- 入隊からビルマまで(補追) -
私は昭和 7 年の徴兵検査組である。 検査の結果は第二乙種であった。 多分、身長と体重不足のためだったと思う。
それから 10 年余を経て召集となり、昭和 18 年 1 月 13 日、久留米の捜索第 54 聯隊に入隊した。 年齢は 31 歳である。 第二乙種の虚弱な体と痔が悪かったので、恐らく帰されるであろうと覚悟していたが、戦局逼迫と兵員不足のためか合格してしまった。 この部隊で 3 ヵ月間、野戦貨物廠要員としての教育を受けると、直ちに門司で乗船、着いた港は昭南(シンガポール)であった。
上陸もつかの間、マレー半島を北上してペナンの港からスマトラ島に上陸、メダンの町で再教育を受けると赤道を越え、ブキチンギという町にある野戦貨物廠上瀧隊へ配属となった。 この地は赤道直下とは言え、高原にあるためか快適な気温に、加えて物資も豊富で、戦地であることを忘れさせるほど平和な楽天地であった。
ブキチンギに残る壕
 |
しかし、天はこの地スマトラに長くいることを許さず、昭和 18 年 5 月から 5 ヶ月たらずの滞在の後、インパール作戦の開始とともに、ビルマ方面軍通信兵として独立有線第 94 中隊大場隊へ転属となった。
中隊の編成が昭南で行われると、再びマレー半島を北上し、ビルマの首都ラングーンへ着いたのが昭和 18 年 10 月であった。 心配していた痔は召集以来痛みもなく、不思議と快方に向かい気にすることもなくなった。
ラングーンへ到着すると体格検査があり、軍医が一人ずつ診ていたが私の番になると、
「お前はよう兵隊にとられたなぁ!」
と言いながら、頭のてっぺんから爪先まで見つめた上で、あざ笑われたことを覚えている。
私はこのように、兵として、またインパール戦の用兵としては、凡そ不適格な弱兵だったのである。
ラングーンへ着いた夜には、早速空襲があり、上陸以来初めてタコツボに身を隠すことになった。 しかも、空襲は毎夜のようにあり、スマトラとは余りにも掛け離れた戦地の様相に驚いた。 通信兵として 20 日間の教育を受けると、ラングーンを発ち、ピューという町に駐留した。 中隊の任務は、ラングーンとマンダレーを結ぶ鉄道線路に沿って走る通信線の確保と保全であった。
|