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川 畑 武 和 著

- ビ ル マ へ の 出 征 -

昭和19年5月15日陸軍少年通信兵学校を卒業、まだ17歳の少年でした。

私がビルマに赴任したのはインパール作戦が失敗して総崩れとなって、ビルマの各師団が陣容を立て直していた昭和19年6月11日に門司を出港、運良く敵潜とは遭遇を免れたものの38日もかかりシンガポールにたどり着き、マレー半島を北上、タイ国からタイメン鉄道に乗車、モールメン、マルタバン、ラングーン、と鉄道にてサジ到着、サジ駅で出迎えの下士官に引率されてメークテーラ市の本隊に到着した時は8月の中頃でした。

メークテーラ市内の大きな湖の湖畔に、第32対空無線隊の本部がありましたが、私はメークテーラ東飛行場の通信分隊に配属され少年飛行兵7期生愛媛県出身、大窪軍曹以下12名が飛行場片隅で昼夜交代で各飛行場と交信を行いました。

対空無線隊は昭和19年4月に新設された部隊で、本土は勿論、満州、中国、南方各地に展開しました。 第1対空無線隊は、大本営、以下ビルマには第31・第32対空無線隊が展開、第31はラングーンなど中南部の飛行場に、我が第32はトングーなどの中北部の各飛行場を担当しました。 ミートキーナ(ミチナ)飛行場にも、第32対空無線隊、1ヶ分隊派遣が決定していましたが戦局の悪化で中止になりました。

昭和19年5月15日に少通校を卒業の翌日、ミートキーナ市街に敵(英軍)空挺部隊が進入、同年8月3日に水上少将が自決されましたが、私が長い船旅を終えてメークテーラの本隊に到着したのはそれから10日ほどたった8月の中頃でした。 水上閣下の自決とミートキーナの敗戦はその時知りました。

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作戦時の爆撃機、戦闘機との交信も、雨期が明け乾期到来と共に、10月頃から電波は出せなくなり(電探で発信地判明)、即、猛烈な絨毯爆撃を受け飛行場を再起不能にさせられることが度重なるようになりました。 迎撃の戦闘機もなく、為すがままの状態です。

前線からは、ボロボロの軍服で三々五々うつろな目をした敗残兵姿の将兵が下がってくるのを目にするようになり、年が明け昭和20年になると、戦況悪化をいち早く感じた現地住民の市内から立ち退く事が激しくなりました。 商人の町と言われていた市街はガランとしてゴーストタウンの様相です。

そのころイラワジ河作戦が発動され、チャンドラボース率いるインド独立軍はイラワジ河東岸に布陣、しかしイラワジを簡単に渡河した英印軍は怒濤のごとく戦車など 3,000 を以て突破、完全に制空権を握られた我が兵站と野戦病院、飛行場警備隊はあっという間に蹂躙されてしまったのです。

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いよいよ、我が部隊は師団命令でタイ国に転進する事になり、暗号書と無線機を携行して移動を始めました。 通信隊の兵器は通信機と命より大事な暗号書です。 暗号書の保管を命ぜられた私は昼も夜も、命をかけて守り抜きました。 ヘホからシャン高原を南に駆け抜け、モチ鉱山からトングー街道を突っ走り、ラングーン街道へ出てピユー、ペグーにいち早く出られたのも重い機材を運べる自動車が有ったからででしたが、シッタン河の渡河点(4月27日)までで、無線機は渡河できたもののトラックは敵機の餌食になりました。

その翌日シッタンを渡河後、貨車に積み込んだ機材も暗号書も2機のスピットフアイヤーの銃撃で炎上、通信機を持たぬ通信兵になり、泰国のタックリー飛行場の本隊に到着したときは肩身の狭い思いをしました。 一つはその銃撃で隊長から預かった将校行李も同時に炎上してしまったのですが、火炎に包まれた貨車からどうしても引き出すことが出来なかったのです。

なにもかも無くなり身軽になったわれわれのその後は、徒歩での撤退が始まりましたが、空からの脅威とビルマ反乱軍の夜襲を何とかかわして、赴任の時にお世話になった泰緬鉄道に乗ることができて同盟国タイに入国出来ました。 運良くシッタン河まで夜間だけの貨物自動車での搬送ですが、そのおかげで命拾い出来ました。

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ビルマ派遣の軍通信要員の同期生、15名のうち8名戦死、サガイン山頂のパゴダの中に氏名が刻まれています。 ビルマ慰霊巡拝で7回訪れました。 写真はイエウエイ日本人墓地での慰霊祭後です。

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