「わたしいま幸せです!」 職失った技能実習生が活躍!
日本で働く外国人技能実習生にも大きな影響を与えている新型コロナウイルス。 私はその影響で仕事を解雇されるなどして、行き場を失う外国人技能実習生が増えているという話を、さまざまな取材先から聞いていました。 そんな中、「一度は仕事を失った実習生が活躍している場所がある」と知り合いから教えてもらい、さっそく行ってみることにしました。 (青森放送局記者 細川高頌)
向かったのは、青森県の南部町。 岩手県との県境に近い約 3 ヘクタールの農園にあるミニトマトの農業用ハウスで出迎えてくれたのは、明るい笑顔が印象的な女性、ニシャさん (25) です。 ニシャさんはこの農園で、ミニトマトやねぎなどの野菜、そしてサクランボやぶどうなどの果物の栽培に携わっています。 働き始めてまだ半年ほどだということですが、休憩時間になると一緒に働いている人たちと机を囲んで談笑し、すっかり溶け込んでいる様子です。
ニシャさんが生まれ育ったのは、南部町から 7,000 キロほど離れたインド洋の島国スリランカです。 幼いころから日本のアニメや食文化に興味があったというニシャさん。 日本で暮らしてみたいという思いから、3 年前、技能実習生として来日しました。 同じくスリランカから来た 20 代と 30 代の女性と 3 人で、青森県外の漬物を作る会社で働いていました。 仕事にも慣れてきて、充実した生活を送っていたといいますが、新型コロナの感染拡大が 3 人の生活を一変させます。
会社の業績が悪化して倒産し、3人とも仕事を失ってしまったのです。 「突然、仕事がなくなったからびっくりしました。 とても不安だった。」 国のまとめでは、新型コロナの影響で勤め先を解雇されるなどして仕事を続けられなくなった外国人技能実習生は、ことし 7 月の時点でのべ約 5,600 人。 再び働きたくても受け入れ先が見つかっていない人もいます。
技能実習生に活躍の場を! 農家の挑戦
"なんとかして日本で実習を続けたい。" 思いを酌んで、3 人を受け入れた監理団体も新たな就職先を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。 そんなニシャさんたちの苦境を人づてに聞いて手を上げたのが南部町の農家でした。 3 人を受け入れたのは、町内で野菜や果物を栽培する 3 軒の農家。 ニシャさんは大規模農園を経営している沼畑俊吉さんのもとで働くことになりました。 沼畑さんは、とにかく困っている人を助けたい一心で受け入れを決めたといいます。
「これまで外国人技能実習生を受け入れたことはなく、近い将来も受け入れは考えてはいませんでした。 しかしコロナ禍で困ってる人たちがいるという話を聞き、農家の仲間 2 人と、それぞれ 1 人ずつ受け入れることを決めました。」 沼畑さんは以前から、若い人にも農業に興味を持ってもらいたいと考えていましたが、なかなかそのきっかけがありませんでした。 今回、思わぬ形でニシャさんという若い働き手が来てくれたことを、今では心強く思っているといいます。
取材にうかがったときには、ニシャさんは、沼畑さんから教わった熟した実の見分け方などを確認しながら、ミニトマトを一つ一つ丁寧に収穫していました。 「ニシャさんの働きぶりは申し分ないです。 真面目に農業に取り組む姿には、私だけでなく一緒に働いている人たちにとっても励みになっています。」
初めての受け入れ 町がサポート
ただ …。 沼畑さんにとって外国人技能実習生の受け入れは初めてのことで、当初はわからないことだらけ。 思いつく限り、いろんな人に相談をします。 そんな沼畑さんに支援の手を差し伸べたのが南部町の交流推進課でした。 高齢化が進む南部町では、2030 年には、65 歳以上の高齢者の人口が、15 歳から 64 歳までの生産年齢人口を上回ると推計されています。 町は不足する働き手を補おうと、外国人を受け入れる企業などの支援に乗り出していたのです。
「労働力不足がさまざまな分野で顕在化してきている。 町内の事業者から支援についての相談などがあった場合はできるだけ支援していきたい。」 町はすぐさまニシャさんたちの住まいについて支援を始めます。 当初、3 人で暮らす家がなかなか見つからなかったため、条件に合う家が見つかるまでの間、移住促進のために町が整備した住宅を無償で貸し出したのです。
町が貸し出した住宅
3 人が移住促進住宅から農園に通って働く間、沼畑さんたちは家探しを続けました。 約 3 か月後、条件に合った家が町内で見つかりました。 5DK の平屋で、3 人が一緒に暮らせます。 昼食の時間にお邪魔すると、3 人で手分けをしながら手際よく料理を作っていました。 台所にある食材の多くが、3 人を受け入れている農家や近所の人たちからのおすそ分けなのだとか。
地域の行事に誘ってもらったり、災害があった際には様子を見に来てくれたりと、地域の人たちの助けも、南部町での生活の支えになっているといいます。 そして、いま南部町が力を入れているのが、外国人技能実習生などを対象にした日本語教室です。 できるだけ不安なく生活してもらおうと日常生活で使う言葉や、漢字の書き方などを月に 2 回ほど教えています。 日本の文化にも親しんでもらおうと習字にも取り組んでいます。
ニシャさんたち 3 人も挑戦!
「愛」や「助」など思い思いの漢字を書いていきます。 ニシャさんが選んだのは意外な字でした。 その漢字は「葱(ねぎ)」です。 農園で栽培されるネギの管理もしているニシャさん。 この字を選んだ理由について「南部町で作られている有名な野菜だから」と発表していました。 「南部町のいろんな人に助けてもらって、楽しく農業ができている。 わたしはいま幸せです!」 そう話すニシャさんの南部町への愛着を感じました。
"さらに多くの外国人を受け入れたい"
こうしてニシャさんたちを支えている南部町は今後、さらに多くの外国人の働き手を受け入れていきたいとしています。 ニシャさんは、南部町に来てから夢ができたといいます。 それはふるさとスリランカで「しゃぶしゃぶ店」を開くこと。 ニシャさんのふるさとでは、新鮮な野菜を食べる機会がほとんどないそうです。 家族やふるさとの人たちに、新鮮な野菜を使ったしゃぶしゃぶを食べてもらいたい。
スリランカで、南部町で作られるようなおいしい野菜を栽培するため、ニシャさんは土作りから収穫まで 1 人でできるよう、沼畑さんからアドバイスを受けながら実習を続けています。
取材を終えて
外国での生活という不安のうえに、仕事まで失ってしまう。 ある意味で "弱い立場" の外国人技能実習生には、新型コロナが深刻な影響を及ぼしているのだと改めて実感しました。 一方で南部町では、そうした実習生を農家が受け入れ働き手となり、行政も含めた "地域ぐるみ" でサポートしていました。 私は、ニシャさんの笑顔を思い出すたび、その活躍が、高齢化と人口減少が進む地方で外国人との共生を進めるうえでのヒントになるのではないかと考えるようになっています。 (NHK = 10-13-21)
コンテナで命を落とした 26 歳ベトナム人女性 「なぜ」の答えを探しに故郷に向かった
あるベトナム女性の夢
小学校の卒業文集で、私は「学校の先生になりたい」と書いた。 6 年生の社会の授業で歴史のこぼれ話をしてくれる担任の先生が好きだったからだ。 生まれた国がどこであれ、誰もが将来に夢を抱く。 日本での技能実習を終えて一昨年 6 月にベトナムに帰国したファム・ティ・チャー・ミーさんにも夢があった。 化粧品の店を開きたい - -。 家族にも話したことのない思いを、彼女は日本語でしたためていた。 しかし、帰国から 4 カ月後、英国に密入国するために身を隠したコンテナの中で命を落とした。 26 歳だった。 なぜ危険を冒してまで行ったのか。 答えを知りたくて、彼女の故郷に向かった。
■ 作文で初めて知った娘の夢
ハノイから車で 6 時間。 陽光を受けて青々と輝く水田が道路沿いに広がっていた。 チャー・ミーさんの実家があるベトナム中部ハティン省の町ゲン。 父親のティンさん (56) がバイクで近くまで迎えに来てくれた。 チャー・ミーさんの両親を訪ねるに当たって、私には 2 人に渡したいものがあった。 彼女が神奈川県相模原市の食品工場で技能実習を始める時に書いた作文だ。 会社からの課題として自己紹介を兼ねて提出していた。 英国の事件の約 1 カ月後、チャー・ミーさんのことが知りたくて会社を訪ねた私に、日本の生活をサポートした総務課長の佐藤友教さん (36) が託してくれた。
英国の事件の概要 : 英国ロンドン東のエセックス州グレーズで 2019 年 10 月 23 日未明、トラックの貨物コンテナの中から 15 歳から 44 歳のベトナム人の男女 39 人の遺体が見つかった。 コンテナは密閉されたままベルギー北部から英国東部の港に運ばれた。 中にいた 39 人はいずれも酸欠と熱中症で死亡した。 今年 1 月には英国で、密入国を組織した北アイルランドやイングランド出身の男ら 7 人に対して禁錮刑の判決が下った。 ベトナム側でもブローカーとして英国行きを募った男らに有罪判決が出ている。
英国国家犯罪対策庁によると、コンテナの中に隠れた密航は不法入国に最もよく使われる手段の一つとされる。 英国やドイツ、イタリアなどでは事件後も中東やアジア、アフリカからの移民がトラックのコンテナから見つかっている。
彼女は会社が迎えた実習生の 2 期生で、コンビニ向けの総菜調理を担当していた。 同僚と一緒に素材を下処理するだけでなく、1 人で機械を操作して 200 キロ分のパスタソースを作ることもあった。 「人なつっこくて自分から声をかけてくる。 仕事ができるからいつも頼りにされていた。」 佐藤さんは彼女との思い出をそんな風に振り返った。
ベトナムに戻る 4 日前の送別会で、隣に座った彼女から「帰るのは寂しい。 もっと日本にいたい。」と打ち明けられた。 初めて聞く言葉に「信頼されていたんだ」とうれしくなった。 「大切な 20 代に家族と離れて日本に来る。 その覚悟に見合ったものを持って帰って欲しかった。 帰国しても、やっぱりつながりや思い入れを感じる。」 職場の人たちの信頼や親しみがこもった言葉と、チャー・ミーさん自身が書き残した作文は、彼女が日本で生きた証しだった。 ベトナムへの赴任がすでに決まっていた私は、故郷の家族にそれを届けたいと思った。
「私の夢」。 400 字詰め原稿用紙 2 枚の作文は、日本語を学び始めて 1 年にもならない人が書いたとは思えない、きれいな字でつづられていた。 語彙が限られる外国語だったからこそ、素直な気持ちを言葉にできたのかもしれない。
私の夢は化粧品の店を開くことです。 私が生まれた所は化粧品屋があまりありません。 私はベトナムの女の人にもっときれいになって欲しいです。 女の人はきれいなとき幸せになるとおもいます。 だからそういう店を開きたいとおもいました。 (チャー・ミーさんの作文から)
営業時間や扱いたい商品も書かれている。 資生堂やコーセーのファンデーション、口べに、保湿クリーム …。 具体的な説明に思い入れを感じた。 作文と一緒に描かれた店のイラストも印象的で、ハノイやホーチミンの街角で間口の狭い小さな化粧品店を見かけるたびに、彼女がどんな気持ちで日本や英国に行ったのか想像させられた。
父親のティンさんが案内してくれた家は、平屋建てで壁の一部が崩れていた。 昨秋の台風による被害で壊れたままだという。 右隣には 3 階建ての立派な家があり、意識せずとも違いが目に付いた。 家では、母親のフォンさん (62) がお茶を入れて迎えてくれた。 ベトナム語に翻訳した作文を手渡すと、2 人はその場で文章に目を落とした。「今初めて娘の夢を知った。」 涙をこらえてせき込むティンさんの隣で、フォンさんはそう言って文章がつづられた A4 の紙を強く抱きしめた。 「でも彼女のためにもう何もしてあげられない。」 母親が絞り出した後悔の言葉に、胸が痛んだ。
技能実習には、3 年間の期限を終えて帰国した後、本人と実習先の企業が互いに希望すれば、2 年延長できる仕組みがある。 チャー・ミーさんは佐藤さんや職場の同僚たちにその仕組みで戻ってくる考えを伝えていた。 それなのに、彼女が向かったのは日本ではなく英国だった。
「ごめんなさい、失敗でした。」 日本より稼げるとイギリスへ密航、悲劇は起きた
日本での技能実習を終えて一昨年 6 月にベトナムに帰国したファム・ティ・チャー・ミーさんは、家族の反対を押し切って 4 カ月後、今度は英国で働こうと密入国を試み、身を隠したコンテナの中で命を落とした。 なぜ英国だったのか。 ベトナムの家族が明かした理由とは。
両親によると、2019 年 10 月 3 日午前、チャー・ミーさんは自宅近くのバス停から家族に見送られて、ハノイ行きの長距離バスに乗った。 翌日昼には、父親のティンさんのスマートフォンにメッセージが届いた。 「車で中国に向かっています。 他にもベトナム人が乗っているから心配しないで。 無事に到着したら知らせるから、電話しないでください。(チャー・ミーさんから父ティンさんへのメッセージ)」
彼女はハノイで数時間休んでから中国に移動し、そこで 10 日間滞在した。 具体的な滞在場所は言わず、宿泊先は快適だとだけ伝えてきたという。 その間に偽造した中国のパスポートをブローカーから受け取り、空路でフランスに向かった。 ティンさんによると、17 日ごろには、フランス側のブローカーの手配で英国への最初の密航を試みた。 この時はコンテナの中には隠れずに乗用車で移動しており、入国後間もなく警察に捕まって、フランスに送り返されたという。
悲劇は 2 度目の密航で起きた。 英国の警察当局や現地での報道によると、チャー・ミーさんは 22 日午前、フランス北部の町ビエルヌで他のベトナム人 38 人とトラックのコンテナに乗り込んだ。 密閉されたコンテナはベルギーのブリュージュの港から船で 8 時間かけて英国に運ばれた。 中から遺体が見つかったのは 23 日午前 1 時 40 分ごろ。 密航を手配したグループのリーダー格で、北アイルランド出身の男がトラックの運転手に酸欠の危険を知らせ、空気を吸わせるように指示した。 しかし、コンテナの扉を開けた時には、すでに全員が死亡していた。
死因は酸欠と熱中症だった。 狭い空間に大勢の人が詰め込まれて内部の酸素が不足し、温度が上昇したせいだ。 現場付近の防犯カメラには、運転手の男がコンテナの扉を開けた瞬間に、中にこもっていた熱気による湯気が出ていく様子が映っていたという。 所持していたパスポートから、当初は全員が中国人だと考えられた。 ベトナム人だと判明したのは、チャー・ミーさんがコンテナの中から母親に SNS で送った最後のメッセージがきっかけだった。 送信は 22 日午後 10 時半ごろ、まだ海の上にいた時間だった。
お母さん、ごめんなさい。 私の渡航は失敗です。 お父さん、お母さん、心から愛している。 息ができなくて死にそう。(チャー・ミーさんから母フォンさんへのメッセージ)
フォンさんは今も、そのメッセージを消せないでいる。
「日本で待ってくれている人たちに申し訳ないと思っていた。」 日本の会社の同僚たちがチャー・ミーさんの死を心から悲しんでいたと伝えると、母親のフォンさんは日本ではなく英国に行くと決めた時の娘の気持ちを振り返った。 チャー・ミーさんの代わりに、再会を楽しみにしていた日本の人たちに謝りたいとも言った。 チャー・ミーさんは 10 歳のころから、働いている両親の代わりに家事を引き受けてきた。 日本での技能実習を考え始めたのは専門学校で会計を学んでいたころ。 自立することを望み、卒業しても就職先がないことに悩んだ末だった。 いったん大学に進学したが中退し、経済的に家族を助けられる日本行きを決心した。
英国への密航も、困難に陥った家族を自分の力で救うのが目的だった。 日本での 3 年間では、農村部の平均月収の数倍にあたる 5 万円から 10 万円を家族に毎月仕送りした。 しかし、日本に行くために借りた資金の返済や、古くなった家の修理に使うと、お金は大して残らなかった。 それどころか、自営のタクシー運転手として働くために父親名義のローンで買った弟の車が事故で全焼し、家族は当時 100 万円を超える借金を背負った。
市場で雑貨店を営んでいるフォンさんの月収は 3 万円程度。 父親のティンさんは工事現場や飲食店、港湾で働いてきたが、ここ数年は病気でそれもままならなくなっていた。 今は目を患っており、手術を待っている。 両親は当初、チャー・ミーさんが再び外国に行くことに強く反対した。 だが彼女はうんとは言わなかった。 家の負債を返済するために海外に再び出稼ぎに行くと決めていた。 日本にもう一度行っても、次は滞在期間が 2 年と短くなる。 技能実習生として働くだけでは、家族の経済的な困難を好転させられる希望を見いだせなかった。
そんな時、英国にいる友人や現地で働いたことのある知り合いから、英国行きを勧められたという。 不法滞在でも、ベトナム人女性ならネイルサロンで簡単に仕事が見つかる。 捕まらない限り滞在期限はなく、年収も 300 万円前後で日本より高い …。 困窮から抜け出せなくなった両親を目の前にして、チャー・ミーさんは日本ではなく英国を選んだ。
フェイスブックやベトナム人向けの SNS で検索すれば、欧州への出稼ぎ希望者を募る広告はすぐに見つかる。 ブローカーがチャー・ミーさんに提示した渡航経路には、山の中の中国との国境を自力で歩いて越える「草の根ルート」と、車や飛行機での移動が保証された「VIP ルート」があった。
彼女は父親と相談して体力的に負担が軽く、より安全だとされる VIP ルートを選んだ。ただし、計画が固まっているのはフランスまで。 英国への入国は現地に着いてから決まると言われた。 フランスまでの費用 2 万 2,000 米ドル(約 240 万円)とは別に、英国入国の時点で成功報酬を追加で払う約束だった。 費用は、両親が家や土地を担保に銀行から借りて工面した。
「この町から英国に出稼ぎに行った人はみんな無事に入国していた。 危険があるなんて想像もせず、とにかく渡航費用を用意することだけ考えた。 1% でも危ないと分かっていたら絶対に行かせなかった。」 ティンさんはそう悔やんだ。 チャー・ミーさんがバスで旅立った時、家族全員が将来への希望を抱けることに喜んだ。 今は事故で失った車のローンに加えて、渡航費用の借金がのしかかる。 フォンさんは「利子を払うのも苦しい。 娘を亡くし、負債だけが残った。」と泣いた。
仕送りで建つ豪邸、ベトナム「億万長者の町」 借金とリスク、それでも出稼ぎを夢見る
日本での技能実習を終えて一昨年 6 月にベトナムに帰国したファム・ティ・チャー・ミーさんは、家族の反対を押し切って 4 カ月後、今度は英国で働こうと密入国を試み、身を隠したコンテナの中で命を落とした。 同じコンテナで亡くなった人がいたというベトナムの農村の町に向かうと、そこには豪邸が立ち並んだ光景があった。 チャー・ミーさん自身も、英国までの旅がどれだけ危険なものか分かっていなかったのかもしれない。
トラックのコンテナに隠れた密航は、英国だけでなく欧米の先進国ではありふれた事件だ。チャー・ミーさんが亡くなった後も、英国ではコンテナに隠れていた不法移民が何人も逮捕されている。同じ類いの事件はドイツや米国でも報道されているが、命まで落とすケースを目にすることは少ない。ましてや入国の「成功事例」はニュースにならず、「自分は大丈夫」と思えるのかもしれない。
私は、チャー・ミーさんとともに同じコンテナで亡くなった人がいたというゲアン省ドータインへ向かった。 彼女の家から車で北へ約 2 時間の農村地帯にある町だ。 幹線道路から住宅地への通りに入ると、田畑が広がっていた目の前の風景は一変した。 装飾を凝らした立派な門と塀に囲われた 2 階や 3 階建ての邸宅が連なっている。 ハノイやホーチミンでも見たことがないような屋敷もあった。
この辺りは「億万長者の町」とも呼ばれている。 かつては貧しい農村だったが、2000 年ごろから出稼ぎに行く人が増え、大きな家が建ち始めたという。 欧州に出稼ぎに行ったことのある人を探し歩いていると、グエン・スアン・フオンさん (38) という男性に出会った。 親類が 10 年前からドイツに出稼ぎに行っており、ここ数年は欧州や日本、韓国、アフリカ南西部のアンゴラに行く知り合いが目立つという。
「日本と韓国は合法的な制度であらかじめ働く会社が決まっているから安心だ。 収入も比較的高い。 欧州とアンゴラは稼げるけど、大半が不法入国で仕事は選べないリスクがある。 コロナが収まれば、私は韓国に行くつもりだ。」
行き先ごとによどみなく収入とリスクをてんびんにかける説明に驚いた。 どこに行くかを選ぶ上で、合法的な制度かどうかはあまり重要ではないようだった。 チャー・ミーさんたち 39 人が命を落とした英国の事件に何か思うところはないのか。 彼はこう答えた。
「事件直後は怖がっている人も多かったけど、時間が経つにつれて印象が薄れている。 コロナが収まれば、欧州に行く人は以前と変わらないと思う。」
地域は異なるが、国連開発計画 (UNDP) が 18 年に欧州に渡ったアフリカからの不法移民 3,000 人を対象に実施した調査がある。 そこでは、9 割が渡航のさなかに危険な目に遭ったと答えた。 しかし、あらかじめ道のりがどれほど危険かを知っていれば渡航をやめたと答えたのは 2% だった。
ベトナムの経済発展と海外労働者派遣
ベトナムは 2019 年までの 5 年間、年平均 7% 近い国内総生産 (GDP) の成長を実現した。 製造業の工場など北部と南部に外国企業の投資が集中し、大都市では富裕層が現れている。 だが、農業が中心の中部は発展が遅れ、政府は失業対策や経済対策の面から海外への出稼ぎを奨励してきた。 16 年の統計によると、ハティン省とドータインがあるゲアン省からの海外出稼ぎ労働者は合計約 2 万 7,000 人。 63 ある省と市のうち、この 2 省で海外派遣労働者全体の 5 分の 1 を超える。 英国の事件では、亡くなった 39 人のうち 31 人が両省の出身だった。
日本は昨年まで 3 年連続最多の派遣先で、コロナ前の 19 年には全体の半数を超える約 8 万人が日本向けの労働者だった。 欧州への不法入国者は、17 年の国連の推計によると年間 1 万 8,000 人。 2 番目の労働者派遣先の台湾に次いで多い。 世界銀行によると、20 年に海外のベトナム人が自国に送金した金額は約 170 億米ドル(約 1 兆 8,500 億円)で GDP の 5% を占める。 東アジア太平洋地域では中国とフィリピンに次いで 3 番目に多い額だった。
ベトナムでは今、ハノイとホーチミンを中心に北部と南部が急速に発展する一方、中部は目立った産業がなく取り残されている。 コネがなければ、都会に出ても良い仕事に就くのは難しい。 自分には変えようがない厳しい現実のせいで、今いる場所に未来を見いだせなければ、外国に働きに行くことが人生を変えるための有力な選択肢になる。
道を尋ねるために、ドータインの路上でココナツを売っていた女性に声を掛けた。 ゴー・ティ・チュン (38) と名乗った彼女が突然、思いもかけない言葉を口にした。 「私はこの町で一番貧しい人間です。」 夫は薬物の使用で 3 年前から服役しており、子ども 3 人を一人で育てている。 毎朝午前 3 時に起きて果物の仕入れに出かける。 路上販売を終えてからは収入の足しにするため、知り合いの畑で農作業を手伝う。 仕事や家事を終えて眠るころには午後 11 時を過ぎる。 その表情は、過酷な毎日に疲れ切っているようだった。
「周りで良い暮らしをしているのは、英国やドイツ、カナダに働きに出た家族がお金を送ってきてくれる人たち。 私は子どもを外国に出稼ぎに行かせるお金さえ用意できない。」 チュンさんにとって、日本の技能実習だけが希望の光だ。 16 歳の長男と 13 歳の長女には学校を終えたら日本に行ってほしいと願う。 欧州や北米に行かせる資金は用意できないが、日本なら地元の行政の貧困対策として渡航費を借りられる制度があると聞いたという。
話している最中に長女のニャンさんが学校から帰ってきた。 私を見つめる彼女に思わず、「将来の夢は何ですか?」と聞いた。 「日本に働きに行って、お母さんを助けてあげたい。」 そう答えるニャンさんに、チュンさんも「私の夢は子どもたちが日本で働いて貧困から抜け出してくれることです」と言葉を継いだ。 日本に行くという彼女たちの夢が実現するのを願った方がいいのか、私には正直分からなかった。
法律に基づいて制度化された技能実習と、不法な入国と就労を前提にした英国行きは本来、まったく別物のはずだ。 しかし、ベトナムの海外労働者派遣に詳しい日本の関係者は以前、私にこう漏らした。 「英国に密航して働くことと、技能実習には共通点がある。」 どちらの国でも、働きにきた多くのベトナム人たちが、渡航や就職の仲介手数料をブローカーや人材派遣会社に支払うために高額の借金を背負っている。 海を渡った異国でマイナスからのスタートを強いられる構図が同じなのだ。 その借金が足かせになり、日本では劣悪な労働環境に我慢を強いられたり、英国では大麻栽培など違法な仕事に追い込まれたりする事例が後を絶たない。
人生を賭けてやって来る外国人労働者たち 覚悟が必要なのは私たちの方だ
日本での技能実習を終えて一昨年 6 月にベトナムに帰国したファム・ティ・チャー・ミーさんは、家族の反対を押し切って 4 カ月後、今度は英国で働こうと密入国を試み、身を隠したコンテナの中で命を落とした。 コロナ禍で明らかになったのは、エッセンシャルワーカーとして現場で働く外国人が先進国にとって不可欠だという現実だ。 そして彼らは彼ら自身の夢も携えてやって来る。 私たちはそんな彼らにどう応えるのか。
5 月 16 日、ホーチミンに 1 軒の日本茶カフェがオープンした。 名前は日本語の「ハス茶」。 目立たない路地奥で客席もほとんどない、デリバリーを中心に営業する小さな店だ。 オーナーのグエン・ティ・トゥエット・スオンさん (26) は、17 年 6 月まで北海道根室市の水産加工会社で技能実習生として 3 年間働いていた。 先に日本に働きに行った 6 歳年上の姉に触発され、自分も日本が好きになった。 高校卒業後にホーチミンの日本語学校で 1 年間学んだ後、実習生として日本に渡った。
「家族のお金を使って大学で 4 年間勉強しても、卒業したら仕事がないかもしれない。 好きになった日本に行くことは、私にとってチャンスだと思えた。」 工場では同じ世代の「カオルちゃん」という日本人女性に出会った。 最初は口をきいてもらえず怖かったが、いつも並んで仕事をするうちに親友になった。 冷凍のタラを加工する作業で、手がかじかんだら互いにこすり合って温めた。 2 人しか知らない秘密の引き出しに生チョコを隠しておいて、疲れた時にこっそり食べたこともある。 「お前は帰ったらダメ。」 帰国する時にそう言って抱きしめられた。 思い出すと今も笑顔になる。
日本に行く目的は何だったのか。 スオンさんは少し考えてから答えた。 「半分はお金を稼いで家族を助けること。 もう半分は自分の体験のため。」 北海道にいる間は中南部ザライ省に住む家族に仕送りをした。 「お金を送ってくれるのは助かるけど、自分のために使いなさい。」 両親からそう諭された。 先に帰国した姉も、「後悔しないために自分の好きなことをやりなさい」と励ましてくれた。
帰国してからはホーチミンで日系の IT 会社などに勤めた。 日本にかかわる仕事につけたのはうれしいけれど、大好きな日本茶をベトナム人に飲んで欲しい。 そんな思いに突き動かされて、自分で店を始めることに挑戦した。 実習生の時に蓄えたお金は開店資金の足しにできた。 「将来は自分の田舎やいろんな町に店を出したい。」 それがスオンさんの夢だ。
故郷に化粧品店を開きたいと作文につづったチャー・ミーさんの姿が重なった。 年齢も同じぐらいだ。 母親のフォンさんが私に訴えていた言葉を思い返した。 「あの子はお金持ちになりたくて英国に出稼ぎに行ったわけじゃない。 そのことを、日本の人たちに分かってほしい。」 チャー・ミーさんもきっと家族を助けるためだけでなく、自分のためにも外国に夢をかけたのだと思う。 そのために、限られた選択肢から最良だと信じられるものを選んだ。 ほんの少しでも状況が違っていれば、チャー・ミーさんもスオンさんのようにどこかに小さな化粧品店を開いて、自分自身の人生を始められたかもしれない。
国境を越える往来が制限されたコロナ禍で明らかになったのは、日本を含む先進国にとっては技能実習生のようにエッセンシャルワーカーとして現場で働く外国人が不可欠だということだ。 それなのに日本でも英国でも、必要とされているはずのベトナム人が仕事を得るために費用を払い、リスクを背負っている。 「ご実家を訪問してきました。」 ハノイに戻って数日後、チャー・ミーさんの作文を託してくれた佐藤さんに約 1 年ぶりにメールで連絡した。 両親の暮らしぶりや日本の人たちへの感謝の言葉を伝えると、返事が届いた。
「あらためて技能実習生との接し方、働くこと以外に伝えられることがないか考える時間が増えました。」
何度も読み返すうちに、私が少なくともできることは、故郷を離れて異国で働くベトナム人を「出稼ぎ労働者」とひとくくりにしないことだと思った。 将来の夢やまだ見ぬ世界への憧れと好奇心、家族からかけられる期待 …。 チャー・ミーさんのように一人ひとりに思いがある。 自分の人生をかけてやって来る人たちにどう応えるのか。 覚悟が必要なのは私たちの方だと思う。 (宋光祐、asahi/globe+ = 6-16-21)
過酷な労働、逃れた先は「失踪村」 身寄せ合う元実習生
途上国への技術移転の名目で、安い労働力として使われてきた技能実習生。 今、その半数以上を占めるのがベトナム人だ。 劣悪な労働環境を苦に失踪するケースが後を絶たない。 彼らはなぜ逃げ出し、コロナ禍のなか、どこでどう暮らしているのか。 取材を進めていくと、最近、事件の舞台にもなった北関東の小さなアパートにたどりついた。 その辺り一帯は、「失踪村」と呼ばれていた。
まだ冷たい風が吹いていた 2 月 11 日の昼、JR 高崎線の本庄駅から車で 15 分ほどの場所にある木造 2 階建てのアパートを訪ねた。 周囲には、昔からの畑や養鶏場に交じって、鉄鋼やプラスチック工場が集まる工業団地が点在する。 畑でお年寄りが農作業をしているくらいで、人通りはあまりなかった。 ここは群馬と県境を接する埼玉県上里町。 上越新幹線が通る北関東の小さな町だ。 関越自動車道の「上里サービスエリア」がある場所と言えば、分かる人もいるかもしれない。
アパートの一室には、実習先から失踪した元技能実習生のベトナム人男性ブー・バン・ズンさん (36) が暮らしていた。 案内してくれたのは、NPO 「アジアの若者を守る会」代表の沼田恵嗣さん (59) と、ベトナム出身の塩田ユンさん (39) だ。 ズンさんから未払い賃金の問題で相談を受けていた。 途上国への技術移転の名で安い労働力として働かされてきた技能実習生。 その半数以上はベトナム人だ。 劣悪な労働環境などから失踪する例が後を絶たない。 「失踪村」にたどりついた元実習生たちから何が見えるのか。
「このあたりは失踪村だよ」と沼田さんは言う。 全国にいた実習生たちが失踪後、転々としながら仲間を頼り、最後はこの辺りにたどり着く。 仲間と肩を寄せ合い、助け合って暮らしているという。 この日はベトナムの旧正月の前日。 日本でいう大みそかだった。 アパートの扉を開けると、香ばしい匂いが漂い、シートを広げた床の上に牛の煮込み、揚げ春巻き、鶏肉、えび、フランスパンなど色とりどりのベトナム料理が並んでいた。
だが、ズンさんは台所で、タケノコのスープを作りながら、悲しげな表情を浮かべていた。 貧しい家族を助けるつもりで来日したのに、安い給料と職場環境に耐えられず逃げ出し、各地を転々としてきた。 コロナ禍で仕事が途絶え、結局、稼げなかった。 帰国しようと出入国在留管理局に出頭したが、飛行機は限られ、チケットも高騰していた。 今は特別に在留許可を得て、帰国できる日を待つ。 チケット代のため、妻に新たな借金をさせて送ってもらった。 「家族をがっかりさせた。 何もないまま帰るのは、とても恥ずかしい。」と涙を浮かべた。
部屋は友達が借りている。 仕事もないズンさんは居候の身だ。 2LDK で 4 万 2 千円の家賃のほか、光熱費や食費を同居する 24 歳から 37 歳の仲間と 6 人で分担する。 1 人 1 万 5 千円を払うが、ズンさんは誰よりも貧しく、ベトナムに妻と 11 歳の息子、6 歳の娘がいるので、「1 万円でいい」と言われている。 居間には、大型の冷蔵庫が一つあるだけだ。 男女が 2 部屋に分かれて、布団を敷いて眠る。 ズンさんはみながスーパーで買ってきてくれる野菜や鶏肉などを料理し、掃除や洗濯を一手に引き受ける。 「お金もない、仕事もない。 とても辛い。」
この日集まった十数人もみな失踪者だ。 コロナ禍で帰国できず、飛行機の順番待ちをしている。 ごちそうは、みなで金を出し合って買った食材で作った。 ビールで乾杯をした後、実習先でのつらい思い出話をジョークを交えながら話した。 来日 8 年で女性ジンさんは、みなから日本語で「大先輩」と呼ばれ、頼りにされていた。 徳島県で縫製会社で働き、1 時間に 2 千足の靴下を作るノルマを課せられた。 どう頑張っても 700 足しか作れなかった。 日曜日以外は朝 7 時から深夜まで働き、給料は 10 万円。 6 畳一間に 7 人で住まわされ、睡眠時間は 3 時間しかなかったという。 ジンさんを含め、3 人が耐えかね逃げた。
ひときわにぎやかなランちゃんは近くのアパートで気の合った日系ブラジル人と暮らしている。 鹿児島県の食肉工場で「6 秒に 1 本、鶏肉から骨を剥がすように」と求められ、肩を痛めた。 同僚からのいじめもあった。 今は老人ホームで、お年寄りの世話をしているそうだ。 ズンさんは失踪後、来日前にベトナムで一緒に研修を受けて親しくなった人を頼り、この部屋にたどり着いた。 「頑張ろう」と励まし合うルームメートの結束は強く、いつかベトナムに戻ったらみなで飲もうね、と話している。
みなでごちそうを食べている時、訪ねて来た日本人がいた。 「お父さん、中に入って。 どうぞ、どうぞ。」とみなが明るい声で誘ったが、「仕事の後で来るよ」と帰って行った。 建物解体の仕事がある時、声をかけてくれる地元の建設会社の社長だ。 名前は誰も知らない。 ただ、みなが「お父さん」と呼ぶ。 仲間の誕生日には招き、一緒にケーキを食べる。 そんな関係だという。
ベトナムの食材はどこで手に入れるのだろう。 「お店がある」と、ジンさんが歩いて 10 分ほどの場所まで連れて行ってくれた。 見た感じ、普通の戸建て住宅だ。 看板はない。 呼び鈴を鳴らして中に入ると、部屋にぎっしりとベトナムの麺(フォー)やスープのもと、菓子や缶詰などの食材が並んでいた。 ベトナム人女性が 2 年前に開業し、ベトナムからの輸入品を売っているという。
女主人は「知っている人だけ来る。 このフォー、牛肉を焼いて載せるとおいしいよ。」と言った。 みなの楽しみは 1 カ月に 1 度だけ、ベトナム人が営業するカラオケ店で、ベトナムの歌を歌い、食事をし、お酒を飲むことだった。 信じられるのは、苦労をともにする仲間たちだけ。 アパートの他の部屋の住民とは、あいさつはしても関わらない。 同じベトナム人であってもだ。 アパートの別の部屋では昨年、風呂場で豚 1 頭を食用に解体したとしてベトナム人の元実習生が、と畜場法違反の容疑で逮捕された。 だが、事件について尋ねても、みな「ほかの部屋のことは知らない」と言った。 ズンさんもここにたどり着いたのは今年 1 月。 その前のことは知らないという。
☆
もともとアパートには近所の工業団地で働く日系ブラジル人が多かったようだ。 上里町で日系ブラジル人を派遣する派遣会社や農業を営む斎藤俊男さん (53) が 20 年ほど前、4 部屋を借り、派遣社員たちを住まわせていた。 他の部屋も大半が日系ブラジル人だったという。 斎藤さん自身も出稼ぎで来日した日系 2 世のブラジル人。 数年で帰国するつもりだったが、日本に定住し、会社を立ち上げ、日本国籍もとった。
「日系ブラジル人たちは、戸建ての家を買ったり借りたりして、アパートを出て行った。 そこに入ってきたのが、ベトナム人たちだ。」と話す。 雇う側からすると、日系ブラジル人より技能実習生の方が、3、4 割安く雇えるという。 この地域で支援を続ける沼田さんによると、70 年代以降、ベトナム戦争から逃れたボートピープルのベトナム人難民が群馬県伊勢崎市などに定住していたことから、彼らを頼って失踪者たちが集まるようになった。 周辺には車の部品工場など働く場もあり、日系ブラジル人たちに替わって増えていったとみている。
上里町役場によると、町が把握している外国人の数は 00 年 2 月末時点で 847 人。 ブラジル人が 601 人で、ベトナム人は 6 人だった。 21 年後の今年 2 月末現在では 1,223 人。 ブラジル人は 556 人に減ったが、ベトナム人は 131 人と 20 倍以上に増えた。 技能実習生が増えたため、と町の担当者は話す。 だが、沼田さんの実感は違う。 「失踪したベトナム人は上里町だけで千人はいると思う。 北関東全体で 2 千 - 3 千人はいるのではないか」 (平山亜理)
「国際貢献策」のはずが
技能実習制度は 1993 年、日本の国際貢献策として始まった。 発展途上国の外国人に日本で技術を学んでもらい、帰国後に自国の産業の発展に活躍してもらうのが本来の趣旨だ。 日本の企業などは、多くの場合、国内にある非営利の「監理団体」を通じて技能実習生を集めている。 企業などが求人を依頼すると、監理団体は送り出し国(ベトナムなど)にある送り出し機関に必要な人材を集めてもらい、最終的に企業などが候補者を面接して雇用契約を結ぶ。
採用された実習生は来日前に送り出し機関で日本語などの研修を受け、来日後は監理団体で講習を受けてから実習に入る。 監理団体は、実習生が適切な環境で計画通りに技術を習得できるよう、定期的に企業などを訪問し、指導や支援、監督をするのが役割だ。 だが、実際には、実習生は国内の人手不足を補うため、技能習得とはあまり関係のない分野で安い労働力として使われており、監理団体の指導・監督も不十分と指摘されてきた。 実習生は自由に転職できないため、人手不足に悩む中小企業などがこの制度を利用することで安定して人手を確保できていた面もある。
それでも通常 3 年、最長 5 年の実習のために、多くの実習生は多額の借金をして、渡航費や手数料を払って来日する。 良い職場に恵まれ、借金を返した上で貯金もして帰国できる人がいる一方、賃金が不当に安かったり、劣悪な労働環境に耐えられなかったりして、失踪する例も相次いでいる。
政府は人手不足が深刻な分野で外国人を労働力として受け入れるため、新たに特定技能制度を 2019 年に導入した。 技能実習とは違い、制度上は転職ができ、永住や家族の帯同にも道が開かれることになった。 だが、永住や家族帯同を認められる業種は限られ、そのための試験の内容や時期は未定のままだ。 転職も手続きが難しく、互いに引き抜きをしないなどと申し合わせる業界もありほとんどできない。
政府は当初、スタートからの 5 年間で最大約 34 万人の受け入れを見込んでいたが、20 年末時点で 1 万 5,663 人と、見込みを大幅に下回っている。 新型コロナ禍の影響もあるが、企業側からは煩雑な手続きや転職できる仕組みが嫌われ、外国人からは原則として日本語や技能の試験を受けなければならない点などが敬遠されているのが実態だ。 (asahi = 5-13-21)
〈技能実習生と失踪〉 技能実習生は 2015 年末の 19 万 2,655 人から、19 年末には 41 万 972 人と 2 倍以上に増えた。 20 年末には新型コロナ禍でやや減少して 37 万 8,200 人に。 国別では、労働者送り出し政策の後押しを受けたベトナムが 16 年に中国を抜いて最多となり、20 年末時点では半数以上の約 21 万人を占める。
人数の増加に伴い、実習先から失踪する人も増えている。 15 年は 5,803 人だったが、ピークの 18 年には 9,052 人と約 1.5 倍以上に増加。 その後やや減少し、20 年には 5,885 人になった。 6 年間の延べ人数は 4 万 1,683 人で、ベトナム人が 5 割強を占めている。 技能実習生が働く業種は 80 種類以上と多岐にわたる。 建設関係が約 21% と最も多く、食品製造が約 19%、機械・金属関係が約 16%、農業が 9%、繊維・衣服関係が約 7% と続く。
人として扱われない「技能実習生」リアルに描く
映画監督・藤元明緒さん「制度的エラーに向き合うべき」
難民申請が認められず、同胞と助け合いながら、不安と背中合わせで暮らしている在留ミャンマー人一家 4 人の日常を、ドキュメンタリーを思わせるリアルなタッチで描いた前作『僕の帰る場所』で、国内外の映画祭で注目を集めた藤元明緒監督。 自身もミャンマー人の配偶者と暮らし、在留外国人が決して遠い存在ではない藤元監督は、新作『海辺の彼女たち』で、過酷な労働環境に耐えかね、職場から逃げた技能実習生が日本でどう生きていくか、彼女たちの "その後" に目を向けている。
"移民"、"外国人労働者" と、彼らをひと括りにせず、個として向き合うことで、日本で働く彼らが抱える問題を浮き彫りにする - - そんな作品をつくるために重ねた取材を通じて、何が見えてきたか、藤元さんに聞いた。(取材・文/塚田恭子、弁護士ドットコム = 4-28-21)
● ベトナム人女性が主人公の映画
薄暗い倉庫の中、3 人のアジア系女性が小声で言葉を交わしている。 カバンに入る分だけ荷物を詰め込むと、金網をのり超え、街灯もない夜道を、スマートフォンのライトを頼りに急ぎ足で進む。 移動を重ね、乗船した大型フェリーが到着したのは雪が舞う北国。 彼女たちを迎えに来た同胞の男性ダンとの車中での会話から、ベトナムから来たフォン、アン、ニューの 3 人は、来日以来 3 カ月間、週 7 日 1 日 15 時間、休みなしに働かされていたことがわかる。
食事や睡眠の時間もろくにもらえず、残業手当も出ず、「仕事ができないから遅くまで働いているんだろう」と怒鳴られ、給料からいろいろ差し引かれると、生活もままならないほどのお金しか残らない。 ロボットのように働かされていた 3 人は、パスポートも在留カードも職場に取り上げられたまま、ブローカー(仲介者)のダンを頼りに、北国の漁港で働き始める。
● 技能実習生からの SOS がきっかけのひとつ
前作に続いて移民たちが置かれた状況に目を向けた藤元さんは、この映画を撮るきっかけのひとつとして、ミャンマー人の技能実習生から SOS が寄せられたことを挙げる。
「2016 年に、僕は妻とフェイスブックのページを立ち上げました。 日本への渡航、観光、ビザの情報など、僕が書いた記事を、妻がミャンマー語に訳したこのページが、ミャンマー人の間ですごく広がって。 これを見たある技能実習生から "すごく不当な扱いを受けているので逃げたいけど、どうすればいいか" とメールが来て、そのとき初めて技能実習生とコンタクトを取りました。」
「結局、助けることができないまま、その人は職場から逃げてしまったので、今どうしているかわかりませんが、そのことがずっと頭に残っていました。 実は僕の妻も、ミャンマー側で日本語学校を名乗るブローカーにのせられて日本に来ているんです。 もともとヤンゴンの学校で日本語を勉強していたものの、日本で就職するまでには苦労があったようで。 身近なところで職場から逃げた人の話なども聞いていたので、そこでいろいろ感じたこと、その積み重ねが映画に反映されていると思います。」
日本語学校が、ブローカー(仲介業)を兼ねているのはミャンマーに限ったことではない。 アジア諸国では、むしろそれが普通になっていて、就労をめぐる諸々の問題を引き起こしている。 だが、事情はともあれ、技能実習生が派遣先の職場を離れれば、在留資格を失ってしまう。 逃げた人たちは、その後どうやって暮らしているのか。 それと同時に、藤元さんが気に留めていたのが、2019 年 3 月に妊娠を理由に違法な解雇や不当な待遇にしないように国が受け入れ団体に注意を促したように、妊娠した技能実習生が職場から帰国するか、中絶するかを突きつけられている現実だった。
「この問題が表面化した時期に、妻が妊娠していたんです。 ちょうど彼女が出産する日まで、この映画の脚本を書いていたこともあって、これは一歩間違えば、自分の家族も直面することだったかもしれないと思うと、すごくシンパシーを感じてしまって。 病院に行くことも、出産することも、普通にできるはずのことなのに、その選択ができないこと。 逃げたあとの彼らがどうしているかということ。 この 2 つを組み合わせて映画をつくろうと思いました。」
● 3 人の演技がリアリティを強めている
今回、主人公たちの国籍をミャンマーではなくベトナムにしたのは、この物語の場合、ベトナム人を取り上げるのがよいのではと思ったからだという。
「国別でみたとき、事情を抱えて失踪した人たちが逃げた先にコミュニティができているのはベトナムじゃないかという予想があったのですが、実際その通りでした。 ただ、僕たちが思い描く役者がベトナムにいるかどうかわからなかったので、ミャンマーやインドネシアなど、ほかの国も視野には入れていました。 結果的にオーディションでこの 3 人だ、というめぐり合わせがあったので、今回はベトナムでいくことになりましたが、これはどこの国の出身者でも起こりうる話だという普遍性を描ければと思いながら、撮影していました。」
"この 3 人だ" と、藤元さんが感じたというように、3 人のリアリティ溢れる演技は、観客に "彼女たちは本当に技能実習生ではないか" と思わせるほど真に迫っている。
「地方出身のアンさんは、お姉さんが家族のために 10 年以上台湾に出稼ぎに行っていたので、この映画に参加することは姉の気持ちを理解することにもつながると話していました。 映画同様、普段からリーダータイプのアンさんは、女優とは別に経営者の顔も持っていて、自分の生活は自分で何とかしていこうという気持ちを持っている人です。」
「ニューさんは、自分の家の隣の人が、親に半ば無理矢理、技能実習生として日本に送られていて、この映画に関わる前からその人と連絡を取っていたようです。 その人も、雪深い土地で働いているので、どんな気持ちで来日したか、日本での生活はどうか、個人的に聞いてもらいました。」
「フォンさんはベトナムでもかなり地方の出身で、女優を目指して単身ハノイに上京した人です。 国内ではあるけれど、自分のやりたいことを実現するために覚悟を持って行動する、そんな主人公の気持ちに共感を覚えたそうです。」
物語の大枠は伝えたものの、藤元さんは主演の 3 人に脚本はわたさず、それぞれに "この場では、こういうことを話してください" と、個々に口頭で伝える演出方法を取ったという。 互いに相手が何を話すかわからず、3 人一緒にいるときの演技は即興だったそうで、先に脚本はあったものの、彼女たちの話を聞いたうえで、それぞれの資質を役柄に落とし込んだことも、作品のリアリティを強めている。
● 「国は問題が起きていることを認めたほうがいい」
たとえ技能実習生が派遣された先の企業側に問題があっても、日本の状況をよく知らず、立場の弱い彼らが法的に訴えることは容易ではない。 労働環境その他に耐えられず逃げた場合、なぜそうせざるを得なかったのか、彼らの事情を考えたり、理解しようとする人は、残念ながら多くはない。 こうした状況についてどう思うかと尋ねると、藤元さんは次のように答えた。
「まず国は、問題が起きてしまっていることを認めたほうがいいと思います。 技能実習生であれ、別のかたちであれ、働いているのは『人』です。 そこで制度的なエラーが起きている以上、制度の修正は必要です。 ただ、制度は一朝一夕で変わるものではないので、待っていても時間がかかってしまいます。」
「今、仕事や住む場所を失った人たちを助けているのは支援団体です。 ベトナムでいえば、僕も取材をさせてもらった「日越ともいき支援会」がありますが、支援を求める人の数からいえば、その団体の活動だけで何とかなるという域は超えています。 本当は行政にも動いてもらいたいところですが、今後そういう団体が増えると、救える人が増えるのではないかと思います。」
「あとは労働法を守らず、技能実習生や外国人労働者を搾取している企業に対する罰則や監視を強化するとか。 受け入れ先にもよい企業はあるし、よい職場で働いている技能実習生もいるので、一概にはいえませんが、問題を解決するためにはこの 2 つの軸が必要じゃないでしょうか。」
前作『僕の帰る場所』でも、今回の『海辺の彼女たち』でも、藤元さんは作中で、決して誰かを糾弾したり、何かを告発したりしない。 それは人間として共感できる物語を、自分も観たいしつくりたいからだという。
「報道では、『技能実習生とは』、『外国人労働者の受け入れ実態とは』などと、大きな枠でひと括りにされてしまうけれど、取材をすると、それぞれの事情はまるで違うんです。 技能実習生というラベルをはがして、一人ひとりに話を聞けば、各人各様の物語があります。 映画を観る人の中には、不法に滞在、就労するのはよくないと思う人もいるかもしれないけれど、僕自身は、人と人を隔てるものをなくしたい、人と人の距離を近づけることで、人と人が出会えるような映画をつくりたいと、そう心掛けています。」
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● 藤元明緒 監督プロフィール
1988 年、大阪府出身。 大学で心理学、家族社会学を学んだ後、映像の世界に関心を持ち、大阪ビジュアルアーツに入学。 『僕の帰る場所』は国内外 30 を超える映画祭で上映された。 『海辺の彼女たち』は 5 月 1 日からポレポレ東中野ほかで全国順次公開予定。
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