輪島朝市、メインストリート復活へ 並行の道路も新設 地権者ら了承 昨年元日の能登半島地震で焼失した石川県輪島市河井町の「輪島朝市」周辺について、地震前に露店が並んでいた「朝市通り(本町通り)」を復旧し、並行する複数の道路を新設する方針が決まった。 地権者らが 29 日、地元の本町周辺地区まちづくり協議会で了承した。 朝市周辺は木造の店舗や住宅が密集しており、地震による火災で約5万平方メートル、249 棟が焼失した。 建物の解体はまもなく完了する見込みで、更地が広がっている。 計画では、地域の「背骨」でもある朝市通りを一部で幅員を広げた上で、元の形に戻す。 密集する住宅の間にあった小路も残す。 現在の建築基準法で建物を建てるのに必要な要件を満たすため、朝市通りと並行する3本の道路などを新設する。 市も方針を了承し、新年度から測量や設計を始める。 新しいまちの骨格となる道路の方針が決まったことで、今後は店舗や住宅、災害公営住宅、広場などをつくる場所を決める段階に進む。 被災前の宅地の境界を測量するのではなく … 復興の早さを優先させるため、被災前の個々の宅地の境界を調査・測量するのではなく、登記された面積に応じて新たに所有する土地を整理する。 道路に囲まれた七つの区域ごとに、市やコンサルタント会社と案を調整しながら話し合いを進め、早い場所では 2025 年度内の建築着工を目指すという。 輪島市朝市組合によると、朝市は遅くとも平安時代には始まった。 地震前まで、朝市通り沿いに海産物や輪島塗など約 160 の露店が並んでいた。 15 年には北陸新幹線が金沢まで延伸し、NHK の連続テレビ小説「まれ」の舞台としても脚光を浴び、年間約 80 万人が訪れた。 地震前年の 23 年には 20 万人超が訪れた。 市は復興まちづくり計画で「朝市周辺を復興のシンボルとして再建」と掲げ、30 年度ごろまでに朝市と商店街、住まいを共存させる市街地の整備を目指している。 昨年 12 月には住民たちによるまちづくり協議会が発足し、市やコンサルとともに復興の方針について話し合ってきた。 (上田真由美、asahi = 3-29-25) 能登半島沿岸 250 キロ、「絶景海道」として復興を 国交省など検討 地震や豪雨で被災した能登半島沿岸部の誘客も見据えた復興に向けて、国土交通省や石川県、関係自治体が有識者とともに話し合う「能登半島絶景海道の創造的復興に向けた検討会」が 3 日、同県七尾市で始まった。 能登半島の沿岸を周遊する国道 249 号や県道は、切り立った崖が特徴的な日本海側の「外浦」と穏やかな海岸が続く富山湾側の「内浦」での対照的な景観や、棚田の白米千枚田やボラ待ちやぐらなど自然と調和した人の営みを楽しむことができる周遊ルートだった。 ところが、昨年元日の能登半島地震で道路は寸断され、穴の開いた奇岩「窓岩」は崩れ、海中の「ゴジラ岩」は海岸隆起で陸続きになって「ゴジラが上陸した」と言われるようになった。 道路の復旧工事と並行して、変化した景観を震災遺構も含めて改めて魅力ある周遊ルートとして整備したり、海外からも誘客できる自転車で巡るサイクルツーリズムを盛り上げたりするための具体的な方策を探る。 これまで半島先端の珠洲市の一部が国交省の日本風景街道「奥能登絶景海道」とされてきたが、輪島、能登、穴水、七尾、志賀の計 6 市町の約 250 キロに範囲を広げて検討する。 この日、有識者からは「海岸沿いに魅力を感じたオーベルジュ(地元食材を使った宿泊型レストラン)もある。 民間にも入ってもらい、道だけではなくエリアとして考える必要がある。(片桐由希子・金沢工業大准教授)」、「過去の写真は確かに美しいが、どれが新しい絶景なのかを考え、景観をつくっていかなければならない。(臼井純子・北陸風景街道交流会議アドバイザー)」などの意見があった。 今後、複数回の議論を重ねて方針案をとりまとめる。 委員長の藤生慎・金沢大准教授(土木計画学)は「復興のためにはハードもソフトも両輪で回し、いろいろなところが協力していくことでいい方向に進んでいくと思う」と話した。 (上田真由美、asahi = 2-3-25) 傷ついた故郷「光り輝く未来に」 能登で 1 年遅れの「二十歳の集い」 昨年の能登半島地震で被災した石川県の輪島、珠洲、穴水の 3 市町で 11 日、1 年遅れの「二十歳の集い」があった。 若者たちは傷ついたふるさとの未来に向けて新たな一歩を踏み出すと誓い、地域の人たちが見守った。 輪島市の市立輪島中学校の体育館では、今年度 21 歳を迎える 232 人のうち 125 人が参加し、「集い」が開かれた。 「私たちがこれまで歩んできた人生は、多くの苦難がありました。」 代表の 2 人が読み上げた「二十歳の誓い」に、そんな言葉があった。 思春期に猛威を振るった新型コロナ、節目の年の地震、豪雨 …。 代表の 1 人、輪島中卒業生の古谷美颯(みはや)さん (21) は地震後、地元を離れた。 朝市通り近くの自宅は半壊。 地震による火災で火の手が間近に迫り、両親が営む飲食店は全壊した。 エンジニアをめざしてバスで通学していた市内の日本航空大学校石川は被災し、東京都青梅市の別キャンパスで授業が再開された。 昨年 5 月から同市で寮生活を送る。 9 月の豪雨後、大学校の仲間らと青梅市で募金をし、輪島に戻り家屋から泥を運び出すボランティアにも取り組んだ。 「離れているのは寂しい。 やっぱりここが好き。」と古谷さんは言う。 誓いの言葉は「この町に住む一人一人がまわりを思いやる気持ちを持っていたからこそ、助け合いながらあきらめずに生きていられるのだと思います」と続けた。 誓いに込めた「絶望」と「希望」 「私は元気で成人しましたと、地域の人たちに伝わったらいいな」と思って読み上げたという。 もう 1 人の代表、輪島中卒業生で、静岡県内の大学で学ぶ塩山仁志さん (21) は、これまでの「絶望」とこれからの「希望」を誓いの言葉に込めたという。 帰省中に被災。 家屋が崩れ、道路に亀裂が走り故郷が一変するのを目の当たりにした。 豪雨では実家が床上浸水した。 離れているのがもどかしく、「戻りたい思いが強まった。」 石川県で保健体育の教員になりたいという。 若い世代に命を守る行動を伝えたいと考えている。 「光り輝く未来に向け、進んでいくことを決意し誓いの言葉といたします」と締めくくった。 実行委員長を務めた朝川尚史さん (21) は輪島市税務課の職員だ。 市内では地震で 181 人、豪雨で 11 人が亡くなった。 震災後 3 カ月ほど、市役所の床に布団を敷いて寝泊まりした。 祖父は昨年 3 月に亡くなり、災害関連死に認定された。 地域はまだ復旧したように見えない。 これから復旧していく軌跡を写真で記録していきたいという。 震災について「友達としゃべることも大切にしたい」と話す。 珠洲市の式典には 79 人、穴水町では 42 人が参加した。 今年度 20 歳になる人たちの「集い」は 3 市町とも 12 日にある。 全壊した美容室、プレハブ店舗で 8 人を着付け 「21 歳」の晴れ姿を、地元の人たちもあたたかく見守った。 石川県珠洲市宝立町の北沢美容室では 11 日午前 3 時ごろから、美容師の岸田孝子さん (53) が着付けにあたった。 能登半島地震で店は全壊。 「この日に間に合うように」と跡地に建てたプレハブ店舗で 8 人を華やかに仕上げ、会場に送り出した。 昨年の元日、6 日後に予定された式典に向け、9 枚の振り袖を預かっていた。 店は津波に遭ったが、ボランティアが建物に穴を開けて潜り込み、すべてを「救出」してくれた。 なかには「母から引き継いだ」という着物もあった。 クリーニングをし、破れたところは繕ってもらい、買い替えざるを得なかった 1 枚を除いて今年も着られるようにした。 1 年前に振り袖を預けた市内の 6 人は全員、今回も岸田さんに着付けを頼んだ。 小さいころからよく知る近所の子たち。 未曽有の 1 年の成長に合わせて、昨年予定していたよりもそれぞれ少し落ち着きのある大人っぽい髪形に仕上げた。 「私から伝えられるのは、『おめでとう』くらい」と岸田さん。 震災前から、多くの若者が進学や就職で離れていく地域だ。 「若い子たちに、戻ってきてここで生活してほしいとは言わない。 でも『ここが自分の故郷』と言えて、帰りたいときに帰って来られる場所、ほっとする場所であり続けられたら。」と語った。 式典で司会を担った富田雪乃さん (20) も、赤い振り袖を岸田さんに着付けてもらった。 1 歳上の姉と一緒に着られるようにと祖母が選んでくれたもので、地震後に店内から出してもらい、着ることができた。 「裾に少しだけ傷が入ったことも、思い出として大事にしたい」と話し、「今日は離ればなれになっていたみんなと会えてうれしかった」と笑顔をはじけさせた。 「復興はとても難しいものと思うけれど、珠洲の魅力の自然や人のやさしさを残していくような復興を諦めず、これから私たち新成人もそれを担う一員になりたい。」 (小崎瑶太、上田真由美、asahi = 1-11-25) 珠洲は今 1 年たっても「まだ水が出ない」、「相当異常」 再建から 10 日で 能登半島地震から 1 年。 鈴江奈々アナウンサーが、石川・珠洲市で取材しました。 地震や豪雨で被害を受けた神社の宮司は、最も必要なものにインフラを挙げました。 思い出の場所にあった自宅が 2 度壊れた 70 歳の男性は、気持ちが揺らいできているといいます。 ■ 本殿の公費解体が終了したのは 12 月 鈴江アナウンサーが訪ねたのは、珠洲市で 600 年近く続く羽黒神社の宮司、高山哲典さんです。 1 年前の地震で神社は倒壊。 手つかずだった本殿の公費解体がようやく終わったのは、去年 12 月のことでした。 「寂しいですけど、しょうがないですよね。 潰さないことには次に進まないですから。」と高山さんは話します。 ■ 夜の町は「真っ暗で誰もいない」
■ 146 人死亡、5,000 棟以上に被害 去年元日の地震で、珠洲の町は一変しました。 12 月 24 日時点で災害関連死を含めて 146 人が亡くなり、5,573 棟の住宅被害がありました。 高山さんが管理する別の神社も、崩れてしまいました。 「ひどいですよね」と高山さん。 地震では無事でしたが、去年 9 月の奥能登豪雨で全壊しました。
■ 渡すことができた新年のお札は半分に かつて交流があった人たちの姿も、今はありません。 毎年、高山さんが 1 軒 1 軒訪問し、新年のお札を渡してきました。 今は、どこに誰が住んでいるかわからないため、神社の中で配ることにしました。 一人ひとりに渡す神事を始めるという高山さん。 「何人来られるかわかりませんけど …。」 この日集まったのは、わずか 5 人でした。 高山さんはおはらいをし、「くれぐれもよいお年をお迎えください」と挨拶しました。 直接お札を渡せた人を合わせても、前回(一昨年)は約 120 体、今回(去年)は約 70 体と半分ほどになりました。 ■ 「1 月 1 日のまんまなのは相当異常」
■ 震度 6 強 … 2023 年の地震でも被害 鈴江アナウンサーは歩きながら、「町に生活の音がひとつもありません」と言います。 人がいなくなった町。 今も珠洲に住んでいる人達は、今後どうしていくか葛藤しています。 仮設住宅に入居している濱塚喜久男さん (70) もその 1 人です。 「狭いですよ、本当に狭いですよ」と仮設住宅の中を案内してくれました。 タクシーの運転手をしながら、娘と 2 人で暮らしています。 住居は必要最小限のスペースのみです。 以前住んでいた自宅は今、更地になっています。 実は、濱塚さんが自宅に住めなくなったのは今回が 2 回目です。 珠洲市では一昨年 5 月にも、震度 6 強の地震が発生。 この時、濱塚さんの自宅は半壊しました。 500 万円以上をかけて家を修理しましたが、1 年前の元日の地震にも襲われます。 ■ 再建から約 10 日で「ぺっちゃんこ」 タクシーを運転中だった濱塚さんは車を降りて避難しましたが、乗っていたタクシーは目の前で津波に流されました。 自宅も、再建から約 10 日で再び潰れてしまいました。 「10 日ほどでぺっちゃんこになったんですね。」 当時も「こんなの見ると、2 回 3 回遭うと、もう限界ですよ」と嘆いていました。 ただ、濱塚さんはここに特別な思いを抱いています。 ■ 6 人の孫がよく遊んだ思い出の場所
地震前は、6 人の孫がよく遊んでいた思い出の場所です。 濱塚さんは「私の思い出もいっぱいあるし、孫らもいっぱいここに思い出あるんですよ。 それを、ここなくすとなったら全部その思い出もみんな捨てるみたいな感じで …。 地震もひどかったですけど、やっぱり楽しい思い出のほうを思いたい。」と言います。 この場所に残るかどうか、濱塚さんは迷い続けています。 「地震でいっぺんに変わりましたね。 残りわずかな人生ですけど。」 ■ 時間がたち…気持ちに揺らぎも
■ 半島の先端 … ボランティアも少なく 年が改まり、能登半島の被災地は 2 回目の元日を迎えました。
能登の大動脈」国道 249 号、全線再開へ「おかげで娘にも会える」 石川県の能登半島を一周するように走り、「能登の大動脈」と呼ばれる国道 249 号が、年内に全線で通行可能となる。 元日の能登半島地震以降、一部区間で通行止めが続いていた。 最後につながる珠洲市大谷地区で 24 日、国土交通省能登復興事務所が住民説明会を開いた。 住民からは喜びの一方、戻らない暮らしを嘆く声もこぼれる。 国道 249 号は能登の住民にとって、山あいや海べりの集落から仕事や病院、買い物に行くのに欠かせない生命線。 だが地震後、輪島市門前町 - 珠洲市間(52.9 キロ)の 231 カ所で土砂崩れや陥没が確認された。 特に日本海沿いの輪島市中心部と珠洲市を結ぶ一帯は、山から崩れた土砂が海まで押し寄せ、国道を覆った。 通行止めが続いていた区間が今月、相次いで通行可能になり、27 日に珠洲市の逢坂トンネル(全長 632 メートル)付近が最後につながる。 地震で隆起した海岸に幅 5 メートル、長さ約 1.7 7キロの 1 車線道路を造り、地元住民や緊急車両が通れるようになる。 峠道のみの日々から 説明会に参加した南昭義さん (83) = 珠洲市片岩町 = は、トンネルを東に越えた半島先端部で暮らす。 仮設道路ができると、最寄りのガソリンスタンドまで車で 30 分かかったのが 10 分になるという。 これまでは西側の輪島方面との行き来に山間部を抜ける幅の狭い峠道を使うしかなく、高知県に住む次女 (48) に「危ないから年末年始も帰ってこないように」と伝えようと思っていた。 「道のおかげで娘にも会える。 本当にありがたい。」 トンネルの西側の同市真浦町で旅館などを営んでいた和田丈太郎さん (52) はいま、市中心部のシェアハウスで生活。 片付けや地区の様子を見るために自宅に足を運んでいたが、道路の復旧で「家に帰りやすくなった」と喜ぶ。 市中心部から自宅まで、地震前は車で 30 分ほどだったが、地震後は約 1 時間半かかっていたという。 「正直、地元に残るか迷っているが、国道が元に戻ったことで、残る希望をもらった気がする」と話す。 ただ、真浦町の区長、南逸郎さん (85) は、道路の開通だけでは帰れないと嘆く。 自宅は住める程度の損壊だというが、電気や水道が復旧しておらず、仮設住宅で暮らす。「せめて正月は家で過ごしたかった。」 道つなぎ「住民の心もつなぎとめる」 能登復興事務所は、国道 249 号の復旧で工事関係車両の出入りがスムーズになると見込む。 技術統括マネージャーの谷俊秀さん (52) は「今回の開通で地域の復興を後押しできたら」と話す。 逢坂トンネル近くでは、地滑りの危険性を確認するボーリング調査などを経て、6 月に工事に着手。 工事を担当した同事務所サブマネージャーの相川雅央さん (46) は当初、約 10 万立方メートルの土砂がトンネルに流入した光景に「どう道をひらくのか想像もできない」と感じた。 隆起した海岸にまず、重機が通れる道をつくったのが 8 月。 それから土を盛って砂利を敷き、アスファルトで舗装して道路を完成させた。 現場には激しく波が打ち寄せ、重さ 2 トンの土留めが流されることもあった。 工事中、住民から何度も「ありがとう」と声をかけられたと相川さんは振り返る。 「『もうここには住めない』と諦めかけている方もいたが、道がひらくのを待ってくれた。 地域の道をつなげただけでなく、地元に残りたい住民の心もつなぎとめられたらと思う。」 国道 249 号をめぐっては、12 月 20 日に国の名勝に指定されている「白米千枚田」付近で、隆起した海岸に造った仮設道路の 2 車線通行が可能に。 地震からの復旧工事中に豪雨に見舞われ、作業員に犠牲者も出た輪島市の中屋トンネル近くには迂回路ができ、25 日から地元住民や緊急車両が通れるようになる。 (椎木慎太郎、asahi = 12-24-24) 両陛下、3 度目の能登訪問 被災者に「おつらかったですね」 天皇、皇后両陛下は 17 日、9 月の豪雨で甚大な被害を受けた石川県輪島市を日帰りで訪れた。 両陛下は年初に発生した能登半島地震の被災者を見舞うため、今春にも 2 度、能登半島の 4 市町を訪れており、今回が 3 度目。 同県輪島市は 9 月の豪雨で 11 人が亡くなり、現在も市内 13 カ所の避難所で 256 人が避難生活を余儀なくされている。 両陛下はこのうち、30 世帯 51 人が身を寄せる輪島市立輪島中学校の施設を訪問し、被災者一人一人に「お大事に」などと言葉をかけた。 地震で自宅が全壊し、半年後に入居がかなった仮設住宅も浸水被害に遭って 2 度目の避難所生活を余儀なくされている吉岡久美子さん (70) は「親から受け継いだものも全てなくなって、心に穴が開いたような状態」と打ち明けた。 天皇陛下は「大変でございましたね。 おつらかったですね。」といたわった。 市中泰雄さん (86)、邦子さん (82) 夫妻には皇后さまが「お体にお気をつけて」と伝えた。 泰雄さんは取材に、「お二人とも優しい目だった。 輪島塗りのいち職人としてまだ頑張っていきたい。」と話した。 その後、災害対応にあたった警察、自衛隊、消防の地元責任者とも面会し、当時の苦労話に耳を傾け、尽力をねぎらった。 これに先立ち、塚田川が氾濫して複数の住宅が流された久手川地区にも足を運んだ。 災害発生から 3 カ月が経とうとする現在も、つぶれた車や壊れた家屋などが残る。 両陛下は、同地区で 4 人が亡くなったことなどの説明に沈痛な表情で聞き入り、その後、辺りを見渡せる方角に体を向け、深々と頭を下げた。 市長によると、両陛下は亡くなった人々を悼み、女子中学生が自宅ごと流されて犠牲になったことについても皇后さまから「残念な痛ましいことだった」という趣旨の言葉があったという。 (中田絢子、asahi = 12-17-24) 9 月の能登豪雨、地球温暖化の影響で雨量 15% 増 観測史上 1 位も 石川県の能登半島を襲った今年 9 月の豪雨について、気象庁気象研究所などは 9 日、地球温暖化によって雨量が 15% 程度多くなっていたという分析結果を発表した。 気象庁によると、秋雨前線が活発化し、石川県内では 9 月 21 日昼前に線状降水帯が発生した。 24 時間雨量は石川県輪島市で 412 ミリとなり、観測史上 1 位を大幅に更新した。 気象研究所などのチームは、気象現象に対する温暖化の影響をみる「イベントアトリビューション (EA)」という手法で、今回の雨を解析した。 その結果、特に雨が多かった 21 日午前 6 時から午後 3 時までの 9 時間について、能登半島北部の積算雨量は温暖化の影響がないと仮定した場合より15%程度多かったという。 チームは「気温、海面水温の上昇によって雨量が増加した」とする。 気象研究所の川瀬宏明主任研究官は「温暖化の影響が来年以降に大幅に減るということは考えられず、昔に比べて降雨量が多くなりやすい状態は今後も続いていく」と話す。 (矢田文、asahi = 12-9-24) 浸水 2 メートル、ショーケースに乗り耐えた 能登の豪雨から 3 週間 能登半島を襲った豪雨から 12 日で 3 週間になる。 石川県輪島市町野町の中心部では、浸水の深さが 2 メートル近くに達し、命の危険にさらされた住民もいた。 「生きててよかった。」 町中心部にある「スーパーもとや」の前社長、本谷一郎さん (76) は、店内に流れ込んだ濁流にのまれ、命を落としかけた。 9 月 21 日午前 9 時 45 分ごろ、近くを流れる鈴屋川があふれ、店のドアから水が浸入してきたため、商品がぬれないように棚の上にあげた。 水を防ごうとドアを押さえたが、勢いが強くて止められない。 午前 10 時すぎには直径約 1 メートルの流木がドアを破って突っ込んできた。 みるみる水位が上がり、顔まで水中に沈んだ。 浮いていた鮮魚のショーケースをつかむと、何度も失敗しながら上によじ登り、転覆しないよう近くに浮いていた陳列棚につかまって耐えた。 「おやじ、どうだ?」 約 30 分後、水が引き始め、2 階から下りてきた長男で現社長の一知さん (46) の声で我に返った。 柱を見ると、浸水の跡が高さ約 1.8 メートルのところに残っていた。 町中心部で亡くなった人はいなかったものの、石川県によると 10 月 9 日時点で、この豪雨の死者は輪島、珠洲、能登の 3 市町で計 14 人、安否不明者は 1 人。 住宅被害は分かっているだけで全壊 16 棟、床上・床下浸水 398 棟にのぼるが、今後大きく増える見込みだ。 (御船紗子、asahi = 10-12-24) |