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戦争を知らない世代の皆様へ

戦中戦後の子供の暮らし C

【バスガールになって】

学歴のいらない仕事がありました。 路線バスの車掌です。 (ワンマンカーになる以前の話です。) 中学卒業 15 歳以上。 私は 19 歳になっていました。 でも受けてみました。 なかなか通知が来ないので、諦めて、三軒茶屋の市場で乾物屋の店員になりました。 昭和26年春のことです。

私が陳列すると、感じ良く見えるといわれ、一人で店中の陳列変えをしました。 立体的に、見やすく取り出しやすく ・・・、商売は大好きでした。 もしも、バスの採用通知が来なかったらば、あのあたりの商店のおかみさんになって張り切ったかもしれません。 でもバスのほうが給与が良く安定していたので、通知が来たとき、仮病で店を辞めました。

バスの初任給は、ハウスメイドの時の月給と同じでした。 (うろ覚えですが 4,000 円だったかと) でも会社が大きいから安全かなと思いました。 しかし、この私鉄の待遇は、同じ路線を乗り入れで走る都バスより、はるかに悪かったのです。

酷かったのは運転士の勤務状態でした。 今ならたちまち摘発されるような超過勤務だらけの過重労働でした。 先ず、隔週休日出勤が義務でした。 休日は各人何曜日と決まっており、車掌は毎週一日休めますが、運転手は隔週です。 二人で一台担当しているバスを毎週点検整備するのが運転手の仕事だったのです。

休日は月に 2 回 ・・・。 整備工場は併設されているのに、毎週の点検整備は運転手の責任でした。 それは、給料だけでは妻子を養えないので余分に働きたいという人たちの為でもあったようです。 労働組合は文句を言いませんでしたから。 でも、都バスの運転手さんには毎週休みがありました。 仕事は同じなのに待遇が違いすぎると思ったものです。

勤務は、4 時起きして電車で出勤、午後早くバスで帰宅できる日もあれば、早朝に3時間乗って、7 時間もの中休があって、その間にバスのガラス拭きと床掃除をして、夕方、又、3 時間乗務する、拘束時間が長くて辛い勤務の日も有りました。 午後に出て、夜 11時頃帰宅し、翌日は早番で、寝る暇がない勤務も有ったのです。

車掌は出庫の 30 分前までに制服に着替え、梯子でボンネットによじ登ってフロントガラスをセーム皮で拭き、バケツでラジエーターに水を入れます。冬は方々凍っているから大変でした。 切符とつり銭を受け取って、鞄をベルトに下げて、出庫です。

午後番は、出庫する場合と、途中の停留所で乗務員交代する場合が有りました。 帰りは車庫に戻るとお金と切符を照合します。 混雑が酷い時代でしたから、合わないことも度々有ります。 小額の場合は、会計さんがやりくりしてくれますが、大きくお金が不足すると、給料から差し引かれます。

私は一度千円札を掏られて、給料から引かれました。 とても痛い金額でした。 大混雑の中で、15 円とか 35 円とかのバス代に千円札を出す酷い客が居るのです。 確かにお札を受け取って、鞄に入れたのに、他の人の切符を切っているうちに千円札は消えていました。 会計さんにそう話したけれど、金額が大きすぎて、助けてくれませんでした。

ウチの会社の大半の運転手は、売り上げを気にかけて、遅れがちに走ります。 やりすぎると乗り切れないことになり、停留所で待っている人を断る事もしばしば。 「すみません満員です。 後車をご利用ください。」怒られますよね。 降りる人の居ない停留所は、待っている人を無視して通過します。

後から来る都バスは時間通りなので、こちらが混んだ分やや空いています。 沢山売り上げても手柄になるわけではないのに、わざと遅らす運転手は車掌に嫌われました。 都バスと交互乗り入れでない路線でも、全体的に本数が足りず、ラッシュの混みようは、ドアを閉められないほどでした。

私の入社した 26 年にはまだ座席が 13 の小さなバスが 1 台残っていました。 車掌台が無くドアも無いので(ステップは開きっぱなし)、お客を押し込んで、車掌がドアになります。 もう 1 - 2 台ドアなしの車が有りました。 ステップにへばりついてお客を護ります。 車掌の体が完全に車の外にはみ出していた事も有ります。

だんだん新しいディーゼル車に変わってゆきましたが、それでもバスはよく故障しました。 故障で一台抜けると大混雑になります。 記憶に残る酷い故障は、車軸が折れて、右に傾いた事です。 転倒は免れましたが、驚きました。 もう一つは、マフラーが外れて引きずった事。 凄い音がしました。 急ブレーキで子供が額を少し切ったことはありましたが、長く勤めたのに重大人身事故に遭わなかったのは幸せでした。

危機一髪だったのは、並木橋を左折して渋谷に向かおうとした際、左を歩いていたおばさんが、いきなり横っ飛びに右に飛び出して、自分からバスにぶつかってきた時です。 バスが新車で音が聞こえなかったのです。 ドアを開けて左を警戒していた私は瞬間悲鳴を上げ、ベテラン運転手さんは急停止。 おばさんは半分車掌台の床下にはまっていましたが、怪我は無く、「私が悪いのだから事故にしないでください」と、逃げていってしまいました。 運転手さんにはこの事態が全く見えていなかったそうです。

ワンマンバスだったら、確実に死亡事故です。 私はいまだにワンマンバスが危なく見えて仕方有りません。

一番不愉快だったのは臨検です。 抜き打ち的に車庫前で他の車掌と交代させられて下ろされ、女の係員たちに畳の部屋に連れて行かれて服を脱がされます。 お金を着服していないかという検査です。 確かにごまかす人も少数居たようですが、このやり方は人権侵害でした。 第一、運転手とグルならば、臨検で見つかるわけは有りません。 運転手に渡してしまえば解りませんから。

あるとき友達が臨検で、ポケットに 100 円玉一個見つかって首が飛びそうになりました。 彼女は処分が決まるまで自宅待機にされました。 (彼女は 7 人姉妹の長女、一家の稼ぎ手でした。) 混雑の中でポケットにコインを一個誤って落とし込む事は十分ありえます。 鞄の隣がポケットなのですから。 第一、7 年も真面目に勤続している車掌が、100 円盗んで何万円の退職金を棒に振る筈は有りません。

当時の所長では話にならなかったので、私は組合役員の運転手さんと二人で、本社に栄転した、話のわかる前所長を訪ねて、救済を頼みました。 その方は「I さんがそんなことする訳がない。 大丈夫任せなさい。」と言ってくれました。 おかげでクビは助かったものの、友達は他の営業所に飛ばされてしまいました。 今なら不当労働行為です。

夜遅く帰宅する道も結構危険でした。 駅から帰る途中で、二人の若い男に道をふさがれました。 避けようとしても、前を塞いで通さないつもりのようです。 例の、機銃掃射を聞いたあの道でしたから、お屋敷の塀ばかりで逃げ場はありません。

つぎの瞬間、私は突進しました。 二人にぶつかって行ったのです。 私の手提げに何か重いものが引っかかりました。 それは釘だらけの 1m あまりの角材でした。 彼らはびっくりして持っていた角材を手放したのです。 ぽかんと立ち尽くしている男どもに角材を放り投げて、わざと低い作り声で「気をつけなっ」といってさっさと帰ってきましたが ・・・。 後から、角材を持っていることを知らなかったから、突破できたんだなと思いました。

でももし、ぶつかって行かなかったとしても、私の声は甲高くて物凄く大きいから、「火事だーっ」と叫んで脅かす事も出来たし ・・・ と、全然恐がっていない私でした。


【バスガールの暮らしにあきたらず】

バスには 9 年あまり勤めました。 (退職時、厚生年金を脱退するよう言われた事が返す返すも残念です。 良く解らず一時金を貰って 9 年分を棒に振りました。) 仕事は一生懸命やりました。 良く通る大きな声で「オーライ」とやって、運転手にも合図がわかりやすいと喜ばれました。

指導車掌になり、新入社員を見習いにつけました。 毎日連れ歩いて、2 週間で一人前にしなければなりません。 良い見習いさん達に恵まれ、見習いを離れても、皆、木曜公休の仲間になるので、私は良くみんなを引き連れてハイキングに行ったり、新宿の歌声喫茶に行ったりしました。 みんなから「オネエサン」と呼ばれ、いまだに「オネエサン」と呼んでくれる人が居ます。

運転手さんの中に気の合うおじさんが二人居て、同じ月刊雑誌を三人で順番に買って回し読みして、読み終わると全部私にくれました。 その雑誌などからも民主主義にかぶれて、男女同権を主張し一部の運転手とけんかもしました。

休憩室を汚すのは男、休憩時間に掃除させられるのは女、「汚した人が掃除してほしい」と言って、女の癖に生意気だと怒られましたが、喧嘩相手の運転手とは、仕事中は文句つけられないように、特にきびきびやって見せました。 男尊女卑の甚だしい会社でしたから、セクハラ、パワハラ、猥談は毎日の事でした。

私は曲がった事が嫌いで営業所長に文句をつけて、言い分を通したりもしました。 所長の見間違いを指摘して、不当に叱られた運転手をかばったら、話のわかる所長から気に入られた事も有りました。 その方が、前の話で友達の首を助けてくれた、前所長なのです。 後年出世されたと聞きます。

色々充実してはいたのですが、車掌の仕事は長く続けておばさんになっても、他の職種に栄転なんてありえません。 努力し続けても、何も学ぶところが無いのです。 休みが木曜だけなので、学校にも入れません。 通信制でも到底無理でした。

学歴コンプレックスがあったので、何かで自分を確立しないと、いたたまれない思いがありました。 そこで 24 歳のとき大学生グループの仲間になってボランティアに熱中しました。 保護司さん(五十代の医師の奥様)を手伝って、恐喝暴行で特別少年院に行ってきた 19 歳の少年の姉役を引き受けたのです。 当時の非行少年は今と違います。 もっと純情。

海軍軍人だったお父さんの暴力、お母さんは離婚して出て行き、15 歳にならないうちから手がつけられなかったと言う少年ですが、木曜に遊びにおいでというと、朝から母と私の六畳一間の家に来て、炬燵代わりの猫アンカにかけた布団に寝そべって、一日中他愛ない事を喋り続けます。

母も私もそれぞれの家事や縫い物をしながら相槌を打つだけで、何も言いません。 家庭の雰囲気だけ与えたかったのです。 暴れん坊が、行き場をなくしていたうちはまだ安心でした。 でもそのうち「新宿の親分に体を売っちゃったから、もう俺にかまうな」と言い出しました。 保護司さんは、彼の言う事を真に受けて、もうあの子に近づいてはいけないと私を止めました。

でもそんなことで引き下がる私ではないので、彼が泊まっていたお母さんの職場へ押しかけました。 お母さんは都心の大通りに面した事務所に住み込みで、雑役婦をしていました。 夜なのにあいにくお母さんは留守、困ったけれど 2 階の応接間で彼と対峙しました。

私たちのおせっかいがわずらわしくなっていた少年は、やがて「窓からおっぽり出すぞ」と脅しました。 放り出されても、ここは 2 階だし ・・・ 私は「何をしようとあんたの勝手だけどね、心配するのはこっちの勝手だ。 文句言うな!」 一歩も引き下がらず、彼は根負けしたようでした。 数日後、新宿の親分の話はウソとわかりました。

そのうち彼にステキな恋人が出来ました。 彼女の力は絶大、私は安心してバトンタッチ、以後彼とは会いませんでした。 やがて彼は彼女と結婚して、親譲りのやんちゃな坊やが出来たと保護司さんから聞きました。

その後も、いろんな少年とかかわりましたが、ここまでかかわれた子はいませんでした。 大学生達も大勢ボランティアをしていましたが、私のようにとことんのめりこんで活動する人は居ませんでした。

バスの仕事はアルバイトで、非行少年の姉さん役が本業だと私は思っていたのです。 何とかして学校に行って、当時明治通り沿いにあった、「社会事業大学」に行こうと、まだ思っていました。 その後、グループのリーダーからひどい裏切りに遭いました。

少年とかかわった頃の日記を研修資料として提出してくれと委員長(慶応を出て保護観察官になっていました)からいわれ、絶対外部には出さない約束で、書いて渡しました。 彼はそれを外部に配ってまわったのです。 マスコミの取材申し込みにびっくりし、委員長に対して怒りをぶつけました。

すると彼は、「この運動を大きくするためには宣伝が必要だ」といって映画プロデューサーを私に紹介したのです。 私は「実際の資料を使うことは絶対に断る。 色々な人の体験談をまとめて、一つのストーリーに書くことは出来ます。」と言いました。

そこで、私は生涯にただ一度、小説を書きました。 委員長に渡すと、プロデューサーは私を田中澄江先生のお宅に連れて行きました。 脚本の依頼を聞くと田中先生は、冒頭部分に目を通して、私に質問し、「拝見します」と原稿を預かってくださいました。

ところがその頃、委員長は、別のルートで日活に私の元の資料を売り込んでいました。 先のプロデューサーが、怒りながら私に連絡してきました。 「委員長に先を越された。 日活で映画化が決まったそうだ。」私はぽかんとしました。 そこで又、「私の資料を一行でも使ったら、承知しない」と委員長に怒鳴り込みました。

結果、作家が物語を書き、映画は、脚本、水木洋子。 出演、左幸子、小林旭、浅岡ルリ子で完成しました。 母親と二人暮しの、はとバスのガイド(左幸子)が、非行少年(小林旭)を担当して、追い掛け回すうち、少年と居酒屋で酒を飲み(ありえない)酔いつぶれて、少年にラブホテルへ担ぎ込まれる。(ますます ありえない)

左幸子の入浴シーンを撮りたいだけで、馬鹿なストーリーにしたものです。 何故か彼女が一人で入浴中に、少年はホテルを出て行く。 全くつじつまの合わないお話でした。 だから私とは関係ないと割り切れたのです。 興行成績も悪く、ボランティアの宣伝になんかなりえませんでした。

私がグループを辞めた後で、女子大生の仲間達が、教えてくれました。 「委員長はね、『中谷さんは、自分の原作を映画に出来なかったので、カンカンに怒っているが、あんな力の無いプロデューサーでは、いつ映画化されるか分かったもんじゃない。 日活に持ち込んだからすぐ出来たんだ。』って言いふらしているのよ。」と。

又、私は二重にダメージを受けたわけです。 私は、コピーをとっていなかった私のたった一つの小説が、田中先生の書斎のゴミになったことを怒っているのではなかった。 エリートコースを生きている委員長の、度重なる裏切りが許せなかったのです。

20 年ぐらいたってから、目黒の保護司会から電話で「あの時の映画の題名はなんでしたっけ?」と訊かれました。 私は原作の本の題名は覚えていたけれど、映画の題名は完全に忘れていました。 それに、実際の私の活動は、保護司のおばちゃまとの連携でやってきたのに、映画には一切保護司さんは登場しなかったのです。

委員長は当時、慶応大学を卒業して、保護監察官になっていましたので、保護司さんの果たした役割は、保護監察官の仕事とされました。 彼はじき監察官を辞めて、民間の大企業に転職したそうですが。

ボランティアにだけ生き甲斐を求めていたのに、足元をすくわれ呆然となったとき、今度はすぐ点字図書館に行ってみました。 朗読には自信があったので、すぐさま朗読録音を始めて、以後、何十年も視覚障害者の方々とお付き合いが続いています。

朗読と平行して素人劇団にも入りました。 新宿の保育園を夜だけ借りて、週に一度稽古をしました。 外郎売のせりふが得意になったのはそのときです。 芝居の発表会もしました。 「こだま」という母と息子の物語で、私は老け役でしたが、一応主役。 以来あだ名は「おかあちゃん」に。 楽しいモノクロ写真が残っています。 みんな貧乏で、劇団はやがて解散してしまいました。

一方、自分の生活は片思いの失恋ばかり ・・・、まるっきりモテない娘でした。 勇ましすぎましたからね!


【またまた挫折】

二十代の終わり近くに、脱サラをしました。 有り金はたいて総菜屋を始めたのです。 てんぷらを習ってきて自分で揚げて。 無理して店を始めた理由は、初めて結婚しようという相手が登場したからです。

相手が貧乏な家の 7 人兄弟の長男で、沢山の問題を抱えている人だったので、共働きを覚悟し、バスの仕事では無理だからと、店を始めたのですが、何しろ地域で信用のある私だったので、、保護司さんや警察の少年課の人や土地の名士が店探しをしてくれたり、とんとん拍子でした。 それがいけなかった。 相手は私に劣等感を持ってしまって、開店にこぎつけたときには結婚話は消滅していました。

それでも一人ぼっちで始めた店で、冬の夜中に半分凍った鯵を、1 尾 40 秒で背開きにするのも大変だったし、夏は、てんぷら鍋の前で温度を測ったら 50℃。 しかもあまり健康に自信の無い私。 目的を失ってしまっては、気力がもちません。 一年で閉めて、またしても一文無し。

すぐに紹介してくれる人があって銀座の地下鉄ストアの鼈甲屋の店員になりました。 昭和 36 年の 11 月だったと思います。 鼈甲メガネを作っている腕の良い職人さんが出している、ケース三つだけの店でした。 店番は私一人。 興味のもてる商品でしたから鼈甲の事を研究して、喋って売ったら、前年同月の 3 倍売れました。 高価な品の売れ行きがすごかったので、2 ヶ月働いて、暮れのボーナスを特別に 5,000 円頂きました。 それでぎりぎり年が越せたわけです。

製造元なので、メガネの枠が売れると、たいそう儲かるのでした。 職人の店だから修理も引き受けました。 ネックレスの修理なら私にも出来ました。 鎖が外れただけなら、ペン先(当時有ったつけペンのペン先)を差し込んで開いてはめます。 鎖の輪が足りなくなっていれば、部品を加えてはめ直します。

3 分で直せるものでも、目の前ですぐはめてしまってはお金がもらえません。 「明日までに直しておきます」と預かります。 部品が足りなくなっている場合はその料金も貰います。 部品は、店にある壊れたネックレスから外して使うのですけれどね。 色と形を合わせて直すので、仕上がりは上々、新品になったと喜ばれたものです。

大鵬が優勝したとき、相撲部屋が店主の家の近くだったので、パレードを見に来るよう招かれたりもしました。 息子さんの日本舞踊のおさらい会にも招かれてご馳走になりました。 店を任されるのは楽しいことでした。

地下鉄ストアは天井の低い地下街で、となりは骨董屋。 他には洋裁店や、ストッキングの修理屋などが有りました。 当時貴重品だった絹のストッキング(ナイロンはまだ出回っていない時代)はとても弱くて、ちょっと引っかいても縦にツーーーッとほどけてしまいます。 そのほどけた部分を一列当たり 10 円で編み直す店があったのです。

当時地下鉄は銀座線(渋谷ー浅草)だけで、やがて丸の内線が出来、地下街は様変わりし始めました。 銀座 4 丁目交差点の真下にあった地下鉄ストアも店舗を全部移転させる事になったのでした。 地下通路を今見ても、何処がどうだったのかまるで分からなくなりました。

ストアが閉店する少し前、お客から保険会社にスカウトされました。 以後会社担当の保険屋のおばちゃんを、数年ずつ子育てをはさんで 2 回、通算 10 年ぐらいやりました。 いまだに四十数年前の保険のお客さん 2 家族と仲良しです。


【結婚したら、まわりにびっくりされて】

30 才過ぎて結婚し、35 歳で娘を初出産。 目黒の保護司さんたちは「あの娘が結婚して子育てするなんて考えられなかった」とびっくりして噂し合ったそうです。 バス時代の見習いさんたちも「びっくりした。 オネエサンが結婚するなんて考えられない。」というのです。

そこまで変人に見えたのかなあ ・・・? 何しろ、男に頼ろうなんて気持ちが全く無い娘でしたからね。 「君を頼りに私は生きる ・・・」という歌が大いっ嫌いでした。 ぞっとするほど嫌いだったのです。

長女は、私に輪をかけて自立心旺盛な子で、24 歳のとき自分の貯金だけ持ってスペインに渡って早 17 年。 今ではあちらで 3 歳の坊やを育てながら、社長秘書をしています。 孫は二重国籍で、目下二つの言語を特訓中です。 一昨年親子三人で来日しましたが、次に来る日が楽しみです。 今年か来年の夏 ・・・

43 歳で生んだ息子も世帯を持ち(孫娘が二人)。 私たち夫婦だけになって、それでも 68 歳まで私は清掃請負の仕事をしました。

七十歳の時、雑誌で通信制中学を発見しました。 一橋中学です。 私はすぐ入学し、スクーリングを一日も休まず、皆勤賞を頂いて卒業しました。 七十代の中学生生活の楽しかったことといったら、本当に幸せでした。 今でも連立方程式が好きです。 来月、母校の卒業式に参列した後、同年代の数人でクラス会をします。

埼玉に引っ越したので高校進学は出来ませんでしたが、移住したこの町で昔語りの語り手になって楽しんでいます。 忙しい忙しいと、今までで一番幸せな時を過ごしている私です。 年金は少なくて暮らし向きはなかなか厳しいのだけれど、まあでも、終わりよければ総て良しと致しましょう。

長々お読みいただいて有難うございました。

∽…∽…∽ 完 ∽…∽…∽

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