盗まれ韓国へ 13 年、対馬の寺に仏像引き渡し 「待ちわびていた」 2012 年に長崎県対馬市の観音寺から盗まれ、韓国へ持ち込まれた仏像が 10 日、現地で日本側に引き渡された。 対馬に戻るのは 12 日になる予定。 日韓関係に一時は摩擦をもたらした問題が、13 年を経て決着する。 対馬市役所から車で約 1 時間。 北部の上島にある観音寺の檀家総代長、村瀬辰馬さん (70) は、「帰りを待ちわびていた。 うれしい。 日程がはっきりするまで不安だったが、安心した。」と笑顔をみせる。 この寺の本尊、県指定有形文化財「観世音菩薩坐像」が盗まれたのは 12 年 10 月だった。 村瀬さんは当時、「なんて罰当たりなことを」と感じたという。 盗難後、対馬の人々が仏像の行方を知ったのは翌 13 年 1 月だった。 海を越えた韓国側で窃盗団が拘束された。 仏像は回収され、韓国政府が保管。 だが、すんなりと日本に戻らなかった。 韓国の浮石(プソク)寺が「高麗時代に浮石寺で造られた記録がある」などと主張。 韓国政府が仏像を日本側に引き渡さないように求める仮処分を申請し、同年 2 月、現地の大田(テジョン)地裁が認めた。 揺れた韓国の司法判断、最高裁で決着 浮石寺は「倭寇に略奪された可能性がある」などとも訴えた。 韓国政府に対して浮石寺への引き渡しを求めて提訴。 同地裁は 17 年、浮石寺の訴えを認め、韓国政府は即日控訴した。 大田高裁での控訴審では、対馬の観音寺の住職が 22 年に渡韓し、補助参加人として出廷。 「一日も早く我々のもとに戻ってくることを祈っている」と陳述した。 高裁は翌年、一審判決を取り消し、一転して観音寺の所有権を認めた。 今度は浮石寺側が上告。 日韓の寺の綱引きは注目され、双方の国民感情を刺激する材料になってきた。 決着したのは 23 年 10 月。 韓国大法院(最高裁)は上告を棄却し、観音寺の所有権をあらためて認めた。 その後の調整を経て、今回、対馬に戻ることになった。 この間、対馬と韓国の関係も揺れてきた。 対馬から韓国南部の釜山まで海を挟んで約 50 キロ。 定期航路が運航されており、仏像が盗まれた 12 年には、年間約 15 万人の韓国人が対馬へ入国した。 その後も増加を続け、18 年にはピークの約 41 万人に達した。 だが、歴史問題や輸出規制などをめぐり日韓関係が悪化し、19 年に一部航路が休止や減便された。 翌年のコロナ禍で全面運休となり、21、22 年の韓国人入国者はゼロとなった。 徐々に航路が再開されたのは 23 年から。 翌 24 年の韓国人入国者は年間 19 万人にまで回復した。 港周辺には、韓国人客向けにハングルや英語を記した看板が目立つ。 同年 3 月にオープンした「無印良品」の店舗にも、ハングルの案内表示が掲げられた。 交流が再開するなかで実現した返還。 仏像は日本に戻る前に、対立してきた浮石寺に一時貸し出されてきた。 この間、現地で 100 日間の法要が行われてきた。 3 月には、浮石寺の住職らが対馬を訪れ、観音寺の住職らと懇談した。 10 日も返還を前にした法要があり、渡韓した観音寺の田中節孝前住職 (78) ら日本側関係者も参加。 仏像は午後 0 時半(日本時間同)ごろに日本側に引き渡された。 浮石寺の円牛住職は「今後も対馬と円満に交流し、文化遺産の価値を生かすために話し合い、世界的な模範にしていきたい」と述べた。 観音寺の田中前住職は「やっとこの日が来たかといううれしい気持ちだ。 (浮石寺での) 100 日法要も有意義だったと思う。」と話した。 仏像は、専門の運送業者によって対馬へ運ばれる。 県学芸文化課の点検などを受けた後、12 日午後から観音寺で法要が開かれ、檀家の地元住民らが帰還を祝う。 その後は、再び盗難に遭わないように、対馬の博物館で保管されるという。 (菅野みゆき、瑞山・貝瀬秋彦、asahi = 5-10-25) 前 報 (1-17-25) 貝殻島コンブ漁、ロシアとの交渉が妥結 183 隻が操業へ 北方領土・貝殻島の周辺海域で日本漁船が行う今年のコンブ漁について、北海道水産会(札幌市)は 30 日夜、操業条件をめぐるロシア側との民間交渉が妥結したと発表した。 コンブの採取量は昨年より 300 トン少ない 2,700 トン。 チガイソやスジメを含む褐藻類の採取量としては、昨年を336 トン下回る 3,024 トンと決まった。 交渉は 4 月 28 日から、東京とモスクワをつないでウェブ会議方式で行われていた。 ロシア側に支払う採取権料は、昨年より 803 万 7 千円少ない 7,233 万 3 千円となった。 操業期間は 6 月 1 日から 9 月 30 日まで。 操業隻数は昨年より 12 隻少ない 183 隻となった。 交渉の妥結を受けて、根室市の石垣雅敏市長は「貝殻島のコンブ漁は当市の経済において重要な位置づけを占めている。 無事妥結に至り、安堵している」とコメントした。 (山本智之、asahi = 5-1-25) おいしい牛乳いつまでも 舌が肥えた子どもたちは違いを見抜いた 子どもの頃、給食の時間が楽しみで、牛乳が苦手という友だちに代わって毎日 2 本飲んでいた。 今年 2 月から北海道版で、「おいしい牛乳いつまでも」という記事ワッペン(随時掲載)を始めた。 ポップなタイトル文字に、ホルスタイン柄や、駆けている乳牛をあしらって、デザイン部員が可愛らしく仕上げてくれた。 酪農家や乳製品に関する記事に必ず付けているので、ご覧になった読者もいるはず。 ワッペンを作ったのは、酪農家の経営が危機的な状況、という実態を知ってもらうため。 日本で乳牛から搾る「生乳」は年間約 750 万トンに上る。 うち北海道のシェアは 50% 超。 都府県(北海道以外)が束になってもかなわない。 まさしく「酪農王国」だが、円安や国際情勢で輸入飼料は高騰し、光熱費や輸送コストも上昇する。 そんな取材を始めて数カ月。 最大の収穫は「しべつ牛乳」を知ったこと。 本当は誰にも教えず、独り占めしたいのだが、あんなおいしい牛乳は飲んだことがない。 JA 標津(しべつ)が独自の厳しい品質基準を設けて、酪農家もそれをめざして切磋琢磨している。 地元だけで流通し、町教育委員会は、こども園、小・中学校、高校の給食に約 630 人分を日々提供。 町内のスーパーでも入手できるが、お値段は少し高めだ。 舌が肥えた標津の子らは、家庭の食卓でも、しべつ牛乳をせがむように。 家計をやりくりする保護者は、牛乳の紙パックを使い回し、別の牛乳を入れて冷蔵庫に保管するが、一口飲んだだけでその違いを見抜かれるという。 JA 標津が、お取り寄せの直販サイトを設けている。 "北海道酪農のすばらしさ" を一度お試しあれ。 (松田昌也、asahi = 4-26-25) 1,200 畳、樹齢 160 年の大藤が見ごろ あしかがフラワーパーク ![]() 樹齢 160 年を超える大藤が栃木県足利市の「あしかがフラワーパーク」で見ごろとなり、多くの人でにぎわっている。 藤棚の広さは 2 本で 1,200 畳(約 2 千平方メートル)。 花房は 1.8 メートルまで伸びる。 多い年には 1 本の幹から約 8 万房の花をつけるという。 花々は風に揺られながら、甘いにおいを漂わせていた。 岩手県釜石市から訪れた 70 代の女性は「感動しました。 いつか来たいと思っていました。 来てよかった。」と話していた。 同園によると、天候にもよるが大藤はゴールデンウィーク中は見ごろが続き、長さ約 80 メートルの「白藤のトンネル」はまもなく見ごろという。 園内には約 350 本のフジがあり、次々と見ごろを迎える。 ゴールデンウィーク中は午前 7 時から午後 9 時まで開園しており、夜はライトアップも行われる。 同園では 4 月から 5 月にかけて約 60 万人が来園すると予想している。 近年は外国人旅行客が増えているという。 2018 年に近くを走る JR 両毛線に「あしかがフラワーパーク駅」が開業しており、周辺道路の渋滞を避けるため、鉄道での来場を呼びかけている。(嶋田達也、asahi = 4-26-25) 台湾有事あったら? 火薬庫の用途は? 防衛拠点構想で初の住民説明会 日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区(日鉄呉)跡地に「多機能な複合防衛拠点」を整備する防衛省案について、広島県呉市が 24 日夜、初めての住民説明会を開いた。 住民からは地域の活性化につながると歓迎する声が上がる一方、有事に攻撃対象になると懸念する意見も出た。 説明会は跡地に近い警固屋まちづくりセンターであり、住民 205 人が参加した。 防衛省中国四国防衛局の有賀元宏企画部長、同省東日本協力課の北原由尚企画調整官、呉市の大森和雄総務部長らが出席した。 防衛省の有賀部長は資料を示しながら、火薬庫や水中・水上で使用する無人機の製造整備拠点を設けることなど、跡地への機能の配置を示したゾーニング案を説明した。 有賀部長は「防衛力の抜本的強化のためには、装備品の維持整備、製造、訓練、補給等を一体的に機能させ、部隊運用の持続性を高める必要がある」と防衛拠点整備の必要性を述べた。 住民からは「地域の活性化、経済的な波及効果につながると思う」と期待する意見が出た。 一方で、「台湾有事のようなことがあった場合どうなるのか」との質問も出た。 これに対し、防衛省の北原調整官は「台湾有事といった仮定の質問には答えられない。 日米防衛協力を深化させて、我が国への武力攻撃が発生しないよう抑止力を高めたい」と答えた。 火薬庫の用途を問う質問には、「部隊の活動の拠点として火薬庫は必要。 具体的にどの弾薬をどう保管するかは自衛隊の能力を明らかにすることになるので、明らかにできない。」と答えた。 配置される隊員数や事業費、今後のスケジュールなどの質問が出たが、防衛省から具体的な回答はなかった。 質問のため挙手する住民が多数いた。 当てられないままの人も多かったが、市は今後の住民説明会は予定していない。 終了後、参加した住民の伊藤道子さん (80) は「本当はもっと言いたかったのに質問ができなかった。 引き続きもっと説明会を開いて欲しい。」と話した。 警固屋商店連合会の宮本幹三会長 (61) は地域の活性化に期待する一方で、「ヘリポートができたらやっぱり音の部分が心配。 これからの説明会で説明してくれると思う。」と語った。 (柳川迅、asahi = 4-25-25) 米 100% 「みんなのビール」誕生! アレルギーでも安心、苦み少なく 麦芽の代わりにお米を 100% 使ったクラフトビール「ORYVIA (オリビア)」が、三重県桑名市で誕生した。 グルテンフリーでアレルゲンも動物由来の原料も使わず、ビールを飲みたい大人ならだれでも飲める「BEER FOR ALL」がコンセプトだ。 開発したのは、同市のビール醸造会社「RICE HACK(ライスハック)」代表取締役の道口靖央さん (35)。 同社取締役で、名古屋市の「ノザキ製菓」社長の野崎伸夫さん (48) の支援を受け、お米のビールの着想を得てから 9 年がかりで実現させた。 この間、道口さんはオーストラリアのワイナリーやビール醸造所、福井県の酒蔵で修業を積み、今年 3 月までに酒類販売、酒類製造など、必要な免許や許可を取得した。 こだわったのは、飲みやすさ。 お米が原料なので麦芽由来のえぐみがなく、ビールの苦みが苦手な人でも大丈夫という。 大麦や小麦に含まれるグルテンに加え、アレルギー特定原材料など 28 品目や動物由来の原料も使っていないため、グルテン過敏症やアレルギーを持つ人、ビーガン(完全菜食主義者)でも安心して飲めるという。 コメの需要喚起もめざす めざしているのは、お米の消費アップという。 「米不足が続いているが、もともとは米の消費量が確保できないために、生産意欲が衰えたのが原因のひとつ。 米を原料にすることで、その解決につなげたい。」と道口さん。 桑名特産の米油の生産過程で出る脱脂米ぬかや、粒が割れて売り物にならない米も使い、食品ロスの削減にも貢献したいという。 ラテン語のオリザ(米)にちなんだ「ORYVIA」ブランドで 5 月中に販売を始める第 1 弾は、王道ホップをうたう「雅(みやび、770円〈税込み〉)。」 お米が原料とは思わせない本格的な味わいに仕上がった。 今年中に 5 種類を発表する計画で、さわやかな「爽(そう)」とすっきりした「凛(りん)」を夏ごろ、日本酒感がある「和(なごみ)」を秋ごろ、濃い味わいの「醇(じゅん)」を冬ごろに販売するという(いずれも酒税法上は発泡酒)。 同市長島町にあるビール醸造所は、週に 500 リットルを生産する能力があり、今後の拡大も視野に入れている。 道口さんは「グルテンフリーの市場は世界的に拡大していて、グルテンフリービールの需要も高まっている。 特に国内では、グルテンフリービールを製造している醸造所はほとんど事例がなく、成長の可能性を秘めている」と夢を膨らませる。 (鈴木裕、asahi = 4-20-25) ピーク時は 8,300 人超いた村、初の人口 1,000 人割れ 高齢化率も県内で最高 … 大学教授が指摘する要因は 長野県天龍村の住民基本台帳に基づく人口が 3 月末、1956 (昭和 31)年の 2 村合併で発足して以来初めて千人を下回り、998 人(男 477 人、女 521 人)となった。 2000 年発行の村史からは 1874 (明治 7)年の調査で現在の村域の人口が 2,846 人だったことが分かり、後の記述と合わせると、村は「千人を割るのは明治期以降初めてではないか」としている。 1950 年ごろにはダム建設の労働者が居住 村の発足当初に近い 1950 年の国勢調査によると、現在の村域の人口は 8,337 人。 電源開発のための平岡ダム建設の労働者が多く住み、この時がピークとみられる。 その後、基幹産業の林業が衰退し、人口減少が続いている。 長野県で最も高い高齢化率 村によると、ここ数年は毎年 40 - 60 人ほどの減少が続いている。 15 - 64 歳の生産年齢人口の減少が就職や結婚による転出で著しい一方、今年 3 月末時点の 65 歳以上の高齢化率 (61.42%) は県内で最も高い。 「ダム完成や林業衰退から立ち直れていないのでは」 村内で「買い物弱者」などを研究している長野大の相川陽一教授(農村社会学)は、天竜川下流の佐久間ダムを抱え、かつて林業で栄えた共通点を持つ浜松市天竜区佐久間町も同様の傾向があると指摘。 「地元経済が、ダム完成や林業衰退当時の打撃から立ち直れていないと言えるのでは」と分析する。 村長「千人割れを奮起の契機に」 永嶺誠一村長は、人口減少は避けられないとしつつ「交流人口の増加や子育て支援の充実から若年層の移住につなげたい。 『千人割れ』を奮起の契機にできれば。」と話している。 (信濃毎日新聞 = 4-14-25) 静岡抜いた茶生産量日本一 「真っ赤な機械」、「抹茶ブーム」が後押し 「香りがいいね」、「甘くておいしい」 3 月 19 日、鹿児島空港(鹿児島県霧島市)で開かれたお茶の PR イベント。 入れたての霧島茶を振る舞うと、多くの人が足を止めて味わった。 会場に出されたのぼりに記されていたのが「祝 茶生産量日本一」の文字だ。 収穫後に蒸し、もみ、乾燥を加えた茶葉で製茶前の原料を指す「荒茶」。 この生産量について、農林水産省が 2 月に発表した数字が茶業関係者に衝撃を与えた。 2024 年産の鹿児島県が 2 万 7 千トン(前年比 3% 増)に対し、静岡県は 2 万 5,800 トン(前年比 5% 減)。 鹿児島が 1959年の統計開始以来、初めてトップとなった。 「静岡に追いつけ、追い越せと昔の人から教わってきたのでうれしい。」 県内生産量の 5 割を占める南九州市で「知覧茶」を生産・販売する枦川(はしかわ)製茶の枦川克可(かつか)社長 (45) は話す。 亡き祖父がつくった知覧銘茶研究会の会長だ。 濃くて甘みがある知覧茶は、いまや鹿児島を代表するブランドに成長した。 枦川製茶のお茶は各種品評会で賞を受け、23 年度の農林水産祭では最高賞の天皇杯に輝いた。 半世紀前は静岡が圧倒的な産地で、お茶づくりをしていた祖父はお手本にしていた。 「大事な一番茶の収穫の時期に茶工場を止めてまで、夜行列車に乗って勉強に行ったそうです。」 静岡で学んだ技術を仲間と共有し、品質の良いお茶づくりに励んできた。 「先人の苦労があっていまがある。 祖父や(先代の)父には感謝しています。」 日本一の背景には、平らで広大な茶畑を生かしたお茶づくりがある。 品種が多いため、温暖な気候を生かして春の一番茶(主に急須で飲まれるリーフ茶)から、二番茶、三番茶、四番茶、秋冬番茶まで収穫期間が長いことが奏功した。 そして、最大の要因はペットボトル飲料に使われる二番茶、三番茶の需要が好調だったこと。 品質が高い一番茶は 8,450 トンで静岡の 11万トンを下回ったものの、二番茶以降で巻き返した。 静岡に響いた二つの「減」 静岡側にしてみれば二つの「減」が影響した。 静岡県などによると、一番茶の価格低迷を受けて多くが二番茶以降の収穫を取りやめた。 さらに傾斜地の茶畑が多いため、高齢化などによる担い手不足で栽培面積が減る傾向にあり、24 年は 1 万 2,800 ヘクタールと 10 年前に比べて 30% 減。 一方の鹿児島は 8,150 ヘクタールで静岡には及ばないが、5% 減にとどまっている。 すでに産出額では鹿児島が 19 年に一度首位になっており、鹿児島の関係者の間では「荒茶生産量の逆転も時間の問題」と言われていた。 ただし、鹿児島の関係者も歓迎一色ではない。 値が高い一番茶の生産量では静岡にかなわないばかりか、家庭でのお茶離れが理由とされるリーフ茶の低迷は鹿児島の生産者にとっても痛手だ。 枦川さんは「単純に静岡を追い抜いたわけではないし、茶価が低迷する中では喜んでばかりいられない。 お互いに切磋琢磨してやっていかなければいけない。」と気を引き締める。 広大な緑一色の茶畑に真っ赤な機械が映える。 この機械、人が運転しながら摘み取りをする「乗用型摘採機」という。 鹿児島県南九州市の松元機工が開発し、鹿児島のお茶づくりの発展を後押ししてきた。 松元雄二社長 (51) は「お茶農家と一緒に成長してきた会社なので生産量日本一は感慨深いものがあります」と話す。 7 年前に他界した創業者の父芳見さん(享年 89)が生み出した。 「茶摘みが大変。 機械化できないか。」 農家からの相談がきっかけだった。 最初は持ち運び型の「バリカン刃」。 好評だったが、夏場は重労働だと言われて乗用型を模索した。 昭和 40 年代に完成した初期型は、「労働の省力化につながる」と普及していった。 さらに改良を重ね、昭和 50 年代には現在の型が出来上がったという。 ある時、評判を聞きつけた静岡県の農家がやって来て、静岡でも使える機械をつくってほしいと頼まれたこともあった。 しかし、芳見さんは、こう言って断ったという。 「傾斜地で使えば故障する。 畑を機械に合わせてください。」 年月を経て、機械化による大規模栽培を進めた鹿児島が、生産量で静岡を追い抜く日が訪れた。 「外では言いませんが、うちがなければ日本一はなかっただろうと社員には言っています。」 「鹿児島でとれるの?」 課題は知名度 日本一の生産量となった荒茶には、広く飲まれている煎茶だけでなく、抹茶の原料となるてん茶も含まれている。 そして、てん茶は鹿児島が国内トップの生産量を誇る。 鹿児島県茶生産協会によると、2023 年の生産量は鹿児島が 1,585 トンで、20 年に京都を抜いて以降は 4 年連続で 1 位。 煎茶に比べると量は少ないが、5 年前の 2.7 倍に増えており、970 トンの京都に差をつけている。 追い風となっているのが「抹茶ブーム」だ。 海外を中心に健康食品として人気があり、低迷する煎茶と違って勢いがあるという。 同県志布志市の上室製茶は 9 年前にてん茶づくりを始めた。 煎茶の先行きに不安を感じていた時期に京都の関係者から依頼された。 上室和久社長 (47) によると、抹茶の粉末はスイーツの加工用としての需要が高く、「コロナ禍以降にぐんと伸びた。」 取引先以外からも「分けてほしい」と連絡が相次いでいるという。 てん茶用の畑を徐々に増やし、今年から自社で管理する 18 ヘクタールのほとんどで作る。 鹿児島は加工施設が充実していないため、いまは原料としての出荷のみだが、「将来的には海外から来たバイヤーと直接取引し、加工した抹茶の粉末を輸出できるようになるのが理想」と夢を語る。 JA 鹿児島県経済連も 2028 年度に抹茶加工施設を鹿児島市につくる計画だ。 鹿児島のお茶が飛躍するためには何が必要なのか。 販売する側の鹿児島県茶商業協同組合の澤田了三理事長 (74) = お茶の沢田園会長 = は知名度の低さを課題に挙げる。 1972 年、鹿児島市南栄 3 丁目に新茶市場ができたのと同時に会社の工場・事務所を茶業団地に設立。 業界の成長とともに歩んできたが、「消費者は鹿児島茶といってもピンとこない。 いまだに『鹿児島でお茶はとれるの?』と言われます。」と苦笑いする。 ただ、今回の日本一で「有名になることは間違いない。 より質の高いお茶づくりを続けブランド力を高めてほしい。」 日本一のお茶どころになれるか。 鹿児島茶の底力が試されている。 (仙崎信一、asahi = 4-5-25) |