会社経営で iPS 研究を加速へ 理研離れた高橋政代さん

2014 年、世界で初めて iPS 細胞からつくった細胞を患者に投与した臨床研究から 5 年が経ち、研究を主導してきた高橋政代さんが 19 年 7 月末で理化学研究所のプロジェクトリーダー職を離れた。 8 月からは「ビジョンケア」という会社の代表取締役となった。 高橋さんはインタビューで、iPS 細胞を使った移植の効果を確認する段階に近く入ることを明らかにした。

- - 14 年に患者自身の iPS 細胞から、17 年には他人の iPS 細胞からそれぞれ網膜色素上皮細胞をつくって移植しました。

目に関しては読み通り進んでいます。 網膜色素上皮細胞の臨床研究は、これまで安全性をみてきました。 今度は複数の医療機関で実施して、有効性をみていく臨床研究を今年度中に申請する予定にしています。 まずは神戸で始めて、数カ所の大学病院に広げていきたいと思っています。 治療に近づく感じです。 これまで自分の iPS 細胞を使った 1 人と他人の iPS 細胞を使った 5 人の方は、全員症状が重い方でした。 特に自分の iPS 細胞の方は網膜色素上皮だけでなく、視細胞も悪くなっていました。 安全性を確認できるまでは、視細胞が残っている人だとそれを失う可能性もありました。 安全性がわかったので、次はもう少し攻めて、網膜色素上皮細胞の移植だけで効果が出そうな人を選びます。

- - 医療なので有効性が一番気になります。

網膜色素上皮細胞を加齢黄斑変性の治療薬とすると、本来は細胞の移植がいらない患者にまでたくさん治療される可能性もあります。 逆に、違う病名だけど細胞が必要な人には届きません。 それが嫌です。 網膜色素上皮細胞が傷む病名は複数あって、加齢黄斑変性はその中の一つ。 病名が変わったら同じ細胞が悪いのにもう一回治験をしないといけないというのも無駄です。 網膜色素上皮だけで治る病気は全部一つにしようと思い、我々は網膜色素上皮不全症という概念を言っています。 その中の一つが加齢黄斑変性の一部です。 病名がたくさんあるのに、いちいち治験をするのはナンセンスです。

製品を早く届けるため経営に専念

- - 網膜色素上皮細胞は、当初は 18 年ごろには製品化する予定でした。 目以外の分野では遅れも目立ちます。

細胞は常に変化するため、そんな甘いものではありません。 我々の場合、元々は細胞製品を早く人に届けるためにヘリオスという会社を立ち上げたのですが、立ち上げ以降は関わらせてもらえませんでした。 他人の細胞を移植するのは、本当は企業治験でやるはずでした。 そのために作った会社ですから。

- - なぜ、7 月末で理研のプロジェクトリーダー職を離れたのでしょうか。

いつかは会社に移ると思って 2 年前に会社をつくりました。 私の定年で理研の研究室は完全に消滅してしまいます。 もう一つは技術補助員の任期が 5 年で、受け皿が必要だったこともあります。 また、理研ベンチャーだったらこれまでは取締役を兼任できたのですが、19 年 7 月 1 日に方針がかわって、研究室の運営と経営の兼業ができなくなりました。 それがかなり大きかったです。 ヘリオスのときにできなかったので、今度は私が入って事業化を進めようと思っていたらそうなってしまった。 いずれなくなる研究室なのか事業化なのか。 事業化に向けて立ち上げないといけないなと思いました。 社長業は向いていると思います。 海外の人たちと押したり引いたり。

- - 細胞治療を届けるため、どういう構想を持っていますか。

我々がやろうとしているのはお金のかかる治験と並行して別のコースも探ろうかなと思っています。 たとえば先進医療です。

- - 先進医療だと、患者に金銭的な負担が求められるようになりますね。

それが一番早く患者に届くと思っています。 民間保険も使えます。 次の臨床研究の一部が先進医療になるかもしれません。 いまどういう方法ができるか探っているところですが、少なくとも今の網膜色素上皮細胞の治験に 10 年かけるのは違うでしょ、と思っています。

もちろん、治験も一つの方策ですが、いまのルールは低分子の薬、つまり簡単に作れる変わらない物質を売るために作ったルールです。 でも、細胞は何万倍も大きくて、遺伝子が複雑で、生もので常に変化しています。 細胞はそんな何万人分もいきなりつくれません。 数十人分でいいのに、世界中で何千万人もの人に投与する薬を安定的につくるためのいまのルールに当てはめるのはやっぱりおかしい。 「製品」を売るという観点ではなく、我々はいい「治療」を作りたいので。

- - では、あくまでも国内向けということでしょうか。

そうです。 海外はまだ治験をしないといけないので、日本で患者がどんどん治っていったら、海外が日本をうらやましく思わないかなと期待しています。 しかも(治験の費用がないため)安く治る。 米国でもなかなか治験が進んでいないので、我々は臨床研究でどんどん突っ走って追いつけないところまでいこうと思っています。 並行して海外にも拠点を作りつつあります。

原料の iPS 細胞は選定し直し

- - iPS 細胞はこれまで京都大 iPS 細胞研究所 (CiRA) の細胞を使ってきました。 今後ともそれを使うのでしょうか。

わかりませんが、CiRA の株を使う可能性もありますし、使わない可能性もあります。 移植までしないと細胞の良しあしがわからない、つまり元の iPS 細胞の遺伝子をいくらみても、最終的にいい細胞になるかはわからないということがわかってきました。 結局、どこの iPS 細胞でもいいよねと。 企業は一つに決めているけれども、私は CiRA がいっぱいつくっている中から選ぶのがいいんじゃないかと思って、もう一回選定し直しています。 CiRA の株を選ぶかもしれないし、そんな甘くないんですよ。 一個に決めても変化するし、早期に固定してしまうのはあんまりよくないですね。

- - CiRA ではゲノム編集で拒絶反応が起きにくい iPS 細胞をつくる構想も進んでいます。

免疫による拒絶の問題は、免疫の型の HLA を失わせた iPS 細胞さえあれば解決するだろうと、ここ数年思っていました。 さまざまな HLA のタイプをそろえたストック事業はいらないかもとも思ったこともありましたが、単純に考えてはいけないことが最近わかってきました。 みなさんが言うほど理想的にはいかないというデータも出てきました。 HLA というものがそもそも何をしているかということや、HLA を失わせたときに何が起きるかということも研究が進んでいません。

- - ストック事業については、補助金打ち切りの計画も一部明らかになりましたが、どう思いますか。

一つ思うのは文部科学省の研究費で行うのははっきりいって問題だと思います。 日本医療研究開発機構 (AMED) は縦割りではないはずなので、実用化のところの意思決定は経済産業省など出口側も加わってやるべきです。

ストック事業は文科省主導でなく、厚生労働省や経産省に引き継げばよかった。 ストック事業の開始時から、出口からひっぱられていたら始めるタイミングとしては全然悪くなかった。 経産省が入っていたら、企業が使いやすいように iPS 細胞の遺伝子の変異の問題とかも考えていたと思います。 研究では、すべての遺伝子変異を次世代シーケンサーで全部みるのがいいと思っていますが、実際の臨床では評価法の再現性や妥当性の検証まで含めたら、どれだけお金かかって治療費が上がるか。 そういう議論がストックでなされていません。

リスクの頻度を考慮して

- - 細胞を移植するリスクはあるのでしょうか。

たとえば、リスクとして最終製品に iPS 細胞が混入しているかをみんなみていますし、規制当局の医薬品医療機器総合機構 (PMDA) も未分化の iPS 細胞が残っているかを必死でみています。 ただ、ほんとに怖いのは iPS 細胞から分化して最終製品になりきれていない細胞の混入なのに、それを検出できるテストにしていない。 iPS 細胞のままで維持するのは大変で、すぐ分化してしまうことの方が問題です。

ただ、こうしたがん化の頻度は高くないし、それよりも、手術によるリスクのほうが失明するし、我々はそっちのほうが怖かった。 全身をみることができない眼科医が拒絶反応を抑える免疫抑制剤を高齢者にだすのもリスクで、そのリスクを避けるために ES 細胞ではなく iPS 細胞にしました。 だけど、いくら言ってもがん化のことばかりです。 私は免疫抑制剤をのませる治療は加齢黄斑変性の場合は望ましくないと思っています。 免疫抑制剤によって、体調を崩すお年寄りがたくさん出ます。 加齢黄斑変性の場合、そこそこ良くなることもありますが、ほとんどは病状が安定するだけです。 ベネフィットとリスクの頻度について考えなければいけません。

細胞治療と遺伝子治療の開発を並行

- - 他にも新しく取り組んでいることはありますか。

網膜色素変性の遺伝子治療にも取り組んでいます。 詳しくはいずれきちんと報告します。

- - 視細胞が傷むことによる網膜色素変性の遺伝子治療は、国内でも九州大や京都大でも進んでいます。

世界でも治験が 10 個以上進行しています。 原因の遺伝子を治す方法、原因遺伝子がなんであれ視細胞を助ける因子を出す方法などがあります。 原因遺伝子の治療は、子どものときに治せば発症を防ぐことができます。 理想の治療です。ただし、症状が進んだ人には、細胞治療が必要です。

- - 他にも、自動運転の研究もされていますね。

認知症の人には、視野欠損や緑内障の人も多いはずですが、区別されていないのが現状です。 運転には認知・判断・行動という 3 段階がありますが、その前に「知覚」として目が情報を受け取らなかったら認知しようがありません。 視野が狭い私の患者さんも事故を起こしている人が多いのですが、警察では前方不注意で全部済まされています。 そういう人が事故を起こしていることは自動車会社の人も知らなかったんです。

認知症も視野欠損も本当に症状が進行した人は運転したらいけないと思いますが、自動運転の技術を誇るのであれば、視野が狭い人の免許をとりあげるのではなく、その技術で助けましょうよ。 そういう人のほうが必要としている技術です。 我々は、アシスト車への補助を出すための研究をしています。

- - まったく違う分野ですね。

ただ、自動運転の進め方は、iPS 細胞の研究の進め方とすごく似ています。 「iPS 細胞って素晴らしい」となるのに、いざ使うとなると、「がん化の問題など危ない」という人がたくさんいます。 「自動運転、こんなのできました」と言っても、「視覚障害者の人に使うのは危ない」と。再生医療のように、万人に当てはめるから使えなくなるのだと思います。 どういう人にどういう使い方をするのがいいかということを、一点突破したいと思います。

- - それだけのリーダーシップをとる秘訣(ひけつ)はどこにあるのでしょうか?

自由だからです。 みんな研究、臨床、事業を個別で議論していることが多くて、見渡している人は多くいません。 我々ができるあらゆることをしていく。 遺伝子治療なんか幹細胞のときと一緒で、「この技術は自分たちがやらないと使えるのが遅くなる」と思いました。 これまで研究だったものが出口に近づいていて、会社もその自然な流れでできました。 元々 iPS 研究者と言われるのはしっくりきたことはありませんので。(聞き手・後藤一也、瀬川茂子、asahi = 12-30-19)


産業用ドローン、未開の市場を飛ぶ 災害現場で地形解析

危険な災害現場へ、老朽化が疑われる建物へ。 ベンチャー企業「ルーチェサーチ(広島市)」の強みは、ドローンを使って地形や構造物を精密に測量・解析する技術力だ。 実績を重ね、産業用ドローン市場の開拓へと全国を飛び回る。 広島豪雨災害(2014 年)、熊本地震(16 年)、西日本豪雨(18 年) …。 毎年のように起きる災害の現場で、ルーチェサーチがつくったドローンが躍動する。 山間地や急斜面などの上空から、1 秒間に数十万発も照射できる高性能レーザーによる計測で、樹木の下に隠れている地形を 3D 画像にして解析していく。 現場で即座に地割れの状況を見つけ、捜索の判断にも役立っている。

渡辺豊社長 (37) は「ドローンなら、人がなかなか行けない場所に入ることができる。 測量から解析までを短時間でこなせる技術力も強みだ。」と語る。 橋やダムなど老朽化が心配される構造物でも、亀裂やひび割れの状況を解析して力を発揮する。 こうした災害や土木現場などで、年間 100 業務ほどの依頼をこなす。 「ドローン」は世間で知られるようになったが、産業用の市場が広がるのはこれからだという。 「まずはやってみること。」 実際にどう役立つのか挑戦を続け、経験を重ねることが重要だと考える。 市場も会社も成長の途上だが、将来像は明確だ。 「技術のシンクタンクみたいな形で、頼めば社会課題を解決してくれるという存在をめざす。」

土砂崩れは、地滑りは、捜索に一役

ロボット大賞(国土交通大臣賞)も受賞したルーチェサーチのドローン。 今後の戦略やドローンの市場環境などについて、渡辺社長に聞いた。

- - どんな会社ですか。

「移動体、とくにドローンを主体にしつつ、自然災害や土木分野などで測量調査や、データ解析などによるソリューション(解決)を提供する会社です。」

- - なぜドローンを?

「もともと土木系の調査会社にいましたが、従来は有人航空機からの測量調査で、あまりに高コストでした。 人手を使った調査にも膨大な時間がかかります。 10 年以上前からドローンに注目し始め、バッテリーやモーターなど技術の進化を受け、11 年に起業しました。 機体は 28 機、操縦する専用オペレーターが 6 人おり、全国の現場を飛び回っています。」

- - 特徴は。

「機体の設計開発や製造、測量、解析までを自社で一貫していることです。 災害や土木現場など、年間 100 業務ほどをコンスタントに手がけており、経験を踏まえながら最適なソリューションを提案していきます。」

- - 技術的にはどのようなものですか。

「特徴的なものの一つが、ドローン搭載の高性能レーザーによる計測で、樹木の下の地形データを詳細に取得できる調査。 高度 100 メートルくらいから、1 秒間に数十万発照射できるレーザーを使って得たデータを 3D 化して解析することで、樹木の下の地形の状況を丸裸にできます。 従来の写真撮影では、できなかった手法です。」

- - いろんな現場を経験してきたと。

「最近の大規模災害の調査はほとんど手がけており、14 年の広島豪雨災害や 16 年の熊本地震、18 年の西日本豪雨などで、地形測量の実績を積み重ねています。 土砂崩れや地滑りが起きないか、捜索を再開してもよいか、などの判断に役立てていただいています。 ドローンなら、人がなかなか行けない場所に入っていけます。 測量から解析までを短時間でできるのも強みです。」

- - 災害現場以外では?

「どんな目的で、機体に何を積むのかによって、仕事は変わってきます。 カメラを積み、橋やダムまで数メートルのところをぴたりと飛んで、亀裂やひび割れが 0.1 ミリサイズでわかるように撮影して 3D 化するなど、様々なものを立体化して解析できます。」

めざすは「技術のシンクタンク」

- - 事業としてはどのように成り立つのですか。

「測量、開発、販売の 3 本の柱があるのですが、建設会社や測量会社、コンサルタントなどから請け負う計測調査業務による収入がメインです。 業務も採算が取れる形で請け負っています。」

- - ドローンの市場規模について。

「世界的にみても、まだまだ広がっているとは言えません。 中国の会社が、コンシューマー(一般消費者)向けに販売を広げていますが、産業用の市場が本格的に広がっていくのはこれからです。」 「事業が軌道に乗り、開発したドローンと計測のノウハウをセットで販売することにも本腰を入れています。 しっかりと市場を育てながら、私たち自身も今までやっていなかった領域へ順番に仕事の幅を広げて、社会課題の解決に役立っていきたいです。」

- - 改めて抱負を。

「まだ誰もやっていない分野が多く、『まずはやってみる』ことを大切にしています。 現場に出て、どんな課題があるのかを洗い出しながら、さらなる開発などにつなげていきます。 人手不足の時代を迎え、省力化や効率化のニーズが高まっています。 『技術のシンクタンク』のような形で、弊社に頼めば『課題を解決してくれる』という存在をめざしていきます。」

〈わたなべ・ゆたか〉 1982 年生まれ。 広島市出身。 広島大学総合科学部を 2005 年に卒業後、IT 関連企業や土木系の調査会社をへて、11 年にルーチェサーチを設立した。

〈ルーチェサーチ〉 広島市安佐南区に本社、広島県東広島市にラボ(研究開発拠点)がある。 19 年 5 月期の売上高は約 3 億 1 千万円。 従業員数は 18 人(19 年 10 月末時点)。 高精度な地形解析による災害調査技術が評価され、16 年にロボット大賞(国土交通大臣賞)を受賞している。 (近藤郷平、asahi = 12-27-19)


元三洋電機社員 55 歳の "逆転人生" 中国・独身の日に話題を呼んだ日本メーカー「シリウス」とは?

家電ベンチャーが「水洗いクリーナー」でダイソンに挑む!

11 月 11 日は、今や中国の風物詩となった中国「独身の日」。 アリババ集団の今年の売上高は前の年より 26% 多い 4.2 兆円に達した。 10 億元を超えた華為技術(ファーウェイ)やアップルのスマートフォンにはかなわないが、今年、現地で話題を呼んだ日本メーカーの製品がある。 元三洋電機社員の亀井隆平が脱サラで立ち上げた家電ベンチャー、シリウスが開発した水洗いクリーナー「スイトル」。 掃除機のホースの先に接続し、ジェット噴流で水を吹き付け、瞬時に吸い取る。 家にある掃除機が「水洗いクリーナー」に早変わりする、という優れものだ。

日本のインターネット上で話題になっていたのを、中国の仮想ショッピングモール大手「サイバーマート」の創業者、張瑞麟が見つけ、わざわざ亀井に会いに来た。 新橋の第一ホテルに出向いた亀井がパソコンで「スイトル」の動画を見せると、張は「面白い」と興奮し、「ぜひ、うちと一緒にやろう」と合弁を持ちかけてきたのだ。 シリウスとサイバーマートは香港にサイバー & シリウスという合弁会社を作り、独身の日を目指して中国生産の準備を進めてきた。 「スイトル」の販売網は中国、台湾、韓国、シンガポール、マカオにまで広がり、累計の販売台数は 5 万 5,000 台を突破している。

家電業界に飛び込んだ柔道 6 段の猛者

55 歳の亀井は身長 180 センチ、体重 100 キロの偉丈夫。 30 歳までは国士舘大学柔道部、三洋電機柔道部の選手で鳴らした柔道 6 段の猛者である。 三洋電機時代は渉外担当として、当時、社長だった創業家の井植敏雅や会長の野中ともよの下で働いたこともある。 国士舘を卒業した亀井は、知り合いのツテで衆議院議員の浜田幸一の秘書を 2 年ほど務めた。 しかし「政治の世界は自分には向かない」と考え、栃木県の足利で古紙回収の家業を継いでいた国士舘体育学部の同級生の下に転がり込んだ。 夜は地元の道場に通っていたが、そこで三洋電機柔道部の監督に見出され三洋電機に入社する。 全日本選手権でベスト 8 までいったが、脚を痛めて 30 歳で引退。 家電の営業マンに転じる。

ところが 2004 年 10 月の新潟県中越地震で新潟三洋電機の半導体工場が壊滅的な打撃を受けた三洋電機は、約 700 億円の赤字に転落する。 2005 年には起死回生をかけ、創業者の孫にあたる井植敏雅を社長に、そのサポート役としてジャーナリストで金融知識も豊富な野中ともよを会長に就任させる。 二人は「Think Gaia (シンク・ガイア)」のコンセプトで、傷ついた三洋電機を「環境・エナジー先進メーカー」に再生しようと試みた。

亀井は浜田事務所で働いていた経験を買われ、経営企画本部の渉外部に引っ張られる。 野中と敏雅は海外での環境関連の事業に活路を見出そうとしており、亀井はカンボジア、モンゴルなどアジアを飛び回った。 だが三洋電機の財務状況は悪化が続き、2005 年 12 月、ついに第三者割当増資でゴールドマン・サックス証券、大和証券、三井住友銀行の金融 3 社から 3,000 億円の出資を受けることになる。 出資した 3 社はそれぞれが三洋電機に役員を送り込み、野中と敏雅を辞任に追い込んだ。

クラウドファンディングでダイソンに挑む

後ろ盾を失った亀井は 2010 年 5 月、21 年勤めた三洋電機を去り小型風力発電を手がけるベンチャー企業に移籍した。ところが、いざ転職してみると、この会社の経営はボロボロで、給料も満足に払えない状況だった。 亀井はわずか 1 年でこの会社を去り、除菌水の取次をする妻の会社に転がり込んだ。 亀井と同じ国士舘で女子柔道部の強化選手だった妻の理(さとり)は、保健体育の教師をした後、ディズニーランドやすし屋で働き、海外留学する、というバイタリティに富む女性である。 この会社が現在の「シリウス」である。

そして - -。 2019 年 9 月には、水洗いクリーナーに続く第二弾「スティック型コードレスクリーナー・スイトル」を発表。 9 月 1 日にクラウドファンディングの募集を始めるとわずか 3 時間で目標金額の 50 万円を突破し、2 週間で目標の 7 倍弱、336 万円が集まった。 出資者は 200 人を超える。 クラウドファンディングでこれだけの実績を上げると、銀行から融資も受けやすくなる。 今度はコードレスクリーナーで掃除機の巨人、英ダイソンに挑む。

「会社の仕事を 360 度の丸いケーキに例えると、サラリーマンが任されるのは 1 度か 2 度。 皿に載せても立たないペラペラです。 自分で会社を作ると、ケーキのサイズは小さいが 360 度、全部、自分でやらなくてはならない。 俺にそんなことできるのか、と思いましたが、やってみると案外できるもんですね。」 大きな体を揺すりながら人懐こい笑顔を浮かべる亀井には、周囲の人間を巻き込んでいく不思議な力がある。 三洋電機から飛び出し、サラリーマンを辞めたことで、亀井の中に眠っていたその力が目を覚ましたのだ。 (大西 康之、文春オンライン = 12-7-19)

出典 : 「文藝春秋」 12 月号 掲載中の連載「令和の開拓者たち 亀井隆平」では、10 ページにわたって、元三洋電機社員で、シリウス代表取締役社長・亀井隆平の "逆転人生" を取り上げている。


会社 20 年で辞めブランド始動 「絶対失敗」言われても

20 年間のサラリーマン生活の後、ブランドを立ち上げた人がいる。 「BONCOURA (ボンクラ)」のディレクター、森島久さんだ。 こだわりの服づくり、デニムへの愛情はどうやって培われたのか。 話を聞いた。

大阪・ミナミまで自転車で 20 分ほどの所で生まれ育ったので、「アメリカ村」のあたりも小学校高学年の頃からよく行っていました。 当時は 1970 年代後半。古着屋が今ほどなかった時代。 はやっていたのはサーファーに人気の裾の広がったジーンズでしたが、僕は安くてカッコいいストレートが好きだったので、古着で見つけては購入していました。 大学生の頃は DC ブランド全盛期。 モデルのアルバイトをしていましたが、流行に全く興味はなく、自分流のカッコいいを求めてツイードのジャケットにミリタリーのチノパンなどをはいていました。

就職した百貨店では法人外商の仕事に。初めはスーツを着ましたが、数年後にはジーンズやスニーカーで行くようになりました。 自分らしく好きな服を着たかった。 人と同じ格好が安心、みたいな感覚は昔からなかったですね。 42 歳で会社を辞めました。 違う可能性を試したいと。モデルなどの仕事をしながら準備し、2011 年、「ボンクラ」をスタートさせました。 そういえば幼稚園の頃にはもう、ほかの子のはいてないような靴をほしがった覚えがある。 そうやって自分を表現したいと思っていたのかも。 服って、身につけるだけに自分を表現しやすい。 人の目なんて気にせず、多くの人にファッションを楽しんでほしいですね。

40 年変わらぬデニム愛

初めてジーンズを買ったのは 12 歳の時です。 友だちと 3 人でアメリカ村に行き、古着のリーバイスを 3 本 3 千円に値切って買いました。 3 人そろってはいていたんですが、僕のだけ 2 人に比べて色があまり落ちないし、後ろポケットの裏側に隠れるようにリベットがついていて、赤タブにあるブランド名の「E」が大文字でした。 後で知ったんですが、僕のだけ年代が古い「XX」と言われるジーンズだったんです。 見た目はそっくりなのに、なんで違うんだろう。 生地の厚み、インディゴの濃さ、色落ちの風合い …。 古着屋に通いながら、ビンテージデニムの魅力にはまっていきました。

例えばリーバイス 501 の 1950 年代と 70 年代のものを見比べても、ディテールは変遷しています。 各時代で異なる作りが、今につながる時間の中で味となって染みこむ。 ファンは、そんな歴史も買っているんだと思います。 手に入れてきた数え切れないほどのジーンズはほとんど取ってあります。 3 人で初めて買ったリーバイスも。 太ももの辺りがすり切れたので、ホットパンツのように切りました。 脇の縫い目が裂けてしまい、もうはけませんが、思い出の 1 本ですから。 あの時から 40 年以上、デニムへの思いは変わりません。 はくほどに表情を変え、ボロになってもサマになる。 デニムって本当に魅力的です。

「絶対失敗する」と言われたが

サラリーマンを 20 年でやめ、服づくりを始めようとした時、周りから「絶対失敗する」と言われました。 でも、次の仕事は服だと思っていました。 小学生のころから服のことを考えてきたし、だれよりも好きだと思っていましたから。 「ボンクラ」は 2 タイプのジーンズからスタートしました。 僕自身がはいてきたビンテージデニムの好きな所をとり入れつつ、自分なりの味付けで作りました。 綿の種類など糸づくりから自分で考え、工場も自分で探しました。 この時、生地だけで 200 種類ぐらい試作してもらったかな。 こだわり抜きました。

一度も洗いをかけない生デニムのまま販売しています。 僕自身がはきこんだジーンズも店に展示していますが、販売時からこんなふうに育ちます。 100 人いれば、100 通りの表情になるのがデニム。 ぜひはき倒して、自分で育ててほしい。 愛して大事にはいてきた 1 本こそ、かっこいい服だと思うし、作り手としてうれしく思います。 今ではカットソーやジャケット、コートなど、20 種ほどの定番に加え、季節ごとに 20 - 30 種を作ります。 すべて、自分が着たいと思う服です。 僕が存在することによってこの世に生まれた服、そんな服を作りたいですね。 それをお客さんも好きになってくれる。 そんなコミュニケーションができれば最高ですよね。(聞き手・石村裕輔、asahi = 11-30-19)

森島久(もりしま・ひさし) : 1965 年大阪市生まれ。 20 年間のサラリーマン生活の後、ブランド「BONCOURA」を設立。 大阪府柏原市に原則土日のみ営業のショップがある。


生活環境を整える覚悟なき受け入れは「奴隷制度」と変わらない
改めて問う「技能実習制度」の問題点

日本で働く外国人の数は年々増え続けており、18 年の時点で約 146 万人。 その働き方も大きく変わってきている。 鋭いビジネスセンスで財を成すもいる一方で、日本に厳然と残る差別的な構造で「奴隷労働」としか言いようがない働き方を強いられる人々がいる。 その最たる例が、「技能実習生」である。

奴隷構造で働かされる外国人技能実習生

外国人技能実習生の労働環境は深刻だ。 厚労省によると 18 年時点の外国人労働者数は約 146 万人。 前年比で約 18 万人 (14.2%) の増加となっており、過去最高を更新。 そして、うち 21% が「日本の技能、技術または知識の開発途上国への移転」を目的に「技能実習生」として日本に来た外国人だ。

「日本はこれまでも外国人の労働力に頼ってきた。 バブル期にはオーバーステイを容認し、90 年代以降は日系人を受け入れて労働力にしてきたが、彼ら彼女らの定住に面倒を感じた政府が、93 年に実施したのが『技能実習制度』。 『開発途上国への技術移転』とは名ばかりで、3 年間の実習期間が終わったら帰国してもらう = 使い捨ての労働力を確保するための制度なんです。」と語るのは、30 年にわたり外国人労働者の支援活動をしてきた NPO 法人「移住連」の代表理事・鳥井一平氏だ。

「多くの技能実習生は契約でがんじがらめになっています。 本来は、受け入れ先との契約で労働条件が決まるはずですが、それ以外にも送り出し機関や、送り出し会社などと『日本人と恋愛してはいけない』、『外泊禁止』、『妊娠したら帰国』といった、さまざまな契約を結ばされています。 3 年間で 300 万円貯まると契約にあれば、その数字自体は守られますが、休みなく働いて 300 万円貯金して帰るのです。 契約で縛り、いかに安く使うかしか考えていない。 これが奴隷構造といわれる理由です。」

技能制度は国際社会からの批判も集まる状況

技能制度は国連で人身売買と指摘されており、国際社会からの批判も集まっている。 縫製工場で働く 30 代の中国人女性は、「時給 300 円で毎日働かされて、体がボロボロになってしまった」と悲痛な声で訴える。 長時間労働や低賃金だけでなく、業務中の事故にもかかわらず労災の手続きを取ってもらえないというケースもある。 クリーニング工場で働く 20 代のベトナム人男性は、業務中の火傷にもかかわらず「バーベキュー中の事故ということにされ、満足な治療をしてもらえなかった」と火傷の痕を見せる。 デフレによる価格競争や、親会社から厳しいノルマを課される下請け企業など、雇う側にも厳しい事情はあるだろう。 だからといってそれが技能実習生をこき使ってもいい理由にはならない。

構造がまったく変わらない技能実習制度

「賃金が安い、住環境が悪い、人権侵害。 この構造が、技能実習制度が始まった 93 年からずっと変わっていない。 トイレの回数で罰金を取る社長、体調を崩した女性の実習生の布団に潜り込む社長、多くの社長を見てきましたが、みんな見た目は優しそうな普通の人で、見るからにヤクザみたいな人はほとんどいません。 技能実習制度という歪な制度がじわりじわりと彼らの倫理観を壊してしまった。」 「先進国である日本から途上国への技術移転」という、見せかけの名目が、「低賃金でこきつかってもいい」という雇用者側の意識を生み出してしまったのだ。

「悪影響はほかにもある。 技能実習生を 3 年で使い捨ててきたせいで、現場で技術を引き継ぐ担い手がいなくなり、技能実習生だけでは担い手不足が補えなくなってしまったんです。 経営者団体から声が上がり、今年 4 月に『特定技能(新設された在留資格で、14 の分野に限って外国人の単純労働が認められた)』が始まりました。 ただ、これも技能実習の延長でしかなく、歪な構造はそのまま。 『非熟練労働者』のビザをつくり、きちんと労働者を受け入れるだけでうまく回るはずなんですけどね。」

外国人労働者が増加したせいで犯罪が増えているという報道が散見されることにも鳥井氏は疑義を呈す。 「それは完全なミスリードです。 刑法犯検挙件数に占める来日外国人犯罪の件数はこの 30 年低い水準で推移しています。」 失踪した技能実習生が犯罪を起こすケースも確かにあるが、そもそも劣悪な労働環境から逃げ出した被害者が加害者になるケースが少なくない。 理由がどうあれ殺人が許されるわけではないが、06 年に木更津の養豚場で起きた技能実習生による殺人事件では、被害者の第 1 次受け入れ機関の理事が、送り出し機関の実質的社長もしており、両側からカネを抜いていた事実が明らかになっている。

「労働と生活は分離できません。 外国人労働者を受け入れるのなら、単純に労働力とだけ見なすのではなく、彼らの日々の暮らし、生活環境を整えるのが当然の責務のはずです。」 少子高齢化による人手不足、デフレ、価格競争を勝ち抜くための下請け企業への買い叩き、技能実習制度の歪な構造 … 日本経済が抱えるさまざまな問題のしわ寄せがすべて技能実習生にいってしまっているのだ。 (鳥井一平 = NPO 法人・移住者と連帯するネットワーク代表理事、ハーバー・ビジネス・オンライン = 11-25-19)


日本のみなさん平等に接して、話して 私たちは同じ人間

外国人抜きでは成り立たなくなった日本社会。 たどたどしい日本語はさほど珍しくなくなった。 外国人との共生が叫ばれる中、日本語を学ぶことについて考えた。

あこがれの国でがんばりましょう 技能実習生ナンダ・モウさん
- 1993 年生まれ。 2017 年に埼玉県越谷市にある総菜会社「クリタエイムデリカ」に入社。

日本は技術が進んでいる、あこがれの国でした。 日本語の勉強を始めたのは、ミャンマーの大学を卒業した次の年、2015 年です。 日本に行って、農業をしている親に仕送りして、親孝行するためでした。 ミャンマーにある技能実習生の送り出し機関での勉強。 「あいうえお」、あいさつなどの丸覚えから始めました。 村にいるまわりの女性とは違う生き方をしたいと思い、必死に勉強しました。 アニメの「アルプスの少女ハイジ」を何度も見ました。

助詞については、日本語とミャンマー語はほぼ同じなので、大丈夫。 たいへんだったのはカタカナ。 外国から来た単語がカタカナになるのに戸惑いました。 敬語も難しい。 目上の人に会った時、どう言えば良かったのか迷うこと、いっぱいあります。 漢字は、ひたすら読み書き練習です。 職場にはミャンマーの実習生がたくさんいますが、社長から「日本語を上手になってもらいたいからミャンマー語は禁止」と言われています。

来たばかりのときは、日本人スタッフに話しかけることが出来ませんでした。 だんだん親しくなって、話しかけることが出来るようになりました。 作業をしていて手があいたわずかな時間でも、分からないことを聞きます。 みなさん親切に教えてくれます。 でも、会社の外で日本人に話しかけることは、まずありません。 女の子なら話しかけてもいいかな、とも思いますが、男の子は怖くてダメです。

今年の 2 月には大阪、京都、奈良を観光しました。 大阪のタクシー運転手さんは親切で、イヤな顔をせず、いろいろ説明してくれました。 言葉が分からないと気持ちは通じないと思います。 だから、日本語を勉強し、日本語能力試験を受けてきました。 17 年の 2 月に日本で働きはじめ、その年の 12 月には N2 (日常会話と新聞の記事がある程度分かるレベル)に合格しました。

今年の 12 月にはいちばん難しい N1 の試験があります。 これまで 2 回連続で落ちましたが、社長に「合格すれば、就労ビザを取りやすくなる」と励まされています。 仕事が終わったら寮で 3 時間、勉強しています。 アニメ「君の名は。」を何度も何度も、見ています。 来年、技能実習ビザの期限が来てミャンマーに帰りますが、また日本で働きたい。 将来はミャンマー人のサポートや通訳をする仕事をしたい。 日本にいる実習生のみなさん。がんばれば報われる日が来ると信じて日本語、がんばりましょう。 日本のみなさん、外国人をあまり好きじゃない方がいるかもしれませんが、同じ人間です。 だから、話しかけてください。 平等に接してください。(聞き手 編集委員・中島隆)

異文化の大変さ、わかってあげよう ARC 東京日本語学校校長 遠藤由美子さん
- 1958 年生まれ、86 年開校、各種学校化などを経て、現在、2 万人を超える留学生と日本語教師を育ててきた。

国内外で日本語学校など日本語を教える場所が急増しています。 政府の留学生や労働者の受け入れ拡大方針もあって、日本語教師を目指す日本人も増えています。 外国で助けてもらったので恩返しをしたい、定年後の第二の人生で社会貢献がしたい … 志望動機は、十人十色です。 なかには、「日本語だから誰でも簡単に教えられる」と思っている志望者もいますが、これは誤解です。

私は 30 年以上にわたって、日本人の日本語教師を育てたり、外国人留学生に日本語を教えたりしています。 多くの日本語学習の問題集も著しましたが、いつも日本語教育の難しさを感じています。 「私は日本人です」と「私が日本人です」の違いや、「鍋は食べられない」のに、なぜ「鍋を食べる」と言ってしまうのか、説明できるでしょうか? 日本人が自然にできる助詞や表現の使い分けを外国人に理解してもらい、使いこなせるように教えるのは並大抵ではないのです。

多国籍化が進む学び手の母語の理解も必要です。 例えば、ドイツ人は「若い (WAKAI)」を「ばかい」と発音しがちです。 ドイツ語では、W をヴと発音する、という知識があれば間違いの理由が分かります。 日本語の語彙の多さも、難しい要因の一つです。 英語の「I」は、日本語だと「俺」、「僕」、「あたい」、「わが輩」などいろいろです。 英語の日常会話で使われる語彙は 1 万語なのに対し、日本語は 3 万 - 5 万語ともいわれます。

日本語学校に求められるのは日本語指導はもちろん、外国人が日本という異文化の中で生活する大変さを理解し、支援することです。 私たちの学校では留学生を 2 年間みっちり指導し、日本の大学や大学院、企業に合格できる日本語能力を身につけさせています。 入学前にはスタッフが現地の保護者と面談し、授業料の支払いや仕送りの意向も確認します。 バイトをせずに授業に集中できる環境を確保するためです。

来日後は、もしバイトをするなら週 28 時間を超えたら違法だと教え、バイト先についての細かい聞き取りもします。 体調が悪くなったのが学外だったとしても病院に連れて行くなど、生活全体を支援しています。 私たちは留学生の人生に責任を負っていると考えるからです。 留学生が学校にきちんと籍を置いているのか、私たち学校の「管理」が問われています。 さらに学校は法律を守るのはもちろん、留学生の人権や自主性を尊重しなくてはなりません。 そして、留学生が、この日本社会で自己実現ができるよう導かなくてはなりません。 私は業界全体でその責を負いたいと思います。 (聞き手 編集委員・中島隆)

やさしさだけでは、深みなくなる 日本語学者 金田一秀穂さん
- 1953 年生まれ。 杏林大学教授。 国内外で日本語を教え、テレビにも出演。 「おとなの日本語」など著書多数。

最近は、「やさしい日本語」が注目されています。 東京五輪を前に急増する訪日観光客や在留労働者向けに使いましょうと自治体などが呼びかけています。 ことばの大きな役割は情報伝達ということです。 今、日本には日本語を母語としない多くの人々が暮らしていますが、全員が日本語を十分に使えるわけではありません。 「やさしい日本語」がその真価を発揮するのは、地震や台風といった災害時です。

日本は災害大国で、外国人はどこにいても被災者になる可能性があります。 阪神淡路大震災や東日本大震災では、多くの外国人が亡くなり、避難所で日本語が理解できず、苦労した人もいました。 災害時の言葉は人命に直結するからこそ「やさしい日本語」が求められるのです。 ただ、日本語をやさしくするのは容易ではありません。 80 年代に当時の国立国語研究所の野元菊雄所長が、外国人向けに「簡約日本語」を提唱したことがありますが、一般の人たちからの評判がやたら悪く、普及しませんでした。

外国人が増えれば、状況は変わるかもしれません。 私が働く学校のアジアや欧米の留学生たちの共通語はすでに「やさしい日本語」です。 共通の言葉が日本語だからです。 そこから私たちが思いもよらなかった新しい表現が生まれ、日本語の潜在能力を引き出す可能性があります。 言葉とは、常に移り変わりゆくものです。 時代によってその意味や使い方が変わることは避けられません。 例えば、「はずい(恥ずかしい)」、「キモい(気持ち悪い)」といった短縮言葉が生まれたのは、情報伝達の効率化が一因とされます。

「食べさせていただきます」や「コンビニさん」といった過度な言葉の「丁寧化」が最近目立つのは、円滑な人間関係を維持するための知恵ではないかと感じます。 こうした変化は、言葉が「生きている」証拠といえます。 日本語の「やさしさ」や「わかりやすさ」の追求もこうした変化の一環ですが、私は疑問を感じます。 「ワンフレーズ政治」と言われた小泉純一郎首相の頃から政治家の言葉は、やさしくなり、分かりやすくなりましたが、思考の深みはなくなりました。

言葉は、通じればいいというコミュニケーションの道具である以前に、私たちが考えたり、感じたり、判断したりするための道具です。 多くの語彙、複雑な言葉があるからこそ、すぐれた政治や哲学を作り出すことができるのです。 難しい言葉は敬遠し、ただ「やさしさ」を目指す。こんな「やさしい」日本語が広がってしまうと、日本人の思考力や感受性がおそろしく粗雑で雑駁なものになってしまうでしょう。 (聞き手・諏訪和仁、asahi = 11-15-19)