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- 少通校 (陸軍少年通信兵学校) とは ? -

少通校には満15歳から18歳未満の少年で、身体検査・学科試験を合格した者のみが入校を許されました。 少通校は少年兵の学校としては最初に設立された学校で、昭和8年12月1日に第1期生が入校しています。

学校では1年間は兵として必要なあらゆる基礎教育・訓練に明け暮れ、通信の通の字も解らなかった少年も見事に電鍵を打てるようになって、2年目から各兵科別に分けられての教育となります。 軍通信・師団通信・情報通信・戦車通信・船舶通信・航空通信・固定通信とに分けられ、学校卒業後は各々の部隊で皆それぞれの働きをしました。

私たちは第10期生で、私は航空通信に進みました。 昭和17年12月1日入校、戦況が逼迫してきたため2年間の教育を6ヶ月繰り上げ、昭和19年5月15日に卒業して、内地、満州の部隊に行く者は即日出発、我々南方要員は輸送船の都合で出陣が遅れ、6月11日深夜、門司港を出港しました。

マニラ湾に落ちる夕日の風景も、ビルマに赴任途上2週間に亘り眺めることが出来ました。 門司を出航して38日かかってシンガポールに辿りついたうちの14日間はマニラに停泊したためでした。

その間、上陸は許されず、タンカーの甲板上での苦行(?)でした。 船上から市街を眺めると原色の服を着たアベックが堤防に浜辺にずらりと並んでいて、もう目のやり場に困る我々でした。

私がビルマに行き生還出来たのは、機動力のある航空隊で陸続きのタイに撤退することが出来たからだと思います。

- 使 用 さ れ た 通 信 器 材 -

少通校では一通り扱ったのですが、入校2年目に航空要員と決まってからは対空2号無線機だけの扱いとなりました。 しかし、2号乙、3号甲、5号無線機など入校してから1年間みっちり教育された思い出がいっぱい詰まっている器材です。

ビルマ、タイと飛行場で苦楽を共にした対空2号受信機、重い送信機には敗戦となっても武装解除まで大切に磨き上げてイギリス軍に引渡しました。

(注) 使用されていた通信機材については、「横浜旧軍無線通信資料館」を、ご参照下さい。

- 戦 後 の 慰 霊 活 動 -

「鯨烈山砲」の慰霊団団長、香川県坂出市の稲田吉徳氏は戦闘中、猛烈な下痢とマラリヤに悩まされるも村の長に介抱され一命を取り留めた恩に感謝して、地元小学校の校舎寄贈を思い立ち、自費で毎年一校を鯨烈山砲、第一中隊玉砕の地、メークテーラ近辺の村の5校に2000年から校舎を寄贈されてきました。 私たち同行団員も文房具を持てるだけ持って学校を訪問、子供達と喜びを分かち合っています。

しかし、団長も83歳の高齢で足腰、緑内障、など体調に不安が重なり本年(2004年)3月の訪緬を以て終わりにしたいと申されて、平成11年(1999年)から連続して続いた巡拝慰霊団も終わりました。

もともと、「祭60連隊」の慰霊団が昭和60年(1985年)に結成され、同年2月27日から9日間、私もビルマ慰霊団の一人として初めて参加しました。 これが、鯨烈山砲の慰霊団と6回連続、計7回の訪緬となる基を作った慰霊でした。

今年はイエウエイの日本人墓地に移転5年記念の植樹をして参りました。 次の5年目に植樹した幼木のブーゲンビリヤ、竹等がきっと大きくなって迎えてくれると思います。 2009年のその日を楽しみに元気に生きて行きたいと思っています。

写真の仏像は四国の石(あんじ石)で団長が毎年寄贈の校舎に一体づつ、郷里から運ばれたものでかなりの重量です。 石仏像の入魂式は現地僧により厳粛に行われました。


  • スケッチは「祭60連隊」の故田畑敏雄氏です。 並ぶ「二つの墓標」とは ・・・ 別れ難き戦友の隣にご自身の墓。 もう墓穴を掘ってくれる友もいない ・・・ その時のお気持ちはいかばかりだったのでしょう。 同氏のスケッチは、次のページ以降(計5ページ、88枚)にまとめました。

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