能登豪雨、新たに 2 人を発見 死者 13 人に 発災 1 週間、捜索続く

能登半島地震の被災地を襲った記録的な大雨から、28 日で 1 週間となった。 消防や警察、自衛隊、海上保安庁は 28 日も早朝から、石川県輪島市や能登町など 4 カ所で、総勢約 880 人態勢で捜索を再開した。 警察などによると、この日、輪島市と能登町の捜索現場でそれぞれ遺体が見つかった。 女性とみられる遺体が発見された輪島市門前町では付近に住む女性 (75) の安否がわからなくなっている。 能登町では北河内ダムの近くで遺体が見つかり、近くの女性 (68) の行方がわかっていない。 豪雨によるとみられる死者は計 13 人となった。

奥能登広域圏事務組合消防本部によると、輪島市の中学 3 年、喜三翼音(きそ・はのん)さん (14) らが安否不明となっている同市久手川(ふてがわ)町の塚田川周辺では、午前 6 時から約 510 人態勢で捜索が始まった。 一方、県によると 28 日現在、輪島、珠洲両市と能登町の 1 次避難所 27 カ所に計 456 人が避難している。 元日の地震による避難者も 24 カ所に計 249 人いる。 3 市町の 3,641 戸で断水、約 950 世帯で停電が続く。 県管理の道路 17 路線の 28 カ所が通行止めのままだ。

県は、輪島市に加え、珠洲市にあるインフラの被害が大きい集落などからも 2 次避難の要請があったとし、被災地に近い場所のホテルや旅館と受け入れに向けた調整を重ねている。 県は復旧を進めるため、県が派遣する災害ボランティアを 27 日までの 1 日あたり 170 人から 28、29 日は 235 人に増やす。 6 カ所で泥かきなどの作業に当たる。

県は、ピーク時に 115 地区あった孤立集落が 27 日までに「実質的に解消」したとしている。 豪雨で臨時休校となった輪島市内の 12 小中学校のうち、26 日に再開した 10 校に続き、同市町野地区の 2 小中学校は 10 月 1 日から隣の能登町内の学校で合同授業を受ける形で再開することが決まった。 馳浩知事は 28 日午後、報道陣の取材に「まず幹線道路、流木や土砂の撤去、そして仮設住宅を追われた方に対する支援、元々、地震で避難している方への継続支援。 同時並行で順番付けをし、支援が行き届くように対応を急ぎたい。」と話した。 (波絵理子、久保智祥、土井良典、asahi = 9-28-24)


能登大雨、1 人死亡 3 人不明 復興作業員 3 人連絡取れず

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県能登北部に 21 日、記録的な大雨が降り、河川の氾濫や土砂崩れが相次いだ。 県などによると、死者は珠洲市で 1 人、行方不明者は輪島市、珠洲市、能登町で各 1 人の計 3 人、重傷者は 2 人にのぼっている。 国土交通省の現地事務所によると、輪島市門前町では、国道 249 号の中屋トンネル付近で土砂崩れが起き、地震からの復旧工事に携わっていた作業員 3 人と連絡が取れず、安否不明という。

気象庁によると、南からの暖かく湿った空気が、北からの風とぶつかり、日本列島にかかる秋雨前線の付近で積乱雲が発達。 前線の南側と重なった能登半島に、局地的な大雨を降らせた。 21 日午前には、石川県内で線状降水帯が発生。 輪島市、珠洲市、能登町に大雨特別警報が発表された。 午後 8 時までの 24 時間降水量は、輪島市で 356.5 ミリ、珠洲市で 260.5 ミリとなり、いずれも 1976 年からの観測史上最大の雨量となった。 (asahi = 9-21-24)


能登の夏が始まった 巨大な灯籠舞うキリコ祭りの先駆け「あばれ祭」

能登半島地震で被災した石川県能登町宇出津(うしつ)で 5 日、能登の夏の風物詩、キリコ祭りの先駆けとなる「あばれ祭」が始まった。 太鼓と笛の音が響き渡り、「イヤサカヤッサイ! サカヤッサイ!」の掛け声とともに巨大な灯籠「キリコ」が担ぎ出され、壊れた家屋の残る町を練り歩いた。 夜には、キリコが海に面した広場に集結。 7 メートルの大たいまつの火の粉を浴びながら乱舞した。 たいまつを奉納する「前厄」の青山正道さん (39) は「いま、この祭りの雰囲気の中では、みんな地震があったという感覚を持っていないと思う。 当たり前が戻り、町に戻れる人が増えたらいい。」と話した。

キリコ祭りは能登の 6 市町約 200 地区で 7 - 10 月に行われる。 それぞれの地区ごとに特徴があるが、今年は地震でお宮が倒壊したりキリコが壊れたりして、すでに中止を決めた祭りもある。 あばれ祭でも、一部の町会はキリコを出すことや、担いで町内を練り歩くことを見送った。 6 日夜には、2 基の神輿(みこし)を路面にたたきつけ、川に投げ込んだり火の中を通したりと、大暴れするクライマックスを迎える。 (上田真由美、asahi = 7-5-24)


自衛隊の災害派遣、過去最長に 能登支援、東日本大震災超える見通し

能登半島地震における自衛隊の災害派遣が東日本大震災を超え、震災では過去最長期間となる見通しだ。 水道の復旧が遅れ、入浴支援が長期化しているのが要因という。 自衛隊は 1 月 1 日の発生直後、石川県からの災害派遣要請を受けて出動。 これまでに延べ 113 万人を投入した。 派遣期間は今月 23 日で 175 日となり、2011 年の東日本大震災(174 日)を超えるという。

当初は最大 1 万 4 千人の態勢で、孤立集落での救助活動や、エアクッション型揚陸艇での物資輸送などに当たった。 2 月以降は給水や入浴といった生活支援が中心となった。 ただ、復旧が進まず、年度内での終了を見込んでいた派遣はその後も継続。 5 月末までに輪島市と能登町での支援は終わったが、現在も珠洲市の 4 カ所で入浴支援が続き、隊員約 100 人が活動している。 自衛隊の主な震災での災害派遣期間は、16 年の熊本地震が 47 日間、1995 年の阪神・淡路大震災が 101 日間だった。 (矢島大輔、asahi = 6-20-24)


被害把握や現地入りに新技術活用を 能登半島地震で省庁チーム検証

能登半島地震における行政の対応を検証してきた関係省庁のチームは 10 日、検証結果を公表した。 半島で道路の寸断が相次いだ結果、被害状況の把握や現地入りに時間を要した点について改善策などが示された。 チームは現地で活動した職員 200 人以上からの聞き取りをもとに、@ 被災地への進入、A 自治体支援、B 避難所運営、C 物資調達輸送 - - といった分野ごとに課題を整理。 日没直前の発災で上空からの被害確認が難航したことをふまえ、ヘリに赤外線カメラ搭載するといった改善策を提示した。 ほかにも、陸路と海路を使っての現着が難しかった警察や消防の車両を、自衛隊の航空機に載せスムーズに輸送できるよう体制を整えておくことなども盛り込まれた。

また、ドローンやヘリ輸送に適した小型機材などの新技術が有効だったとして、これらの新技術をまとめたカタログを作成。 全国の自治体に活用してもらうように周知するという。 避難所環境の整備については、健康維持に必要な段ボールベッドやパーティションなどが届けられたものの十分に活用されない例があったとして、自治体にこれらを備蓄した上で住民に有効性を周知しておくことなどを求めた。 今後は各自治体がどれだけ備蓄できているかを国が確認して公表することも検討している。 政府は 3 月、内閣官房や国土交通省や総務省、防衛省などによる検証チームを発足。 今回の検証結果をもとに、今後は有識者を交えた上での議論を続ける。 (大山稜、asahi = 6-10-24)


ユニクロもしまむらもない街で 100 年超続く衣料品店、最後の日

能登半島地震の被災地で、事業所の廃業が相次いでいる。 石川県の奥能登 4 市町(珠洲市、輪島市、能登町、穴水町)の商工会議所や商工会によると、元日の地震の後、少なくとも 109 の事業所が廃業を決めた。 珠洲市の珠洲商工会議所によると、会員の 533 事業所のうち 4 月時点で 33 事業所が廃業し、15 事業所が廃業を予定。 他に 87 事業所が休業している。

袖良暢(そでよしのぶ)事務局長は「大きな被害を受けた地区では地盤改良なども必要で、店舗を直せば再開できるという状況ではない。 廃業にはそれぞれの事情があるとはいえ、地震がなければ廃業していなかっただろうところもあり、歯がゆい」と話す。 輪島商工会議所(会員事業所 995)は 38 事業所、能登町商工会(同 574)は 16 事業所、穴水町商工会(同 297)は 7 事業所の廃業(予定を含む)を把握している。

「閉店さよならセール」名残惜しむ

能登半島地震で被災した石川県珠洲市で 28 日、地域の暮らしを支えてきた 1 軒の衣料品店が 100 年を超える歴史に幕を下ろした。 元日に店の建物の下敷きになった 3 代目店主が、仮店舗で閉店セールを開催。 最終日には長年のお得意客らが訪れ、名残を惜しんだ。 28 日、珠洲市役所から約 300 メートルの場所にあるギフト店の一角で、「衣料ストアーサカシタ」は最後の営業日を迎えた。

店内に貼られた紙には「閉店さよならセール 9 割引」の文字。 午前 9 時半の開店から、多くの人たちが顔をのぞかせた。 「寂しいし、困る。」 店舗のすぐ近くに住んでいたという元高校教諭の男性 (81) はそうつぶやいた。 自宅は地震で倒壊し、仮設住宅で暮らす。 地震前は「お店でのコミュニケーション」が支えになっていたという。 午後 4 時。 金沢市からピンク色の花を携えた女性 (63) がやってきた。 「長いことお疲れ様でした」と声をかけ、店主の坂下重雄さん (77)、妻久美子さん (76) に花を贈る。 坂下さんは「(80 歳になるまで)もう 3 年間やりたかったんだけどね、体力も気力もね」と声を震わせた。

女性は店の近くで育ち、物心ついたころにはサカシタで買い物をしていた。 小学生のときは祭り用の足袋。 T シャツや下着といった日常づかいのものから、高校生になるとアクセサリーも買うようになった。 20 代のころには 1 年ほど店で働いた。 「地元の方が、バスの待ち時間や病院の行き帰りに寄って世間話していくような、そういうお店でした。」 夕方には、小学校の制服と数枚の下着を残し、棚のほとんどが空っぽになった。

まちを歩く高校生がみんな「うちの T シャツ」

店があったのは、仮店舗から歩いて 15 分ほどの飯田町商店街。 「珠洲の中心市街地の一等地(珠洲商工会議所)だ。」 記録は残っていないが、坂下さんの祖母が創業し、120 年ほど続いたとみられる。 坂下さんは 55 年前、店を引き継いだ。 坂下さんが 20 代の頃には、まちを歩く高校生が「この子もあの子も、うちの店の T シャツを着ている」時期があった。 犬などのキャラクターがプリントされていて、価格は 295 円だった。

珠洲市内には衣料チェーンの「ユニクロ」も「しまむら」もない。 近年、若い世代を中心にインターネットで買い物をしたり、車で金沢に買いに出かけたりする人も増えたが、「サカシタ」は婦人服を中心にパジャマや下着、帽子や寝具をそろえ、遠方まで買い物に行けない高齢の住民らに親しまれていた。 毎朝 8 時半から夕方 6 時まで、正月と関西に仕入れに行く年 10 日ほどを除いて、休まず営業を続けてきた。 常連客とのおしゃべりも楽しみで、「80 歳まで頑張ろう」と夫婦で話していた。

信じられないほどの揺れが …

元日の夕方。 坂下さんは 1 階が店舗の建物の 2 階でコタツに入り、年賀状の整理をしていた。 信じられないほどの揺れに声を上げ、天井が落ちてきたことまでは覚えている。 そのまま意識を失った。 別棟にいた久美子さんらが駆けつけると、店は 3 分の 1 ほどを残してがれきになっていた。 声をかけても応答はない。 携帯電話にかけてもつながらない。 津波警報の中、やむをえずその場を離れた。 久美子さんは「もうだめやと思った。」

意識を取り戻した坂下さんから電話があったのは 2 時間ほど後。 とっさにコタツの中に潜り込み、一命を取り留めたらしい。 余震が続く中、翌 2 日午前 9 時ごろ、レスキュー隊に助け出された。 ふらふらしながらも、自力で立って歩くこともできた。 避難所や市外の娘の家に身を寄せたが、電気と水道が復旧したのを機に 4 月、かろうじて残った建物の一部に戻ってきた。 夫婦で何度も話し合い、「新しい店舗を構えて再スタートを切るには、年齢的にも経済的にも厳しい」と閉店を決めた。そして、店から取り出せた商品で、感謝を伝える破格の割引の閉店セールを開くことにした。

「だめやわいね。」 「もっと続けてよ。」

地元紙にチラシを折り込み、5 月 13 日に「閉店さよならセール」を始めると、飛んできてくれるお客さんが相次いだ。
「こんな寂しいの、だめやわいね。」 「もっと続けてよ。」 たくさんの声をかけてもらい、久美子さんに抱きついて涙を流す人も。
「九死に一生を得た。 いままで皆さんにかわいがっていただいたお礼に、最後の感謝を伝えたかった。」と坂下さん。
「どっちがお客さんかわからないくらい、『ありがとう』と言ってもらい、もったいない言葉をたくさんいただきました。」

午後 5 時、閉店。 わずかに残った商品を箱にしまい、坂下さんは空っぽになった棚に深く頭を下げ、「ありがとうございました」とつぶやいた。 「ほっとしたのか、まだ続けたいような … これで、一区切りですね。」 閉店後には、サプライズも。 一角を貸してくれていたギフト店の店員が花束を贈ると、坂下さんは「ありがとう、本当に。 だめやって…。」 涙があふれる両目を押さえた。 そして、きっぱり言った。 「楽しい、店じまいセールでした。」 (上田真由美)

県、仮店舗や施設修繕を支援

石川県の馳浩知事は、奥能登で廃業が相次いでいることについて、28 日の取材に「この大災害が(廃業や倒産の)引き金を引いた可能性は高いと認識している。 後継者不足や事業の継続性に不安があった中で、今回だめ押しという形になったことも想定される」と述べた。 この日開会した県議会 5 月定例会に、仮店舗の支援や、小規模事業者の継続を見すえた施設修繕の支援などを盛り込んだ予算案を提出した。 (土井良典、asahi = 5-28-24)


能登地震の液状化被害、4 県 2,000 カ所超 住宅傾き転がるガラス玉

能登半島地震では、液状化の被害が広範囲に広がった。 現地調査した専門家によると、4 県で 2 千カ所以上が確認された。 複雑な被害の様相にともなう復旧への長い道のりに、被災者は悩みを深めている。

液状化した町はどう復旧 住民合意に壁、専門家は「マップ確認を」

道路がうねり、電柱や家は大きく傾いている。 地面から噴き出した砂に車は埋まり、3 階建てビルの 1 階部分が地盤とともに沈み込んでいた。 日本海に面した、人口 2 万 6 千人の石川県内灘町。 金沢市に隣接し、能登半島地震の震源から約 100 キロ離れたこの町で、住宅 1,590 棟が被害を受けた。 震度は 5 弱。 町は、ほとんどが液状化によるものとみている。

記事後半では、液状化の起きやすい地形の解説や、専門家に聞いた液状化からの復旧方法を紹介します。 中でも被害が大きい西荒屋地区。 木造 2 階建ての自宅が「全壊」と判定された女性 (65) は「家がずれてゆがんだ。 怖くて住めません。」と話す。 町内のアパートに家族と身を寄せ、家は公費解体することを決めた。 外から見ると、家の傾きはなく、被害も目立たない。 だが、家の中は地面の隆起で畳がめくれ上がり、基礎も土台からずれているという。

被害の程度に差 住み続ける意向の人も

西荒屋地区は、町がつくる「液状化マップ」で液状化のしやすさが「大」とされていた。 被害が大きくなったのは、日本海側に連なる砂丘の砂が液状化で地層に流れ込んだためとされる。 ただ、同じ町内でも被害がない地区もあり、程度もまちまちだ。 女性は「液状化の予想なんてまったくしていなかった。 もうここには戻ってこない。」 女性の隣に住む南春信さん (76) の築 55 年ほどの自宅も傾いた。 床にガラス玉を置くと、ゆっくり加速しながら転がる。 「今は慣れたが、うちに最初入ったときは傾きで気分が悪くなった。」 被害程度は「半壊」。 「住めないことはない」と、近くの避難所で暮らしながら、ブロック塀の撤去や排水の整備をしている。

隣の西荒屋公民館も傾き、玄関には「要注意」の貼り紙がある。 そこに水や仮設トイレを求め、人が集まる。 周りの道路は隆起が激しく、被害が大きかった近所の人たちが戻ってくるかどうか分からない。 元通りの生活ができるか不安は募る。 「この先どうなるかわからん。 まだ地震はおさまっとらんし。 年金暮らしの身にはこたえるよ。」 家屋の被害が小さかった住民の中には、住み続ける意向の人もいる。 住人がいれば、陥没した道路や宅地などを地区ごと一斉に工事することは難しい。 復旧方針をめぐる住民の意思統一をはかる必要があり、スムーズな作業が難しくなる可能性がある。

液状化による地盤の流動で土地の境界がずれ、建物の高さの基準が変化したことも復旧を阻む。 改めて境界や基準を決めるには、測量して住民の合意を得なければならない。 南さんも「高さが決まらんことには、うちは家を触れん」ともどかしさを吐露した。 内灘町の川口克則町長は 2 月の記者会見で「どのように復旧するのか、住民の合意を得るのが難しい。 極論を言えば、(町内への)集団移転という考え方も出てくる。」と話した。 町は住民説明会を 3 月下旬に開き、住民の意向調査を始めている。 説明会では、「いつになったらどうなるのかが一番知りたい」などと、町の対応にスピード感を求める声が出た。(土井良典)

復旧には薬剤で地盤固めるなど「地域一体で対策が必要」

液状化は、地震によって強い衝撃を受けた地盤が、地下水などと混ざり合ってドロドロの液体状になる現象。 特に地下水位が高く、地盤が砂の地域で発生しやすい。 埋め立て地や干拓地、砂丘などが代表例だ。 一方、地盤が粘土質など細かい粒子の層であれば液状化は起きにくいとされる。 今回の特徴は、石川、富山、福井、新潟の 4 県と広範囲に被害が広がったことだ。 1 - 3 月に現地調査をした防災科学技術研究所(茨城県)によると、液状化は少なくとも 4 県の 2,013 カ所で確認された。

最大震度 6 弱を観測した新潟県内の住宅被害は 1 日現在、全壊 102 棟、半壊 2,899 棟を含む 2 万 1,541 棟に上る。 とりわけ深刻なのが、半数近い 1 万 567 棟が被害を受けた新潟市西区だ。 新潟大災害・復興科学研究所などは被害の分布や地盤の状況を調査した。 同研究所などによると、被害が集中した一帯は、日本海沿いに延びる新潟砂丘の裾野にあたる地域と、信濃川の河床だった地域の大きく二つに分けられ、もともと液状化のリスクが高かった。 国土交通省の「液状化しやすさマップ」で危険度が高いとされるエリアや、1964 年の新潟地震で液状化が起きた現場とも重なったという。

同研究所長の卜部(うらべ)厚志教授(地質学)は「地形的に液状化に弱い地域が今回も被害に遭った。 このままでは繰り返すのは確実。 行政には、街区単位でのまとまった地盤改良を検討してほしい。」とする。 新潟市は今年度から、街区単位での地盤改良が可能か検討を始める。 公益社団法人地盤工学会(東京都)の指導を受けながら現地調査などを進める。

能登半島の震源から最も遠かったのは、西へ約 180 キロ離れた福井県坂井市の福井港。 東側は約 170 キロ離れた新潟市中央区だったという。 熊本地震では震源から 40 キロ四方に収まっており、その 4 倍超となる。 東日本大震災(8,680 カ所)よりは少ないが、阪神・淡路大震災(1,266 カ所)や熊本地震(1,890 カ所)を超える規模で、未確認の地域も含めるとさらに増えるとみられる。

調査チームの先名(せんな)重樹主任専門研究員によると、特に今回被害が大きかったのは、日本海側特有の砂丘や砂州の地形周辺だという。 砂丘の周辺はもともと地下水の水位が高く、地盤が砂層であることが多い。 さらに内灘町などでは、液状化によって砂丘の砂が住宅地となっている内陸側の地盤に流れ込む「側方流動」という現象が起き、道路の隆起や建物の傾きが激しくなったという。 液状化からの復旧には、地下水位を下げたり、薬剤などで地盤を固めたりする方法がある。 先名さんは「個人が住宅を建て直しても、道路や水道などを復旧しなければ住めない。 地域一体で対策を行う必要がある。」と話す。 (伊藤和行、佐々木凌、茂木克信、asahi = 4-2-24)


仮設入居申請 8,300 件、完成は 1,600 戸 能登、進まぬ住まい確保

能登半島地震で大きな住宅被害が出た石川県で、応急仮設住宅(建設型)のこれまでの入居申請が少なくとも約 8,300 件に上ることがわかった。 重複やキャンセルも多く実際の入居希望はもっと少ないとみられるが、3 月末の完成戸数は約 1,600 戸で需要に追いつかない状況が続く。

安定した住まいの確保が困難で、生活再建や復興に向けた課題になっている。 県が応急仮設住宅の建設を進める 8 市町で、3 月下旬に申請状況などを取材した。 各市町が精査中で集計方法に違いがあるが、申請数は単純合計で 8,293 件。 ▽ 輪島市 4,140 件、▽ 珠洲市 1,962 件、▽ 能登町 613 件、▽ 七尾市 611 件、▽ 穴水町 482 件、▽ 志賀町 335 件、▽ 内灘町 87 件、▽ 羽咋市 63 件だった。

輪島市や珠洲市は、入居資格を満たさない申請や重複した申請なども含む延べ数だとして、実際に必要な戸数は輪島が 3,200 戸程度、珠洲が 千数百戸程度とみている。 県によると、仮設住宅は 3 月 28 日時点で 5,086 戸を着工。 担当者は、すでに完成した 988 戸を含めて、目標とする 1,600 戸が年度内に完成すると説明した。 馳浩知事は、8 月末までには希望者全員が希望するタイプの仮設住宅に入居できるようにしたいとしている。 石川県内では約 8,400 棟が全壊するなど 7 万 5 千棟を超す住宅被害があった。 3 月 29 日時点で少なくとも約 8,100 人が避難生活を送っている。(野平悠一、宮坂知樹、河原田慎一)

避難所、車中泊、親類宅をさまよい

「見捨てられた思いでした。」 石川県穴水町の香川法昭さん (73) は、落ち着ける住まいがないままさまよった約 3 カ月を、そう振り返った。 地震で自宅は全壊。 心臓やひざに障害がある妻の留美さん (79) と、町役場 3 階の避難所、駐車場での車中泊、親類宅と渡り 歩いた。 仮設住宅には入れず、みなし仮設も探したが見つからない。 募集は終わっていたが町に相談し、3 月中旬に金沢市のホテルに 2 次避難できた。  だが期限は月末。 不安を抱えて住まい探しを続け、自宅近くの仮設住宅に 3 月末に入居できることが決まって胸をなで下ろした。

被災地では、道路や水道などの復旧作業が難航し、仮設住宅の建設にも影響を及ぼしている。 現地で宿泊できる場所が少なく、県南部から片道 2 時間半かけて仮設住宅の現場に通うという建設業者は「働ける時間が限られ、残業代もかさむ」と嘆く。 復旧のためのほかの工事も同時に進んでいるため、人手を集めるのも簡単ではない。 輪島市の坂口茂市長は「県には本当に尽力いただいていると思う。 だが被災者のことを考えると、ずいぶん時間がかかるというのが正直な気持ち。」と打ち明ける。 家屋の全壊数が近い 2016 年の熊本地震では、地震後 3 カ月時点で約 3,700 戸が着工、約 2 千戸が完成していた。

県は、県内外で計 8,200 戸のみなし仮設も提供している。 だが、被害が大きかった能登半島北部は賃貸住宅が少なく、自宅近くを望む被災者のニーズになかなか応えられないという。 県の担当者は「被災者を路頭に迷わせることがないよう、できるだけ早く仮設住宅の確保を進めていきたい」と話す。

修理業者見つからず、損壊した自宅に戻る

被災地では、自宅の再建や修復も、思うように進んでいない。 奥能登地域の高齢化率は約 5 割。 長年暮らした地域や自宅から離れたくないという声が目立つ一方、自らに残された時間や費用を考え、自宅の再建や修理に二の足を踏む被災者が少なくない。 活動の妨げになる倒壊家屋の公費解体は 4 月にようやく本格化する見通し。

想定される対象は 2 万 2 千棟にのぼり、完了の目標は 1 年半後だ。 輪島市三井町の尾坂先(はじめ)さん (84) は 4 月から大規模半壊と判定された自宅に戻って暮らす。 「仮設に入れたらその間に直したいが、いろんな所で大変な被害があって業者が来てくれるかどうか。」 尾坂さんは、農業用ビニールハウスの「自主避難所」で地域の人たちと避難生活を送ってきた。 5 世帯 9 人が残っていたが 3 月末で閉める。 「助け合って避難生活を送れたが、皆さんだいぶ疲れが出てきている」と決断した。

地区には仮設住宅が建設されるが、入居できるのは 5 月以降になる見通しという。 希望する全員が 5 月に入れるかも分からない。 それでも尾坂さんは住み慣れた所が良いと、不安を抱える自宅で待つことにした。 「生きてもあと 10 年。 自宅で余生を過ごしたい。」 自宅が一部損壊とされた前輪島市長の梶文秋さん (75) は、自己負担で修理しようとしたが作業に入れる業者がなかなかないという。

「市内の業者は皆、駆り出されている。もう少し待ってくれと言われた。」 修理費用が補助される応急修理制度で行政が支払う限度額は、半壊以上の場合で 70 万 6 千円。 費用をまかなえず修理をあきらめる人も多い。 利用すれば仮設住宅の入居期間に制限もかかる。 内灘町では、百人以上が説明を聞いたが、申請は数十件だった。 担当者は「使い勝手が悪いという声も出ている」という。

コミュニティー維持が課題 「石川モデル」の仮設着工も

住民が地域や自宅を離れる避難生活の長期化で、課題になるのがコミュニティーの維持だ。 宮城大の阿部晃成・特任助教は3月、輪島市議会の勉強会で講演し「被災者が避難所から 2 次避難所、みなし仮設とどんどん移動して、知らない人も増えていく。 地域への思いを維持するのは難しい」と訴えた。

東日本大震災では、地域の仮設住宅にわずかな住民しか入れなかったことが影響し、地域の復興が滞って人口減少が加速した例もあったという。 自治体も手をこまねいているわけではない。 石川県は 3 月、「石川モデル」と呼ぶ木造の仮設住宅 6 戸を穴水町で着工した。 仮設住宅は入居期間が 2 年以内だが、「石川モデル」は期間後も住み続けることを想定。 入居者が自宅として買い取ることもできる。

建設用地を提供した左部淳一さん (77) は「村を存続させるためには、永続的に住める形が一番良いと考えた」と話す。 町と地域住民が話し合い、中心部の仮設住宅に移るのではなく、集落の中に仮設住宅を作ることにした。 プレハブ型の仮設住宅でも、地区で話し合って入居者を決めるなど、コミュニティーの維持に配慮する自治体は多い。 能登町の担当者は「できるだけ、仮設住宅がある地区の人が住めるように考えている」と話す。 被災者支援に取り組む認定 NPO 法人「コミュニティ・サポートセンター神戸」の中村順子理事長は「被災者の負担を軽減するには、集落単位で仮設住宅に入居できるよう配慮することが大前提」と指摘する。

離れている住民も含めた定期的なオンライン会議でまちづくりを話したり、地域で農園を借りて畑仕事に取り組んだりする取り組みが、つながりを保つのに有効だという。 「住民が得意なことをそれぞれ発揮して貢献することで、関係が構築される。 必要な設備を、行政が用意するなどの支援も重要だ」と話す。

被災地の住環境などを研究する佃悠(つくだはるか)・東北大大学院准教授(建築計画)の話 : 山崩れや交通網の分断が活動を妨げ、住居面での復興を難しくしているのが今回の地震の特徴だ。 自宅を片付けるボランティアが早期に入れず、行政のマンパワーも足りない中、住民だけで問題に直面することになった。

ショックを受けている時に、自宅を直すか壊すかなどを判断することは非常に困難だ。 生活再建や地域の復興には、被災者の居住環境の安定が欠かせない。 早期の 2 次避難や、トイレトレーラーの配備など、過去の災害を受けて行政の取り組みは進歩した。 将来は公営住宅にする仮設住宅を設けたことも評価できる。 だが 3 カ月がたった避難所の現状や住環境の確保の面を考えると、課題は多い。 今後は、街づくりやなりわい再建のビジョンを示すことが必要になる。 能登の人の地域への思いは強いが、情報が伝わらないと自宅や地域をどうしていくかの選択もできない。 住民のニーズをくみ取ることが重要だ。 (asahi = 3-31-24)


水道復旧、被災後に初めて並んだ生鮮食品 輪島のスーパーもとや

石川県輪島市町野町で唯一のスーパーマーケット「スーパーもとや」で 25 日、水道が復旧。能登半島地震後、初めて店頭に生鮮食品が並んだ。 同店は被災しながら、元日から一日も休まず営業を続けている。 富山県高岡市の市場から仕入れたトマト、オレンジ、ホウレン草、キャベツなどが昼前に店に到着。 3 代目社長の本谷一知(もとや かずとも)さん(46) が、冷蔵ケースに手際よく並べていった。

昨日まで店内の水道が止まっていたため、衛生面や自宅が倒壊し、自炊が出来ない地域住民も多い生活環境を考えると、生鮮食品を置くことができなかったという。 本谷さんは「また 1 歩前に進められた。 店の明かりを消さず、トラックによる移動販売を強化して地域の人たちのニーズに応えていきたい」と話した。 (筋野健太、asahi = 3-25-24)


能登の水道管損傷、東日本大震災の 7 倍 下水道管は 46% で被害疑い

最大震度 7 を観測した能登半島地震で、水道管の被害が最も大きかった石川県能登町の 1 キロメートルあたりの被害箇所数は 2.66 で、東日本大震災で最も被害が大きかった宮城県涌谷町の 0.36 と比べて、約 7 倍に上ることが、国の調査でわかった。 最大断水戸数に対する断水戸数の割合(断水率)も、能登半島地震は発災 15 日後で 48.3% とほかの被災地より高く、復旧の遅れが浮き彫りになった。

能登半島地震を踏まえた上下水道の地震対策を検討する国の有識者会議(委員長・滝沢智東大教授)の初会合が 12 日に開かれ、報告された。 能登半島地震では水道管が広範囲に壊れ、石川県を中心に最大約 13.7 万戸で断水が発生した。 道路が寸断された影響などで復旧が遅れ、3 月 8 日現在、石川県の輪島市、珠洲市、七尾市、能登町、内灘町の 5 市町計約 1.7 万戸でなお断水が続いている。

厚生労働省の調査で、能登町で水道管 1 キロあたり 2.66 カ所、輪島市では同 2.63 カ所が、それぞれ損傷していたことが判明した。 阪神・淡路大震災で最も水道管の被害が大きかった兵庫県芦屋市の 1.61 カ所、熊本地震の熊本県西原村 0.43 カ所、新潟県中越地震の新潟県小千谷市 0.31 カ所と比べても非常に高い結果となった。 断水が続いて、まだ調査ができていない石川県珠洲市などでも大きな被害が予想されるという。

厚労省幹部は「地震の強さに加え、急傾斜地で地すべりが起きやすいなどの半島特有の『急所』を突かれた」と話す。 発災から 15 日後の断水率は、能登半島地震で 48.3%。 東日本大震災の 19.2%、熊本地震の 2.9% と比べても高かった。 主要施設の浄水場が被害を受けたことや、都市部と異なり水を運ぶルートが単線だったことも影響したという。 法定耐用年数の 40 年を超える水道管は、全国の約 2 割にあたる約 15 万キロに上るとされる。 災害復旧にかかわる政府幹部は「大地震が起きれば、ほかの地域でも能登のような水道被害が起こりかねない」と語る。

また、国土交通省の調査で、石川県 6 市町の下水道管の総延長 773 キロのうち 46% にあたる 354 キロで被害が疑われ、詳細調査の対象となった。 液状化などの影響が大きかったとみられる。 同様に下水道の被害が大きかった熊本地震で被災した熊本県益城町は 22% だった。 上水道は厚労省が所管していたが 4 月から、下水道を管理する国交省に移管される。 国交省幹部は「上下水道の管理が、国や自治体レベルでバラバラだったことが災害対策や復旧の弊害になっていた」と話す。 今後は、一体的に耐震化を進めていくという。 有識者会議は 5 月ごろに 2 回目の会合を開き、8 月ごろまでに最終とりまとめを行う方針という。 (矢島大輔、asahi = 3-12-24)


輪島塗の職人たち、坂茂さんら設計の仮設工房で再出発 世界的建築家

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市で 3 月 11 日、世界的な建築家の坂茂さん (66) らが手がけた仮設工房が立ち上がった。 注文したのは漆器工房「輪島キリモト」の代表、桐本泰一さん (61)。 工房を失った輪島塗の職人は多く、桐本さんは「みんなが早く仕事を再開しないと、地域経済が回らない」と危機感を募らせる。

ビールケースに砂袋 … 工房は 2 日間で組み上がった

坂さんは、1990 年代から世界各地の被災地で、仮設の住宅やシェルターなどをつくる活動を続けてきた。 紙の管など入手しやすい材料を使うことで知られる。 「建築のノーベル賞」とも呼ばれる「プリツカー賞」を 2014 年に受賞した。 石川県では、昨年 5 月の地震後から珠洲市で活動を続けていた。 さらに輪島でのニーズを探ろうと今年 1 月下旬、知人の紹介を受けて桐本さんに会った。 桐本さんはかつて、坂さんが手がけたホテルの内装向けに、紙管に漆をほどこしたサンプルを作った縁もあった。

その坂さんとの話の中で、紙管を使った仮設住宅を知った桐本さんは、住宅よりもむしろ「仮設工房として使える」とひらめいた。 桐本さんの工房は地震で内部がぐちゃぐちゃになったが、建物は無事だった。 だが取引先の中には工房が壊れ、事業再開の見通しが立たない職人が少なくなかった。 もともと自社の工房を手狭に感じていた。 だから「まず自分が建てて、工房を失った職人たちに見てもらおうと思った。」 すぐに坂さんに依頼し、準備を開始。 2 月下旬に駐車場の一部を仮設工房用に整地した。

3 月 10 日、坂さんの事務所の関係者や、インターンの学生ら総勢約 20 人がやってきた。 ビールケースと砂袋を並べて土台をつくり、あらかじめカットした木材の部品や、断熱材などを組んでいった。 「ワクワクしますね」と桐本さん。 建物の工事は 11 日までの 2 日間で終わった。 11 日に作業を見学した漆器業「輪島屋善仁」の下地主任、戸前宏治さん (50) は「漆塗りでは温度と湿度の管理が重要。 この建物は仮設ながら木造で断熱材も使われていて工房に使えそうです」と興味津々。 同社では倉庫や工房などが損壊し、そのままでは継続が難しい工程もある。 プレハブの仮設工房も検討したが、温度管理が難しいと感じていたという。

同社のデザイン室長、川越康さん (59) は「ありがたいことに在庫品は売れているが、早く製造を始めないとどこかで行き詰まる。 これほどの建物が 2 日間で組み上がるスピード感はありがたいですね」と関心を示していた。 仮設工房を注文した桐本さんは、「重箱などが売れたかつてほどではないにせよ、漆器販売のピークは年末。 私たちのところだけではなく、業界全体としてもそこに商品が出せるかどうかで差が出る。 数カ月という製造期間を考えると、少しでも多くの職人が一刻も早く仕事を始めないと。」 自身の会社は 4 月の本格的な事業再開をめざしていて、仮設工房にはエアコンも整備して家具などの下塗りの工程に使う予定だ。

11 日に現場を訪れた坂さんは、輪島市役所も訪問。 市からは、別の地域にも仮設工房を建ててほしいとの要望を受けたという。 「本格的な復興は、地元の建築家や施工業者の仕事。 私たちがやるのは、その手前のお手伝いです。 ただ、復興はまだ助走が始まったばかりだとも感じます。」 今後は仮設店舗なども提案していくという。 (西村宏治、asahi = 3-11-24)


卒業式前に友や家族と再開 輪島中の 73 人が帰郷 集団避難終了で

能登半島地震で被災した石川県輪島市の輪島中学校 3 年生の 73 人が集団避難を終え、8 日、市内に戻ってきた。 生徒たちには約 50 日ぶりの帰郷となった。 3 年生は、同県白山市で集団避難をしており、9 日に行われる卒業式にあわせて集団避難を終了する。 午前 9 時ごろにバス 3 台で白山市内を出発、約 3 時間かけて市内に到着した。 式は輪島消防署の一室を借りて行われる予定で、8 日は同署で式のリハーサルを行った。 生徒たちは雨の中、バスから降りると、市内に残っていた生徒たちと再会し、互いに近況を語り合っていた。 (田辺拓也、asahi = 3-8-24)


石川 6 市町から 1,400 人超転出 地震 2 カ月、人口流出に拍車の懸念

能登半島地震で特に大きな被害を受けた 石川県内の 6 市町で、発災から 2 カ月で 1,400 人超が別の自治体に転出していたことがわかった。 転出には至っていないものの他の自治体に避難している被災者も多く、今回の地震をきっかけに人口流出に拍車がかかることが懸念されている。

危機感募らせる能登町長と珠洲市長 人口流出阻止へ「まず生活の場」

1 日時点で 6 市町に出された転出届の集計(速報値含む)によると、1 月と 2 月の転出者数は計 1,449 人。 昨年同期の計 602 人に比べて 2.4 倍となった。 地震が起きた元日時点の 6 市町の人口(11 万 9,650 人)の約 1.2% にあたる。 1 - 2 月の転出者は多い順に輪島市 417 人(前年同期 196 人)、七尾市 405 人(同 200 人)、珠洲市 240 人(同 45 人)、能登町 163 人(同 57 人)、志賀町 129 人(同 82 人)、穴水町 95 人(同 22 人)だった。

また、石川県は 1 日、2 月 1 日時点の県内の人口は 110 万 6,278 人で、地震発生の元日時点から 1,570 人減になったと発表。 内訳は死亡が出生を上回る自然減が 1,030 人、転出が転入を上回る社会減が 540 人で、1971 年 4 月の調査開始以来、自然減は過去最大、社会減は 1 月の数値としては過去最大だったという。 大森凡世(かずよ)・能登町長は朝日新聞の取材に「ショックだ。 生活の場を少しでも早く提供しない限りはこの状況は変わらない。」と危機感をあらわにする。

熊本地震でも人口流出

ただ、発災から 2 カ月を迎えてもいまだ生活再建への道のりは厳しい。 最大震度 7 の能登半島地震では、3 月 1 日時点で 241 人の死亡が確認され、住家被害は 7 万 6 千棟以上にのぼる。 広範囲で被害が生じた水道は徐々に復旧作業が進められてはいるものの、約 1 万 8 千戸以上で断水が続いている。

市町や県の避難所には 1 万 1 千人以上が避難。 知人や親戚宅などに身を寄せている被災者は県が把握しているだけで 7 千人以上いるといい、生活再建に時間を要せば、人口流出につながる恐れが高まる。 応急仮設住宅は 2 月 22 日時点で約 7,800 戸の申し込みがある一方、県は 6 月末までに 4,600 戸の完成を目標としており、1 日時点で完成したのは 302戸にとどまっている。

珠洲市の泉谷満寿裕(ますひろ)市長は取材に福祉施設に入所していた高齢者が他の自治体の施設に移るためにまとまって転出した可能性を指摘する一方、住民票を移すことをためらっている人も多くいるとみる。 「人口減少にさらに拍車がかかるのはたいてい自然災害が契機となっており、一番そこを危惧している。」 実際、東日本大震災をはじめ、過去の自然災害でも人口流出が加速した。 2016 年 4 月の熊本地震では、被害が大きかった益城町では熊本市のベッドタウンとして人口増の傾向が続いていたが、発災翌月からの 2 カ月で約900 人が転出。 現在も発災当時の人口から 500 人近く少なくなっている。

能登半島の先端に位置する奥能登の 4 市町にとっては、地震の前から過疎化や高齢化が深刻な課題となっていた。 2020 年の国勢調査では、人口は輪島市が 2 万 4,608 人(高齢化率 46.2%)、珠洲市が 1 万 2,929 人(同 51.6%)、穴水町が 7,890 人(同 49.1%)、能登町が 1 万 5,687 人(同 50.4%)。 国立社会保障・人口問題研究所が昨年末に発表した推計では 2050 年には 4 市町ともに人口が半数以下になると見込まれている。

04 年の中越地震で被災した中山間地の集落の再生計画をまとめた兵庫県立大大学院の澤田雅浩准教授(都市計画・都市防災)は「災害直後には被災者として支援を受けられるよう住民票を残して避難するケースが多い。 早い段階で離れる決断をされた方が出ているのはそれだけ厳しい状況に置かれているからではないか」と指摘。 一方で「人口減少を復興の成否と直結させないことが大切だ」とし、「たとえ人が少なくなっても豊かな暮らしは取り戻すことができる。 地域の暮らしに合った復興の方向性を考えていくことが重要だ。」と話す。 (野平悠一、波絵理子、asahi = 3-1-24)