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普通の日本人が知らない「貧困」の深刻な実態

厚生労働省の国民生活基礎調査によると、日本は米国、中国に次ぐ世界第 3 位の経済大国でありながら、7 人に 1 人が貧困にあえぎ、母と子のひとり親世帯では半数以上が貧困に苦しむ。 日本は先進国の中で、「貧困率」の高い国のひとつとして知られている。 なぜ豊かな日本で貧困率が高いのか。

貧困といっても衣食住にも困る「絶対的貧困」と、社会全体の中で見ると相対的に貧困層に属する「相対的貧困」がある。 日本が高いのは当然ながら「相対的貧困」のほうで、社会全体もさほど深刻な問題ではない、という意識があるのかもしれない。 実際に、貧困率というよりも「格差」と考えればわかりやすいのかもしれない。 なぜこのような貧困が、豊満国ニッポンに現れるのか。 貧困問題がいろいろ報道されている割には、貧困の実態がわかっていない可能性もある。 いま、日本社会が直面している貧困について考えてみたい。

貧困はもっと深刻?

貧困率というデータは、厚生労働省の「国民生活基礎調査」として公表されている。 日本の貧困率の最新値は 15.6% (相対的貧困率、2015 年、熊本県を除く、以下同)。 前回調査の 2012 年の 16.1% に対してわずかだが改善している。 一方、17 歳以下の子どもを対象とした「子どもの貧困率」は 2015 年で 13.9%。 こちらも前回 2012 年の 16.3% よりも大きく改善している。 それでも 7 人に 1 人の子どもが貧困に陥っている状況だ。 ひとり親世帯(子どもがいる現役世代のうちの大人がひとりの世帯)の貧困率も 54.6% (2012 年)から 50.8% (2015 年)と改善しているものの半数は超えている。

日本の貧困率の高さは国際的に見ると、米国(16.8%、2015 年、資料 OECD、以下同)に次いで G7 中ワースト 2 位。 さらに、ひとり親世帯では OECD 加盟国 35 カ国中ワースト 1 位になっている。 貧困率は、収入などから税金や社会保障費などを引いた「等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った数値)」の中央値の半分未満しかない人の割合のこと。 等価可処分所得(以下、可処分所得)の中央値は、年間 245 万円(2015年)。 つまり年間 122 万円未満の可処分所得しかない世帯を相対的貧困層、その割合を貧困率というわけだ。

年間 122 万円といえば、月額にして 10 万円ちょっと。 アベノミクスが始まって以来、デフレ脱却はしていないと言いながらもスーパーの食料品などが以前に比べて高くなったことは事実だ。 デフレが続いているとはいえ、月額 10 万円の生活がどんなに苦しいものかはよくわかる。 ちなみに、貧困率を決める可処分所得の中央値は、ここ数年 245 万円程度で推移しているが、20 年前の 1997 年には 297 万円だった。 つまりこの 20 年の間に 可処分所得の中央値が 52 万円も下がっているということになる。 52 万円といえば、月額にして約 4 万 3,000 円。 日本が、この間「失われた 20 年」と呼ばれた経済低迷期であったことが、こんな数字からもわかる。

実際に、同調査の「貯蓄」についてみると「貯蓄がない世帯」が全体で 14.9%。 母子世帯に限ってみると 37.6% に増える。 「生活が苦しい」と答えた人は全体で 56.5%、母子世帯では実に 82.7% が「生活が苦しい」と答えている。 OECD の「学習到達度調査 PISA 2015」では、勉強机や自室、参考書、コンピュータの保有率など 13 の学用品を国際比較したデータを出している。 13 個のうち保有数が 5 個に満たない生徒を「貧困」とみなす仕組みで、日本の貧困生徒の割合は 5.2%。 やはり、先進国 (G7) の中では最も高いレベルに達している。

ひとり親世帯の貧困率 50.8% !

こうした貧困問題で注目すべきは 2 つある。 ひとつは、ひとり親世帯の貧困率の高さだ。 さまざまなメディアでも取り上げられているが、生活保護水準の所得に届かない低所得にあえぐ現状がある。 もうひとつの問題が、高齢者の貧困問題だ。 母子家庭の貧困問題が喫緊の課題というなら、高齢者の貧困問題は将来の課題といえる。 人口減少、高齢化などによって、政府や年金機構、健保組合などが、現在の給付水準を維持できなくなる可能性が高まっている。

年金制度の崩壊などによって人口の 3 分の 1 を占める高齢者の半数が貧困に陥る可能性もある。 人口減少への対応を含めて、早急に考える必要があるだろう。 いずれにしても、子どもの貧困問題は将来の日本に大きな影響をもたらす。 7 人に 1 人と言われる子どもの貧困問題は教育機会の喪失につながり、将来的に大きな損失になる、と言っていい。 どんな背景と原因があるのか。次の 4 つが考えられる。

  1. 労働環境の未整備

    子どもが貧困にあえぐ最大の原因は、言うまでもなく親の収入の低さである。 ひとり親世帯の貧困率が 50% を超えていることでも、それは明白だ。 実際に、母子世帯の非正規社員比率は 57.0% (2012 年、出所 : 厚生労働省「ひとり親家庭等の現状について」)、父子世帯 12.9% と比較しても、その差は歴然だ。 日本特有の「ワーキングプア」と呼ばれる労働環境の悪さが背景にある。 日本では、母親が 1 人で子育てに奔走しながら仕事を続ける場合、まず正規社員では雇ってもらえない。 パートタイマーやアルバイトによって生計を維持していく必要があり、収入はどんなに働いてもたかが知れている。

    シングルマザーに対して冷たい企業が多く、子どもがいても正規社員に採用されている人の割合は 4 割を超えてはいるが、57% が非正規雇用のままだ。 保育園や学校などの煩雑な用事にとらわれ、正規社員のようなフルタイムの仕事はなかなかできない。 結局のところ、正規社員と非正規社員の賃金の差が、母子家庭の貧困という形になって表れていると言っていいだろう。 母親がどんなに優秀であっても、働く機会を平等に与えない。 それが現在の日本企業の問題と言っていい。

  2. 公的支援の怠慢

    OECD の発表によると、GDP に占める教育機関への公的支援の割合は、33 カ国中日本がワースト 2 位となっている。 貧困にあえぐ子どもに対する政府支援が十分でないことを物語る数字だ。 最後のセーフティネットとも言われる「生活保護制度」も、過剰な財政赤字のせいで圧迫され、簡単には受け入れられない現実がある。

    母子世帯の生活保護制度による「生活扶助費」は、家族構成や地域によっても異なるが月額 13 万 - 14 万円程度。 貧困層のひとり親世帯の所得は年間 122 万円、月額 10 万円ちょっとよりもずっと多い。 だったら、貧困層に属するひとり親世帯は全員が生活保護を受けたほうがいいと考えがちだが、そう簡単には生活保護が受けられない仕組みになっている。

    子ども食堂といったその場しのぎの方法では、いまや抜本的な解決にはなっていない。 非正規社員の低所得にあえぐ母子家庭に対して、いますぐ公的な支援が必要になると考えていいだろう。 母子世帯は、約 123 万 8,000 世帯(「ひとり親家庭等の現状について」より)。 そのうちの半数が貧困層とすれば 62 万世帯。 母と子で少なくとも 120 万人が貧困と戦っている。

  3. 親から子へ、子から孫へ 貧困の連鎖

    貧困問題の深刻さは、親から子へ、子から孫へという具合に世代を超えて連鎖していく傾向があることだ。 「貧困の連鎖」と呼ばれるものだが、親の経済的困窮が子どもの教育環境や進学状況に大きな影響を及ぼすため、貧困は連鎖しやすい。

    大学既卒者の割合が 50% を超え大卒が標準化した現在、大学に行けない世代が生涯賃金などで大きな遅れを取り、結果的に貧困の連鎖につながっている。 むろん、業界や企業規模による賃金格差も大きいが、日本は依然として学歴偏重社会と言っていい。 こうした現実をきちんと把握して対策をとる必要がある。 大学進学のために多額の借金を抱えてしまう現在の奨学金制度では、抜本的な改革にはならない。 むしろ大学卒業後の行動範囲を狭めてしまう。

  4. 累進課税の歪み

    日本の累進課税制度は、一見公平なように見えるが、最も所得の高い勤労世帯と高齢者で所得の低い層とが同じレベルの「税負担率」になっている。 税負担率が同じでも、収入が多ければそれだけ家計に及ぼす税負担は軽く済む。 低所得の高齢者と金持ちの勤労世帯の税負担率が同じレベルでは、税の累進性は機能していないのと一緒だ。

    今後、消費税率が上昇していくことになるはずだが、母子家庭で貧困にあえぐシングルマザーにとっては消費税だけでも高い税負担になる可能性がある。 累進税制をきちんと機能させる税制にシフトすることが早急に求められるわけだ。 安倍政権が進める働き方改革によって、同一労働同一賃金が実現する可能性が出てきたが、本当にきちんと機能するのか疑問もある。 子育てと仕事を両立させるためには、これまでの価値観やルールに縛られていては前に進まない。

高齢者世帯の 27% が貧困状態

子どもの貧困と並んで深刻なのが、高齢者の貧困だ。 65 歳以上の「高齢者のいる世帯」の貧困率は 27.0%。 つまり高齢者世帯の 4 世帯に 1 世帯以上が貧困世帯となっている。 さらに 65 歳以上のひとり暮らし(単身世帯)の貧困率を見るとさらに深刻さは増す。

・男性単身世帯 36.4%
・女性単身世帯 56.2%

65 歳以上といえば、年金生活を送っているのが普通だが、現在の年金給付レベルでは女性が 6 割近く、男性も 4 割近い単独世帯が貧困に陥っているのが現実だ。 実際に、家計調査年報の 2016 年度版によると、無職の高齢単身世帯の実収入の平均は月額で 12 万 2,000 円、年換算で 147 万円となっている。 一方、日本の貧困問題は高齢者にとどまらず、いまや全世代の問題になりつつある、というデータもある。

たとえば、現在 40 代の可処分所得は 60 代のそれと同水準になりつつあると言われている。 非正規雇用者の増加で 40 代の平均所得はここ 20 年で 1 割減少しており、厚生労働省の「厚生労働白書」や総務省統計局の「全国消費実態調査」などを総合すると、所得の減少傾向は深刻さを増している。 詳細は省略するが可処分所得で考えると、いまや 40 代と 60 代の可処分所得はほぼ同じレベルになっており、30 代と 70 代の可処分所得も近づきつつある。 年々、可処分所得が減少し続ける現役世代に対して、豊かな貯蓄を背景に可処分所得を上回る消費支出がリタイア世帯にみられる。

言い換えれば、今後日本はあらゆる世代の年齢層が貧困にあえぐ時代が来る、と言っても過言ではないのかもしれない。 日本の貧困率の高さは、母子家庭と高齢者ばかりがクローズアップされているものの、その実態は「日本国民総貧困化」なのかもしれない。 まさに「We are the 99%」をスローガンにした「ウォール街を占拠せよ」の抗議運動を象徴するかのような現実が、かつて総中流社会と呼ばれた日本でも、現実のものになりつつある、ということだろう。

いまや 99% に近づきつつある貧困層の問題を解決するには、シングルマザー世帯への救済や高齢者の労働環境整備などが必要になってくるだろう。 貧困問題は、結局のところ格差社会の問題といえる。 大企業、高学歴重視の政策がいずれは社会を混乱させてしまう。 貧困問題の解決は、政府が緊急に直面すべき問題なのかもしれない。 (東洋経済 = 5-30-18)


増殖 デジタル支出 「ドコモ払い」は 3 兆円

様々な経済指標が回復するなか、消費関連の数字の出遅れが目立つ。 デフレから脱却しきれず賃金上昇も力強さを欠くなか、ネットを介したデジタル消費や消費者同士が直接取引するシェアリングエコノミーは拡大する。 消費は本当にさえないのか。 従来の手法では捕捉できない消費の姿を追う。

「3 万 9 千円か。 1 月は結構いったな。」 NTT ドコモから送られてきた請求書を見て、小杉拓也 (29) はつぶやいた。 小杉は別に電話魔ではない。 4 万円近い支払いの大半は「ケータイ払い」と書かれた一括請求。 中身はデジタル書籍や音楽のダウンロードとネット通販の購入額だ。

4 ケタの暗証番号を入れ商品やサービスを買い、通話料に上乗せして支払う「ケータイ払い」をドコモが導入したのは「i モード」時代の 2005 年。 スマートフォン(スマホ)が普及した 11 年ごろから利用が急増し、アマゾンのネット通販に対応した 17 年は金融決済の取扱高(クレジット払い含む)が 16 年比 22% 増の 3 兆円に。 コンビニエンスストア最大手、セブン-イレブン・ジャパンのチェーン全店舗売上高(16 年度約 4 兆 5 千億円)の 3 分の 2 の規模だ。 消費は統計上は回復感がみえない。 総務省の家計調査(2 人以上世帯)で世帯あたり消費支出が最大だった 1993 年と比べると、17 年の「被服・履物」は 51% 減、「食料」と「住居」は 10 - 11% 減った。

異彩を放つのが「通信費」だ。17 年は月額 1 万3271円と93年比で約2倍。スマホの普及が背景とされるが、通話やメールなど本来の通信費は実は、家計調査のようには伸びていない。 ドコモの場合、通話とパケット通信、ネット接続を合わせた加入者 1 人あたり通信料は 4,430 円と 00 年から半減した。 家計調査の「通信費」を膨らませているのは、モノやサービスの購入だ。 商品やサービスの対価がリアルの小売市場を飛ばし、スマホを介して直接メーカー側に支払われる。 例えば服を「ケータイ払い」した場合、家計調査では「被服」ではなく「通信費」に紛れる例が増えている。

小売業全体の売上高は 16 年までの 10 年間で 3.7% 増(約 140 兆円)にとどまるが、個人向け電子商取引 (EC) は同期間で 3.4 倍の 15 兆円になった。 リアルの消費が空洞化するなか、デジタル消費は急拡大する。

客はいるのに売り上げは増えない。 実店舗ではこんな現象が目立つ。 今もなお若者ファッションの聖地、SHIBUYA109 (東京・渋谷)。 テナントの売上高は 10 年前の半分に減ったが、客数はあまり変わらない。 ここでもスマホ片手に買い物をする 10 - 20 代の女性が目立つ。 この現象は「ショールーミング」と呼ばれる消費行動だ。 店頭では品定めをして、スマホで値段が少しでも安い商品を探しネットで購入する。

野村総合研究所の試算では、店頭からネットへの流入額は 16 年度に 3 兆 5 千億円。 百貨店の国内市場(約 6 兆円)の半分以上の規模だ。 デジタル消費者を呼び込むため SHIBUYA109 は「インスタ映え」する凝った装飾を館内に設け、テナントも自社通販サイトを充実する。

消費者は安く買い物できた分のお金をどこにかけているのか。内閣府の調査をみると、バブル期の 91 年は「モノ」消費が約5割を占めていたが、16 年度にはサービス支出が 59% になっている。 小売り国内最大手イオンの業績をみても、モノからコトへの消費シフトが分かる。 総合スーパー (GMS) を運営する中核企業、イオンリテールの売上高は 17 年 2 月期(2 兆 1,853 億円)と 5 年前とほぼ変わらない。 一方、アミューズメント施設運営のイオンファンタジーなどサービス主要 3 社の売上高合計は 3,635 億円と、5 年前から 5 割増えた。

野村総研の消費者 1 万人調査では、自分の生活水準について「上」もしくは「中の上」と答えた人は 15 年に 18.8% と 00 年から 2 倍以上に増えた。 デジタル化によって商品・サービスの価格が下がり「消費者はむしろ実質的に生活が豊かになったと感じている。(此本臣吾社長)」 消費を変貌させているのはネットだけではない。 一人ひとりの収入はなお伸び悩むが、働く女性や生活に余裕がある単身シニアが増え、新たな形で消費のけん引役になり始めている。 大きく姿を変え始めた消費をしっかりととらえ直さないと、政府の経済政策も企業の成長戦略も描けない。 (nikkei = 3-12-18)



グーグルが大躍進する米教育市場 MS やアップルと異なる "草の根" 戦略

Microsoft が 5 月初めに「Surface Laptop」というノート PC の新機種と、それを駆動する OS 「Windows 10 S」を発表していた。 ハードウェアについては主に大学新入生をターゲットにした市場が Surface Laptop (Apple「Macbook Air」の対抗馬)、そしてその他の教育市場(小中高校向け)はサードパーティー製のもっと低価格な製品(Google「Chromebook」の対抗馬)という棲み分けになるらしい。

さて、この米教育市場の現状について詳しく報じた記事が NYTimes でいくつか公開されている。 Google、Microsoft、Appleという 3 強の現状がよくわかる面白い記事だ。 今回はこのなかから目についた数字や、なぜ Google が短期間で教育の現場に浸透できたか、といった理由についての話を紹介する。 上記の「Windows 10 S」に対して、2016 年に米教育市場で「Chrome OS」のシェア(ハードウェア出荷台数)が前年の 50% から 58% に増加したとあるが、NYTimes でも調査会社 (Futuresource Consulting) のデータを引用しながら、もう少し詳しいデータを紹介している。

それによると、3 社のシェアは Google が 58% (出荷台数は 1,260 万台)、Microsoft (Windows) が 21.6%、Apple (iOS および macOS)が 19% だったいう。 また 2012 年にはこの割合が、Apple が 52%、Microsoft が 43%、Google が 1% 未満だったというから、最後発のシェアだけをみると Google が市場を一気に制覇した格好にも見える。 もっとも、金額ベースではいまだに Apple 製品が優位に立っているようで、売上高は Apple が約 28 億ドル(前年の 32 億ドルから減少)、Windows 製品が 25 億ドル(前年の 21 億ドルから増加)、Chrome 製品が 19 億ドル(前年の 14 億ドルから増加)だったという引用もある。

全体で年間 73.5 億ドル(2016 年)という米教育市場は、3 社それぞれの売上規模を考えると、それほど大きな影響を及ぼす市場とはいえないかもしれない。 だが、それぞれプラットフォームを提供する 3 社にとっては、具体的な金額の多寡よりも潜在ユーザーへのアクセス、つまり学校時代に各社の製品やサービスになじんだ子供たちが卒業後あるいは成人後もそれぞれの製品を使い続ける可能性のほうが大きいはずで、その点がわかると Microsoft がわざわざ学校向けに別バージョンの OS を用意してきた理由も見えてきそうだ。

同時に、ライバル 2 社の後塵を拝する格好になった Apple が 6 月に開催される WWDC で、この分野に関するどんな発表をしてくるかも注目点といえるかもしれない。

教育現場を先に巻き込む Google の戦略

Google が 5 年弱という短期間で出荷台数の約 6 割を押さえることに成功した。 その主な要因としては、購入・運用コストの安さ、管理ツールをはじめとするクラウド上のアプリの充実、そして現場の教師と一体となったサービス開発などが挙げられている。 コストについては「Mac 1 台分で 3 台の Chromebook を手に入れられる」といった顧客の声が紹介されている。 また Google に支払うサポート料は 1 台あたり 30 ドル(一度だけ支払えばいい)。 生徒・学生が使うアプリ類は、Gmail、Google Docs など、一般向けとほぼ同じで、特にコラボレーション機能をいち早く充実させたことが評価されたなどとある。

また教員向けの "Google Classroom" という管理ツールを他者に先駆けて開発したことにも何度か言及がある。 このツールを使うことで、教師は生徒に宿題を割り振ったり、提出された宿題をチェックしたりすることが簡単にできるようになったそうだ。 そのほか、ユーザーのデータが基本的にクラウド上に保存される仕組みも、いろんな生徒が PC を順番に使う教室では好都合といった指摘もある。

この話で特に面白いのは、Google が市場参入・浸透に際して用いた戦略。 もともとは Gmail や Docs を自発的に教育現場に持ち込んだ一部の熱心な支持者がいて、Google は彼らをサポートしたり、エバンジェリストとして活用したりしながら、直接現場の教師たちを取り込んでいったという。 Microsoft や Apple が採ってきた各地の学校区(日本の教育委員会にあたるものと思われる)を通じて製品を売り込むという従来のやり方と比べると、草の根的というかゲリラ的なやり方にも思える。

NYTimes 記事で多くの分量が割かれているシカゴの学区では当初、中抜きされた格好の学区の IT 責任者らと Google の間で摩擦も生じたが、Google 側でも次第に対応する要領を覚えたことで、いまでは何らかの新しいものを投入する際には先に相談するようになっているそうだ。 なお、摩擦の例としては、Google が納入に際して当初具体的な契約書にサインしたがらなかったが、学区側ではいつ中味が書き換えられるかわからないオンラインのガイドラインなど問題外として突っぱね、結果的に Google 側が折れることになったとある。

批判の声や懸念など

教育現場での Google 製品の活用を熱心に指示する関係者がいる一方で、同社による生徒のデータの扱いや、同社のビジネスモデルに関する不透明さを懸念する声もある。 Googleでは一応「児童・生徒に対しては広告は表示しない」という方針を採っている。ただし、具体的にどんなデータを集めているのか、集めたデータをどういった目的に使っているのか、といった点は開示していない。そのため、一部の父兄などからは情報開示が不十分であるとする指摘がある。

また、なかには学校から借りてきた Chromebook を使って自宅で学習すると生徒の自宅の住所まで判明してしまう可能性を懸念する声も出ている。 そのほか、教員や児童・生徒が無償のベータテスターとなっていることや、一部の学校では卒業時に通常版 Gmail などへのデータ移行を学校側が促す例などもあり、そうした点を問題視する声なども紹介されている。

なお、NYTimes ではすでに 1,500 万人くらいの児童・生徒が学校で Google 製品に触れているとしている。 このうちの何割くらいが大人になっても Google 製品を使い続けるかといったデータは紹介されていないが、Google としてもユーザー獲得のための先行投資というつもりで教育分野の取り組みを続けているとの可能性も十分考えられそうだ。

とくに予算の制約が厳しい公立学校などが低コストで管理もしやすい Google 製品を選ぶというのは容易に想像がつく。 ただ、現在の勢いが続いて事実上 Google しか選択肢がないという状態になるのもやはり好ましことではないだろう。 ここはやはり Microsoft や Apple が頑張って、競争力のある別の選択肢を用意するのが望ましいはずだが、果たしてどうなることやら。 (坂和敏、Cnet = 5-25-17)


アマゾンのリアル侵食に小売りが対抗する手

オムニチャネルで武装する局面に来ている

流通のイノベーションがやってくる

「アメリカは、日本の 3 年先を走っている。」 日本の流通業界でよく言われる話です。 アメリカで事象が起きた 3 年後に、日本の流通のイノベーションがやってくることを意味しています。 拙著『2 時間でわかる 図解オムニチャネル入門』で解説しているオムニチャネルも、まさにそうです。 2011 年ごろにアメリカで話題が盛り上がり、日本で「オムニチャネル元年」と呼ばれたのは 2014 年でした。

オムニチャネルとは、「買い物に際し、購入、受け取り、決済、商品のピッキング方法と渡し方が複数用意されており、それらを利用客の希望に合わせて効率よく商品を届ける仕組み」です。 言うなれば「利用客が商品を欲しいと思ったときに、いつでもどこでも注文でき、希望する場所で受け取れる」インフラのことです。 オムニチャネルが一段と進んでくると、リアルとネットの壁が突き破られてきます。 そして、ネット通販の巨人であるアマゾンが、今まさにリアル業態に入ってきている象徴的な出来事が進行中です。

今年 1 月末の午後 5 時、筆者はサンフランシスコ発のヴァージンアメリカでシアトルに到着しました。 シアトルは米アマゾンの本拠地です。 暗闇の中、「amazon」の大きなロゴマークが光る物流センターをレンタカーで横切り、本社に近い中心街のホテルにチェックインしました。 今回の渡米で最も目当てにしていた場所を訪れました。 「アマゾン・グローサリー・ピックアップ」、いわゆる食料雑貨の受け取り拠点です。 この業態はアマゾンの従業員を含めてほとんどの人が知らないでしょう。 それもそのはず。まだ開業していなかったのです。

ネット小売業と、実店舗の壁が消える?

ここを見たかった理由は 1 つ。 アマゾンにとって、インターネット小売業と実店舗を持つ小売業の壁が完全に消える象徴になることです。 ネット通販と実店舗の違いは商品を保管するストックポイントの位置にあります。 現状のネット通販のストックポイントは物流センターであり、注文を受けると社員が商品を取って顧客に届けます。 リアルの小売業はストックポイントが店舗で、顧客自身が商品を取ります。 つまりストックポイントに誰が取りに行くのかという違いしかありません。 そう考えると、よくある、小売り全体に占めるネット通販の割合を語ることは無意味です。

これまでは百貨店や総合スーパーなど実店舗で営業する小売業がネットの領域に参入し、社員がピックするストックポイントを広げてきました。 アマゾンがやろうとしているのはその逆で、ネット小売業者がストックポイントとして実店舗を持つということです。 その大きな一歩がグローサリーピックアップなのです。 日本のリアルな小売りチェーンはこれにどう対応したらいいでしょうか。 日本ではスマートフォンの普及が進んだのとほぼ同じ時期に、オムニチャネルという言葉が広まったため、スマートフォンによる EC (電子商取引)というイメージが強くあるかもしれませんが、実は違います。 オムニチャネルの考え方において、EC はその一部です。

「ネット通販の台頭により売り上げを奪われた小売業が、リアル店舗を持っていることこそが強みだということを再認識し、ネットを取り入れることにより、弱点を強みに進化させたもの」がオムニチャネルであるといえます。 リアル店舗のビジネスの中に EC を取り込み、売り上げを上げるという店舗ありきの考え方なのです。

EC の登場によって、多くのリアル店舗が利用客を奪われたのは事実です。 店舗運営側としては、経費のかかるリアル店舗を持たずに済むから、運営コストを引き下げることができ、その分、販売価格を下げても利益を稼ぐことができますし、インターネット上では店舗スペースを気にせず商品を陳列でき、リアル店舗のどこよりも豊富な品ぞろえを展開できるといったことが可能になります。 一方、利用客からは、自宅にいながらにして店舗ごとの価格比較ができることや、いつでも買い物ができるという利便性が喜ばれました。

特に日本の場合、早くて正確、丁寧な宅配便という配送方法が定着しており、現地に行って買うか、お土産でもらうかしかなかった全国各地の名産品(ことに生もの、日持ちのしないもの)ですら、国内どこからでも簡単に購入できるようになっています。 このように EC は、日常の買い物に新たな楽しさ、ワクワク感を、消費者にプレゼントしてくれました。

しかし、こうしたメリットはいまや、消費者に特別な驚きを与えるものではありません。 生まれながらにして、デジタル環境のなかで育ってきた層も立派な顧客対象になってきましたが、その人たちがリアル店舗を利用しなくなったわけではありません。 ただ単に、便利な買い物場所の選択肢のひとつとして EC が定着したにすぎないのです。

オムニチャネルで武装すべき局面に

EC が特別な存在でなくなったいま、利用客に高い満足を提供できる買い物環境は何か。 その答えのひとつがオムニチャネルであり、EC だけでは実現できない機能(実物を体験できる、人とのふれあいがある、行ってみないとわからない体験など)をもつリアル店舗にとっては、その存在をあらためて消費者にアピールできる絶好のチャンスが到来しているのです。

日本でもオムニ 7、ヨドバシカメラ、カメラのキタムラがオムニチャネルで一定の成果を出せるようになりましたが、導入に苦労している企業もたくさんあります。 その理由は、たとえば在庫のリアルタイム一元管理。 確立するためにはシステムだけの話ではなく、物流センターの運営も統合しないとできません。 ユニクロを運営するファーストリテイリングの柳井正会長兼社長が「ユニクロは物流会社になる」と、強力なリーダーシップで物流オペレーションの運営管理力を上げようとしているのはこのためです。

このように一部の企業が消費者獲得に力を入れている一方、EC の浸透で自社売り上げが減っていると危機感をもつ小売業が少ないことを私は懸念しています。 本来なら、EC という見えない競合に、対抗チラシや対抗 MD (マーチャンダイニング)を打たなければ対抗できないのに、やっている企業が少ないのが現状です。 これからの時代を生き残っていくためにも、リアル小売業がオムニチャネルで武装すべき局面に来ています。

小売業で注目されがちなオムニチャネルですが、実はメーカーにもプラスの効果があります。 フラッグシップストアで、一般には販売しないこだわり商品を置き、インフルエンサーやイノベーターといわれる先端のファンが、ハイレベルの接客などを含むオムニチャネル体験をする。 それによってブランド力が上がり、量販店やスポーツ専門店での量販品の販売も伸びるのです。 メーカーも、オムニチャネルで販売力を高められるのです。 導入にあたっては、店員教育がひとつのポイントになります。 現場への教育なくして、成功はありません。 (角井 亮一 : イー・ロジット代表取締役、東洋経済 = 3-15-17)


経済成長は永遠なのか 「この 200 年、むしろ例外」

いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。 だが、それは永遠のものなのだろうか。 アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。 にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。 思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。

希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。 昨年 1 月に日銀が打ち出すや世論調査で 6 割超の人が「評価できない」と答えた。 いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。 これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。 政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。

だがこの 25 年間の名目成長率はほぼゼロ。 ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。 そこで疑問が浮かぶ。 ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。 失われた 20 年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。 その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。 温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。

若者たちが当たり前に使う 1 台 8 万円の最新スマホが、25 年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。 ずっと性能が劣るパソコンは 30 万円、テレビ 20 万円、固定電話 7 万円、カメラ 3 万円、世界大百科事典は全 35 巻で 20 万円超 …。 控えめに見積もったとしても、軽く 80 万円を超える。 スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25 年前なら SF 映画の世界の話だった。

ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産 (GDP) というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。 80 万円超の大型消費が、統計上はスマホの 8 万円だけに減ることさえあるのだ。 そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかく GDP を膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。 人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。

実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは 200 年前にすぎない。 長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。 GDP 統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。 1930 年代の大恐慌、第 2 次世界大戦がきっかけだった。

GDP、語られぬ限界

昨年夏、GDP 統計をめぐるちょっとした論争があった。 所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。 きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。 ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。 アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。 現実へのいらだちがあった。

数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響する GDP。 その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。 世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。 17 世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。 そこから現在のような GDP になったのは、さらにあと。 1930 年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第 2 次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)

一般的には 1760 年代の英国産業革命が成長の起点とされる。 だが西暦 1 年 - 2000 年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1 人当たり GDP がはっきり伸び始めた起点は 60 年ほど後の 1820 年ごろだった。 その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。 1820 年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。 技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。

もとは冷戦期の産物

社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。 「それだけのことにすぎない。 なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです。」 冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。 むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。

1970 年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌する人類への警告だった。 人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。 いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。

佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。 これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか。」と話す。

低成長容認、社会に変化の兆し

紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。 その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。 もともと民間銀行の一つだったが 1844 年の制度改正で中央銀行に進化した。 つまり 1820 年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。 いま世界経済の成長スピードが落ちている。 2008 年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。

サマーズ元米財務長官は 3 年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。 日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策 … と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。 「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。

中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。 岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。 そんな今の中央銀行に独立性はない。 存在意義がなくなってしまった。」と指摘する。

経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの 200 年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。 そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。 「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか。」 成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。

「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。 最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった。」 主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。 それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。 現実にはそうなっていない。

19 世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。 だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。 いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。 むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。 たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。 大量消費と一線を画す動きだ。

四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。 博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年 54% で、9 年前より 22 ポイントも増えた。 さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。 同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。 いわば『常温』を楽しむ社会です。」と話す。

いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。 ただマディソンの 2 千年の成長率推計を見れば、この 200 年の 2 - 3% 成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。 成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。 少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。 (編集委員・原真人、asahi = 1-4-16)

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