分を思い起こしながら、津和野でつまづいた時には京村さんを思い出します。 地道だけど、スピード感を持って、地に足をつけて、一歩一歩、着実に歩んで行く、彼女のそんな姿を自分の理想の姿と重ね合わせて、壁にぶち当たった時には勇気をもらいます。

マルシェ : まるごと津和野マルシェのこと。 フロンティアにちはらと、FoundingBase のキーマン、ベースマンであるデザイナーユニットの minna さんが協力して運営する地場野菜を取り扱う市場。

- - 自分の理想の姿に近い人が身近にいるっていうのも、素敵なことですね。

栗原 : そんな人たちと、普通の仕事をしてたら出会わなかったのかなって考えることがあります。 木村さん、吉田さん、京村さん以外にも、上司の宮内さんにも感謝しています。 役場を、過疎化する津和野を本気で変えたいと思っている人で、とても熱いパッションを持っている人だからこそ、全力でぶつかっていけるんです。 仕事中も、仕事が終わってお酒を飲んでいる時も、時には泣いちゃうくらいに、津和野の未来や、今後のマルシェに対する思想や考えを語り合っています。

FoundingBase の仲間の林さんもそう。 林さんは仕事に本気だから、本質的になんでも指摘してくれる。 面と向かって言いにくいようなことも、私を思って直言してくれる。 大学時代を振り返っても、ここまで自分をしっかり見てくれて、自分を思って厳しいことをしっかり言ってくれる人たちに囲まれていたことは無かった。 自分一人ではなかなか成長できないけれど、そういう人たちがいるから、成長できるって実感してます。

- - 厳しいことをしっかりと言ってくれる人。 確かに少ないですよね、でもそういうことに対して腹が立ったり、落ち込んだりしないんですか?

栗原 : たまにむかつくこともある。 でも、みんな、共通認識があるから、成り立つんだと思います。 津和野をなんとかしたいという志。 もっというと、津和野というフィールドから日本全体、世界を変えていくんだっていう大きな想い。 それって、利益とか、打算とか、そういうのじゃなくて、そういうドロドロしたものを全部とっぱらって繋がっていると思うんです。 こういう人たちと出会えたのは、自分がリスクを取って津和野に来たからだと感じています。

朝起きたら「よっしゃ! 今日もがんばろうぜ!」って元気に一緒に走る仲間がいて、志を共にしているみんなで一緒にごはんを食べれて、夜な夜な「いい社会」について語り合える人間がまわりにたくさんいる。 贅沢なことだと感じています。 津和野に来てから、「自分が何をしているか」ももちろん大事だけど、「誰と一緒にいるか」ということも大事だと気付いた。 今後、津和野を出た後、仕事をしていくにあたっても「誰と一緒にやるか」ということも大事にしたいと考えています。

「思ったらとにかく行動!」?一歩踏み出す大切さ

- - 結果的に、津和野に来たことに満足してる風に聞こえますが、参加する前はとっても悩んだと思います。 その当時の自分に、今の自分が声をかけるなら、どんな言葉をかけますか?

栗原 : 「思ったらとにかく行動!」って言いたいですね。 ちょっとうじうじしてたと思います、当時の私。 なんでだろう、経験がなくちゃだめ、とか、力がないと飛び出せない、って勝手に考えていたけど、そんなの関係無いよ! 思うようにやればいいんだよ! って伝えてあげたい。

現場にいたいと思っていた、どっぷり一つの地域に飛び込みたいと考えていた、試してみたい、目の前のものに全力になる、そんなことを求めながらも不安を感じる自分がいた。 自信も、勇気も、経験も、力も、なかったけれど、飛び込んでみたら、意外とうまくいく。 だから、思ったらとにかくやれ! 行動しなさい! って伝えたいです。

- - 『思ったらとにかく行動!』簡単なようで、難しいことです。 でも、その小さな "一歩" があったから、成長できる環境に身を置けて、大切な仲間もできたんですね。 お話、ありがとうございました! (取材・構成/福井健、現代ビジネス = 6-21-14)

※ 栗原さんが運営を手伝う「まるごと津和野マルシェ」は月 2 回、津和野町内で開催中です!  新鮮な津和野のお野菜が購入できるオシャレなマルシェに是非ご来場ください!


「神々の国が島根、妖怪の国が鳥取」〜境港の水木しげるロード

「日本で 47 番目に有名な県」というキャッチフレーズの島根県では、「島根か鳥取か分からないけどそこら辺に行きました。」という名前のチョコパイが人気を呼んでいる。 一方、鳥取県では「鳥取は島根の右側です」という応援 T シャツが販売されている。 社会科教科書の出版社・帝国書院が、2002 年に全国の小学生を対象に行った調査によれば島根県の認知度は 45 位。 その理由として鳥取と誤認されるパターンが多いことを指摘している。 島根と鳥取は取り違えられやすい県だという説にはそれなりの根拠があるのだ。

イメージ作りで県の認知を

この状況は観光業にとって大きなハンディだ。 両県の自虐的とも言えるキャンペーンは、ユーモアというだけでなく、それを打開するための真面目な取り組みでもある。 出雲大社を有する島根県はともかく、かつては二十世紀梨のイメージが強かった鳥取県は、日本なしの生産量で千葉など関東近県に抜かれ、現在全国第 3 位。 特に若い世代では梨と言えば「ふなっしーの船橋(千葉県)」を連想する人が少なくないはずだ。

鳥取県の観光名所としてまず思い浮かぶ鳥取砂丘は、主要観光施設入込客数調査によれば、2013 年に約 140 万人が訪れた。 重要な観光地ではあるものの、実は県内随一ではなくなっている。 境港の水木しげるロードは約 280 万人と、その倍の訪問者があったのだ。

シャッター商店街が有数の観光地に

境港の人気が急上昇したのは、水木しげる氏の『ゲゲゲの鬼太郎』などの妖怪の銅像を並べて町おこしをした水木しげるロードのおかげだ。 水木しげるロードは、水木氏の出身地である境港市が駅前商店街の活性化を目指して 1993 年にスタートした都市計画。 当初は行政主体のプランだったが、地域住民の理解と協力、そしてマスコミに大きく取り上げられたことで全国的な知名度を獲得した。

2003 年の水木しげる記念館開館や、2010 年の NHK 連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」放映も、来客数の増加に大きく貢献した。 その後も広島県の宮島や岡山県の倉敷同様、中国地方を代表する観光地として定着している。 水木しげるロードの来客数は 2014 年 2 月に通算 2,500 万人を達成し、最寄りの米子空港も 2010 年 4 月に米子鬼太郎空港の愛称を採用した。

「妖怪の国」としてイメージ定着なるか

これまでの「マンガ観光」は展示施設を中心にしたものが多かったが、境港は当初から、公道に銅像を設置するという地域そのものを対象として開かれたもので、また手作り感覚の取り組みだった点がユニークだ。 設置された銅像には個人の寄付によるものも含まれている。 米子駅と境港駅間を走る JR 境線の「鬼太郎列車」や「妖怪そっくりコンテスト」のように、作品の世界を地域全体に広げながら盛り上げていったことが、水木氏の「妖怪」というテーマの土着性と相まって、多くの人の共感を呼んだのだろう。

境港は生クロマグロやベニズワイガニの水揚げ量を誇る全国有数の漁港でもある。 しかし、全国的な認知度で言えば、境港は漁港ではなく「鬼太郎の町」。 取り違えられやすい両県は今後、「左が島根で、右が鳥取」ではなく、「神々の国が島根、妖怪の国が鳥取」というイメージが定着することになるのだろうか。 (ジュラ・高橋洋、asahi = 5-15-14)