技能実習生が技術を生かせる場つくりたい フィリピンで奮闘する日本人

フィリピンで自動車修理業、林義人さんの「私の海外サバイバル」

私の ON

1983 年、群馬県生まれ。オーストラリアの大学・大学院を卒業。 メーカーの海外営業を経て、2014 年に損害車輸出大手の「タウ」に入社。 2017 年にフィリピンに赴任し、2019 年から現職。

日本や海外で、事故や災害で壊れた自動車を買い取り、修復可能な車や再利用できる部品・素材として販売する会社に勤めています。 会社が新たに、フィリピンで自動車の板金塗装・修理の事業を始めることになり、今年 1 月に現地統括者になりました。

カランバ : フィリピン・ルソン島中部ラグナ州にある都市。 人口は約 45 万人。 温泉が湧くリゾート地、フィリピン独立運動の英雄ホセ・リサールの生誕地としても知られる。

人口増加と経済発展が続くフィリピンでは、自動車の急速な普及に伴い、自動車事故の発生件数も増加傾向にあります。 しかし、板金塗装・修理をする業者の数は足りておらず、日本と比べると技術のレベルも低いままです。 私は 2017 年に首都マニラに赴任したのですが、損害保険会社から壊れた車を買い取る仕事をするなかで、こうしたニーズがあることを知りました。

とはいえ、板金工場を運営するノウハウは会社にも私にもありません。 日本人の技術指導者らを頼りながら人脈を広げ、今年 6 月の工場稼働にこぎ着けました。 工場はマニラから南に 50 キロほど離れたカランバ市にあります。 約 1,200m2 広さがあり、60 - 70 台の修理が可能です。 そこでフィリピン人の職人や、日本人の工場長、技術指導者らとともに働いています。

職人はキャリアが3年ぐらいの若手から、25年ほどにもなるベテランまで6人。フィリピンにある日本車ディーラーでの勤務経験もあるような腕のいい人がそろっていますが、技術指導者からすればまだまだ。議論をしながら、作業方法を教えてもらう時はうれしそうです。仕事以外でも、一緒に食事に行って酒を飲み、コミュニケーションを取るようにしています。心の距離を縮めるためにすることは、日本でもフィリピンでも変わりません。

工場では修理や整備のほか、車体へのコーティングサービスも手がけています。 修理のお客さんは、事故の後に保険会社の紹介でいらっしゃる方が多いのですが、そういう方には「また来て下さい」とは「また事故を起こして下さい」と言っているようで、言いにくい。 コーティングならその心配はいりません。 日本で人気がある、フィリピンでは未発売の日本製液剤を使ったところ、口コミで評判が広がり、マニラから駆けつけてくれたお客さんもいました。 工場は始まったばかりですが、日本水準のサービスを提供することで、現地の業界全体の発展に貢献したいと考えています。

今の会社に転職する前も、仕事場は海外でした。 スマートフォンやパソコンの周辺機器を作るメーカーの海外営業で、住まいは日本でしたが、月の半分以上は東南アジアや北・中南米などに出張していました。 海外に目を向けるようになったのは学生時代からです。 高校までサッカー一筋で過ごした後、「他人と違うことをしたい」とオーストラリアに渡り、働きながら現地の大学と大学院を卒業しました。 オーストラリアには、アジアからもラテンアメリカからもヨーロッパからも人が集まっています。 英語の力がついただけでなく、さまざまな価値観や文化的背景を持つ人たちとじっくり話し合う訓練を積めたと思います。

自分から腹を割って話をすると、お互い認め合える点が多くある。 その経験は今の仕事にも生きています。 工場のフィリピン人スタッフとは上司・部下の関係にあるので、仕事では厳しいことも言いますが、それ以外では立場は変わらない仲間だと考えて接しています。 板金塗装・修理の業界の人手不足は日本でも起きており、フィリピンから技能実習生として日本に渡る若者が多くいます。 しかし、日本で数年働き、高い技術を身につけて帰国しても、その腕に見合うような待遇の仕事はまだこの国にはありません。 日本で月 15 - 20 万円稼いでいた人も、月収 4 - 5 万円ほどの待遇になってしまうことが多いと聞き、心苦しさでいっぱいになります。

私たちはそうした人たちが活躍できる場にもなるだろうと、工場のフランチャイズ事業を考えています。 日本の技術を学んだ人に経営も学んで独立してもらえれば、経営者として、職人の何倍も稼ぐことができるでしょう。 自社の工場を増やすほか、フランチャイズ事業を通じて、10 年以内に 100 店舗以上を出店する計画です。

私の OFF

現地統括者という立場から、なかなか休みが取れませんが、オフはできるだけ妻や息子 2 人と一緒に過ごすようにしています。 息子は 6 歳と 3 歳。 現地のプロサッカーチームの下部組織に入っており、週末にある練習にはできる限り私が連れて行くようにしています。

私自身も日本人駐在員らの社会人チームに入り、週 1 回はサッカーをしています。 チームの活動は平日に週 2 回、仕事終わりの深夜にやっているフットサルと、日曜日にある社会人リーグの試合です。 サッカーは幼い頃から続けており、高校生の時にはプロクラブのユースチームにも所属していました。 体力の衰えも感じますが、無心になってプレーできることや、仲間と真剣に勝負に挑む楽しさから、これだけはやめられません。 2017 年秋 - 18 年春のシーズンには、社会人リーグの大会で優勝することもできました。

フィリピンは海で遊ぶのも醍醐味です。 マニラから車で 1 時間ほどでも遊びに行けるところがあります。 また 1 - 2 時間のフライトで行けるリゾートも多く、家族旅行でセブ島やパラワン島に行き、スノーケリングなどをして楽しみました。 仕事の合間を縫いながら、2、3 カ月に 1 回は海に行くというのが目標です。(聞き手 = 太田航、Globe+ = 11-6-19)


アパレルに IT 業界の手法を導入、オーダーメイドスーツに革命を起こした男

私は首と腕が長い。 体型に合ったジャケットを選ぶと袖が短くなってしまい、袖の長さで選ぶと全体的に大きめになってしまう。 普段の仕事では滅多にスーツを着る機会はないのだが、こうした体型の悩みからスーツを作る際にはオーダーメイドしたいと考えている。 しかし、百貨店などでオーダーメイドスーツを作ろうとすると値が張るものが多く、これまで躊躇していた。

オーダーメイドスーツを身近に

高品質のオーダーメイドスーツは高い - - この常識を覆したのが国産のオーダーメイドスーツを低価格で提供している「FABRIC TOKYO (ファブリックトウキョウ)」だ。 スタートアップならではのゼロイチの発想でオーダーメイドスーツ業界に革命を起こしている。 ファッション業界から IT 業界に転身した同社代表取締役 CEO の森雄一郎に、自身のユニークなキャリアも交えて話を聞いた。

ファッション業界への幻滅

FABRIC TOKYO は生地メーカーや縫製工場と直接取引し、中間流通を入れずにオンラインでユーザーにスーツを直販することで低価格のオーダメイドスーツを実現した D2C モデルのサービスだ。 店頭ではスーツの陳列がなく、採寸とコミュニケーションに特化している。 採寸したデータはクラウドで保存され、ユーザーはその後いつでもネットからスーツをオーダーできる。 このユニークなビジネスモデルの背景にあるものは何か。

森は学生時代にファッション関連の web メディアを運営していた経験を持つ。 当時、日本で世界最先端のファッション情報を得ることができるメディアは雑誌くらいしかなく、情報が日本に入ってくるのは 2、3 ヶ月後のことだった。 そこで森は自身でパリコレなどのショーを見に行き、現地の最新情報を web サイトで発信することにした。 サイトは順調に成長し、スポンサーや広告での収入で生活できるほどに拡大していった。 森は就職活動をせずにサイトの運営を続けていたが、より直接的にファッション業界に関わりたいと思い、ファッションイベントの企画制作会社に就職。 ファッションショーやイベントの企画、プロデュースの現場で経験を積んでいった。

しかし、この業界に身を置くうちに、「閉鎖的で、年功序列で、アナログなファッション業界に閉塞感を感じた」という森は別の業界での挑戦を決意する。 そのタイミングで刺激になったのが一足先にスタートアップを立ち上げ、成長を続けていた地元の知人の存在だ。 「18 歳のときにスタートアップを始めてメキメキ成長している彼らの活躍は、閉鎖的なアパレル業界にいる自分からは、すごくオープンで輝いて見えました。 もともと自分で事業をやりたい気持ちも強かったため、独立しようと思ったんです。」

山田進太郎との出会い

森は独立に向けてスピード感の速いビジネスを学ぶため、不動産関連のベンチャー企業に転職。 そこで 2 年弱経験を積んだ後、自分の会社を立ち上げた。 越境 EC や SEO コンサルなど、当時伸びてきていた別の分野でのサービス立ち上げに挑戦したが、熱意を持って打ち込めるサービスを作り上げることはなかなかできなかった。 そんな中、森は Twitter でメルカリ創業者の山田進太郎の「新しい会社を始めました」というツイートを目にする。 ウノウでヒットゲームを連発し、その後 Zinga に売却するなど、既に大きく成功していた山田がどんなサービスを始めるのかということに興味を持った森はすぐに山田にコンタクトを取った。 優秀な社長の下でもう一度経験を積みたいという気持ちも大きかった。

社会人インターンとして創業から 1 ヶ月後のメルカリにジョインした森は、その後 1 年間メルカリの立ち上げに携わることなる。 その中で、これまでの自分の経験とは異なる分野であるにも関わらず、世の中を豊かにするために積極的に挑戦していく山田の姿に触れ、森自身も「情熱を持って取り組めることで挑戦したい」という気持ちが大きくなっていった。 「進太郎は世界を一周した経験から、世界中の機会提供をフラットにするため "なめらかな社会を作る" と言っていました。 そして元々成功していたゲーム業界から離れ、今は C2C のフリマアプリに挑戦している。 自分もこれまでに経験してきた業界は関係なく、自分が得意なことや情熱をもってやれることを選んだ方が良いと思いました。」

自分がお客様であり続けられる事業を

森にとって自分の力で革新を起こしたい分野はやはりファッションだった。 これからファッションの分野で必要とされるサービスはどんなものだろう。 そう考えたとき、森は自分自身が感じている「負」に立ち返った。 彼には肩幅が広い、腕が長い、お尻が大きいといった自身の体型のせいで好きな洋服を買えないという悩みがあった。 「自分と同じように体型で悩やんでいる人のために便利でクールなブランドを提供できれば喜んでもらえるのでは」。 その想いが FABRIC TOKYO の原点になった。 自分自身がお客様であり続けられる事業、すなわち、いつまでも主体的に取り組み続けられる事業を創ることを森は決意した。

まずは工場探しから

サービスのイメージが固まった後、まずはスーツを仕上げてくれる縫製工場を探すところから始めた。 スーツやシャツは肩幅や身幅、袖丈、背丈など、各部位のサイズをしっかりと調整しないといけないため、アパレルの中でも最も作りにくい商品の一つ。 生産コストを抑えるため中国や東南アジアの工場を訪ねて回ったが、一点一点のオーダーにきめ細かい対応ができる工場はまったく見つからなかった。 そこで森はタウンページや商工会議所を使って日本での工場探しを開始した。 「紳士服」や「スーツ」などで工場を調べ、上から順番に 150 軒以上に電話を掛け、アポが取れた工場には直接出向いて FABRIC TOKYO のビジョンやビジネスプランの説明を続けた。

意外にも、会ってくれた工場はみんな FABRIC TOKYO のビジネスに興味を持ってくれた。 これまでの仕事が単価の安い海外に流れてしまい、「アパレル不況」と言われていた時代で、「新しい仕事を作っていかないといけないという健全な危機感」を持っていた工場が多かったという。

しかし、当時の FABRIC TOKYO は web サイトすら無い状況だ。 実績のないスタートアップとの取引を嫌がられ、はじめに百万円程度の保証金を求めらるケースがほとんどだった。 エンジェル投資家等から数百万円の投資しかもらっていない段階では、そのうちの百万円を保証金に充てるのは不可能だった。 最終的には一社、FABRIC TOKYO の想いが伝わり、変革のためのパートナーをちょうど探していた企業と出会え、提携が決まった。 保証金もかなり低い金額に抑えてもらい、ようやくプロダクトローンチまでの道筋が見えた。

メジャー片手に奔走

縫製工場が見つかったあとは、オーダーメイドスーツの原型となるベースの「パターン」作りに取り掛かった。 完全にすべてのパーツをお客様のサイズに合わせて作るフルオーダーとは異なり、イージーオーダーと呼ばれる方法ではいくつかのベースとなるパターンからお客様のサイズに合わせて微調整を行うことでコストを抑えたオーダーメイドスーツが可能となる。

これまでのオーダースーツのメインのターゲット層は 40、50 歳台だったが、FABRIC TOKYO のターゲットは若いビジネスマンだ。 顧客の体型や求めるシルエットが大きく異なるため、FABRIC TOKYO オリジナルのパターンを作る必要があった。 20、30 歳台の若いビジネスマンが好むブランドのショップをすべて回ってスーツとシャツのサイズをメジャーで計測、それらのデータを詳細に分析し、FABRIC TOKYOオリジナルのパターンを作り上げた。

モノづくりの現場に IT スタートアップの手法を導入

縫製工場とパターンが揃った後はいよいよ製品の製造だ。 スーツを作るために生地が必要だが、生地を仕入れる際の最低ロットは 100 - 200m。 ジャケットを 1 枚作るのに必要な生地は 2m ほどなので、1 パターンのジャケットでも柄や色のバリエーションを揃えようとするとジャケット数千枚分の生地を持たないといけなくなってしまう。 ここで製造を諦めるケースや、在庫を大量に持ってしまい後々のビジネスが立ち行かなくなるケースも多いと思うが、森は IT スタートアップで培った経験を活かしてこの壁を突破した。 まずは本当に着心地の良い商品を提供できるか、そして実際に使ったユーザーがサービスに価値を感じてくれるか、その 2 点さえ検証できれば良い。 そのために森は思い切った決断を下す。

web 上でのデータ管理とオンラインでの注文、フィット感のあるスーツといった FABRIC TOKYO のコアの顧客体験をテストするために、パターンや生地のバリエーションを極限まで削いでサービスを開始したのだ。 サービス開始時に用意したスーツのタイプは 1 パターンのみで、生地は 5 種類だけ。 そしてその生地も余りの生地をもっている会社と交渉し、シーズン落ちをメーター単位で買い取ることに成功した。

IT 業界では製品やサービスを開発する際に、価値を提供できる最小限の機能に絞ってサービスを開始し、ユーザーからのフィードバックをもらいながら次の改善につなげる「MVP (Minimum Viable Product : 実用最小限の製品)」というアプローチが一般的だ。 これによりユーザー体験やニーズを検証しながらスピーディーにサービスの品質向上、事業拡大を実現できる。 FABRIC TOKYO はリアルなモノづくりの現場でもこれを実践し、効率的なサービス改善と拡大を成し遂げた。 現在ではデータドリブンでパターン・生地の需要予測を行うまでに進化し、生地の種類も 500 種類まで拡大、そのうちの半分がオリジナルの生地だ。

経験と行動力の掛け合わせによるゼロイチの推進

FABRIC TOKYO のケースでは、森の「自分がお客様であり続けられる事業を創りたい」という想いがゼロイチの根底にあった。 しかし、そのゼロからサービス開始のイチまで歩みを進められたのは、森の別業界での経験と泥臭く動き続けられる行動力によるところが大きい。 ある業界の常識を他の業界に転用させることでイノベーションに繋がることは多い。 そういった転用のアイデアは課題に直面したタイミングで、知識や経験から湧き出てくるものだ。 FABRIC TOKYO でも森の IT スタートアップでの経験がスピーディーな事業開発、拡大に繋がっている。 そして、新しい挑戦をしようとすると様々な障害が立ちはだかり、大抵は不可能だと言われてしまう。 しかし、そこで諦めずに泥臭く動き続けることで一歩一歩前進できる。

今ではアパレル業界でも一目置かれる存在となった FABRIC TOKYO だが、スタート時にはタウンページを見ながら電話を掛け続け、アパレルショップを一軒一軒回ってメジャーでサイズを測っていたのだ。 この事実は事業開発で悩んでいる人の背中を強く押してくれるはずだ。 諦めて歩みを止めない限り、事業開発は失敗しない。 たとえ間違った方向に進んでいたとしても、行動して選択肢を減らせたことで次の一歩を踏み出せる。 自分の経験と感を信じ、考えうるすべての行動をとっていけば、着実に次の段階に進んでいけるだろう。 (入澤諒、Forbes = 10-14-19)


原宿から生まれたフランス人インスタグラマー
無名の女の子が日本でフォロワー 1 万人超に

普段、何気なく歩いている道や通り。 でも、行きかう人たち、たたずむ人たちに意識して目を向けると、あの人は何者だろう? 何をしているんだろう? と気になることがないだろうか。 これは、そういう「路上の人」に話を聞こうという企画だ。

インタビューとは通常、何かしらユニークな取り組みをしていたり、特筆すべき成果を上げている人に対して行う。 手続きとしてはアポを取り、場所を用意し、下調べをして聞きたいことを整理してから臨む。 僕も普段はそのようにして仕事をしているけど、それとは別に、路上で見かける「気になる人たち」に話を聞いてみたいと思った。 日常のなかでほかの人とは異なる存在感を放つ彼ら、彼女らから、自分が知らない世界、社会がのぞけるかもしれない。 イレギュラーな出会いだからこそ、普段は耳にしないような言葉を聞けるかもしれない。 この企画の第 1 弾として声をかけたのが、マチルダさんだった。

出会いは原宿の竹下通り

原宿駅の竹下口を出て、竹下通りを歩く。 明治通りまで続くおよそ 350 メートルの通りは、平日の午後も人が多い。 その大半が外国人観光客と修学旅行生で、さまざまな国の言語と若者たちのはしゃぐ声が耳に入る。 メインの通りは人であふれかえっているのに、途中にあるいくつかの細い横道は閑散としていた。 僕はそこに置かれたベンチに腰掛け、ペットボトルの緑茶を口に含んだ。 少しボーっとしていると、目が覚めるようなカラフルなファッションをした、明るい水色の髪の毛の女の子が、竹下通りを原宿駅方面に歩いていくのが目に入った。 一瞬躊躇した後、ベンチを立ってその子を追いかけた。

いろいろなファッションをした人がいる竹下通りながら、その子の個性は際立っていた。 いい意味で周囲から完全に浮き上がっていて、彼女とすれ違った外国人観光客がみな、振り返っている。 どんな子なのだろうと距離を縮めて気がついた。 外国人だ。 もしかしたら彼女も観光客だろうか? 「エクスキューズミー、キャンユースピークジャパニーズ?」 つたない英語で話しかけると、驚いた様子で振り返った彼女から「はい」と日本語が返った。

日本語で大丈夫ですか?
「はい、大丈夫ですよ。」
日本に住んでるんですか?
「はい、もう 5 年ぐらい。」

ホッとして、こちらの意図を説明し、話を聞かせてほしいと頼むと、「いいですよ。 でも、これからアルバイトなんです。」という。

「じゃあ、別の日ならどうですか?」
「それなら大丈夫です。」

「よかった。 メールか何か、連絡先を教えてもらえますか? 僕は怪しい者じゃありません。」と名刺を渡す。 「わかりました(笑)。 インスタでいいですか? 英語でマチチ (machichi) と入れたら出てくると思います。」

インスタのフォロワー数は 1 万人を超えていた!

急いでスマホを取り出して検索すると、目の前にいる女の子が画面に現れた。

「これですよね?」
「そうそう。」

アップされている独特の世界観の写真に目を奪われつつ、じゃあ、ここにメッセージを送ります、というと、彼女は「はい」と軽く頭を下げて、アルバイトに向かった。 後姿を見送りながら、改めて彼女のインスタを見た。 フォロワー数を見て、思わず「おおっ」と声を上げてしまった。 1 万人を超えていた。 彼女とインスタのメッセージでやり取りをして、再会の日程を決めた。 諸事情で 2 度流れ、三度目の正直で話を聞くことができた。 場所は、竹下通りのカフェ。 待ち合わせは 18 時 10 分。 竹下通りにある店で 18 時までアルバイトした彼女は、時間通りに現れた。

彼女がカフェに入ってくると、店内の外国人観光客が、目を見開くようにして彼女を見つめる。 この日はピンクをベースにした、フワフワとしたファッションで、水色と薄紫色の髪の毛には、花とパズルの形をした髪飾り。 目の周りがキラキラしていて、眩い。 「今日はありがとうございます。 何でも飲んでください。 お腹がすいていたら、食べ物も頼んでくださいね。」と告げると、彼女は「ありがとうございます」と頭を下げた。

「私、選ぶのが遅いんです」と時間をかけてメニューを確認した彼女は、バニラアイスが乗った蜂蜜がけのワッフルを注文した。 ドリンクセットにしたらどうですか? と聞いたら、「いえ、水で大丈夫です」と首を振った。 「遠慮しないでくださいね」と言ったけど、彼女は店で出された水を飲み続けた。 マチルダさんは、フランスのパリで生まれ、近郊のオワーズ県シャンティイで育った。 シャンティイ城や第 96 回凱旋門賞(2017 年)が開催されたシャンティイ競馬場が有名な町だ。 父親はエジプト人、母親はフランス人。 幼い頃に、父親の兄にあたる叔父の家に預けられ、叔父、叔父の妻、彼らの息子 2 人とともに生きてきた。

漫画家・矢沢あいのファンだった

- - 日本に興味を持ったのはいつ頃?

いつからか覚えてないけど、一番(関心が)強くなったのは中学校のときかな。 最初に好きになった人も、フランスに住んでた日本人でした。 (日本のことが)ここまで好きになったのは、そういうのもあると思う。 日本の漫画とかアニメとか音楽も好きで。

- - 一番好きな漫画は?

『NANA』! 20 年以上前、僕の姉も『NANA』を買っていて、僕も一通り読んでいたから、すぐに作者の名前と絵柄が浮かんだ。

- - 矢沢あいですね。

そうそうそう。 『Paradise Kiss』もすごい好きだった。 私はファッションがすごい好きだから、『Paradise Kiss』は最強。

- - 音楽は?

私はもともとロックのほうが好き。 でも、ネットで日本のロックを探すと、だいたいビジュアル系が出てくる。 ミヤビ(雅 〜miyavi〜)は、彼(好きになった日本人)が大ファンで。 あとはアン・カフェ(アンティック -珈琲店-)、X ジャパン、ルナシー、ラルクアンシエルとかを聞いたりしてて。

僕の質問に対して、よどみなく答えるマチルダさん。 随分と日本語が達者なので、語学学校で学んだのかと思ったら、違った。 「学校には行ってないんです。 どうしても日本語わかりたい、話したいと思って、それで勉強始めて。 高校生のとき、自分で本を買って頑張った。 単語を書いたノートも、毎日ずっと見てた。 洗い物したり、テレビとか見てても、単語を覚えるようにしてた。 トイレのドアにも、ベットの上にも単語を貼ってたね。」

- - 自分で頑張ったんですね。

そうそう。 ネットでドラマを見たりして勉強した。 『花より男子』とか『きみはペット』、あとなんだったっけ、『野ブタ。をプロデュース』。 それが一番最初だったかな。 叔母さんは、私と一緒にドラマはまっちゃった。

- - え、日本のドラマ?

そう、『花より男子』とか。 私が最初 1 人で 1 回見て、叔母さんに見せてあげて。 そしたら大好きになって、5、6 回見てた、1 人で。 私は飽きちゃってた、逆に(笑)。

- - 叔母さんは、日本語わかるの?

ううん、最初、私もわからなかった。 (画面の)下の … なんていうの?

- - 字幕?

そう字幕、フランス語ついてるの見つけられる。 ネットで。 それで一緒に見てた。

マチルダさんの日本語は、日本人が日常的に使う話し言葉だ。 それはきっと、ドラマで耳から学んだからだろう。

人目を引くファッションをし始めたのは中学生のとき

フォークとナイフで少しずつワッフルを食べながら僕の質問に答える彼女は、カフェの中で引き続き注目の的だ。 隣席のアジア人の男が、好奇心を隠す様子もなく、しげしげと見つめている。 彼女は気にする様子もないけど、僕は気になる。 ただそこにいるだけで人目を引く彼女のファッションは、中学生のとき、ネットで見た原宿の情報や『NANA』、『Paradise Kiss』などマンガの影響で始まった。 「今より太ってて、自分の体がコンプレックスだった」そうで、当時は暗い色のゴスロリ系の服を着ていた。

少しずつ服を買いそろえて、高校生のときには毎日のように髪にカラフルなウィッグをつけ、ゴスロリファッションで学校に通った。 服装やメイクが理由で叔父とケンカしたこともあったけど、やめようと思ったことはない。 そこには趣味以上の理由があったようだ。

「私は若いとき(小中学生のとき)、すごい地味だった。 でもすごくナンパされた。 フランスでは普通のことだけど、こっちが断ると、一瞬で変わる。 すごい悪い言葉を言われたり、怒ってくる感じ。 しつこいし。 でも、派手になってから、そういうの、すごい少なくなった。 ナンパっていうよりも、今日、パーティーとかイベントやってますか? その格好いいね、マンガとか好きですか? とか、そういう感じの声のかけ方になって。 普通の格好したほうが、弱く見えるかな。 これはバリア。 このスタイルが守ってくれる。」

中学も、高校も、同じような服装の生徒はほかにいなかった。 だから思いっきり目立っていたのだろう。 マチルダさんの熱烈な「日本への愛(本人の言葉)」に興味を持ち、日本のカルチャーのファンになる生徒が続出した。 マチルダさんは、幼い頃からの「ベストフレンド」に日本語を教えたから、その子は今でも観光には困らない程度に日本語を話せる。 「3 歳から自分の夢はファッションデザイナー」だったマチルダさんは、高校卒業後、ファッションを学ぶ学校に進学した。 ところが 1 年も経たずに、「いろいろあって、どっちかというとクビになったかな。」

「うちに帰ります」

これからどうしよう …。 行き場を失ったとき、背中を押してくれたのは、一緒に日本のドラマを見てきた叔母だった。 「昔から日本大好きだから、行ってきたら?」 このとき、叔母は体調を崩していた。 その一方で、マチルダさんと叔父の関係は悪化していた。 「もし自分が死んだら、マチルダはどうなってしまうだろう」と心配しての言葉だったと、マチルダさんは理解している。

日本に発つ日、叔母と友人たちが空港に見送りに来てくれた。 叔母にはこう伝えた。 「うちに帰ります。」 日本が好きで好きで、その思いが最大限に高ぶっていたマチルダさんにとって、日本は遊びに行く場所ではなく、心の拠り所 = ホームになっていた。 だからこそ「帰ります」という言葉になったのだろう。 2013 年のクリスマス、成田空港に降り立った 19 歳のマチルダさん。 フランス時代の話をしているときは淡々とした様子だった彼女が、一転して目をキラキラさせてこう言った。 「日本に来てから、ラッキーなことばっかり! 来てよかった!」

学生ビザで来日し、東京の語学学校に通い始めた彼女は、初日にがっかりした。 フランス時代、独学で必死に終わらせた教科書とまったく同じテキストが配られたからだ。 「もう知ってる、これ!」 モチベーションが下がった彼女は、間もなくして学校をさぼるようになった。 就労ビザが下りるような仕事を探したが、それもうまくいかなかった。 ちなみに、彼女は日本に来てからこれまでの 5 年半で、いわゆる普通の服装をしたのは「2 回ぐらい」。 大学を出ていないから仕事を探すのは難しいと言っていたけど、日本の企業で彼女の個性を受け入れる度量があるところが少ないのかもしれない。

学校は退屈。 いい仕事も見つからない。 それでも、フランスに戻りたいとは思わなかった。 自分でも不思議なほど、日本の生活が肌に合った。 フランスにいるよりも、明らかに快適で、リラックスできた。 初めて歩いたはずの道なのに、「ここ、見たことある」と思ったことも一度や二度ではない。 叔母にいつも「あなたはきっと、日本のプリンスだったんだよ」と言われていたマチルダさんは、叔母の言葉通り、自分の深いところで日本と通じるところがあると実感していた。 「なんでプリンセスじゃなくて、プリンスなのかわかんないけどね。(笑)」

運命の出会い

- - それがだいたい 5 年半前で、それからどうなった?

いちばん大きなことっていうか。 日本語の学校、クビになった。 さぼって。 そのときに昔から知ってた日本人、メールで知ってた人と会って、好きになって、結婚した。

- - え、結婚!?

そう。 2014 年の 11 月、20 歳のとき。 日本に来て 1 年ぐらい経ってから。 今も結婚してる。 けっこう早かった。 何も考えずに結婚しよってなった感じかな。 いま考えると、クレイジーかもこのやり方(笑)。 でもうまくいってるし、すごい幸せ。

- - どうやって知り合ったの?

フランスにいたときに、日本語、勉強するために 2 年間ぐらい彼とメールしてて。 もともと広島の人だけど、私が日本に来たとき、同じタイミングで、仕事のために神奈川県に来て。 それで、会いましょうってなって。

- - それですぐに結婚!?

会ったら、もう昔から知ってるみたいな感じ。 それから 2 週間、友だちの関係でずっと会って遊んでて、もう知らないうちに好きになったっていうか。 まだ付き合ってないときに散歩しててね、彼が「(マチルダが)フランスに帰ったらやだ」、「私もやだ、一緒にいたい」と言ったら、彼が軽く「結婚しよっか?」って。 「うん、しよ」って言いました(笑)。

- - 付き合ってないのに?

そうそうそう。 初めて会ってから 2 週間しか経ってないのに。 で、彼がすぐ自分のお母さんに電話した。 お母さん、彼女もいなかったのに、急に結婚の話が出てきてショックだったみたい。 でも、2 人とも若くて、ばかみたいに、何も考えずに結婚しました。 いま考えると、よくできたなと思うよ。 ほんとにラッキー。 運命と出会ったっていうか。

- - マチルダさんの家族は?

フランスにいたとき、彼と毎日ぐらいメールしてたから、私の叔母さんも彼のこと知ってたの。 それで「あなた絶対、将来、彼と結婚する」って言ってた。 結婚が決まったとき、叔母さんは病気がひどくなって死にそうだったけど、彼と結婚しますって言ったとき、ほら、そう言ってたでしょう? っていう感じ。 喜んでた、すごく。 会ったことないのに。

- - それはよかった。彼はどんな人?

同じ年です。 初めて会ったとき、見た目にタイプじゃないから、何もならないと思ってた。 彼は、私のこと怖かった。 メイクが強いし、外国人に慣れてないというのもあって。 それなのに 2 週間後、結婚決まってた。

家では普通、でも外で普通の格好は落ち着かない

- - それから 2 人で暮らし始めたの?

そうそう。

- - ちなみに、家でも同じ服装してるんですか?

外に行かないときは、パジャマです。 しかもかわいいパジャマじゃなくて、すごい普通、しまむらとかで買う感じ。 ウィッグもとるし、メイクも家の中ではしないよね。 冬は、おばあさんみたいにはんてんとか着てるし、家にいるときはぜんぜん違います。

- - 意外です(笑)。

でも外に出るとき、普通の格好は無理、出かけれない。 すごい怖い。 落ち着かない。

- - 旦那さんとご飯食べに行くときも?

いつも、こんな感じです。 別に旦那は何にも言わない。 好きではないと思うけど、嫌いでもないんじゃない? 私の自由にやらしてくれる。 インスタの写真は友だちに撮ってもらったり、自分で撮ることが多いけど、彼もデートしているときに撮ってくれます。

- - それはよかった。

うん。 前は自分の人生が終わるときは日本にいたいと思ってたの。 今は日本にいたいというより、旦那といたい。 もし急にフランスに戻らなきゃってなったら、一番つらいのは日本と離れることじゃなくて、彼と一緒にいることができないこと。

- - 本当に運命的だね。

うん、そんな感じする。

結婚後、すぐに叔母さんが亡くなったり、足をケガして手術をしたりと大変なことが続いたが、翌年 2 月にインスタグラムを始めてから、生活が少しずつ変わり始めた。 どんどんフォロワーが増えて、仕事にも追い風が吹いた。 いま働いている原宿ファッションの先駆的ショップ「6% DOKIDOKI」は、「ここで働きたい!」と自らインスタでメッセージを送り、面接のチャンスを得た。 もう 1 つ、竹下通りの店でアルバイトをしながら、マチルダさんのインスタを見たあるブランドからの依頼で、ファッションデザインの仕事も手がける。

350 メートルのランウェイ

デザインの仕事は「うまくいけば、来年、もう少し増えるかもしれない。」 事務所に所属してモデルの仕事もしたけど、マチルダさんの夢は、3 歳の頃から変わっていない。 「できれば、自分のブランドを立ち上げたいです。 ハンドメイドで、エコなブランド。 日本の着物が好きで、原宿のファッションも好きだから、それを混ぜた感じのブランドを作りたくて、ちょっとずつ準備してます。 1 人だから大変だけど、家にいるときは、デザインを考えて、服を作ってストックしてます。」

気づけば、カフェで話を聞き始めてから 1 時間が過ぎていた。 会計をして、店を出てから、竹下通りで撮影をした。 道行く人の多くが、彼女に視線を送る。 チラッといちべつする人もいれば、驚いたように凝視する人もいる。 写真を撮ろうと、スマホを向ける外国人もいる。 中学生ほどの若い女の子のグループは、わあ! と顔を輝かせた。 その中を、彼女は真っすぐ前を向いてゆったりと歩く。

竹下通りの 350 メートルは、彼女にとってのランウェイだ。 ファッションモデルが歩く舞台というより、英単語の「滑走路」という意味がしっくりくる。 原宿に憧れて来日したマチルダさんが、竹下通りから空高く飛び立とうとしている。 僕にはそう見えた。 (川内 イオ、東洋経済 = 7-12-19)