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- 撤退、終戦、収容所生活 -

そして、対空無線隊本部の最終分隊は、「ビルマ、シヤン高原のヘホ飛行場を(昭和20年)4月18日に撤収し、トングーへと向ったものの、既にトングーは敵戦車の攻撃にさらされていて通過は無理で引き返し、4月28日にケマピユーからサルウイン河を渡河、5月10日にクンユアムに到着し、5日間の休養後、5月15日出発、5月29日チエンマイに到着。」と、部隊の記録にあります。 ケマピユーから一ヶ月の徒歩行軍でチエンマイにたどり着きました。

同じ部隊でありながら、本隊より二日ほど出発が遅れたばかりに、飢餓に病に悩まされ続けた分隊の中で、赤井曹長(静岡出身)の書いた行軍誌の一節を紹介します。 クンユアムにたどり着いた時の将兵の喜びが目に見えるようです。

一面に開けた青い稲田に白鷺の群れが絵のように美しく、今までとは全く異なった風景が目に写った。 「クンユアム」へ「クンユアム」へ、コーヒーや「うどん」の話に、一夜山中に露営の夢を結ぶ。

トッペ部落を経て5月10日待望のクンユアムに到着した。 ここは皆の期待を裏切らなかった。 夢にまで見たコーヒーもうどんもあった。 ・・以下略します。

(注) クンユアムには、小さな「旧日本軍博物館」があり、今も地元の人々によって大切に守られています。

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終戦の日の泰国、暑苦しい日でした。 毎日、イギリス兵の捕虜を10名程、陣地構築の使役に使っていました。

その頃はタイの軍隊が我が方に向けトーチかを作り、銃眼もわが飛行場に向けられており、抗議しても敵空挺部隊に供えてというだけでした。 当時、カンボヂヤ国境近く、ウボン飛行場に展開した我が分隊でしたが、飛行場大隊の命令で対空無線隊の地下通信所を作ることとなり英軍捕虜に作業をさせることになりました。 飛行場に隣接して捕虜収容所があり英軍捕虜、百名程がおりました。

炎天下の作業の監視役は何時の間にか若い私に押し付けられた格好でしたが、連日捕虜を10名程受領し作業現場に連れて行き、午前中一杯の穴掘り作業を騎兵銃に弾込めしての監視です。

毎日のことなので顔なじみになり、何時の間にか捕虜の中のボスらしきものが作業人員を我が隊に振り分けるようになっていたようです。 半月近くもすると、休憩タイムの時にはお互い片言の日本語や英語で話をするようになりました。 捕虜の中でも比較的に体の弱いものを我が分隊に廻しているらしく感じました。 作業もボスが指図して順調に進み、体調不良者をかばう戦友愛が見られました。

彼たちは戦況を良く知っており、「もう間もなく戦争は終ります。 イギリスに帰るので頭の髪は伸ばします。」と言っていましたが、彼らの髪が伸びきる前に終戦になりました。 ここの捕虜収容所の所長はチャンギーに送られ処刑されたと聞きました。 私は終戦前日まで作業をさせていましたが、幸い捕虜と仲良くしていたので罪にもならず無事復員出来ました。

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敗戦後は泰国のナコンナヨークに集結しました。 盆地のような地形で、そこに7万人の日本軍兵士が収容されていました。

廻りの山で野生の竹を切り出して自分たちで兵舎を建設、地下水のありそうな所を掘り、水を確保し、少し落ち着いてからは、各部隊で演芸班を作り、歌、踊り、芝居の競演で無聊を慰めたものです。 私は若かったので芝居の女形に引っ張り出されて、部隊の演じものがあるときは労務(道路工事等)は免除されて芝居の練習で明け暮れました。 我がナコンナヨークの演芸班は、収容された地区の名前を取って「高千穂劇団」と名乗っていました。

何の粉か知りませんが顔に塗り紅をつけて舞台に立ちました。 衣装などもパラシュートを使ったり、楽器も手造り、染色も、カツラもそれぞれ専門家がおりました。 得意の出し物は「男の花道」で、中村歌右衛門役の兵は女と思われ、楽屋で身体検査を受け疑いを晴らしました。 各隊からの要望もあり、収容所を隅々まで演じて喜ばれました。

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