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戦争を知らない世代の皆様へ

戦中戦後の子供の暮らし B

【ウエイトレスだった半年間、そして肺結核の半年間】

私には三人の兄が居ました。 病弱な長兄は戦後間もなく亡くなりました。 16 歳上の次兄は満州に出征していましたが、幸運にも済州島に移動して終戦を迎えたため、早く復員できました。 しかし、妻と三人の子供を抱えて母に援助するだけで手一杯。 私がぶら下がるわけには行きません。

下の兄は終戦後、私たちが大空襲で死んだと思いこんで、残留し中国人になりすますつもりでした。 そういう知らせが届きました。 「彼は中国にもぐってしまった」と。 だからもう帰っては来ないと思っていました。

私は就職活動に懸命になり、大会社に入社しました。 あるデパートが、新宿に新規開店するレストランのウエイトレスです。 十数名のウエイトレス仲間は皆小学校高等科卒業生でした。 私は女学校 2 年中退。 それなのに初任給が私だけ少し高かった。

高等科は 2 年制だから私より半年多く学校に居たのに、一年半しか女学校に居なかった私の方が高いのは不思議でした。 高等女学校と、小学校高等科の間には差別が歴然としてあったのです。 ということは高等女学校中退の私と、卒業した人との差別も激しかったわけです。

とにかく学歴を必要としないウエイトレスになって、順調に貯金もしました。 電鉄系の会社なので、無料で通勤定期が貰えました。 開店準備と訓練を経て開業。 ウエイトレスのリーダーは和服を着た中年女性でした。 何故和服だったのか、開店後はどうだったのか忘れましたが、とても優しくて気配りの良い独身女性でした。

お皿を沢山持つ練習もしました。 左手に 10 枚、右手に 2 枚、大皿を乗せて腰でバランスをとって歩くのです。 何故トレーを使わずそんな運び方をしたのでしょうか? 職人芸を見せたいウエイトレス心理だったのかもしれません。 料理を入れた皿は、左に 4 枚右に 2 枚が新米の私たちには限度でした。 いまだに私は左手に 3 皿の料理を持ってしまう癖が有ります。

レストランのメインは喫茶で、パフェやプリンが印象に残っています。 主食は外食券を出さないと買えませんでした。 外食券は、お米の通帳を持って行って、米の配給の範囲内で、発行されました。 外食券を貰うと、米の配給は減るのです。 「海藻麺」は外食券が要りませんでした。 半透明の緑の麺で、だしも美味しくない変な食べ物でした。

3 階に宴会場があって、コース料理が出ました。 ウエイトレスはお客様の後ろに立って気を配りました。 宴会のお客から外食券をとることはしないのに、いつもバタロールが二つずつ出るのでした。 これはヤミ物資です。

飢えに縁のない人たちの会合だから、残り物が沢山でました。 ビールのあまりは、カウンターの男の子に目配せして飲ませました。 バタロールはウエイトレス達のポケットを膨らませました。 手付かずのフライなどは、こっそりつまみ食い。 宴会があると嬉しかったのです。

定休日ごとに先輩からデートに誘われました。 ところが 15 歳の私には恋心なんてまるでわかっていませんでした。 22 歳のお兄ちゃんと、世田谷の九品仏のお池(トットちゃんの本に出てくるあそこです)でボートに乗って、夕方になるとさっさと家に帰りました。

逗子の海に連れて行ってもらったときは、海の家のおじさんから「お兄さんと一緒で良いよ」と男の更衣室に行けといわれて、二人でどぎまぎしました。 もちろん断って女子の方に行きましたが。 それ程、私は幼く見えたのです。 やせっぽちの小さな体つきに、ぽっちゃりしたまん丸の顔。 どう見ても子供でした。

彼も私があまりにも幼いので、キスする事も出来ないでいました。 良いとこのじょうちゃん風で、言う事だけやたら理屈っぽい。 「ヘンな子だね」といつも言われました。

勤めて半年が過ぎたある日、家の近くで、左胸に横から野球のボールが当たりました。 翌日になって痛みが激しくなり、外科は無いので、かかりつけの内科に行ったら、左の肋膜炎だといわれ、長い休養が必要になりました。

私はボールが当たった為に肋膜炎になったと恨みましたが、最近のお医者さんが言うには、「両肺に結核をやった跡がある。 ボールが当たって医者に行った為に、初期の結核を発見されて、早く治ったのでしょう。」とのことでした。

病気で会社を辞める必要はなかったのに、世間知らずの私はさっさと辞めてしまいました。 (やめさえしなければ、その後の 4 年間の、とんでもなく厄介な暮らしはなくて済んだ筈なのですが) デートの彼から手紙が来ても、もう会いませんでした。

半年間毎日のように注射に通いました。 筋肉注射を続けたので、いまだに腕の筋肉が凹んでいます。 しっかり溜めていた貯金がからっぽになったとき、病気は治りました。 しかし仕事がありません。 就職活動は失敗続き、女学校中退で、病気で半年のブランク。 何処の会社も雇ってくれないのでした。


【女中奉公もハウスメイドも勤まらなくて】

私が病気した頃には下の兄も、中国のインフレでお金がなくなり、中国人になりすませられなくなって、日本に引き揚げていました。 焼かれたと思った家も家族も無事で、大変驚いていました。

兄がもう一つびっくりしたことは、特務機関時代の高額な給料を、6 年間内地に貯金していたのに、総て、母と私の口に入ってしまっていたことでした。 お金が全くなくなったときに帰ってきたのです。

兄は中国に残留していた間、中国軍の手伝いをしていたので、その給料を中華民国代表部に貰いに行って、そこの住み込み運転手になりました。 だから私がなかなか就職できなくても、何とかなりましたが、私自身は自立をあせっていたのです。

小さな新聞広告を握り締めて、誰にも相談せず横浜の日吉まで行った事があります。 その紙片には「女中求む」とありました。 女中とは住み込みのお手伝いさんのことです。 住み込み食事つきで働きたいと思いました。 家にいても食事を確保するのが大変でしたから。

その家は高台のお屋敷で、いかにも成金趣味の豪邸でした。 勝手口から台所に上がると、女中頭らしきおばさんが出てきて、「貴女が? お仕事なさるの?」なんとも不思議そうに私をじろじろ見て、直ちに断られました。 彼女の観察眼は確かでした。 「こんなねんねの嬢ちゃん、使いものにならん。」 女中さんなんて、私に勤まる仕事では有りませんでした。

その話をしたら、兄が「中国の銀行家が身元の確かなメイドを探しているけど、やってみるか」というので、行って見ました。 当時は住宅難で、売り家も貸家もなかったので、日本の銀行家が自宅の二階を提供していました。

ご主人が一人先に赴任して来て、台所用品から何から買い揃えました。 会話はご主人の片言と、筆談と手振りと、私の描く絵で間に合いました。 蒸し器もヤカンも絵で通じました。 毎朝必ず白いお粥を炊いて、沢庵の炒め煮などを作りました。 昼食、夕食を作る必要はありませんでした。

数ヶ月は困ることなく過ぎましたが、やがて奥さんと 1 歳半の坊やカンカンちゃんが到着。 ご夫婦は頻繁に深夜までのパーティーに出かけるようになりました。 カンカンちゃんは、言葉も解らないおねえちゃんに預けられて半狂乱、眠るどころでは有りません。 泣き喚き続けるので、階下の家主さんが困り果てて、ベテランのメイドさんを紹介しました。 そこで私は一か月分の給料を余分に頂いてクビになったのです。

5 年後くらいに、私が車掌で乗務していたバスに、この銀行家と大きくなったカンカン君が乗りました。 丁寧に挨拶され、お互いに嬉しい再会になりました。 張り切ってバスガールをやっている私を見てもらえたし、とにかくステキな再会でした。


【ニセ学生になってアルバイト】

ハウスメイドをクビになってから、色々な仕事にチャレンジしても、全部駄目でした。 兄も中華民国代表部のドライバーのリーダー役があまりの激務なので疲れ果てて辞めていました。 兄はその頃ヤミの魚屋を手伝っていました。 二人で小船を出して船橋沖で、入港前の漁船から魚を買い付けてヤミ市で売るのです。

漁船は港に入ると、公定価格で魚を売らなければなりません。 インフレは毎日進むのに、国の決めた公定価格は一定です。

だから沖でヤミ屋に一部を売るのです。 ヤミ屋は秋刀魚などを大量に仕入れてどこかにそっと上陸し、売りさばきます。 品物さえあれば闇値でどんどん売れるのです。 物資は闇に流れ、公定価格の品が少ないから、公定価格の配給はほんのわずかしか消費者に届かなかったわけです。

しかし、兄たちのヤミ舟は遭難してしまいます。 エンジン故障で船橋から横浜三渓園沖まで流されて座礁、舟は壊れ積荷は腐ってしまいました。 二人は命からがら岸に上がったのです。 私がこの話を初めて聞いたのはつい最近の事でした。

昭和 23 年の 11 月、たまに帰宅する兄が、「江戸川の方で、学生にノート売りをさせている人が居る。 やってみないか?」と私に言いました。 すぐ行って、学生でもないのに、仲間に入れてもらいました。

でも、この「再建学生連盟」なる組織はいいかげんなものでした。 飲んだくれの親父さんが、利益を求めて始めたようです。 資本を投じて学生を援助するのだと威張っていましたが、商売の知恵が全く回らないのでした。 交通費をかけて本部に行っても商品が品切れで、仕事にならない日が何度もありました。

ノートのほかにはさらし飴を仕入れただけで、もっと売れる商品をといくら言っても聞き入れません。 資金が無かったのでしょう。 酔っ払っては「もっと働け」とお説教ばかりするおじさんは、学生達に全く人気が有りませんでした。 都内には幾つもの学生連盟があって、しっかり活動している組織では、ノートの卸値がもっと安かったのです。 でも学生証を持たない私は、よその連盟に鞍替えするわけには行きませんでした。

連盟本部で、ノートや飴を仕入れたら、バスで新小岩に出ます。 タバコ屋に預けてある折りたたみ式の台を持って、何処かの駅に行き、交番に断って、小さな台の上に商品を広げ、メガホンで叫んで売るのですが、場所次第で儲かったり、交通費ばかりかかって赤字だったりしました。

私はいつも一人で出るようになっていましたが、ある日ベテランの男子と一緒に行きなさいと言われました。 初めて組んだ二人は蕨に出ましたが、労働争議のデモの騒音で全く売れず、川口も駄目で日が暮れました。 「上野に行きましょう。 良い場所がある。」と彼。 京成上野駅の真向かいに、みかん売りのおじさんと並びました。 「あなた一人のほうが良く売れますから。」 彼は遊びに行ってしまい、私一人で沢山売りました。

真冬の夜の上野には、パンパンガールだけでなく、和服姿のオカマさんたちが居て、もうびっくりでした。 9 時半過ぎ彼が戻ってきて、儲けを折半し、連盟へ戻っての清算は全部引き受けてくれました。

私はいつもより多い儲けを手にして手ぶらで真っ直ぐ家に帰る事が出来たのです。 いつもなら残りを担いで連盟に戻って清算して、終バスに乗り遅れると、寒風吹きすさぶ小松川橋を歩いて渡って、都電で錦糸町に出てから帰るので、家には 11 時過ぎにつくのでしたが、この夜は楽でした。

そのうちに仲間の東洋大生が「傷物の鏡を売らせてくれるところがあるんだけど」とそっと教えてくれました。 さっそく紹介してもらうと、リュックいっぱい鏡を貸して頂けました。 輸出できない傷物で、ガラスは青いし、表面は凸凹、歪んで写ったりする鏡。 しかしそんな粗悪品しかない時代で、デパートにもそんな商品が高値で出ていました。

少しぐらい傷があってもデパートよりはるかに安いので良く売れました。 戦災に遭った人は鏡など持っていませんでしたから。

立川で仕入れたリュックいっぱいの鏡を背負って、台が無いから家の棚板をはずして持って行きます。 自由が丘などの駅前で、宝くじ売りのおばさんなどに荷物を見ていてもらい、交番に断りに行って、果物屋でりんご箱を 3 個貸してもらいます。 箱に棚板を渡して、模造紙にクレヨンで書いた看板を下げ、鏡を並べます。 その並べ方で、駅の事務所に反射して、「まぶしくて仕事が出来ないから向きを変えなさい」と叱られたりしました。

私には当面 4 千円貯める必要が有りました。 編み機を買って、習いに通って編み物で自立しようと思ったからです。


【繰り返した挫折】

鏡売りで儲けたお金で、初期の編み物機を買って、習いに通いました。 昭和 24 年春でした。 ごく初期の編み機で、「矢」と言う 60 センチぐらいの竹の棒を、シャーッシャーッと差し込んで編む、メリヤス編みしか出来ない機械です。 模様編みは、いちいち針から外して、そこだけ編み直すと言う厄介な機械でした。

鏡売りで作ったお金は、機械代と初級クラスの授業料だけでした。 上級クラスに進級できないので仕事を回してもらえませんでした。 何年も経たないうちに、そんな初期の編み機はガラクタになってしまいました。 高速編み物機の進歩は目覚しかったのです。

編み物の夢破れたとき、洋裁店のお針子になりました。 三十代の先生(独身の女性)が一人で経営している小さなお店で、お針子は 18 歳の私たち二人でした。 当時のスタイルは 4 枚接ぎのフレアースカートで、ウエストの細いワンピースを沢山縫いました。 既製服の無い時代で、お客さんは生地を買ってきて洋裁店に仕立を頼むのが普通だったのです。

昭和 25 年、朝鮮戦争が勃発しました。 戦争は共産軍に朝鮮半島をひとなめにされたと思ったら、国連軍も反撃しソウルは何度も占領されたり奪回したりを繰り返しました。 一説では住民を含めて 400 万人の犠牲者が出たという大変な戦争でした。 米軍の苦戦が伝えられ、在日米軍からも、どんどん兵隊が送られてゆきました。

洋裁店の前の大通りを、戦車が轟々と通って行きます。 トラックに乗った兵隊さんもどっさり朝鮮に向かいました。 先生も私たちも「かわいそうに」と同情していました。 米兵に手を振ったことなど無いけれど、朝鮮戦争に行かされる兵隊さんには、三人で手を振りました。 彼らも喜んで手を振ってくれましたが、悲しそうに見えたものです。

「生きて帰りなさいよー」と私たちは祈る気持ちでした。 洋裁店の先生は、ご主人か恋人を戦争で失ったのかもしれないなと思ったものでした。

洋裁の知識は何もなかった私が、このお店で少しだけ覚えたおかげで、後に型紙を買って自分や子供の服を作ることが出来ました。 女同士のおしゃべりも楽しかったけれど、お針子の給料では暮らしが立ちませんでした。 結局、お金が足りない悲しさで、26 年春には辞めました。

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