3 方向から人波、174cm の体浮いた 現場にいた日本人が見た事故

150 人以上が亡くなる事故が起きた韓国・ソウル市内の「梨泰院(イテウォン)」は、国際色豊かな観光地だった。 ドラマのロケ地として、日本人にもよく知られている。 いったい、何があったのか。 状況を知る日本人 3 人が取材に応じた。

29 日午後 9 時 15 分ごろ、九州出身の池田大王さん(20 代)は、双子の弟の紀元さんとともに、地下鉄の梨泰院駅に着いた。 ぎゅうぎゅう詰めの電車内から、ほとんどの人が一気に降りた。 池田さんはネットフリックスのドラマ「梨泰院クラス」でこの地を知った。 ドラマではまさに、ハロウィーンで仮装し、梨泰院にくり出す若者たちの様子が描かれている。

駅舎内は人であふれかえり、電車を降りてから地上に着くまで 15 分ほどかかった。 駅周辺は人、人、人。 弟と「怖いなあ。 帰るか。と言い合うほどだった。 梨泰院は、駅の一本北側にメイン通りがあり、両側に飲食店やクラブが並ぶ。 そこまで歩いた池田さん。 「確認した限り、警備や交通整理の方はいなかった。」 これが午後 9 時 45 分ぐらいのことだ。

必死に壁よじ登るひとも

人の流れは東から西へと一方通行状態だったが、途中で動かなくなった。 あまりのひとの多さに引き返そうと思ったのか、西から東へと向かうひとの流れもでき始めた。 押し合いが始まり、「圧迫感はさらに強くなった。」 なんとか飲食店に入ろうとしたが、「高いボトルを入れてくれないとダメだ」といった趣旨のことを言われ、あきらめた。 悲鳴があちこちから聞こえる。 最初は「楽しんでいるのかな」と感じたが、周囲の人たちの表情がこわばっていることに気がついた。 必死の表情で壁をよじ登っているひともいる。

事故現場から数十メートル離れた場所でさえ、群衆のなかで身長の低い人は地面側に押しつけられるように、高い人は体が浮くような状態になっていた。 174 センチで厚底の靴をはいていた池田さんは地上に足がつかなくなり、体を回転させながら、なんとか少しでもスペースを探そうともがいた。 事故現場近くの T 字路は、3 方向からひとが押し寄せるような形になっていたという。 午後 10 時ごろ、ようやくメイン通りを抜けた。 「命の危険を感じた。」 救急車のサイレンが鳴り響いたのは、その直後だった。

「まるで戦場のような映像」

午後 10 時 40 分。 ワーキングホリデーで滞在中の日本人女性は、この T 字路の中心にあるクラブを出た。 救急車の音、警笛の音、クラブから漏れ出る音楽、そして悲鳴。 そこには様々な音が混ざり合っていた。 目の前で、15 人ほどが道路に横たわっていた。 ただ、救急隊員の姿は見えない。 一方、必死で心肺蘇生を試みる人たちがいる。 「まるで戦場を映すニュースのような光景」だった。 梨泰院駅の方向に下っていくことはもはやできず、別の通りから、一本東側の駅へと歩いた。 しばらくすると、人通りはぐっと少なくなる。 「局地的に人が集中していた。」

自分も店を出るのが 20 分ほど早かったらどうなっていたか。 だが、「無事で良かった」とも言えない。 150 人を超える死者のなかには外国人も 20 人以上、含まれていたとされる。 「みんな、ただ楽しみたかっただけなのに。」 そう思うと、胸が痛い。 女性の出身地は東京。 渋谷のハロウィーンに行ったこともある。 渋谷に比べ、梨泰院で気になったのは、警備や交通整理の人員を見かけなかったことだ。

梨泰院は「夜の街」として知られ、六本木にたとえられることも多い。 「韓国語よりも頻繁に英語が聞こえる。」 その梨泰院の名物イベントとして知られるのが、ハロウィーンだった。 ただ、梨泰院は渋谷に比べると、一帯の道が細く、行き止まりも多い。 女性は「原宿の竹下通りのような感じ」とたとえる。 「コロナもだいぶ状況がよくなって、みんなで楽しむぞと。 『ハロウィーンなら梨泰院』みたいな。 旅行で来ている方もきっと多かったと思う。」

女性によると、ハロウィーンに際する事前の報道では「キャンディーだと思ったらドラッグだった、という事案に出くわす可能性があります」との注意喚起こそあったものの、人混みについては触れられていなかった。 「これほどの多さとは思わなかった」と女性は言う。

1 週間前との違い

予兆はあった。 留学中の 30 代の日本人女性は事故前日の 28 日、また、1 週間前の 22 日にも梨泰院を訪れていた。 それまでも 5 - 6 回、週末に来ている。 「街自体が楽しい。 他の地域ほどコロナも気にせずに飲める。 華やかで、ひとがたくさんいて、梨泰院は特別な場所。」 事故前日、金曜の 28 日は午後 5 時半から 5 時間ほど、梨泰院のメイン通りを歩きながら、3 軒の飲食店を訪れた。

ふだんの週末と違ったのは、コスプレをする人たちが目立ったことだ。 メイクをする露店も出ている。 「そういえばハロウィーンだったな」と気づいた。 午後 10 時ごろには、容易には歩けないほど人が路上にあふれていた。 「夜が遅くになるにつれて、ひとも増えていく場所。」 袋小路も多く、まったく歩けないエリアもあった。 「これほどの人出を経験したのは初めてだった。」 それでもこの女性は、前日に現地で警備や交通整理の担当者を見かけることはなかったという。 当日現場にいた池田さん、ワーホリ中の女性も、この点は同じだった。 (藤原学思、asahi = 10-30-22)



手を出した「禁断」の電気ショック漁法 中国の湖から消えた漁師たち

世界第 3 位の全長 6,300 キロ、無数の支流もあわせ持つ大河・長江は中国の人々に「母なる川」と呼ばれる。 9 月半ば、その中流域にある洞庭湖を訪ねた。 中国で 2 番目に広い淡水湖で、琵琶湖の 4 倍以上もある。 湖の東に位置する湖南省岳陽市鹿角村の草が生い茂る高台に立つと、波の少ない穏やかな水面が水平線まで一望できる。 唐代から中国の食卓を代表する魚とされてきたアオウオ、ソウギョ、ハクレン、コクレンなどが泳ぎ回り、流域でも屈指の漁場となってきた。

およそ 300 戸の漁師が拠点としてきた鹿角村は、そのにぎわいから「小香港」の異名をとった。 湖畔の小さな埠頭のそばに、漁から戻った漁師が跳ね回る魚を満載した小型の船を次々につけ、先を争って買い付けに来る業者たちがせわしなく行き交う - - そんな風景が日常で、漁師は 1 日で農家の 1 年分の収入を稼ぐと言われていた。

かすれた「活魚」の文字

だが、実際に訪れた村は静まり返っていた。 湖上にも、埠頭にも、岸辺にも、漁船は 1 隻もない。 中国政府が今年から、長江流域の全ての地域で天然魚の漁を禁止したためだ。 期間は 10 年間。中国政府は「歴史上最も厳しい禁漁令」とし、11 万隻の船が操業を止め、28 万人近くが失業したと試算する。

乱獲で生態系が崩壊の危機にあるというのが、この前代未聞の禁漁政策の理由だ。 洞庭湖は全面禁漁に先行して 2019 年末から禁漁となり、村の漁船は補償金と引き換えにすべて当局に壊された。 波音も人影もなく、ただただ静けさだけが漂う村の埠頭。 手入れがされていないのか、生い茂った草の合間からのぞく巨大な看板には、こう書かれていた。

「禁漁で美しい湖を分かち合おう」

埠頭の近く、魚料理を出す飲食店が並ぶ通りを歩いてもほとんどの店が扉を閉め、人の姿はない。 飲食店の一つの店先に張られた「活魚」の文字はかすれ、はがされずに残ったままの正月飾りが朽ちていた。 漁師たちはどこに行ったのか。 開いていた売店を見つけて尋ねると、50 代の店主の女性は「魚が取れなくなったから、働ける漁師はみんな出て行った。 残ったのは高齢者だけ。 みんな家の中でじっとしている。」と答えた。

「魚はいくらでも取れる」 声を荒らげる元漁師

漁師の多くは当面の生活補助を受け取り、別の仕事を求めて村を去ったという。 湖から離れた村はずれにある古びたコンクリート造りのアパート。 その入り口に漁師だったという女性 (56) が座っていた。 禁漁政策で生活の糧を失い、子どもが住むアパートでぼうぜんと日々を過ごしているという。 「禁漁なんて理解できない。 魚はたくさんいる。 いくらでも取れる。」と訴えた。

女性は生まれてからずっと、船上生活者として生きてきた。 両親が操る漁船を「家」とし、陸にはほとんど上がらずに魚を求めて長江を上ったり下ったりする暮らし。 小学校にも通っていない。 船上生活のまま自らも家庭をつくり、下流の安徽省から「魚が多い」と評判の洞庭湖に来たのは 30 年ほど前だ。 毎日その日に取った魚はすべて売れ、稼いだ金で船に電気設備を敷き、家電をそろえ、子どもたちを学校へ通わせた。 女性は「何もやることがなくなった。 船を壊されて心が痛い。 魚がいなくなるなんてことは、あり得ないのに。」と声を荒らげた。

湖水に電気を流し、魚を一網打尽

だが、漁師が「異変」に気づいていなかったわけではない。 湖を一望できる湖畔には地元で代々続く漁師の家が並ぶ。 6 代目だという孔東海さん (33) は「魚は明らかに少なくなっていた」と言う。 孔さんによると、20 戸余りの漁師がいるだけだった村の周囲に、船上生活者らの漁船が押し寄せてくるようになったのは 1980 年代の終わりごろからだ。 改革開放政策による経済成長で、食料需要は急伸した。 養殖業も発展しつつあったが養殖魚だけでは満たされず、天然魚は飛ぶように売れた。 漁師の収入は「時に 1 日で数万元」とまで言われるようになった。

2000 年代に入る頃には、地元の農民までもが次々と船を出すようになった。 漁師の数は 300 戸にふくれあがり、湖面は漁船で埋め尽くされた。 そして、「禁断の漁法」に手を出す人も増えた。 水に電気を流して一帯の魚を感電させる。 気絶して一斉に湖面に浮かんだ魚を一網打尽にした。 水揚げされる魚は小さくなり、種類も減っていった。 漁師は限られた魚を取り合う格好になり、漁獲量を確保するために電気ショックを使う漁師が増える悪循環に陥ったという。

「1980 年代に年平均約 1 万 9 千トンだった洞庭湖の漁獲量は 1990 年代に約 4 万トンに急増。」
「2000 年代に入ると反転して 2 万トン台に急減。」
「魚の種類は 1990 年代の 117 種から 2014 年に 80 種に減少」

各地の研究者からは、孔さんの話を裏付ける分析結果が次々に出されている。 孔さんは「正しい方法で漁をしていれば、湖は傷つかなかった。 禁漁も仕方がない。」と言う。 日雇いなどのアルバイトで食いつなぎ、「10 年後にまた船を出すつもりだ」という。 孔さんの母親の劉交娥さん (59) も禁漁で船を失った漁師の一人だ。 ただ、庭先で漁船が消えた湖面を見つめて静かに言った。

「湖に魚が戻っている。 毎日見ていればわかる。 大きな魚に追われた小魚が湖面にはねる。」
「漁はできなくなったけど、湖が元に戻っていくのは心からうれしい。」

「俺がやる仕事なんかない」

10 年間の禁漁という自然保護への強権発動と引き換えに中国政府は、「陸に上がった漁師」の新たな生活にどう道筋をつけるかという、大きな課題を抱えることになった。 洞庭湖の南岸にあたる湖南省●(= さんずい偏に元)江市には、湖上の島々に暮らしていた漁師たちを移転させるための新たな「村」がつくられていた。 堤防近くの 20 万平方メートルの団地の建設現場に「漁民新村」との看板が掲げられていた。 新村は、市が約 5 億 8 千万元(約 100 億円)を投じて建設。 入居者は元漁師に限り、周囲の相場の半値ほどで部屋を買える。 約 3,400 人の入居が決まっているという。

市内では新たな仕事探しを支援しようと、魚の養殖やキノコの栽培、介護、マッサージなどの職業訓練が繰り返し実施され、家政婦などの仕事を紹介する専用の派遣会社も設けられた。 だが、漁師が陸に上がって生きるのは、容易なことではない。 元漁師の男性 (55) が、湖畔で養殖魚用の網をつくっていた。 「市が紹介する仕事をする気はないのか」と尋ねると、男性は「俺がやる仕事なんかない」と投げやりな様子で話し始めた。 新たに紹介される仕事は 1 日 150 元(約 2,700 円)程度しか稼げない。 「苦労に見合わない。 ほとんどの若者は、建設現場などでアルバイトをするために大きな街に出ていったよ。」と言う。

依頼があれば網をつくる生活。 一つに 1 週間かかり、収入は約 700 元(約 1 万 2 千円)。 1 年以上探してやっともらえた仕事だという。 「漁に出ていた時はもっともっと稼げた。 自分みたいな年齢の人に新しいことなんかできない。 突然、知り合いもつながりもない陸に上げられてもどうしようもない。」

「実は陸に上がりたいという気持ちがあった」

禁漁をきっかけに、生き方を見つめ直す人もいる。 処分された船の補償金や禁漁後の生活補助などを元手にスーパーを開いた人がいると知り、市内の団地を訪ねた。 1 階の「漁民生鮮」と書かれた店の店主は、湖上の島に暮らしていた元漁師の張且民さん (39)。 魚の知識を生かした新鮮な養殖魚の仕入れや自作の干物が評判になり、何とか軌道に乗っている。 張さんは「漁師の生活は過酷で体を壊す人も多かったから、実は陸に上がりたいという気持ちがあった。 禁漁で思い切れた。」と話す。

自身は小学校を出てすぐ船に乗った。 今、11 歳の娘と 9 歳の息子がいるが、進学してほしいと考えている。 漁師を継がせる気持ちは元々なかったという。 「私は島の暮らしに特別な思いがあるし、漁師の多くは陸の生活に慣れるのに苦労している。 だけど、子どもたちは小さい頃から陸に慣れている。 きっと大丈夫でしょう。」(洞庭湖〈中国湖南省〉 = 平井良和、asahi = 11-9-21)