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父がビルマで南に敗走している最中、息子である筆者は、母の実家があった九州、佐世保におりました。 祖母を頂点とする大家族の中で、母は家業の手伝いに忙しく、殆ど一緒にいることは無かったようです。 そして、こちらは余りにも小さく、全く役立たずの一員だった次第です。

わが家の「戦争の歴史」は、筆者が生まれる前、祖母の長男(母の兄)が中国大陸で戦死したことから始まるようです。 ずっと後になって祖母の弟さんから聞いた話は、長男の戦死に対する祖母の過激な発言が災いして、「特高」にしょっ引かれてしまったとのことでした。 祖母としては、家業の当主であった祖父に先立たれ、跡取りと目していた息子も追うように死なれてしまったわけですから、気も狂わんばかりの精神状態だったのでしょう。 きっと怖い思いをしたはずですが、ともかく無事に戻って来られたようで、余計な心配を掛けないように祖母は母を含む子供たちに、死ぬまでこの悪夢の体験を語ることはありませんでした。 そして、1942年(昭和17年)末、既に30歳を過ぎた父の「赤紙」出征へと繋がります。

筆者の記憶は、連夜の激しい空襲から始まります。 佐世保は三大海軍基地の一つであったにもかかわらず、殆ど防御能力が無く、他の多くの町と同様に町の大半が灰燼に帰しました。 当時、筆者はようやく3歳になったばかりだったのですが(筆者の歳も、おのずと分かりますね!)、生まれて初めての、そして、これまでの人生で最大の貴重な記憶が刻みこまれました。

空襲警報が出ると、いつも決まったところに巻いて置いてあるゴザを抱えて、防空壕に飛び込むのが、殆ど日課だったようです。 1945年(昭和20年)6月28日、いよいよ大空襲を迎えます。 いつもの通り、防空壕に転がり込んでいたのですが、その夜は、さすがに避難している人々で一杯でした。




家族の誰かが抱え上げてくれて、すのこ状の木の扉の間から、町の中心地方向に、真っ赤になった夜空 - これは 80% の町が一瞬にして無くなった証しでした。 そして静まり返った中で、「決してもうこのような経験をすることはないので、しっかりと覚えておきなさい!」と、何度も何度も口にする祖母のリンとした声が響き渡り、忘れることなく刻み込まれ、何時でも昨日のことのように、しっかりと蘇ります。

しかし、終戦の日、8月15日には、はっきりした記憶がありません。 振り返ると、ある日を境に家が急に明るく、賑やかになった、とおぼろげに感じたのだけは覚えています。 やっと戦争が終わった、声高に話しが出来る、と緊張が解けた面だけでは無く、物理的にも、電灯の回りを覆っていた黒いシェード、ガラス戸の隅から隅に張ってあった、大きな "X" マークを、わが家では、一挙に取り払ったのではないかと想像しています。

私の生まれ育った母の実家は、大きな食料品店(生鮮食品を除く)でした。

米、大豆、小豆、メリケン粉、酒、味噌、醤油、それにタバコなど、量は分かりませんが、終戦まで何でも揃っていたような気がします。 おそらく、軍にも納入していたでしょうから、かように確保出来たのでしょう。 食品の小売は、マスや天秤を使った、殆どが量り売りでした。

副食品で、記憶にあるのは、かますに入って積み上げられたカズノコ(今の白っぽいものとは違って、完全な天日干しで黄金色をしていました。 味も比べものになりません。)、他に、昆布、鰹節、塩鮭などでした。 品揃えから見て、国内のみならず、当然、朝鮮半島、北洋(樺太、千島)、大陸(満州)からも入っていたようです。

(注) 佐世保、大空襲について、

「長 崎 新 聞」  「戦争の記憶」 佐世保大空襲 B29 市街地に「火の雨」 平成17年6月28日