江戸のファッションリーダー、辰巳芸者

着物のお太鼓結びは、江戸時代後期、亀戸天神の太鼓橋の落成記念に、辰巳芸者(深川芸者)が揃いのこの帯結びで、他の参拝客を驚かせたのが初めてと言われています。 江戸の街から日本全土へ、今は最もポピュラーな帯結びです。 もともと帯はその目的からして紐状の細いものでしたが、江戸時代中期から後期にかけて次第に広くなっていきました。 広くなれば当然、その織柄、染柄が競い合われることになります。 従って、帯の造作が一目で分かるお太鼓結びが普及したのも、むしろ自然の成り行きだったとも言えるでしょう。

辰巳芸者は、江戸時代中期、羽織を付け、吾妻下駄を履き、男名を名乗り、遊女とは一線を画して、三味線と踊りの「羽織芸者」として江戸の大評判になります。 しかし、評判になればなるで、幕府の締め付けも厳しくなり、18 世紀半ば、「奢侈禁止」を名目に、彼女らのシンボルでもあった「羽織」の着用が禁止されてしまいます。 羽織が付けられないのであれば、露わになった帯がますます華美にになっていき、ついには新しい帯結びで見せつけたのでしょう。 羽織禁止から 60 年余、年月をかけた幕府への意趣返しに江戸の人々は喝采を送ったはずです。

実際には芸者と遊女に違いがあったのかと言われそうですが、気風がよく、粋でいなせで、芸への精進に強い職業意識を持ち、さらには反骨精神を発揮する辰巳芸者を江戸の人々はずっと身近に感じていたに違いありません。

唯、辰巳芸者のおかげで、今も女性の羽織は、例え紋付でもフォーマルな服装とは認められていません。 少なくとも、目上のお方にご挨拶される時は、必ず羽織をとっていただくのが無難です。 男性は、羽織・袴でも、女性は帯付なのです。

(竜、1-15-13)

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