*** 1 ***

- 序 章 -

日本軍のインパール作戦が失敗した後の昭和20年2月頃、敵はいよいよビルマの中央部メークテーラの町へM4戦車を乗り入れてきた。 当時、小隊から出された我々三名の保線所勤務兵は、ピヨペという部落の溝の中に設けた保線所で穴居生活を送っていた。 メークテーラまでは距離にして20キロくらいあったろうか、夜を日に継いでの彼我の砲声が遠雷のように聞こえてきた。

戦況は日本軍に不利らしく、砲声は日を追ってだんだん近くに聞こえてきた。 「受話器から離れてはならぬ」と云う中隊本部の命令で、交替で受話器にかじり付いていると、後方司令から前線参謀への緊迫した指令が次々と聞こえてくる。 メークテーラ戦の悪戦苦闘の様子がひしひしと胸に迫ってきた。

同年4月、既に我々の保線所も戦闘圏内の渦中にあり、事態の容易ならざることが判然としてきた。 弾丸が飛んできたら直ぐ逃げ出す覚悟で、荷物を一ヵ所に集め、いつでも焼却出来るように整理する。 朝飯を早くに済ませ残飯は握り飯にした。

午前8時頃になって、けたたましい機関銃の音が身近に聴こえ、パチパチと何かものの焼けるような音がしてきた。 溝地から首を上げて見ると、いつどこに布陣していたのか日本軍が、まるで蜘蛛の子を散らすように、こちらに向かって逃げ出してきていた。


(注) 通信線の保守を行う「祭60連隊」の兵士を描いた スケッチ を、川畑様から提供戴きました。

このインパール作戦は、日本軍に 168,000 余名の戦死者が出る悲惨な結果に終わりました。