ブラック企業に苦しむ中国物流ドライバー、集団抗議が全土で炸裂

黒山の人だかりが車道を埋め尽くし、人の渦に巻き込まれた車両が立ち往生する。 渦の中心では一般市民と当局の複数の人間がもみ合っている。 ここに向けてペットボトルなどのモノがビュンビュンと投げつけられる。 一面に響きわたるのはウワーッという人の怒号だ。 これは中国の友人・趙さん(仮名)から送られてきた動画だ。 「今、中国の物流ドライバーの間でこの映像が拡散している」という。

なるほど、よく目を凝らしてみると、この映像に写っているほとんどがドライバーと思しき壮年の男性だ。 建物前の敷地は駐車場なのだろうか、運送用と思しき車両が数台止まっている。 制服を着ているのは警察だろうか。 物流会社を相手に抗議する市民を当局が抑え込んでいるシーンのようだ。 趙さんは「場所は『貨拉拉(フオラーラー)』の本社がある深セン。 "ピンハネ額" が増えて、配達請負人のドライバーたちがブチ切れたんです。」と説明する。 深センでは、「貨拉拉」のアプリのアップグレードをきっかけに、ドライバーの収入から差し引かれる金額が増えたことから、不満が爆発したという。

6 月、同様の騒ぎが上海でもあったようだ。 「貨拉拉」とは "物流版ウーバー" といわれる、輸送専用のネット予約アプリだ。 香港で開発されたアプリだが、2014 年以降、100 を超える大陸の都市で普及し、ワゴン車や貨車などの登録ドライバーは 400 万人、個人や法人のユーザーは 2,800 万人を数えるまでに成長した。 広東省深セン市に本社を置く深セン依時貨拉拉科技有限公司は、中国のユニコーン企業のひとつだとも言われている。 上海で商売をする李さん(仮名)も「貨拉拉」のユーザーのひとりだ。 小売業を営む李さんは、これまで運転手を雇って配達業務をこなしてきたが、今年からこのサービスに乗り換えた。 その理由は圧倒的な安さだった。

安さと便利さでサービス拡大も ドライバーには不利な仕組み

「毎日フルに利用しても『貨拉拉』なら月額 5,000 元(約 8 万円)にも満たない。 手持ちの5台の車は売り払って、このサービスに乗り換えました。」という。 その一方で、運転手を丸抱えした場合のコストは、賃金、ガソリン代、違法駐車などの罰金、保険料などを含めて、ざっと月額 1 万 2,000 元(約 19 万円)が必要だという。 「安くて便利」を理由に、多くのユーザーがこれを歓迎したことは想像に難くない。 しかし、その一方で「安さ」の代償は、それを支える事業者(ドライバー)へのしわ寄せとなる。 実は深センのみならず、中国全土で「貨拉拉」のドライバーが集団抗議を起こしていた。

きっかけは、今年 6 月 28 日に「貨拉拉」が行った料金改定だった。 福建省泉州市では、長距離輸送料が改定され、ドライバーの賃金が実質 3 割以上もカットされてしまった。 200 キロ走れば 1,070 元(約 1 万 7,000 円)の収入になったが、改定後は 725 元(約 1 万 1,000 円)しかもらえない。 怒り狂ったドライバーが権利保護を訴えて、ビルの 5 階から飛び降りるという一幕がテレビニュースで報道された。

一方、料金改定を打ち出す以前から、「貨拉拉」への不満はくすぶっていた。 4 月、山西省太原市でも、ドライバーによる集団抗議が発生した。 ドライバーが問題にしたのは、デポジットや会員費などという名目で金を徴収されたことだった。 デポジットは 1,000 元(約 1 万 6,000 円)、また会員費は「高級会員 399 元(約 6,300 円)」、「超高級会員 599 元(約 9,500 円)」、さらにその上の "VIP 会員" ともなれば 799 元(約 1 万 ,700 円)という具合だ。

電子メディア「中国経営網」の記事は、「高額な会員費を支払ったところで仕事がたくさん舞い込むわけではない」というドライバーの声を取り上げた上で、「実はこの会員費が、貨拉拉の収益モデルとなっている」と明かす。 他方、プラットフォーマーの口座に振り込んだカネを取り戻すことは容易ではない。 「ドライバーがデポジットを取り戻したくてもすぐに返金されない上、ドライバーの収入でさえも現金で引き出すのが難しくなっている。(中国経営網)」 もとより薄利のこの仕事、短距離ならわずか数十元の稼ぎにしかならない。 にもかかわらず、「会員費をさらに "補充" しなければ仕事をもらえない」と訴えるドライバーもいる。

高まるプラットフォーマーへの不満 値引き相次ぐ消耗戦が原因に

予告なく一方的に規約が改定され、それを飲まなければ仕事がなくなる - - プラットフォーマーの絶大な支配力に、中国でも個人事業者が泣く泣く従わざるを得ない構図が存在する。 本体の経営が危機に直面すると、一時的にせよプールされている収入の現金化が凍結されてしまうのは、配車アプリの「滴滴」においても発生したことがある。 請負事業者のみならず、ユーザーも翻弄された。 2018 年末は、シェアサイクルの「ofo」に預けたデポジットが取り戻せないと市民がパニックに陥り、直訴に出る長蛇の列が北京の本社を取り巻いた。

このような事態に陥る背景には、中国のプラットフォーマー間で起こる、値引きに次ぐ値引きの消耗戦がある。 プラットフォーマーにとっても、利用者にとっても、サービスの担い手にとっても "三方よし" の均衡が続くのは束の間だ。 競合の参入と、それに伴う価格競争や、迷走する業界に対する行政の規制強化によって、商売のうまみはあっという間に薄れてしまう。 それでもなお利益を生み出そうとすれば、サービスの担い手から上前をはねるしかないため、こうした「搾取」の構図が出来上がるのだ。

「最初はハードルを低くし、参入しやすくしておいて、後からさまざまな名目で課金していく - - それが中国のプラットフォーマーの常套手段です」と趙さんは語る。 趙さんは、「そのうち、フードデリバリーの配達員が反旗を翻すときが来るのでは」と心配する。 中国では 3 億 5,000 万人(2018 年)のユーザーがフードデリバリーのもたらす便利さを享受しているのだが、これを下支えするのが、よそから都市部に流入してきた配達員たちだ。 しかし、配達時間が遅れれば給料から差っ引かれ、「違法駐車」に引っ掛かれば自腹で罰金を支払わなければならないというように、その労働環境は実にシビアだ。

「中国は何でも便利になった」と喜ぶ市民は多いが、誰かがその代償を負うことによって享受できる「便利さ」であるとしたら、これを手放しで喜ぶことはできないはずだ。 中国ではすでに、サービスの担い手が強い不満をくすぶらせており、ひとたびここに火が付けば簡単に燃え広がってしまうリスクさえ潜在させている。 この映像から伝わる地鳴りのような市民の怒りに、筆者は背筋が寒くなるのを禁じ得なかった。 (姫田小夏、Diamond = 7-26-19)


世界最大の iPhone 工場もつ中国都市に景気後退の波 「一帯一路」の夢遠のく

この 10 年、鄭州市は「チャイナ・ドリーム」を体現する街だった。 北京の中央政府からの巨額の補助金を含め、投資の流入に支えられて、中国内陸部・河南省の省都である鄭州市は好況に沸いた。 黄河と揚子江に挟まれた鄭州市。 かつて貧しかった人口 1,000 万人のこの都市は、今や中心部に壮麗な高層ビルが並び、ハイウェイの高架が連なる。 刷新された鉄道網によって交通の要衝となり、「一帯一路」構想の一翼として、中国製品を欧州へ陸路で送り出している。 アップル製品を受託生産する鴻海精密工業のフォックスコンが、世界最大の iPhone 工場を建設したのも、この鄭州市である。

1 億人が暮らす河南省にあって、鄭州市は中国内陸部における成果とチャンスの象徴だ。 養豚場や小麦畑を離れて、より良い生活を求める人々を引きつけている。 鄭州市民の平均所得は過去 10 年間で倍増し、昨年は 3 万 3,105 元(約 52 万円)に達した。 住民の多くが、家電製品、高級品、自己所有のマンションといった中流階級らしい生活を楽しめるようになった。 米ゼネラル・モーターズ (GM)、ホンダ、日産自動車といった自動車メーカー、クリスチャン・ディオールやカルティエといった高級ブランドも変化を注視しており、鄭州市で起きているような所得向上が、新たな成長市場を開いてくれるものと期待している。

だが 2018 年末に始まった景気の減速によって、鄭州市でも不安が高まっているように見える。 不動産から消費財、IT セクターに至る広い範囲で勢いが衰える中で、収入増を生活費の増加が上回り、社会的地位を向上させるチャンスが低下したと感じている市民もいる。 かつては豊富にあったチャンスが、今はなかなか見つからない。 ロイターは 2018 年末から 19 年初めに同市を訪れ、企業経営者から一般の消費者、住宅購入を考えている人まで数十人に取材した。 そこで多く聞いたのは、今の生活水準を維持できるのか、習近平国家主席が約束した繁栄の夢を実現できるのかといった不安や疑問だった。

その中から 3 人のエピソードを紹介する。 彼らの話は、河南省のような内陸部で将来に向けた経済の基礎を築くことがいかに困難かを物語る。 また、高い利潤を求めて新なた市場を開拓し続けるグローバルな小売企業に、現実を突きつける。

起業の夢破れ、正社員を目指す

物心がついてから、Gong Tao さんは父親のような起業家になることだけを目指してきた。 一家を養うため、書道の筆を売る行商人として河南省内を東奔西走して何とか生計を立てていた父親は、Gong さんに勤勉であることの価値をしっかりと教え込んだ。 大学を出たばかりの Gong さんは 14 年、鄭州市で起業した。 デジタル技術を使い、金属板に写真を彫り込む事業である。 特別なイベントの記念品などに使われた。

2 年後、24 歳になった Gong さんは、活況を呈していたインターネットビジネスに軸足を移し、広く普及した中国独自のソーシャルメディアサイト「微信(WeChat)」向けのプログラム設計を支援するスタートアップ企業を設立した。 業績は好調で、IT 業界の浮ついた空気と政府のベンチャー支援に乗せられた Gong さんは、積極的に事業を拡大し、オフィスの改装や新たな機器の導入にも資金を投じた。 スタッフの数は最盛期で 70 人に達した。 だが、昨年末に中国経済の減速が始まるのと同じタイミングで、より低価格を武器にするライバルが多数現れ、業績は降下した。

現在 26 歳になった物腰柔らかな Gong さんは、鄭州市中心部のファーストフード店で、「市場が急激に下降するとは予想していなかった」と語った。 「2017 年を通じてビジネスは好調で、すべてがかなりうまく行っていた。 それが 18 年になって突然、パッタリと駄目になった。」 今は服飾費を大幅に切り詰め、外食を控えるようになったという。 昨年 10 月、Gong さんは「事業を畳んで下降局面をやり過ごすべきだ」という目上の人の忠告を受け入れた。 彼が見つけたのは、中国最大手に数えられる電子商取引企業の系列企業の営業職だったが、単調さと給料の安さにすぐウンザリしてしまい、2 月の春節の休暇の後、そのまま職場に復帰しないことを決意した。

Gong さんは、3 年前の価格急騰以前にマンションを購入しておかなかったことを嘆く。 もっとも、住宅価格はこのところ下落傾向にあるし、自身が作った会社と同様、当時のガールフレンドとの関係も壊れてしまってはいるのだが。 自分で企業を経営するという生涯の夢を諦めたわけではない。 だが、現実的になる必要があり、今は会社勤めの正社員ポストを探さざるをえない事実を受け入れようとしている、と話す。 「現実はとても残酷だ。」

一流大卒でも「親のすね」

北京の一流大学で電気通信分野の学位を取得し、鄭州市の不動産を手に入れ、まもなく結婚も控えている - -。 26 歳でこうした条件すべてを満たしている Wu Shuang さんは、多くの中国人の目には勝ち組と映るのが普通だ。 だが Wu さんはインタビューのなかで、彼自身や、鄭州市の似たような立場の人に絶えずのしかかってくる不安について語った。 2017 年にマンション購入に 200 万元を費やしたことで、一家の貯蓄はほとんど尽きてしまい、毎月 8,000 元以上の住宅ローン返済も残っている。

Wu さんは昨年、勤務していた国営企業を辞めた。 退屈な仕事で待遇も悪かったという。 だがその後、鄭州市内でバーを開店するという計画も延期せざるをえなくなった。 景気の落ち込みは同市にも及び、パートナーたちが手を引いてしまったからだ。 丸顔に黒縁のメガネをかけた Wu さんは、「住宅価格が高いとか、仕事を見つけるのが難しいというだけの問題ではない」と言う。 「今のところ、経済が減速しているせいで、チャンスが大幅に減っているように感じられる。」

Wu さんによると、若者の多くは誇りの持てる仕事を見つけ、一定の年齢までに結婚し、住宅を購入するという「チャイナ・ドリーム」を手の届かないものだと感じている。 特に不動産価格が高騰しているせいで、とっくに成人しているのに経済面で親に依存せざるを得なくなっている、と Wu さんは言う。 中国語で「ケンラオ」、つまり「親のすねをかじる」風潮だ。 両親はマンションの頭金や月々のローンを援助してくれたが、彼らも裕福ではないだけに、心穏やかではないという。

鄭州市の新しい商業地区「鄭東新区」にあるにぎやかなカフェでアイスコーヒーを飲みながら、Wu さんは「無力感を抱いている人は多い。 恵まれた生活を享受している人でも、たいていは自分の力ではなく、家族に頼っているからだ。」と語る。 「給料はたいして違わないとしても、家庭の状況次第で、人生における選択肢が大幅に狭まってしまうかもしれない。」

取り残された水上生活者

中国における社会階層の下のほうでは、多くの人が取り残され、懸命に働くだけでは生活が良くならないと感じている。 Sun さん一家は何世代にもわたって揚子江と黄河で船を操り、日々の漁獲で生計を立ててきた。 祖父や父がそうであったように、Sun Genxi さん(44 歳)と Sun Lianxi さん(32 歳)の兄弟も、漁船のなかで生まれた。 中国経済の成長は、兄弟に焦燥感を抱かせている。 鄭州市中心部から車で約 1 時間、見晴らしのいい黄河に浮かぶ船上から、2 人は省都の劇的な発展を呆然と眺めてきた。

「あんな高層ビルはわれわれには何の関係もない。 誰かのためのもので、私とは関係がない。」と Lianxi さんは言う。 「我々は少しも関わっていない。」 Sun さん兄弟は、人生の大半を決まった場所に定住せず、最良の漁場を見つけては船を停泊してきた。 しかし 10 年ほど前、彼らは鄭州市北端の黄河沿いに錨を下ろした。 Genxiさんの長女を学校に通わせるためである。子どもたちには学校を卒業し、代々続けて来た漁業を離れる最初の世代になってほしいと考えている。

読み書きのできないGenxiさんは、まもなく高校を卒業する娘に、「一生懸命勉強しなければ、私の現在がお前の未来だ」と話している。 Sun さん兄弟が所有していた漁船は大きく、風雨に耐えてきた屋根の下に、4 世代にわたる 17 人の家族を楽々と収容してきた。 水上レストランとして、黄河クルージングを楽しむ日帰り客に獲れたての魚を蒸して提供もしていた。

しかし地元当局は 2017 年、広範囲に及ぶ環境規制の一環として、水質汚染と乱獲を最小限に抑えるという名目で船を没収した。 一家は現在、黄河河岸の浮き橋上に設けられた防水布とビニールシートで作られたテントで生活し、小型船による漁業だけで暮らしている。 「夢は、住む場所を得ることだ。 家族が皆その家で暮らし、私は家族のために働きに出かけ、漁業は止める。」と Lianxi さんは言う。 「そういう生活ができるだけでも贅沢というものだ。」 (NewsWeek = 6-3-19)


中国当局の公害取締りで苦境の「汚染地域」 規制対策と景気後退で W パンチ

中国内陸部の産業地帯は長年の間、経済を築き上げるのに必要なセメントや鉄鋼を生産する無数の工場から出る汚染物質が招いた、大気や水路の汚染に悩まされてきた。 公衆衛生上の一大問題となったこの課題に取り組むため、当局は汚染産業への取り締まりを強化。 人口約1億人、数百の工業の町を抱える河南省などが、その対象となった。 河南省全域の工場所有者や実業家、顧客や労働者への取材によって、こうした取り締まりが、汚染産業に依存している町や都市の経済に打撃を与えている実態が浮かび上がった。

河南省の製造業は特に、新たな環境規制の影響を強く受けており、中国の経済減速や米国との過酷な貿易戦争による圧力とも相まって、苦境に立たされている。 市民に健康的な環境を提供すること、そして沿岸部に比べて発展が遅れた地域で経済成長の維持を両立させる困難さも浮き彫りにした。 中国は、環境取り締まり強化によるコストの統計を公表していないが、短期的な痛みは、経済の「アップグレード」を通じた長期的成長につながる、と考えている。 中国国務院(内閣に相当)の情報担当部局に対して新規制の経済的影響について質問をファクスで送信したが、返信はなかった。

中国の経済全体と同様に、あてにならない公式データから河南省における経済の全体像を把握するのは困難だ。 河南省の成長率は、公式データによると 2018 年は 7.6% で全国の数値より高いが、2017 年と比べると 0.2 ポイント低下している。 しかし、ロイターが河南省全域で取材したところ、消費者は出費を控え、各都市は経済の立て直しに苦戦しており、環境規制がビジネスや雇用に打撃を与えていることが分かった。

鉄鋼街の痛み

鉄鋼の街・安陽は、中国でも最悪レベルの大気汚染に長年悩まされてきており、今回の公害防止キャンペーンによって打撃を受けた。 人口 500 万人超の同市では、至るところで国有企業である安陽鋼鉄のインフラやロゴマークがみられる。 市当局は、地元の産業に設備を更新して汚染を減らすことを強制し、従わない企業を閉鎖した。

両親が 1983 年に設立したコークス用炭製造会社 Baoshun High-Tech Corporation を経営する Li Huifeng 社長は、規制のコストは痛いものだったと話す。 安陽の西方の丘陵地に広がる同社の広大な工場は昨年冬、基準を上回る低排出設備を導入したにもかかわらず、生産減を余儀なくされた。 「昨年は事業は非常に好調だったが、今年は不透明感ばかりだ」と、Li 氏は言う。 鉄鋼生産に使われるコークス用炭を製造する業者の多くは、新規制により閉鎖に追い込まれるだろうと同氏は言う。

安陽の西側に工場があるスチール製品会社 Xinyuan Steel Mill の経営者 Li Xianzhong 氏は、新たな環境規制により、生産減とコスト上昇に直面していると話した。 業界推計によれば、鉄鋼生産の「環境コスト」は、取り締まりが強化された 2014 年の 1 トン当たり 50 元(約 790 円)から、150 元に急騰している。 「設備投資には多額の資金が必要だ。 投資した後も、操業コストが以前より高くなっている。 基準を満たさなければ、操業が許可されない。」と、Li 氏は話した。

市の中心部にある安陽鋼鉄の巨大工場の周辺では、住民や労働者が、新たな環境基準で、生活が厳しくなったと訴えた。 小さな溶鉱設備を備えた小規模工場も、規制対象となった。 「以前はタバコを贈ったり一度食事をおごったりすれば、1 年は大丈夫だった。 だが今では全く効果がない。」 当局によって閉鎖された自転車修理工場を経営していた Zhang と名乗る男性はそう語った。

安陽市はこの 1 年、よりクリーンで新しい経済成長を後押ししてきた。 窯業やセメントなどを手掛ける小規模工場を数百件閉鎖する一方で、新しい工業団地を建設したり、優遇措置を講じたりして、太陽光発電パネルや電気自動車などの産業を呼び寄せようとした。 だが、中国経済全体が減速する中で、同じような振興策を打ち出した無数の自治体との競争に苦労している。

また、汚染防止の取り組み成果もまちまちだ。 鉄鋼業は、今も安陽経済の半分以上を占めており、その割合は 10 年前から変わっていない。 環境は依然として劣悪だ。 最近同市を訪れると、硫黄のにおいが街中に漂い、スカイラインを埋める数百のクレーンに取り付けられたライトもかすんで見えた。 中国生態環境省で大気汚染を担当する Liu Bingjiang 氏によると、近隣の工業地帯からスモッグが流れ込み、地元のクリーンアップ作戦が台無しになることも、問題の 1 つだという。 「いろんな対策や計画が講じられているが、それでもスモッグは解決していない」と、前出したスチール製品会社経営者の Li 氏は言う。

ブーツ工場も閉鎖

汚染防止の取り組みは、もっと小さな産業の町も直撃している。 河南省北東部にある桑坡の村は、以前は豪州発の米国ブランド UGG (アグ)のブーツを模倣した製品を作る十数軒の羊皮工場が中心産業だった。 村の雇用の中心はこれらの羊皮工場だったが、環境コストは高くついた。 羊皮の処理には大量の水が必要で、地元の水源が汚染されたのだ。

昨年 7 月、警察車両数十台がサイレンを鳴らして桑坡に乗り込み、ほとんどの工場を閉鎖させた。 各工場には政府監督官が送り込まれ、指示を順守しているかどうか見張っている。 環境規制に違反した疑いで、工場主 3 人が逮捕された。 最近ロイターが桑坡を訪れた際、本来であれば生産のピーク時なのに、ほとんどの工場が稼働していなかった。 仕事を求めて数百人が村から脱出。 商店のシャッターは閉じられ、通りに人影もなかった。

「この村は転機を迎えている」と、Ding と名乗る元工場オーナーの男性は語る。 大半のビジネスは「生きているより死んだも同然だ」と言う。 工場が閉鎖される前、6,500 人の村人の大半がムスリムの回族である桑坡は、小さいながらも、よく知られた存在だった。 アリババ・グループ・ホールディング傘下の電子商取引サイト淘宝網(タオバオ)でトップレベルの売り上げを収めた「淘宝村」として 2015 年、中国中部で初めて選ばれ、全国紙に掲載されたことで知名度が広がった。

だが昨年、汚染取り締まりが強化されると、それも一変した。 県の行政府のトップが村を訪れて集会を開き、全工場を永久閉鎖すると脅した、と工場主らは言う。 結局、135 工場のうち 19 工場が操業を継続することで話がまとまった。 操業継続を選んだ工場は、水処理の基準を満たすための設備投資と事業改善に合意した。 合意しなかった工場は閉鎖され、ボイラーや処理機材は破壊された。

桑坡を管轄する県級市の孟州当局に電話取材を試みたが、コメントは得られなかった。 だが孟州当局のサイトによると、市長は昨年、取り締まりは市民の意志に沿った、必要な措置だと発言している。 桑坡の共産党幹部に無料メッセージアプリ「微信(ウィーチャット)」で接触したが、コメントを拒否された。 携帯電話にも出なかった。

地元政府の計画では、残る工場を整理して、新たな工業地区を年内に立ち上げる予定だ。 だが、工場のオーナーは、建設の遅れを心配しており、最終的には閉鎖に追い込まれるのではないかと懸念している。 元工場主の Ding 氏は、取り締まりがこれほど厳しいものになるとは予期していなかったと話す。 銀行も融資自粛を促された。 「村の人間はみな、嘆き悲しんでいる。 これほど厳しくなるとは誰も想像していなかった。 みな途方に暮れている。」と、Ding 氏は嘆いた。 (David Stanway、Philip Wen、Stella Qiu、NewsWeek = 5-31-19)


中国政府も憂慮、「視覚中国」が踏んだ「写真の権利侵害」という大地雷

知的財産権の保護に対して腰の重い中国政府が、「視覚中国事件」に迅速に対応した背景には何があるのか。

中国の知的財産権問題に火をつけた「視覚中国事件」

「視覚中国」が地雷を踏んだ - -。 これは約 2 週間前、私があるニュースを読んだときの素直な感想だ。 視覚中国とは、中国のあるビジュアルコンテンツサービスを提供する会社だ。 わかりやすく言えば、写真などのコンテンツの使用権を販売するビジネスを行う専門会社で、日本でもよく見られる業態である。 すでに上場していることからも、経営状況は悪くないようだ。 順風満帆にやってきたかのように見えるこの会社は、4 月中旬、突然「自爆」したかのような事件を巻き起こした。

事件の導火線は、1 枚の写真だった。 日本、アメリカ、ヨーロッパ各国の約 200 人の天文科学者からなる研究チームは、共同で銀河にある巨大なブラックホールの姿を捉えることに成功し、4 月 10 日、その写真を無料で公開した。 この史上初の快挙に、世界各国のメディアが注目し、写真を大きく取り上げた。 翌日の 11 日午前、視覚中国はウェブサイト上で、このブラックホールの写真を自社のロゴ入りで公開した。 しかも、いかにも同社がその写真の代理販売権を持っているかのように、同写真を商業目的で利用する場合、「同社の顧客部門責任者に連絡してください」といった内容の注意書きを添えた。

同写真を利用しようと考えるネットユーザーに、「使用料が発生する」という認識を持たせる作戦だ。 同社のサイトでは、中国国旗や国章の写真など「本来無料で使用できる写真素材にも使用価格が表示されている」といった指摘がなされた。 そこで、中国政府に近い共産主義青年団中央の SNS 『微博』などが疑問を呈し、「国旗、国章の著作権も貴社のものなのか」と厳しく問い質した。 中国共産党機関紙『人民日報』と国営新華社通信も、無料で使用できるはずの写真コンテンツをその著作権所有者の許可を得ずに有料で販売している視覚中国のビジネスモデルについて、SNS を通じ相次ぎ批判した。

その過程で「インチキ商売」の手法が完全にばれてしまい、多くの企業や機関が自社の商標、ロゴ、意匠などについても「視覚中国が版権を所有している」と勝手に書かれていることに気づき、波紋が急速に広まった。 視覚中国のビジネスモデルが問題視されているさなかの 12 日、『毎日経済新聞』という中国メディアは、ブラックホールの写真の著作権をめぐって、同写真を公開した「欧州南天天文台 (ESO)」に問い合わせをした。

その結果、同写真の著作権が国際プロジェクト「イベント・ホライズン・テレスコープ・コラボレーション (EHT)」に属し、利用者は同写真の出典を明示すれば、無料で利用できるという事実が判明した。 視覚中国が同写真の利用に対して利用料金を徴収する行為を知った ESO は、「違法だ」と厳しく糾弾した。 同 12 日夜には、政府系テレビ局・中央電視台 (CCTV) も報道特別番組でこの著作権侵害問題を取り上げ、著作権保護という名目を使った悪質なビジネス手法を厳しく批判した。 その一連の報道によって、ブラックホール写真の悪用問題は周知された。

これまでとは打って変わり迅速に動いた中国政府

知的所有権の保護に対して、なかなか重い腰を上げようとしない中国政府は、今回はこれまでと打って変わって厳正な態度で臨んだ。 天津市ネット規制当局である天津市インターネット情報弁公室(網信弁)は、11 日夜、視覚中国のサイト運営責任者から事情聴取をして、サイト内での違法行為を即時に停止させ、業務改善するよう命じた。 視覚中国のサイトも一時閉鎖した。

13 日午後、視覚中国の創業者である柴継軍氏は、メディアに対して写真の著作権不正利用問題の責任を、写真を同社のウェブにアップした契約カメラマン個人に押し付け、「視覚中国の審査方法に問題があったため、詳細に分析した上、改善したい」とコメントをした。 その時点では、まだ逃げ切れると思っていたためか、問題の核心に触れようとはしなかった。

しかし、中国政府のパンチは止まらなかった。 19 日、視覚中国を運営する企業「漢華易美天津」に対して罰金 30 万元(約 500 万円)の行政処分を下したのだ。 視覚中国サイトの一時閉鎖を見て、同じく写真コンテンツの利用権の売買を業務内容とする全景網絡サイト、東方 IC および視覚中国傘下のもう 1 つのサイト『veer』も、サイトを一時閉鎖した。

17 日に入ってから、全景網絡サイト、東方 IC は著作権の不正利用問題を巻き起こしてしまう危険性のある写真をすべて削除した上、サイトを再開した。 しかし、視覚中国関連のサイトはいつ利用を再開するのか、依然として目途が立っていない。 一方株式市場は、この問題に敏感に反応した。 視覚中国の株価は問題発覚後、連続ストップ安となり、12 - 18 日の数日間で 23.36% も下落し、時価総額から約 46 億元(約 764 億円)ものの資金が消えた。

米中貿易摩擦の解消を意識? 地雷が爆発しやすくなった背景

視覚中国は正真正銘の地雷を踏んでしまったのだ。 ただ、これまでの中国で「知的財産権保護」という地雷は、踏んでもすぐに爆発するようなものではなかったように思えるが、今回はなぜ即爆発してしまったのか。 疑問を持つ読者も多いことだろう。

私から見れば、知的財産権保護問題が米中貿易摩擦を解消するための重要な課題になっていることと、今回の事件は深く関係していると思う。 視覚中国のような知的財産権侵害案件は、権利侵害の構図がわかりやすく、弁解の余地もない。 一方で権利侵害による実質的な被害もあまりなく、権利をめぐる対立もない。 中国政府が知的財産権保護問題を重視しているという姿勢を見せるには、今回の案件は都合もタイミングも良すぎるほど良かったのだ。 だから、素早く手を下したのである。

長年、諸外国が苦々しく見ていた中国の知的財産権保護問題は、今回の視覚中国事件で、少しは解決の方向へ向かうかもしれない。 しかし、抜本的な解決を図るには、知的財産権保護の重要性とその周知、国民に対する徹底した教育、法的整備と法の実施に対する細則の制定などが必要だ。 それを考えると、中国の知的財産権保護問題の解決は、まだまだ時間を要しそうな一大作業である。 (莫邦富、Diamond = 4-25-19)



「世界最大の不動産会社」めぐる買収合戦

特派員リポート 斎藤徳彦(中国総局員)

「あまり、まじめにおつきあいしなくても良いのに。」 中国の株価が乱高下するのに振り回されるように、派手な値動きを繰り返す日本の株式市場に、北京からはそうも言いたくなる。

年明け、中国のマーケットは荒れに荒れた。 「中国ショック」と呼ばれた昨夏の乱高下の記憶も新しいまま、今度は導入されたばかりの値幅制限制度「サーキットブレーカー」が裏目に出た。 取引停止となる値幅を目指して株価は駆け下り、制度導入初日の 1 月 4 日、さらにそのわずか 3 日後にも株価が 7% の急落を示して取引が打ち切られた。 その夜、証券監督当局は始めたばかりの制度の撤回を発表。 ネット上では「ブレーカーそのものがぶっ壊れた」、「新制度、享年 4 日」と飛び交った。

未熟な当局の場当たり的な対応に、羊の群れのように右往左往する個人投資家たち。 想像を超えた値動きが世界市場にも波及する。 すべてが、昨夏からなにも成長していないように見えてしまう。 日本まで一喜一憂するのは、なにやら無駄な気がするのだ。 ただし、この中国市場を、表面から見える「できの悪い喜劇」のイメージだけでとらえれば、中国人の金もうけへの感覚を甘く見る愚を犯すことになる。 昨夏の混乱のさなかで、怪物のように商機をうかがう者たちがいた。 それが表面化したのが、「世界最大の不動産会社」を獲物にいま、繰り広げられている敵対的買収だ。

昨年末以降、「万宝之争(万宝合戦)」と呼ばれて中国の経済メディアの目を釘付けにしてきた。星の数ほどある中国の不動産会社の中で、万科企業(本社・深セン)の名は独特の輝きを放つ。 毎年のように中国首位、つまりは世界でも首位を争い、総資産は 5 千億元(約 9 兆円)を超える。 全国の主要都市で手がけるマンションはブランド価値が高く、不動産市場が変調をきたしたこの 2 年間も堅調な利益を生んできた。

創業者の王石会長も、中国で知らぬ者のない名物経営者だ。 この稿が掲載される頃、65 歳の誕生日を迎える。 人民解放軍や鉄道関係の技術者を経て 1984 年に万科を起業。 一代で巨大企業を育てた一方、60 歳になっても世界最高峰エベレストに登頂を果たすスポーツマンぶりや、本業である不動産バブルの過熱に警鐘を鳴らしもする独特の言動、さらに付け加えれば「ちょい悪おやじ」風の容姿も相まって、カリスマと呼ぶにふさわしい立志伝上の人物だ。

この王氏、88 年にあるユニークな決断をしている。 万科を株式会社化するにあたって、本来なら自分のものとなるはずの株の持ち分もすべて、幹部社員に分け与えたのだ。 社員にも経営意識を持たせるための仕掛けだった。 その無欲さがまた、称賛を呼んだが、結果として万科は多くの中国企業とは異なり、オーナーに株が集中せずに分散された状態となった。 これが、今回の事態の伏線となる。

昨夏の株価急落の局面では、香港・深セン両市場に上場する万科の株価も安くなっていた。 ここで登場するのが、同じ深センにある宝能投資集団という、不動産や金融を展開する企業グループだ。 7 - 8 月にグループの保険会社、前海人寿などが万科の株を買いあさり、持ち株比率は年末までに 23.5% まで上がった。 これまで筆頭株主だった国有企業・華潤集団の約 15% をはるかに上回る。

宝能を率いるのは、姚振華という人物。 これまでも、積極的な買収戦略でグループを大きくしてきたが、中国ではほとんど無名の存在だった。 商才にたけるとされる広東省の潮汕地区(潮州市やスワトー市を含む地域)の出身で、70 年生まれという以外、経歴もさほど明らかになっていない。 角刈りに眼鏡、物静かな性格。 しかしその大胆さが、全国を騒然とさせた。 万科株の買い集めに投じた資金は実に 400 億元(約 7 千億円)にのぼるとされる。

深セン市内にある両者の根拠地は対照的だ。郊外の広大な敷地に構える万科の本社は 1 階部分が吹き抜けとなった巨大な低層の建物で、「地上の摩天楼」との異名を持つ。 低層の建物をもし地面に垂直に起こしたら、ニューヨークのエンパイアステートビルほどの高さになるため、という。 一方、宝能の本部が入る「深セン物流ビル」は、どこにでもある約 20 階建てのオフィスビル。 もしも 1 階に万科株を買いあさるグループ会社・前海人寿の看板がなければ、全国を騒がせているあの企業だとは誰も気づきもしないだろう。

王氏と姚氏は昨年 8 月末に一度、面会したが、合意には至らなかったとされる。 12 月 17 日、万科の王氏が発言した。「宝能が筆頭株主となることを受け入れない。 信頼できない相手だ。」 以前の買収でも、宝能が無理やり調達した資金で会社を乗っ取り、企業価値を上げようともしなかったことを指摘した。 現経営陣がこぞって宝能への反対を表明し、「万宝合戦」は全面対決の色を帯びた。

万科は翌 18 日から、「重要な資本の再編をするため」として、自社株を最低 1 カ月、取引停止にするとした。 実際にはこの時点で再編計画などなく、自社の新株を引き受けて宝能に対抗するスポンサーとなる「ホワイトナイト(白馬の騎士)」を探すための時間を稼いでいる、と見られている。 このほかにも報道では買収防衛策の「ポイズン・ピル(毒薬)」や、優良資産を会社からなくしてしまう「焦土作戦」、「クラウンジュエル」といった対抗策を示す単語が次々と躍る。 年が明けて 1 月 15 日には、売買停止措置をさらに延長すると発表した。

新興企業が資本市場のからくりをうまく使いながらスター企業に乗っ取りをしかける。 こうしたすべてに強い既視感を覚えるのは、11 年前に日本で起きた、ネット企業ライブドアによるニッポン放送・フジテレビジョンの買収騒動を取材した記憶があるからだ。 ライブドアを率いた堀江貴文氏の個性的なキャラクターと、当時視聴率首位を快走していたフジテレビの存在感も相まって、日本中の目を釘付けにした。 その構図と、今回の件はことごとく「かぶる」のだ。

「カネがあれば何をしても良いのか」と一種ヒステリックな反応まで引き起こした騒動は、「会社は誰のものか」という問いを日本社会に突きつけた。 あぶり出されたのは、バブル崩壊を経ても変わっていなかったニッポン流の会社観や、新興ネット産業と伝統メディアの相克といった、日本の経済・社会の現在地だった。 同様に、今回の万科と宝能の争いにも、いまの中国経済を読み解くエッセンスが詰まっている。 短く言えば、それは、解き放たれるのを待つ、奔流のようなマネーの勢いだ。

昨年、中央銀行の中国人民銀行は 5 度にわたって利下げを繰り返した。 いま、1 年物の定期預金の金利は 1.50% 。 既に、中国の預金者からすると低すぎる水準だ。 その不満から、より有利な投資先を銀行預金以外に探すことになる。 銀行システムの外で「理財商品」と呼ばれる利回りの高い財テク商品が売られ、そのお金が不透明に投資される。 「シャドーバンキング(影の銀行)」と呼ばれ、3 年前から世界を揺るがす問題だ。

当局も手をこまねいているわけではないので、銀行や証券会社の窓口で売られている理財商品のうち、よりリスクの高いものについては次々と規制を受けている。 それでも、当局と在野のいたちごっこは終わらないのは中国ならでは。 金融界で主役として残った窓口がある。 保険である。

その典型が、宝能グループ傘下の保険会社が売る商品だ。 「いつでも解約できて、利回りは 6 - 8%」という高利回りの商品が、大きな人気を集めた。 保険とは言え、事実上は財テク商品と言える。 ただ、これだけの利回りを約束するからには、宝能自身は集めたお金を 10% 程度の高利回りで運用しなければ、もうからない。 集めたお金を元手にさらに金融機関からお金を借りる、あるいは買った株を担保に入れるといった手法でさらに買収資金をかき集め、万科買収という大勝負に出たのが今回だ。 大手証券会社幹部は「あらゆる制度の抜け道を使いながら、買収に近づいている」と舌を巻く。

同じ保険業界ではやはり新興の大手、安邦保険集団も同様に資金をかき集め、万科の株を買いあさった。 持ち株比率は 6% を超え、争いのカギを握る存在に浮上した。 共産党中枢とのつながりも指摘され、不気味さも漂う企業だ。 万科経営陣は 12 月 23 日、しぶしぶ安邦との提携を発表した。 この時点で、安邦と安定株主の華潤の約 15%、従業員グループが持つ約 4% と合わせればひとまずは、宝能の持ち株比率を上回ることができるからだ。

本来なら、中国の投資マネーが日頃流れ込む「王道」は、万科が立脚する不動産業界だった。 ところが、14 年からマンション価格が全国的に値下がりする変調に見舞われ、投資先としては人気を失っていた。 追い打ちをかけた株式市場全体の値下がりで、保険会社を通じた投機マネーに狙い撃ちされた。 「不動産は右肩上がりで値上がりを続ける」という神話の終わりに出現した買収合戦だとみることもできる。

「公開劇場」の感をより強めるのが、変わりつつある中国当局の姿勢だ。 11 年前のライブドア・フジテレビ騒動の時、私たち取材陣が大急ぎで迫られたのが、会社の買収に関わる法律の勉強だった。 ニッポン放送の大量の新株発行などの買収防衛策は適法なのか、それに対する差し止めはどう審査されるのか。 関連の弁護士にも、迷惑と知りつつ取材におしかけた。

中国の場合、すぐにはこういう発想にはならない。 国の力が法をねじ曲げてしまうことが多すぎるためだ。 最後は監督当局が出てきて一刀両断で裁きを見せる、という構図が繰り返されてきた。 だが今、政権のテーゼとして「法治」を旗印とする当局は、精いっぱいの謙虚さをこの問題について示しているように見える。 どちらの味方をしている節もないのだ。 中国ではありがちな、報道への政府の干渉も今回は見受けられない。

1 月 21 日現在、争いの帰結はまだ見えない。 両者が話し合いで手を打ち、宝能が高値で株を引き取らせるシナリオがまずはありうる。 万科の経営陣が、大量の新株を引き受けてくれる「白馬の騎士」を見つけだすかも知れない。 はたまた、あまりにも無理をして調達してきた買収側の保険マネーに、当局が突如規制をかける可能性も残る。 それを放置している間に保険業界が高利回りで積み上げてきた借金に耐えきれなくなり、新たな金融システム不安の始まりとなる未来も、ありえないとは言い切れない。

ただ、言えることがある。 中国の経済界はかたずをのみながら、この新たな事態を見守っていることだ。 中国経済紙のコラムは、「不透明な取引が多かった中国で、白日の下で資本がものを言う時代の、公開の授業が開かれている」と書いた。 中国企業が買収を巡る感覚を研ぎ澄ます効果を生むだろう。

元々、「会社は株主のもの」という感覚は、中国のほうが日本よりはるかに強い。 たった三十数年前まで、この国で「会社は誰のものか」という問いはありえなかった。 「会社は公のもの。」 つまり、国のものだったからだ。 すべてが国有で経営者がやる気を発揮できない体制の中から、鬼っ子のように民営企業が生まれる。 数千年の歴史を持つ商人魂が目を覚まし、やがてこの国に奇跡的な経済成長をもたらした。 万科自身も、深セン市傘下の国有企業から出発し、幾度かの株式改革を経て、民営企業へ生まれ変わった経験を持つ。

短い時間にそんな変化を体験してきただけに、カネの力任せではあるけれど正面から支配権を握ろうとする宝能のやり方に対して、「これは道徳の問題ではない」と冷静な報道が多い。 報道では「城下の盟(降伏)を迫る」、「足元にまで敵兵が満ちる」、「合従連衡を探る」と、歴史書のような勇ましい言葉が並ぶ。 つまりこういう争いに、中国社会も血湧き肉躍っているのだ。

すべては「対岸の火事」ではない。 この争いにも登場する安邦保険は一昨年、ニューヨークで「大統領の定宿」としても知られた名門ホテル、ウォルドルフ・アストリアを買収してのけた。 米国政府が使わなくなったそのホテルに昨秋泊まったのは、中国の習近平国家主席だった。 マネーの目はもう、海外にも向いている。割安な投資対象を探し回る「肉食系」マネーが、次の照準を日本に向けたとしても、まったく驚きではない。 表面的な乱高下の舞台裏で、中国の金融市場で蓄えられた資本は、今もその力の使い時をうかがっている。 受け入れるにせよ、拒むにせよ、11 年前のようなヒステリックな反応だけでは通用しないだろう。 (asahi = 1-23-16)

斎藤徳彦 (さいとう・とくひこ) 中国総局員 1999 年入社。 鳥取、神戸両支局、経済部、社会部、中国留学などを経て 2013 年 4 月から現職。 39 歳。 11 年前の春の騒動では屋外で取材相手を待つ時間が長すぎて、スギ花粉症が劇化した。