輪島塗の伝統「途絶えさせぬ」 工房・ギャラリー … 職人たちが再建へ

国の重要無形文化財に指定されている、石川県輪島市の伝統工芸「輪島塗」。 市内に百を超える事業所の大半が能登半島地震で被災したが、職人たちは「伝統の技を途絶えさせぬ」と、避難先や輪島市で、再建に向けて動き出している。 2 月 16 日から 3 日間、東京国際フォーラム(東京都千代田区)で開かれた「いしかわ伝統工芸フェア」には、輪島塗の業者 9 店が参加した。 無事だった商品を輪島市から運んで販売した「采色塗なか門(かど)」の中門睦子さん (65) は「手に取ってもらって『いい』と言ってもらえるから、前向きになれます」と話した。

輪島塗は、工程ごとの分業制で成り立っている。 中門さんの夫の博さん (66) は、仕上げの漆塗りを担当する「上塗り職人」だ。 自宅兼工房は倒壊こそ免れたが、ギャラリーに陳列していた商品は落下して傷ついた。 漆が入った缶や器が倒れ、床にぶちまけられていた。 最初は何もする気になれなかったという。 それでも、次第に被害を受けた輪島塗製品の修理依頼や、新規の依頼が舞い込むようになった。

「分業だから、たまたま工房が無事だったうちが塗らないと生産が止まる。 やれることはやろう。」と、博さんは 1 月 23 日に上塗り作業を再開した。 店に勤める職人の一人も金沢市内に避難中だが、2 月中旬から週 3 日は輪島に戻り、中門さん宅に泊まりこんで上塗り作業をしている。 睦子さんは「従業員の生活が第一。 働く場所がないと、せっかく良い腕の職人さんが辞めてしまうから。」と話す。 分業制の職人たちをマネジメントする「塗師屋(ぬしや)」の大藤漆器店は、3 月上旬に金沢市内で仮のギャラリーと工房を開く準備をしている。

社長の大藤孝一さん (67) によると、店が抱える約 25 人の職人の半数以上が輪島を出て、金沢市周辺に避難しているという。 大藤さんは仮のギャラリーを、各地に避難した輪島の人たちが集い語らう場所に、工房を蒔絵(まきえ)師や沈金師が自由に出入りし、なりわいを続けられる拠点にしようと考えている。 「何年かかっても、必ず輪島に戻って輪島塗を作る。 それまでの間、地元の仲間が近くにいる、安心して仕事ができる場所が必要なんです。」

別の塗師屋の田谷(たや)漆器店も、事務所と工房が全壊し、2 月にオープン予定だった朝市通りに近いギャラリーが全焼したが、出荷を再開した。 幸い、がれきの中から取り出した商品は、箱に入っていてほとんどが無事だった。 代表の田谷昂大さん (32) が自ら県外まで出向き、受託製造などの営業も始めた。 駐車場にトレーラーハウスを設置し、輪島朝市が金沢市で一部再開するまでに、仮の工房として生産を再開する計画も進めている。

従業員や取引がある職人には 20 - 30 代の若手もおり、「早く作りたい」という社内の声も後押しする。 震災翌日の 1 月 2 日に、店のホームページに「日本の素晴らしい漆器文化を必ず継承していきます」とつづった田谷さん。 「輪島塗を復興することが、僕たちができる能登半島への貢献なんだと思います」と力を込めた。(宮坂知樹、朝倉義統)

伝統工芸、補助金で支援

国や県は、伝統工芸の復興を支援する補助金制度を始めている。 県は、同県珠洲市の珠洲焼や七尾市の和ろうそくといった、国指定ではない県指定伝統工芸品を支援する事業を、一般会計補正予算案に盛り込んだ。 このほか、中小企業などを対象に、施設や設備に最大 15 億円を支援する国と県の制度もあり、対象者は伝統工芸の補助とあわせて利用できるという。

輪島塗や七尾仏壇(七尾市)といった国指定の伝統工芸品について、経済産業省は設備や道具、原材料の購入などに必要な経費を最大 1 千万円補助する制度を始めた。 ただ、対象は 3 月末までに納品と支払いが完了するもので、申請は 2 月 16 日で締め切られた。 事業者からは「がれきの撤去が進まなければ何が必要かもわからない」、「見積もりを受けられる状態ではない」など不満の声が上がっており、同省は 4 月以降も制度を続けることを検討しているという。 (asahi = 2-25-24)


なお 2 万戸超で断水、被災者を支える「湧水」 各地で減少「保全を」

2 万戸超で断水が続く能登半島地震の被災地で、自衛隊などによる給水に加え、地域の「湧水(ゆうすい)」が生活を支えている。 湧水は各地で量の減少や水質の悪化が課題となっており、環境省は災害時の水源になるとして保全を呼びかけている。

湧水でやっと洗濯、「本当に助かる」

半島の先端にある珠洲市では、ほぼ全域で断水が続く。 市街地から車で 10 分ほど、正院町平床に湧水を提供する「給水所」がある。 9 日に訪れた女性 (43) は、併設された洗濯機を利用。 「水がなく困っているので、本当に助かる」とほっとした表情を浮かべた。 給水を使ったコインランドリーがどこもいっぱいで洗濯ができずにいたという。 朝夕には、ポリタンクや洗濯物を持った人がたくさん訪れる。 ベンチや伝言板も置かれ、地域のコミュニケーションの場にもなっている。

裏山から流れ出す水、「もしかしたら」

湧水や洗濯機を提供しているのは、この家に住む小谷内(こやち)毅さん (63)。 裏山から流れ出す水が深さ 1 メートルほどのくぼみにたまっており、ホースでつないで誰でも利用できるようにしている。 地震の前、湧水のくぼみには泥がたまっていたが、「もしかしたら」と掃除をしたところ、澄んだ水がくめたという。 「山の浄化能力はすごいなと改めて思った。 昔は近所にもっと水源があったが、埋めてしまったところもある。 湧水をどう残すか、考える必要があるのでは。」と話す。

「やっぱり水」 湧水を見直して

地震の後、集落に通じる道が寸断され、孤立状態になった半島北端の同市馬緤町(まつなぎまち)。 避難所には、こんこんと水があふれる流し台が置かれていた。 300 メートルほど離れた住宅の庭から湧水をひいているという。 水の備蓄はほとんどなく、洗い物に使っているほか、風呂や煮炊きに利用された。 町内の自宅で生活を続ける田中栄俊さん (76) は数日おきに、湧水をタンクに入れて持ち帰る。

「家は大丈夫だったが、やっぱり水がないと生活できない。」

水道復旧が見通せない中、自宅近くの湧水を新たな水源として活用できないか試みているという。

環境相「湧水の重要性を再認識」

丘陵地が続く能登半島では、各地に湧水がある。 昔から生活に活用されてきたが、水道の整備とともに使う人は減っていた。 伊藤信太郎・環境相は 20 日の閣議後会見で、「改めて湧水の重要性が再認識された。 引き続き地域の湧水保全に向けた取り組みを促進したい。」と述べた。 湧水は、東日本大震災や熊本地震などでも活用された。 だが、都市化や土地開発で全国的に減少しており、環境省によると、2022 年度の調査では全国に 1 万 6,046 件。 石川県は 238 件という。 ただ、私有地内にある湧水は多く、自治体が把握できていないものも多いとみられる。

枯渇したり水質が悪化したりしている所も多く、環境省は 10 年、湧水の保全・復活をめざしたガイドラインを作成。 災害時の水源として利用できると保全を呼びかける。 ただ、水質がわからない場合は、飲み水や料理への利用は控えてほしいとしている。 環境省環境管理課の担当者は「湧水は健全な水循環のバロメーターにもなる。 まずは把握しておくことが保全にもつながる。」と話す。

「文化を支え、交流の場に」

湧水に詳しい愛知学院大学の富田啓介准教授(自然地理学)は「湧水の場所や水の性質を把握しておくことは災害時に役立つ。 行政機関などに頼めば、水質検査をしてくれるところもある。」と話す。 富田さんは、水道の整備が進み、蛇口をひねれば水が出るようになったことで、湧水を理解し、把握する人も少なくなっていると指摘。 「かつては水の湧くところに集落ができ、湧水は人々に利用されてきた。 地域の生態系や文化を支え、人々の交流の場でもあった」と語る。 (矢田文、asahi = 2-23-24)


孤立集落から一斉避難した 270 人今どこに 故郷に戻れずバラバラに

能登半島地震の被災地では、住民の大半が集落を離れ、金沢市などに避難した地域がある。 道路の復旧が見通せない中、戻ることを諦める住民もおり、地域のつながりが失われることを危ぶむ声が上がる。 石川県輪島市の中心部から北東へ約 12 キロにある南志見(なじみ)地区は里や名舟、小田屋など 13 の町からなり、345 世帯 725 人が暮らしていた。 だが地震で地区に通じる道路が寸断された。 電気や水道も止まり、携帯電話も通じなくなって孤立状態に。 住民らは廃校になった小学校と、公民館に集まった。 食材を持ち寄って食べつなぎ、風呂に入れない生活が 1 週間以上続いた。

地区に残ったのはわずか数人

県は 1 月中旬から、孤立状態の長期化が見込まれる南志見や西保、鵠巣(こうのす)、大屋の各地区について、集落ごとの避難を呼びかけた。 南志見地区では約 270 人が車や自衛隊のヘリコプターで金沢市に集団避難。 その他の住民も自主的に集落を離れ、地区内に残ったのは数人だった。 主な避難先となった金沢市の 6 カ所の避難所には多いときで 314 人が身を寄せた。 賃貸住宅や親族の元で暮らす人も多く、住民の避難先の状況は県も輪島市も全ては把握できていないという。

「一瞬で何もかも奪われた。 もう戻れません。」 金沢市の避難所で過ごす浜高泰子さん (81) は肩を落とす。 夫と息子夫婦、孫と暮らしていた。 自宅も家族で営んできた商店も「みんなつぶれてしまった。」 2 月中に金沢の賃貸住宅に移るつもりだ。 高校生の孫も金沢の高校に転校する手続きを済ませたという。 「大切な畑がある。 夫も海が好きだった。 戻れるなら戻りたい。」 同地区では高齢化が進むが、キリコと呼ばれる背の高い灯籠(とうろう)が集落を巡る夏祭りや伝統芸能の太鼓を受け継いできた。

古酒谷(こざかや)政幸・区長会長 (76) は集団避難について「仕方ない判断だった」と振り返る。 ただ、住民は「てんでバラバラになった。」 自身も金沢市で避難生活を送りながら避難所を回るが、集落に戻る人は被災前の半分以下になるのではないかと危惧する。

住民が戻るためには

集落の住民が市中心部への通勤などに使っていた海沿いの国道 249 号の復旧のめどはいまも立っていない。 片道 20 分だったというが、2 月上旬に市中心部から同地区を車で訪ねると、山道を迂回(うかい)して 1 時間以上かかった。 倒壊したり傾いたりした家屋は、多くが手つかずのままで、ブルーシートで応急処置をした住宅もまばらだった。 斜面が余震や降雨で崩れることも懸念され、「家は大丈夫だけど土砂崩れの対策がされないと戻れない」と話す人もいる。

集落に残った人も、厳しい生活を続けている。 避難所は閉鎖され、支援物資は届かない。 集落で生活を続ける大向(おおむかい)稔さん (80) はわき水や雨水も使って煮炊きし、川から水をくんでトイレを流しているという。 「隣近所がいないのはやっぱり寂しい。 戻れる人は戻ってきてほしい。」 集落再建の足がかりとして期待されるのは、仮設住宅だ。 県は 1 月末から南志見地区で 54 戸の建設を始めた。 3 月下旬の完成を見込むが、戸数の追加は決まっていない。

古酒谷さんは「今後が全く見えない。 道路はいつ復旧し、仮設にみんな入れるのか。 輪島市や県が見通しを示さないと、戻ろうと思う人がいなくなってしまう。」と話す。 馳浩知事は 8 日、「コミュニティーの維持は極めて重要で、維持できるよう努力したい」と述べ、今後、集団避難した住民が集まる機会を提供するなどの対応策を示した。(真野啓太、田中祐也)

定期的に集まる場を

東京・三宅島での火山災害(2000 年)や新潟の中越地震(04 年)など、大規模な災害が起こるたび、住民らはいったん集団で避難し、その後地域に戻るか、離れるかの判断を迫られてきた。 岩手大の福留邦洋教授(復興まちづくり)は、住民それぞれの判断が尊重されるべきだとしつつ、「もといた地域での生活を立て直すためには、地域のつながりを維持することが欠かせない」と話す。 つながりを維持するために「早期に住民同士の連絡網を作り、住民が集まってお互いの考えを知ることができるような場を定期的に持つことが重要だ」と指摘する。

行政や外部団体の支えも欠かせない。 中越地震の後には「地域復興支援員」が入り、住民の意見のとりまとめなどを通じて、コミュニティー維持を支えたという。 自治体には、住民が一時的に集落に戻るバスツアーを計画するといった「直接的な支援」も含めた取り組みが求められる、と話した。 (asahi = 2-18-24)


珠洲市に出現した崖、活断層が地表に現れた可能性 これまでは未確認

能登半島地震で、半島先端にある石川県珠洲市の内陸部に、直線状の崖が地表に現れた。 高さは最大 2 メートルで、少なくとも東西 2 キロにわたって続いていた。 現地を調査した東京大地震研究所と富山大のグループは、地震を起こした活断層の活動に伴うずれが出現した「地表地震断層」とみている。 崖による段差が生じたのは、能登半島の北岸から 5 キロほど南で、半島の中央を東西に流れる若山川沿いの水田地帯。国土地理院が公開した航空写真で、地表に変形がみられたことから、現地を調べた。

崖は北東 - 南西方向に連なっていて、おおむね南側が上がっていた。 1.2 メートル横ずれしているところもあった。 川を横切る場所では護岸が壊れ、上流側に水がたまっていた。 西側では、地溝のように落ち込んでいるところもあった。 積雪もあって確認できたのは 2 キロの範囲にとどまるが、さらに東西に延びる可能性もあるという。 この場所ではこれまで、活断層の存在は確認されていなかった。 ただ、地すべりなどの地形と無関係に、直線状に延びていることから、活断層によるずれが現れた地表地震断層と推定されるという。 (asahi = 2-6-24)


海底隆起の輪島港、漁に出られず再開も見通せず 農水相に支援を要望

坂本哲志農林水産相が 4日、能登半島地震で大きな被害が出た石川県輪島市の輪島港を視察した。 水揚げが県内随一の港だが、海底が隆起した影響で水深が足りなくなるなどし、漁に出られない状態。 再開の見通しも立っていないという。 県によると、輪島港には、刺し網漁船や底引き網漁船など約 200 隻が停泊。 冬場はタラやブリ、ズワイガニなどが水揚げされる。 地震では海底が 1 - 1.5 メートルほど隆起し、港内には漁船 2 隻が座礁したままになっている。

坂本農水相や馳浩知事は、漁船が停泊する岸や給油施設、荷さばき所を回り、漁業関係者から被害状況の説明を受けた。 視察後には、漁業関係者との意見交換会があった。 県漁業協同組合の笹原丈光組合長が「壊滅的な状態で、復興は私たちの力だけでは到底無理。 国、県に力を借りて、一日でも早く再生させたい。」と要望した。 坂本農水相は「何から手をつけるか、どういう工程で復旧工事をやるのかを早く示すことが大切。 輪島が再びにぎわいを取り戻せるよう、全力で頑張りたい。」と応じた。 (岡純太郎、asahi = 2-4-24)


仮設住宅の需要、予定戸数を超過 海と山の能登、建設適地「少ない」

多くの住宅が損壊した能登半島地震の被災地で 3 日、応急仮設住宅への入居が始まった。 最初は石川県輪島市内の 18 戸で、3 月末までに県内で約 1,300 戸が入居できるようになる見通しだ。 入居が始まったのは観光施設「輪島キリコ会館」近くの仮設住宅。 3DK 14 戸と 4DK 4 戸に、18 世帯の約 55 人が入る予定になっている。 木のぬくもりが感じられる内装で、窓ガラスは寒さ対策のため 3 重に。 オイルヒーターも備えられている。 市内はまだほぼ全域で断水しているが、室外に貯水槽が設置され、浴槽などで水が使える。

鍵を受け取った蕨野(わらびの)永治さん (75) は、一人暮らしをしていた観光名所「輪島朝市」近くの自宅が地震後の大規模火災で焼け、避難所で過ごしてきた。 「プライベートな場所ができて助かる」と言う一方、まだ入居できていない人たちのことを思い、「うれしさ半分、申し訳なさ半分です」とも話した。 県内では 1 万 4 千人余りが避難所で過ごしている。 県は 3 月末までに仮設住宅のほかに、県内で賃貸物件を県が借り上げる「みなし仮設住宅」約 4,300 戸、公営住宅約 900 戸を確保する。

耕作放棄地の提供要請も検討

応急仮設住宅をめぐっては、入居の希望者数が建設予定の戸数を上回っており、増設できるかが課題となっている。 入居が始まった 3 日、石川県輪島市の観光施設「輪島キリコ会館」近くの仮設住宅に入った大下澄子さん (76) は、「久しぶりに娘や孫たちを呼んで手料理を振る舞いたい」と喜んだ。 この日は午後 3 時までに、18 戸に入居する予定の人たちのうち、9 世帯が市役所で鍵を受け取った。

市内で 1 月末までに着工した仮設住宅は 548 戸。 市は、高齢者や乳幼児がいるといった事情や被害の状況などを考慮しながら入居を進めていくという。 県によると、県内の住宅被害は確認されているだけで約 5 万棟に上り、避難所に約 1 万 4 千人が身を寄せている。 損壊した住宅や車中で過ごす人もいて、応急的な住まいの確保が急がれている。 県は 3 月末までに、津波浸水想定区域内も含めて約 3 千戸の着工を予定する。 ただ、現時点で入居の希望は被害が大きい輪島市、珠洲市、穴水町、能登町だけで約 7 千件に上る。

県の担当者は「能登半島は海と山に挟まれ、仮設住宅を建てられる場所が少ない」と頭を悩ませる。 馳浩知事は「(津波浸水想定区域内でも)そばに緊急避難できる場所があるなら、一定の理解は頂ける」とする。 需要の戸数に近づけるため、珠洲市は耕作放棄地を提供してもらうことを検討。 輪島市も民間の土地の所有者と調整し、さらなる建設用地の確保をめざす。

県は仮設住宅のほかに 3 月末までに、県中南部の金沢市などで賃貸物件を県が借り上げる「みなし仮設住宅」と公営住宅を計 5 千戸以上、用意する。 県外でも約 3,700 戸のみなし仮設と、約 8,400 戸の公営住宅が提供できるとする。 ただ、能登の地元での暮らしを希望する被災者が多いのが現状で、馳知事も「自ら望んで県外へという方は極めて少ない」と話す。 (黒田早織、島脇健史、岡純太郎、田中祐也、asahi = 2-4-24)


ココイチ、すき家、日清 … キッチンカー、被災地を走る 国もプッシュ

能登半島地震の被災地へ大手外食や食品企業がキッチンカーを走らせ、温かい食事を無料で提供する動きが相次いでいる。 避難所への派遣や受け入れをスムーズに行えるよう、自治体と企業のマッチングに政府が乗り出してもいる。 1 月下旬、大手カレーチェーン「カレーハウス CoCo 壱番屋」のキッチンカーがやってきたのは、24 人が避難する石川県七尾市の能登島地区コミュニティセンターだ。 量や辛さの希望を社員が聞き取り、ご飯をよそった容器のふたの上に温かいレトルトパウチを載せて渡す。

受け取った人々は「ありがとう」と笑顔に。「お父さんの分は山盛りで」と頼む女性もいた。 近くの避難所にいる人の分も合わせ、用意した 110 食をすべて渡し、この日の活動を終えた。 パウチに入ったまま渡すのは、あとで再加熱して食べることもできるからだ。 かつてはルーをご飯にかけて提供したというが、東日本大震災や熊本地震などを経て、衛生面などからこの形に落ち着いたという。

アレルギー持つ子 「これなら食べられる!」

カレーを提供した社員は普段、愛知県の本社で品質管理や経営企画、総務など異なる部署で働く有志。 総務課の亀井直さん (41) は「食に携わる企業としてこれが一番の支援になる。 心も体も温まっていただければ。」と話した。 支援初日の 23 日に訪れた小学校では、アレルギー体質のため、これまでの炊き出しでは食べられるものが少なかったという小学生の女の子がいた。 そこで特定原材料 7 品目を使用していないカレーを提案したところ、「これなら食べられる!」と喜んでくれたという。

壱番屋は直営店舗だけで計 4 台のキッチンカーを持ち、ふだんはお祭りやスポーツ大会といったイベントへの出張販売で使っている。 これまでも大災害が起きると被災地で活動してきた。 その際、受け入れ側の自治体との調整が必要だった。

農水省が「マッチング」

過去の災害では、企業がキッチンカーを出したくても、災害対応に手いっぱいの自治体との間で調整が難航し、すばやい支援が難しいケースが大半だった。 今回は、農林水産省がキッチンカーでの支援を申し出た企業と被災自治体とを取り持つ「マッチング」を初めて組織的に実施。 当初、現地の自治体との連絡が難しかった壱番屋は、農水省の仲介で七尾市とつながった。 各避難所から要望を聞き取った市側と炊き出しの日時や場所、数量を打ち合わせ、23 - 31 日に 1,330 食を無償で提供した。

牛丼チェーン「すき家」もこの仕組みで 11 日から支援を始め、七尾市のほか輪島市や穴水町、珠洲市などで牛丼やみそ汁、ウーロン茶 8 千食超を無償で提供。 牛丼チェーン「松屋」、うどんチェーン「丸亀製麺」や「杵屋」もマッチングを経て被災地入りしたという。 阪神淡路大震災からキッチンカーによる支援をしている日清食品も、断水や停電でも 1 日約 1,600 食のカップ麺などを作れる大型キッチンカーを派遣。 1 月 12 - 28 日に七尾市内 12 カ所で、お湯を注ぐとカレーライスやハヤシライスができる「完全メシ」などを提供した。

震災から 10 日目ごろまでは特に道路事情が悪く、輪島市や珠洲市などへはキッチンカーによる支援は難しかったが、道路の仮復旧に合わせて活動範囲が広がるようになった。 大企業のほか、民間団体や個人のボランティアによる炊き出しも多く出ており、被災地の食事を支えている。 (金子智彦、上地兼太郎、asahi = 2-3-24)


能登半島地震から 1 カ月、復興の道筋みえず 被害把握もいまだ不十分

最大震度 7 を観測した能登半島地震の発生から、1 日で 1 カ月となる。 石川県では 238 人の死者や 4 万 6 千棟以上の住宅の損壊が確認されたが、被害が甚大な奥能登地域では被災状況の把握が十分ではなく、さらに増えるとみられる。 1 万 4 千人以上が避難所に身を寄せるなか、断水や道路の寸断で、復旧・復興の作業が制限される厳しい環境が続いている。 県によると、238 人の死者のうち 15 人は災害関連死とみられる。 奥能登の輪島市と珠洲市が各 101 人。 地震のためとは断定できないが、連絡がとれない安否不明者が 19 人いる。

住宅の損壊は、県全域に及ぶ。 珠洲市で調査が済んだ 4,815 棟のうち 3,238 棟が全半壊。 市内に約 1 万 2 千棟がある輪島市は調査が進んでおらず、現時点では約 2 千棟の損壊とされている。 能登町は罹災証明書の申請数を基に 5 千棟が被災したとするが、推定にとどまる。 石川県以外でも富山県で約 6 千棟、新潟県でも 1 万 3 千棟以上の住宅が損壊している。 最大で約 4 万戸あった石川県内の停電はほぼ復旧したが、断水は 8 市町の約 4 万戸で続く。 3 月末までに大部分が仮復旧する見込みだが、一部は 4 月以降になる見通しだ。

1 万 4,643 人の避難者のうち、公民館や体育館などの 1 次避難所には 1 万人近くがいる。 支援の環境がより整った県南部の旅館などの 2 次避難所に移った避難者は 4,792 人になる。 このほか車中泊や被災した自宅で避難生活を送る被災者もいる。 避難の長期化による健康の悪化が懸念され、避難先から応急的な住まいへ移ることが急がれている。 31 日には輪島市で震災後初となる 18 戸の応急仮設住宅が完成し、2 月 3 日から入居が始まる。

県は応急的な住まいの需要が 9 千戸以上とみて、3 月末までに県内で仮設住宅や賃貸物件を県が借り上げる「みなし仮設住宅」、公営住宅の計 6,500 戸の提供をめざす。 また、これまでに提供できるとしてきた県外の 8 千戸の公営住宅に加え、31 日には富山、福井、新潟の各県で計約 3,700 戸のみなし仮設を確保したと明らかにした。 支援の拡大を阻む道路の寸断は、幹線で応急的な復旧が進むが、支線はまだ通行できない場所が多い。 県は 31 日、新たに 2 月 3 日から珠洲市と中能登町で県が一般募集する災害ボランティアの活動を始めると発表した。 ただ、珠洲市では 1 日 12 人程度に限定する。 (土井良典、波絵理子、島脇健史、asahi = 2-1-24)


高齢者や障害者の被災世帯に最大 600 万円 政府、住宅再建を支援

能登半島地震で倒壊した住宅の再建費用として、政府は高齢者や障害者の世帯に最大 300 万円を給付する新たな制度を設ける方針を固めた。 新制度の対象世帯は、既存の被災者生活再建支援法に基づく支援金(最大 300 万円)と合わせ、最大 600 万円の給付を受けられる見通し。 高齢化率が高く、住宅ローンを組むのが難しい世帯も多いという被災地の現状を踏まえ、追加の支援が必要と判断した。 新制度は法改正を必要とせず、迅速な給付につなげたい考え。 野党は、法改正による被災者生活再建支援金の倍増を求めている。 (藤谷和広、asahi = 2-1-24)


ファミマ復旧の 1 カ月 輪島でコンビニ再開、客「あいてると安心」

能登半島地震で大きな被害を受けた地域に店舗を持つ大手コンビニ・ファミリーマートは、復旧へ奔走してきた。 再開にこぎ着けた店がある一方、1 カ月がたつ今も 13 店舗が休業したままだ。 今回の地震特有の難しさが復旧を阻んでいるという。 被災からおよそ 1 カ月となる 31 日、石川県輪島市の「輪島横地町店」が営業再開を果たした。 本部社員約 10 人が応援に駆けつけ、パンやペットボトル、菓子などを棚に陳列。 午前 10 時半ごろ、再開して初めての利用客がおにぎりなどを買い求めた。

車で 20 分ほどかけて来たという高齢の女性は「避難生活ではなかなか食べられない、変わった物が食べたかった」と笑顔をみせた。 ただ、店の経営者やアルバイト、パートらは避難所生活や 2 次避難をしており、1 日数時間の限定的な営業になる。 断水が続いているため、「ファミチキ」などのホットスナックやコーヒーは販売できない。 それでも漁業の男性 (45) は「コンビニが 1 軒でもあいていると安心する。」 被災した知人の家の様子を見にきたところ「営業中」の貼り紙を目にして来店した。 「1 カ月間、お米を食べるのすら難しかったので、ありがたい。」 住んでいる能登町のコンビニはまだ閉店したままといい、営業再開を待ち望んでいると話した。

地震発生からファミマはどう動いたのか。 同社では震度 5 強以上が起きると、すぐさま現地の情報収集を始めるきまりだ。 元日に起きた今回も、直後から対応に動いた。 東日本大震災後の 2016 年に導入した「災害伝言板」を使い、フランチャイズ加盟店が入力する被災状況を確認。 店員らが避難して入力できない場合は本部社員がオーナーに電話をかけるなどして状況を確かめた。 工場や倉庫の被害はそれほど大きくなかったが、1 日夜の時点で北陸地方を中心に約 200 店が一時休業したことがわかった。

店の再開には清掃や商品陳列、時には被災した現地スタッフに代わり店番をする人が必要になる。 正月で人繰りは厳しかったが、まず 2 日に応援の社員約 10 人が現地に入り、翌日以降も要員を増やした。 社員は道路の安全を確かめるため車を走らせ、営業できそうな店を順次、再開していった。 停電地域では、18 年の北海道胆振東部地震後に導入を進めたプラグインハイブリッド車を電源にして、レジを動かした。 能登半島中部の七尾市までトラックで物資を運び、その先は小さい車に載せ替えて輸送するなどして配送ルートを確保した。

1 週間が過ぎたころには休業店は半島北部の 15 店まで減り、11 日に輪島市中心部の店が再開して、休業は 14 店舗になった。 だが、ここからが難航した。 大きな要因は道路の寸断だ。 物資を運ぶためヘリコプターの利用も検討したが運べるものが限られる上、自衛隊の活動の妨げになる恐れがあるとして断念。 結局は「陸路でアクセスするしかなかった(竹下誠一郎・経営企画部長)」という。 半島という地理的要因も復旧を阻む。 16 年の熊本地震では複数ルートから現地入りができ、大手コンビニは 1 週間以内にほぼ再開した。 だが今回は、アクセスが限られている。

大雪にも悩まされている。 奥能登地域を担当する染野博紀オペレーション本部北陸・長野リージョン部長は「片付けに行っても、往復の時間を考慮して 3 時間くらいしか作業できないこともあった」と話す。 店の建物自体がダメージを受けていないか、専門家の診断を受けるにも時間がかかる。 そうした中で 31 日にようやく再開にこぎ着けたのが「輪島横地町店」だった。

残る 13 店についても順次再開を目指すが、ゆがみが激しい店もあり、元のようになるかは見通せない。 染野氏は言う。 「店主の中には被災して避難所生活の人もいる。 自宅に戻っても夜が怖いと車中泊の方もいる。 お店を開けたくても開けられないもどかしさはあると思う。 店主の意向を聞いてサポートし、なるべく早く復旧を進めたい。」 (金子智彦、末崎毅、asahi = 2-1-24)


東京からリモートで輪島市の「全壊判定」 罹災証明書発行の迅速化へ

能登半島地震の被害が大きい石川県輪島市に代わって、東京都と 29 区市町の職員らが、被災地住宅の「被害認定」を都庁からリモートで実施している。 職員らがパソコンで画像などを見ながら、罹災(りさい)証明書の発行が可能になる「全壊」かどうかを判断。 現地業務の負担を減らし、証明書発行の迅速化を図りたいとしている。 対象は、輪島市が実施した応急危険度判定で「危険」と判定された住宅約 2,200 軒。 区市町の税務系の職場で家屋評価の経験がある職員らがリモート判定を担う。 都によると、27 日から始め、28 日までの 2 日間で約 6 割の判定が済んだ。

29 日も都庁内の一室で、各区市町の防災服を着た職員 35 人が 3 人 1 組になり、パソコンと向き合っていた。 内閣府が定めた被害認定基準と、輪島市から送られてきた写真やデータなどを照らし合わせて、住まいがどれくらい被害を受けたかを判定。 結果は同市とシステム上で共有しており、判定が困難なものは現地調査が行われる。 都総合防災部の倉嶋崇嗣課長は、「リモートでの全壊判定がこの規模で出来たのは大きな成果。 今後、大規模災害があったときの参考事例になる。」と話す。 (伊藤あずさ、asahi = 1-29-24)


能登半島地震、高齢者約 1 千人を県内外に移送 元々計画されたもの?

能登半島地震では、被災した高齢者施設の入所者が約 1 千人規模で県内外に移送された。 遠い人では、石川県から愛知県まで自衛隊のヘリコプターで運ばれた人もいる。 大規模な災害が起きたとき、県境を越えて搬送し、安全な地域にある別の施設で受け入れるといった対応は元々、計画されているのか。

「ここにおっても、ケア提供できない」 被災の特養、苦渋の『避難」

広域災害では、近隣自治体だけでは介護が必要な高齢者を受け入れ切れない事態が想定される。 どう対応するのか、課題が突きつけられている。 能登半島北部からの移送では、すでに終えた入所者の約 8 割を石川県内の他の施設が受け入れた。 だが被災施設の関係者は「今回は多くを金沢市が受け入れてくれたが、被災地が逆だったら高齢者は行き場がなくなっていた」とみる。県南部にまで大きい被害が出ると、今回のような移送さえ難しくなるからだ。

東海から九州沖の南海トラフの巨大地震が起きれば、広域の被災が想定される。 その場合にどうなるのか懸念の声もあがる。 石川県は当初、県内の受け入れ可能施設に対して、「定員の 5% 程度の人数を受け入れてほしい」と要請。 しかし、それだけでは足りなくなり、さらに 5% を追加して、計 10% 程度の増員の受け入れを求めた。 厚労省も、定員超過については柔軟な対応を認めているが、今後、さらに受け入れが必要になる人の増加が見込まれる中で、「石川県内だけでは対応できず、県外にもお願いしていく」とする。

備えが不十分な中で広域避難を迫られ、混乱もあった。 被災で使える電話回線が 1 本だけとなった事業所の担当者は、高齢者の移送を進めながら、「入所者の家族への意思確認は全員にはできなかった。 回線も足りず、連絡がとれないご家族もおり、全員の確認を待っているわけにはいかなかった。」と話す。 厚労省によると、広域移送は東日本大震災でも実施されたが、国として制度化した仕組みはない。 (吉備彩日、藤谷和広)

環境の変化、高齢者には大きなストレスに

高齢者の保健福祉に詳しい辻一郎・東北大名誉教授(公衆衛生学)の話 : 東日本大震災の研究から、転居で生活環境が変わることによるストレスがこころの健康に悪影響を及ぼす問題が明らかになった。 他県に及ぶ移送は生活環境の大きな変化となり、高齢者には大きなストレスだ。 不安や混乱が生じ、知的機能の低下や生活の不活発化などが懸念される。 もともと介護が必要で施設で暮らしていた人たちの適応力はなおさら低い。 認知症の人では妄想などの周辺症状が増える可能性もある。

施設で暮らす高齢者には、慣れ親しんだ人たちと交流し、施設の中で役割を担うことで、そこにいることが認められているという生きがいがある。 そのコミュニティーが断たれることは、心身の機能の低下に影響しかねない。 元いた施設の人たち全員が同じ施設に移ることが難しければ、数人単位のグループでもいい。 できるだけ元の生活の連続性を保つことが重要だ。 受け入れ施設の職員が、元の施設の職員から、本人の生活歴や介護の状態などの情報を聞き取ることも必要だろう。 今後、災害時の広域避難のあり方について検討するならば、高齢者が安心して暮らし続けるためにどのような備えが必要なのかを真剣に考える必要がある。(聞き手・森本美紀)

能登半島地震での高齢者の移送

厚生労働省によると、地震翌日から移送が始まり、被災した石川県の高齢者施設の入所者約 1 千人が他の施設や病院に搬送された。 災害派遣医療チーム (DMAT) が関わり、特別養護老人ホームや有料老人ホーム、グループホームなど計 26 施設の入所者を移送。 それ以外にも 17 施設が自主的に他の施設に移送したとの報告がある。 移送された人の 8 割程度は石川県内の他の施設や病院。 残り 2 割程度は県外で、富山、福井、愛知、岐阜の各県。 さらに滋賀や新潟県でも受け入れが協議されている。 (asahi = 1-28-24)


能登地震、3 市町でボランティア始動 県の募集は開始 3 分で定員に

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県の七尾市、志賀町、穴水町で 27 日、県が全国から一般募集した災害ボランティアの受け入れが始まった。 能登半島の被災地では復旧・復興を支える人手が必要な一方、道路の寸断や建物の損壊で移動や宿泊場所の確保が難しい状況が続い ており、当面は県が準備するバスを使って、金沢市からの日帰りで被災した住宅の片付けなどの活動をする。

この日の活動に参加したのは県の特設サイトに事前に登録していた県内外の 75 人。 県が用意した 4 台のバスに乗って午前 7 時前に金沢市を出発し、各市町で数人ずつに分かれて、損壊した家の中から運び出した家具を災害ごみ置き場へ運ぶなどした。 現地での活動時間は 4 時間程度で、夕方に金沢へ戻った。 県が 6 日に開設したサイトの登録者は 1 万 5 千人を超えている。 今回、3 市町で 27 日 - 2 月 2 日に活動する延べ 560 人を募ったところ、募集の開始から 3 分で定員に達した。

多数の住宅が損壊し、多くの避難者がいる能登半島の被災地では、がれきの片付けや避難所の運営の補助などに人手が必要だ。 だが、県は個別でのボランティア活動は交通渋滞の要因となって復旧に支障をきたす恐れがあるなどとして、控えるよう求めてきた。 県が募る参加者も、防寒具や食事など活動に必要なものは自身で用意する「自立型」で、現時点では活動の人数も絞っている。

被害が甚大な輪島市、珠洲市、能登町では断水している地域も多く、被災者の要望の聞き取りも十分にできていないことから、ボランティアを受け入れる見通しは立っていない。 同県の馳浩知事は 27 日の記者会見で、ボランティアを希望する人に向け、サイトに事前登録をして募集を待つよう訴え、引き続き義援金による支援も呼びかけた。 (波絵理子、島脇健史、朝倉義統、asahi = 1-27-24)


能登空港、旅客便が再開 久々の再会に涙「娘に会えてうれしい」

能登半島地震で被災した能登空港(石川県輪島市)で 27 日、旅客便の運航が再開した。 被災した家族に会うため、ボランティアに向かうため - -。 様々な思いを持つ人たちを乗せ、東京・羽田空港から能登半島に降り立った。 午前 11 時 20 分ごろ、全日本空輸 (ANA) のボーイング機が能登空港に着いた。 乗客は 62 人。 到着ゲートから出てきた千葉市の香林相子さん (49) は、能登町の実家に住む両親と発災後初めて顔を合わせた。 「空港が再開したらすぐに行こうと思っていた。 顔を見て安心した。」と話す。

実家は倒壊を免れたものの、多くの家具が倒れる被害を受けた。 母の数馬明子さん (77) は「娘に会えてうれしい」と目に涙を浮かべた。 東日本大震災を経験した福島県須賀川市の杉田久美子さん (69) は、空港再開の報を知ってすぐに申し込んだ。 能登町に住む弟夫婦が心配だった。 「早く自分の目で顔を見たい」と話した。 東京都大田区の須藤英児さん (55) は、知人の見舞いと炊き出しボランティアの手伝いにやってきた。 「映像を見るとつらかった。 細く長く支援を続けたい。」と話し、珠洲市に向かった。

午後 1 時 50 分の出発便を待っていたのは、穴水町の原栄子さん (84) だ。 1 人で暮らす自宅に大きな被害はなかったが、「自宅にいると地震の揺れで、落ち着かないし生きた心地がしなかった。」 東京都八王子市に住む長女のところに身を寄せるという。 能登空港は 2 千メートルの滑走路が 1 本あるが、地震で数カ所に亀裂が入り使えなくなった。 11 日に仮復旧されたが、支援物資や 2 次避難者を運ぶ自衛隊の輸送機などに利用が限られていた。 ターミナル内は災害復旧にあたる関係団体が拠点とし、十数人が避難している。

定期便は羽田 - 能登の 1 日 2 往復だったが、この日は臨時便として 1 往復が運航された。 来月 29 日まで火木土の週 3 回、1 日 1 往復の臨時便が運航される。 空港周辺の道路は完全に復旧しておらず、空港の交通アクセスが限られているため、県などは事前に交通手段を確保するよう呼びかけている。 (松永和彦、asahi = 1-27-24)