「抗生物質が足りなくなる」 中国に原料依存で危機感 輸入価格急騰

感染症の治療や予防に欠かせない「抗菌薬」がきちんと確保できなくなるのではないか - -。 医療関係者たちの間で、そんな危機感が高まっている。 中でも切実なのが「抗生物質」で、不足は患者の死に直結する。 ロシアのウクライナ侵攻を始め、国際的な緊張が高まっていることもあって、心配は増す一方だ。 日本はどうしていくべきなのか。

新型コロナウイルス感染症を始め、感染症の患者らを多数受け入れる東京ベイ・浦安市川医療センター(千葉県浦安市)。その 2 階にある細菌検査室で、スタッフが患者から採取した痰や尿などの検体を、シャーレ上の寒天培地に塗りつけていた。 患者が感染している細菌の種類を調べ、治療に使うのにふさわしい抗菌薬を探るためだ。 抗菌薬は、細菌を殺したり、細菌が増えるのを抑えたりする。 新型コロナや風邪の原因となるウイルスには効かない。 一方で、いまでも代表的な死因の一つである肺炎は、細菌が原因となることが多い。

専門の薬剤師「確保は綱渡り」

その抗菌薬が、いつ足りなくなってもおかしくないと指摘されている。 「抗菌薬の確保は、いわば『綱渡り状態』です」と、同センター薬剤室の枦(はし)秀樹室長補佐は言う。 枦さんは、日本化学療法学会が認定する「抗菌化学療法認定薬剤師」だ。 いまは何とか、抗菌薬への需要と供給のバランスが取れている。 ただ、いったん供給が途絶えたり、患者の急増が起きたりすれば、たちまち病院の在庫は尽きてしまいそうだという。 実際に、抗菌薬が不足するケースは時々起きている。 代表例が、2019 年 3 月に始まった「セファゾリン」という注射薬の供給停止だった。

セファゾリンの製造にかかわるイタリアや中国のメーカーが、製造過程での異物混入や環境規制の問題で、供給を止めてしまったためだった。 再開されたのは 11 月。 それまで、国内の医療機関はこの薬がほぼ使えない状態に陥った。 特に影響を受けたのは外科手術だった。 手術の際は、皮膚にいる黄色ブドウ球菌という細菌が傷口から体内に入り、患者の死亡につながる恐れもある。 予防のため、日本ではセファゾリンが第 1 選択で使われてきた。 当時、枦さんは感染症内科の織田錬太郎部長から、毎週のように「セファゾリン、まだ入ってこない?」と聞かれた。 枦さんは「だめですね」と答えるしかなかった。

「すみません、ないのでほかの薬で」

影響を受けたのは整形外科や脳神経外科を始め、外科全般にわたった。 織田さんは、院内の外科系の医師を訪ねては、「すみません、セファゾリンがなくなってしまったので、別の薬をかわりに使わせてください」と了承を求める日々が続いた。 織田さんたちは、セファゾリンのかわりに、まずはセフォチアムという薬を使おうと決めた。 ところが、セファゾリンの代替薬としての需要がほかの医療機関でも急増し、セフォチアムの在庫は 1 週間で尽きてしまった。 仕方なく、しばらくの間はセフトリアキソンという、さらに別の薬を使わざるを得なかった。

仮に病院で薬が途切れても、たとえばコレステロールの薬が 1 日ない程度であれば、ただちに患者の生命に危険が及ぶ可能性はそう高くはない。 一方、細菌感染症の治療で抗菌薬が使えなければ、すぐに命にかかわる。 「患者さんや家族に向かって『抗菌薬がないので助けられません』と言うわけにはいかない。」と、織田さんは話す。 特定の抗菌薬がなくなっても、代替薬があるならいいのでは? と思ってしまいそうだが、違う。 薬剤耐性菌の問題があるからだ。

抗菌薬にはたくさんの種類があり、効く対象となる菌の種類が少なめの「狭いタイプ」から、多くの菌に効く「幅広いタイプ」まである。 そう聞くと、なんだか幅広いタイプのほうが良さそうな印象を受ける。 だが、本来であれば殺す必要のない、体に有益な菌まで殺してしまうほか、その抗菌薬が効かない「薬剤耐性菌」を生む原因にもなってしまう。 薬剤耐性菌による年間の死者数は世界で 127 万人、日本に限っても数千人にのぼるという推計もある。 外科手術などの際にセファゾリンが重宝されているのは、対象とする細菌の幅が比較的狭く、薬剤耐性菌を生みにくいのも理由の一つだ。

まずは広め、調べて狭めに

一方、重症の感染症患者で治療が急がれるような場合、原因となっている細菌が見極められるまでは、予測が「外れ」となる可能性も見越して、ある程度幅広い効き目の抗菌薬でまずは対処することが多い。 そして、原因菌が判明したら、その菌を標的としたより狭いタイプに変更していく。

だから、感染症の治療や予防にきちんと取り組む医療機関は、さまざまな細菌のタイプに応じて、治療に最適な抗菌薬を使えるよう、いろいろな種類の薬をそろえておく必要がある。 しかし、「抗菌薬が不足がちになり、『この感染症ならこの抗菌薬を使おう』というベストの選択ができなくなってきている」と、日本化学療法学会理事長の松本哲哉・国際医療福祉大教授(感染症学)は訴える。

抗菌薬の不足を招きやすい原因は、いくつか考えられる。 そのうちの一つは、「抗菌薬の値段(薬価)が安い」とされることだ。 国民の医療費が増え続けるのを抑えるため、国は薬価を引き下げる政策を続けてきた。 薬価が低ければ製薬会社の収益は減り、つくり続けようという動機が失われていく。 化学療法学会など感染症治療に関わる 5 学会は、抗菌薬の安定供給を求めて、今年 3 月 10 日付で厚生労働大臣あての提言書を出した。 その中で「現在の薬価でも採算割れの薬剤があり、製造販売を中止した抗菌薬も少なくない」と指摘している。

「せっかく抗菌薬を開発した企業が、その薬を売るのをやめてしまうケースも出ている」と松本さんは言う。 抗菌薬の不足を招きやすいより深刻な原因は、低い薬価のせいもあって、薬の原料の多くが中国に「一国依存」となっていることだ。 セファゾリンの場合、その元となる物質の一つが、世界で唯一、中国の特定のメーカーによってつくられていた。そこが止まったために、世界的な供給不足につながった。

抗生物質、抗菌薬との違いは?

セファゾリンに限らず、抗菌薬の中でも「抗生物質」の大部分は、原料が中国でつくられているとされている。 そもそも、抗生物質と何か。 抗生物質は、抗菌薬のうち、その効果を示す成分が、カビや菌といった微生物によってもたらされているものをさすとされる。 世界で最も早く実用化されたといわれる抗生物質のペニシリンが、青カビが生産する物質をもとにつくられるのが代表的な例だ。

ただ、メロペネムのように、微生物によらず化学的に合成してつくることができる抗菌薬もある。 そうした場合も、効果につながるおおもとの化学的特徴が微生物によるものであれば、抗生物質として分類されるという。 化学療法学会などは 19 年 8 月、とりわけ重要な 10 の抗菌薬を「キードラッグ」として指定し、安定確保を厚労省に求めた。 このうち 9 が抗生物質に該当する。

元をたどれば、中国に

米経済複雑性観測所(OEC)のデータによれば、2020年に日本に輸入された抗生物質は約30%が中国から、約20%が韓国からやってきていて、オーストリアやイタリア、インドなどが続く。 だが、明確な統計はないものの、原料の段階にまでさかのぼると、大部分は中国に由来するといわれる。 例えば、学会が指定した 10 のキードラッグのうち、7 の抗生物質は「ペニシリン G」、「セファロスポリン C」という原料にたどりつく。 どちらも、微生物を発酵させてつくる。 そしてそのいずれも「ほぼすべて(製薬関係者)」が、中国のメーカーによって生産されているという。

薬は原料から「中間体」、有効成分である「原薬」という段階を経て、完成品としての「製剤」になる。 日本が抗生物質の原薬を韓国やオーストリアから輸入したとしても、そのもととなる中間体や原料はそれぞれの国が中国から輸入、といったケースがままある。 だから、中国が仮に、ペニシリン G とセファロスポリン C の供給を止めてしまったら、キードラッグ 10 のうち 7 が確保できなくなってしまう。 日本の感染症治療にとって、大打撃となる。

なぜ、こうなったのか。 もともとは、日本も原料から抗生物質を生産していた。 だが、熊本保健科学大の蛭田修・特命教授によれば「中国が安い価格で抗生物質の原料や原薬を盛んに生産してきた一方、日本では抗菌薬の薬価が下がり続けたため、採算が取れなくなった」という。 国内では明治製菓(現 Meiji Seika ファルマ)が、ペニシリン G をはじめ、抗生物質づくりを代表的に担っていたが、同社は 1994 年にペニシリン G の国内生産から撤退した。 抗菌薬の安定供給を脅かす、新たな事態も起きている。 ここ数年、ペニシリン系抗生物質の輸入価格が急騰しているのだ。

財務省貿易統計で 1988 年以降のデータをみると、ペニシリン G やそこからつくられる中間体「6APA」などを含むペニシリン系抗生物質の輸入価格は、低下傾向が続いた。 最も安かった 2004 年では 1 キログラムあたり約 3,200 円だった。 この価格下落について、複数の関係者は「中国政府の支援によって、市場支配をもくろんで価格を意図的に下げる『ダンピング』ではないか」と推定する。 実際、この価格下落が起きている過程で、国内の製薬企業は抗生物質の原料や原薬をつくる技術を中国に移転するなどする一方、国内の工場を次々と閉鎖させていった。

海外でも同様で、この間にペニシリン G を始めとする抗生物質の原料や原薬の生産は、中国に集中するようになったという。 低下が続いていたペニシリン系抗生物質の輸入価格は、2011 年から上昇に転じた。 そして、18 年以降急激に上がっている。 21 年の輸入価格は 1 キログラムあたり約 2 万 6 千円。 04 年の 8 倍にのぼる。 輸入価格には、中国以外の国からのものも含まれているが、やはり中国産品の価格上昇が大きく影響しているとみられる。 原料価格が上がれば、それをもとにつくられる他国での原薬などの価格にも反映されるからだ。

「自国でつくれず」バイデン政権も問題視

なぜ上昇しているのか。 蛭田さんは「中国での人件費や、工場での環境対策費用が上昇していることや、新型コロナの影響などが考えられる」とする。 原料がほぼ中国に「一国依存」の現状では、価格競争も起きず、値段は下がりにくい。 輸入価格が上がれば、国内でペニシリン系の製剤などをつくるコストもかさむ。 完成した薬の薬価は低めのままなので、製薬企業の収益性はますます悪くなってしまう。 そして、収益を得られない製薬企業が生産に後ろ向きになることで、医療現場への供給がさらに滞るという事態を招きかねない。

米国も、日本と同様に、抗生物質の原料などを中国に依存している現状を問題視している。 バイデン政権が昨年 6 月、医薬品など 4 品目のサプライチェーン(供給網)の課題に関してまとめた報告書では、ペニシリン系の原料生産が中国に集中している点や、肺炎や尿路感染症、性感染症などの治療に必要な薬の多くを自国で生産できない現状を問題だとした。 米国では 2001 年、ニューヨークなどでの同時多発テロに続いて、炭疽菌の乾燥胞子が入った手紙が上院議員事務所などに送りつけられ、死亡者も出た。

報告書によればこの際、米政府は抗菌薬シプロフロキサシンを購入するため欧州の企業を頼った。 だが、その企業は中国から原料を買わなければならなかったという。 近年、海洋進出を続ける中国と、日米との緊張が高まっている。 さらに今年、ウクライナに侵攻したロシアにどう対応するかをめぐって、日中間や米中間の主張の違いが明白になった。 かつて、レアアース(希土類)の対日輸出を制限したように、中国はいずれ、抗生物質の原料提供を他国への圧力に使おうとするのではないか。 そんな懸念も出ている。

抗菌薬の安定確保のためにどうするべきか。 一つは「国産回帰」だ。 すでに、いったん手放した抗生物質の原料づくりを再開する動きが始まっている。 Meiji Seika ファルマ岐阜工場(岐阜県北方町)では現在、実験棟で青カビを培養して少量のペニシリン G と、それをもとに 6APA、アンピシリンをつくり出す作業を進めている。

より規模を増やした「パイロット試験」のための設備の整備も進めていて、7 月中にも稼働させる予定だ。 ペニシリンを周辺に漏れ出させないための設備を新設するなどしたうえで、25 年度の本格生産を目指す。 岐阜工場は 1971 年、ペニシリンをつくるための専用工場としてスタート。 ピーク時には年間千トン以上を生産した。 同工場には菌株を増やすための「発酵槽」のうち、165 キロリットルと国内最大級のものが 16 基ある。 このうち 3 基をペニシリンの生産にあてる。

「国内の必要量、賄える」

三友(みとも)宏一・岐阜工場長は「国内で必要とされているペニシリン系は年間 200 トン程度。 この工場の生産力で、十分に賄うことが可能です。」と話す。 もう一つの主要な抗生物質原料「セファロスポリン C」についても、塩野義製薬の関連会社シオノギファーマが国産化に向けて動き出した。 まずは菌株を効率的に培養する技術開発を始める。 本格的な生産を開始できるのは 5 - 6 年後と見込む。

副社長の古家喜弘・生産本部長は「セファロスポリン C がかかわる抗生物質の年間消費量はおおむね 150 トンで、キードラッグに限ると約 50 トン。 この 50 トン分だけでも賄える生産能力を持ちたい」と語る。 両社とも、医薬品の安定供給を目指す厚労省の支援事業として補助を受ける。 補助額はこれまでのところ、別の 1 社も加えて計 60 億円だ。 それでも、「補助額は国産化に必要な費用のごく一部でしかない。(蛭田さん)」

採算は見込めず

仮に国産化ができたとしても、やはり中国産より高値になることは避けられそうにない。 化学療法学会などは今年 3 月の提言で、重要な抗菌薬については薬価を上げ、企業が一定の収益を見込めるようにすることや、原薬はいったん国が買い上げることなどを要望している。 実際にこれまで、必要性が高いと判断され、採算が取れなくなった一部の抗菌薬については、薬価を原価まで引き上げるなどの措置も取られている。

5 月には、重要な物資を安定的に確保できるようにすることなどを目的とした経済安全保障推進法が成立。 半導体やレアアースなどとともに、医薬品も「特定重要物資」に位置づけられることが想定されている。 6 月 7 日には、岸田文雄首相が掲げる「新しい資本主義」のグランドデザインと実行計画を政府が閣議決定した。 その中で、今後の感染症対策の一部として、抗菌薬などの「薬価の設定や原料等の国内での製造支援、備蓄、非常時の買い上げの導入」が検討課題として取り上げられた。

ただ、国によるこうした支援を際限なく続けるわけにもいかない。 抗菌薬の薬価が上がることは、国の医療費や患者の自己負担額が増すことも意味する。 製薬企業は独自に、高品質な抗菌薬を低コストで生産するための技術開発に取り組んでいる。 ただ、競争力を高める道のりは平坦(へいたん)とはいえない。 こうした中、専門家からは「民主主義などの価値観が比較的近い、他国との連携を深めて、いまの中国への過度な依存を見直すべきだ」という声も上がっている。

その例の一つとされるのがインドだ。 インドの医薬品産業に詳しい上池あつ子・中央学院大准教授によると、インドは高度な医薬品生産能力をもっており、価格競争力もある。

上池さん「日印は補い合える関係」

後発医薬品(ジェネリック)に強いだけでなく、新型コロナワクチンを日本に先んじて独自開発に成功するなど、新しい薬を開発する技術力もある。 ただ、抗生物質に関しては日本と同様、中国に原料を依存している。 上池さんは「抗生物質原料の生産には、糸状菌(カビ)の発酵技術が重要だが、この技術がインドには十分に根付いていない。それがボトルネックになって、自国で原料を賄うことができていない」と説明する。

一方、日本にはみそ、しょうゆに代表される発酵技術に伝統的な強みがある。 こうした技術は、抗生物質原料をつくる技術にも通じるという。 上池さんは「日印が連携し、日本の発酵技術を用いてインドで原料を生産するといったことができれば、双方の優位性を生かせる」と提案する。 ただ、インドはウクライナに侵攻したロシアへの制裁に加わらないなど、国の方向性は日本と必ずしも一致していない。 「インド一辺倒」になることにもリスクがある。 抗菌薬の安定確保は、国民の生命を守ることに直結する。 新しい抗菌薬の開発促進や幅広い外交の展開を含めて、さまざまな方角から手段を講じていくことが求められる。 (編集委員・田村建二、asahi = 7-9-22)



脳、目、肝臓 … 本物に近づく「ミニ臓器」 体内に移植も

細胞を培養して、ミリ単位の「ミニ臓器」をつくる技術が広がっている。 本物の臓器に近い立体構造や機能の一部を再現できるようになり、「オルガノイド」とも呼ばれて注目を集める。 医療への実用化の道も見えてきた。 培養皿の中に、ヒトの気管支と同じ細胞でできた 0.2 ミリほどの丸い組織の塊が浮かぶ。 新型コロナウイルスを感染させると、ウイルスは組織内でどんどん増殖していった。

京都大 iPS 細胞研究所の高山和雄講師が、ヒトの体内にある幹細胞を培養してつくった立体的な「ミニ気管支」だ。 気管支は鼻や口から入るウイルスにさらされ、感染経路とされる。 新型コロナを研究する高山さんは「これでウイルスが感染する初期の様子が分かった」と話す。 メカニズムを調べて、5 月に論文発表。 現在は、薬がウイルスに効くかをミニ気管支で試す実験を続けている。

ES・iPS 細胞の登場で急発展 発生学研究や病態解明にも

細胞を培養して臓器の一部を人工的につくる「ミニ臓器」。 大きさは本物に遠く及ばないが、ここ 10 年ほどの間に脳や肺、腎臓、肝臓など多岐にわたる臓器で技術が確立してきた。 本物に近い構造や機能を持つミニ臓器も現れ、「臓器 (organ)」と「似たようなもの (oid)」を組み合わせて、「オルガノイド (organoid)」と呼ばれている。 研究が発展した大きなきっかけは、受精卵からつくる ES 細胞(胚性幹細胞)や、皮膚や血液などの体細胞からつくる iPS 細胞の登場だ。

かつてミニ臓器は、体内に元々あって様々な細胞に変化できる幹細胞からつくることが多かった。 ES 細胞や iPS 細胞は、体にある幹細胞よりもっと多様な細胞に変化することができる。 ミニ臓器を活用できる分野は幅広い。 受精卵から胎児の臓器ができる過程を調べる発生学の研究に貢献。 遺伝病の患者の組織からつくった iPS 細胞をミニ臓器にすれば、病気を再現してメカニズムを調べられる。 薬の毒性を調べる創薬や、体内に移植する再生医療にも役立つ。

日本の研究者が立体組織の培養を立証

細胞を培養して立体的な組織をつくれることを世界で初めて立証したのは日本の研究者たちだった。 2008 年、当時理化学研究所にいた笹井芳樹さん(故人)や永楽元次さん(現京都大ウイルス・再生医科学研究所教授)らが、ES 細胞から大脳皮質の一部をつくった。 大脳の表面にある神経細胞の層だ。 つくったのは、直径約 2 ミリのマッシュルームのような形で 4 層構造。 胎児レベルの脳組織だった。

永楽さんは元々、受精卵から神経がどうできるかを研究していた。 その知識を生かし、ES 細胞を培養容器内で集めて一つの塊にした後、たっぷりの培養液内に浮かべた。神経細胞以外に変化しないように成分を調整した培養液で、塊を大きくしていくと脳組織ができた。 「こんなにシンプルな方法で発生を再現できることに驚いた」と永楽さん。 細胞をある程度の大きさの塊にした上で、狙った組織になるように培養していくと、途中から細胞が自動的に構造をつくり上げていくことも明らかになった。

12 年には、大脳皮質をつくる技術を発展させ、目の原型になる「眼杯」をつくった。 培養中に崩れやすかったが、細胞同士をつなぐたんぱく質を加えて形を維持できるようにした。 眼杯の一部は、さらに変化が進むと網膜になり、目の治療に生かせる可能性がある。 神戸市立神戸アイセンター病院は今年 10 月、iPS 細胞からつくった網膜の一部を、失明のおそれがある病気の患者の目に移植した。 これはミニ眼杯の網膜に変化する部分を切り出してシート状にしたものだった。

大きさや組み合わせには限界も 今できる使い方を探る

再生医療の究極の目標は、病気などの臓器を、新たに作った臓器と取りかえることだ。 しかし、現時点で作製できるミニ臓器は数ミリが限界。 例えば成人の腎臓は握り拳ほどの大きさがある。 差は大きい。 これ以上大きくしようとすると、栄養が組織の内部に行き渡らず、壊死する。 また、例えば体内では腎臓と尿管は一体だが、それぞれ全く異なる細胞の系統のため、一緒に培養して組み合わせるのが難しい。

ただ、ミニ臓器には移植用臓器以外にもさまざまな使い方がある。 ミニサイズの肝臓、胆管、膵臓を作製した東京医科歯科大の武部貴則教授は「今できることで助けられる患者さんはいないのか」が頭にあるという。 武部さんが兼務する米シンシナティ小児病院では、患者の iPS 細胞でミニ臓器を作製。 それを分析し、その人に最適な治療を探る「オーダーメイド医療」の研究が進む。

また、武部さんらのミニ肝臓は、ヒトに移植すれば「短期間の機能のサポートはできる」と話す。 生体肝移植を待つ子どもへの一時的な移植などを想定。 「実現はそんなに遠い話ではない」と期待する。 ミニ臓器に詳しい国立成育医療研究センター・生殖医療研究部の阿久津英憲部長は「本物に近い臓器を作る研究は必要」としつつ、「できたものを実際にどう利用し、成功事例を生み出すかが重要な段階だ」と話す。 異分野の研究者や企業の参入で、新たな技術や使い道を生み出す必要があるという。 (市野塊、asahi = 10-27-20)

培養皿上の大脳に意識はあるのか?

ヒトのミニ大脳の研究が、新たな倫理的課題を生む可能性がある。 米国のチームは 2019 年、ヒトの iPS 細胞から作製した小さな脳から、ヒトの未熟児と似た脳波を検出したと発表している。 将来、培養皿の中の大脳が意識を持つことが分かれば、実験への配慮が検討されるかもしれない。

論文数はこの 10 年で 36 倍以上に

ミニ臓器研究への注目の高まりは、研究論文数の変化からも見てとれる。 医学文献データベース「パブメド (PubMed)」を使って「organoid (オルガノイド)」で調べると、該当する論文は 2010 年に 42 件しかなかったが、20 年には約 36 倍の 1,500 件に達した。


1 キロ減で科学的根拠をうたえる 機能性表示食品の内実

機能性表示食品の制度が始まって 5 年が経った。 成長戦略の一環として「睡眠の質を高める」、「ストレスを低減する」といった体への働きを企業の責任でうたえるようになり、3 千億円規模の市場になったが、健康に役立つのかという視点からは、注意すべき点も見えてくる。

「食品は薬ではないので大幅にはやせない」

国の審査を通らなければならない特定保健用食品(トクホ)などと比べ、健康への働きを表示しやすくなった機能性表示食品。 店頭に並ぶ商品には、様々な成分が有効成分として表示されている。 その一つに「葛の花由来イソフラボン」という成分がある。 体重や脂肪を減らすのを助けるなどと表示される。 17 年に消費者庁は、これを有効成分とする商品の広告表現について、誰でも簡単にやせられるかのような「優良誤認」にあたるとして 16 社に措置命令を出しているが、「『健康食品』ウソ・ホント」などの著書がある高橋久仁子・群馬大学名誉教授は「元の論文を読むと、広告はもとより、効果自体にも疑問符がつく」と言う。 「統計的な有意差ありというが差は小さい。」

根拠論文の一つを見てみる。 被験者は BMI (体格指数)が 27.5 (平均値、以下同)の軽度肥満の人。 12 週間の間に、この食品を摂取させた 28 人は BMI が 0.7、有効成分の入っていない偽薬を摂取させた 25 人は 0.2 減った。 BMI から逆算すると、体重減少の差は 1 キロ程度になる。 内臓脂肪面積は、食品をとった人で 15.3 平方センチ(摂取前は 116.4 平方センチ)、偽薬の人で 4.1 平方センチ(同 95.3 平方センチ)減った。

同時に、いずれの被験者群も栄養管理をしていた。 管理項目は、▽ 日曜日を除き提供された夕食を食べる、▽ 夕食は午後 9 時までに、▽ 食事と食事の間隔は 3 時間以上あける、▽ 間食は 200 キロカロリーまで、▽ アルコールはビール 1 本(500 ミリリットル)程度まで、などだ。 食品をとった人たちも偽薬の人たちも、1 日の摂取エネルギーは約 2 千キロカロリー前後(食品を摂取したグループで 1,948 キロカロリー、偽薬グループで 2,029 キロカロリー)。 そして指示はないものの、1 日に 8 千 - 9 千歩前後(摂取グループで 8,117 歩、偽薬グループで 9,271 歩)歩いていた。

この結果をどうみるか。 論文執筆者が所属するメーカーは、取材に「食品は薬ではないので大幅にはやせない。 その中でデータがあるということは、『やせる方向にベクトルを向けられる』という科学的根拠があるということだ」と答えた。 一方、高橋さんは「軽度肥満の人が適度に歩き、少し食事を管理された状況で、という前提条件をみる必要がある」と指摘する。 措置命令を出した消費者庁の担当者は「複数の根拠論文を総合的にみても、減少は体重が 1 キロ程度、ウエスト周囲径が 1 センチ程度で日常の変動の範囲内。 それが消費者に伝わっていなかった。」と話す。

「業界の悲願」かないトクホの 3 倍に

2013 年 6 月。 前年再び政権に就いた安倍晋三首相(当時)は、成長戦略第 3 弾として「健康食品の機能性表示を解禁いたします」、「世界で一番企業が活躍しやすい国の実現。 それが安倍内閣の基本方針です。」と宣言した。 それまで、食品の効果をうたえる制度には栄養機能食品と特定保健用食品があったが、栄養機能食品は表示できる栄養素が限られ、トクホは商品ごとに国の審査が必要だった。 一般社団法人・健康食品産業協議会の原孝博事務局長は「トクホの許可には、商品を被験者に摂取させてデータをとる必要があり、億単位の開発費や年単位の時間がかかる。事業者にとってハードルが高かった」と話す。

機能性表示食品は、商品そのものでデータを取る方法以外に、過去の文献を調べ、商品中の成分に一定の機能性があることを示す論文があれば、機能性を表示できる。 食品の機能性を自由にうたえるようにするのは業界の悲願だった。 成長戦略が発表される前段階の規制改革会議でも、トクホではヒトでの試験が医薬品と同レベルの内容を求められるとして、基準の緩和も含めた食品の機能性表示を要望。 当時の取材に対して、業界団体の幹部は「自由に機能性を書けないのが一番の制約だ」と話していた。

こうして、安倍前首相自らが宣言した方針を受け、消費者庁は急ピッチで制度作りに着手。 当時の消費者庁関係者は「表示解禁という方針のもと、業界からはさまざまな要望があったが、『日本人の食事摂取基準』の考え方などから外れたり、病気の人が診療を不要と誤解するような表示がまかり通ったりしないように腐心した」と振り返る。 結局、商品の販売は消費者庁への届け出制とし、根拠資料は公開というルールのもと、15 年 4 月に機能性表示食品の制度がスタート。 今年 10 月 5 日までの届け出件数は 2,982 件(撤回した製品を除く)となり、制度導入から 30 年近くたつトクホの許可件数の 3 倍近くに上る。

調査会社の富士経済によると、現在の機能性表示食品の市場規模は約 3 千億円。 トクホ市場は 18 年比で今年は 5.5% 減と予測しているのに対し、機能性表示食品は同 38.6% 増と予測している。 別の消費者庁関係者は「成長戦略としては成功した項目と言える」、健康食品産業協議会の原事務局長も「根拠を示せば機能性を表示できることは業界にとって大きな後押しとなった」と話す。

産業振興策だが健康には?

この制度は、国民の健康には役立っているのか。 群馬大名誉教授の高橋さんは「産業振興策であって、健康政策ではない」と批判する。 理由の一つは、効果の大小は問わない制度設計になっていることだ。 根拠とする論文については、「肯定的な論文だけを意図的に抽出しない」、「動物や細胞レベルの実験ではなく、人を対象とした研究であること」などのルールがあるが、実際には根拠論文が一つだけだったり、被験者数が 1 群 10 人以下と少なかったりするものもある。 高橋さんは冒頭の「葛の花由来イソフラボン」などを例に引き「あるかないか分からないほど小さな効果でも『根拠』になる」と話す。

もう一つ、事例を見てみる。 近年発売が増えている「高めの尿酸値の上昇を抑える」商品のうち、21 商品が根拠とする論文をたどってみた。対象の食品を 12 週間摂取した 35 人は血清尿酸値(100 ミリリットル当たり)が、5.92 ミリグラムから 0.12 ミリグラム減少。 偽薬を与えた 35 人は 6.11 ミリグラムから 0.03 ミリグラム増えた。 両者の 0.15 ミリグラムの差を「統計的に差がある」としている。 国民健康・栄養調査によると、血清尿酸値は、男性が平均 5.8 ミリグラム、女性が平均 4.5 ミリグラム。7 ミリグラムを超えると「高尿酸血症」と診断される。

高橋さんは「たった 0.15 ミリグラムの差で機能をうたえてしまう。 『これを飲んでいれば摂生しなくてもいいだろう』と、食生活を誤誘導する可能性もある。」と疑問を呈する。 論文の執筆者が所属する健康食品素材メーカーは「取材は遠慮させていただきたい」としている。

企業が協力せず評価至らぬ商品も

一方、消費者団体「消費者市民社会をつくる会 (ASCON)」科学者委員会の山崎毅事務局長は「一般食品としての健康食品は機能性表示の届け出すらされておらず、そのすみ分けという点で制度の意味はある」と話す。

ASCON は機能性表示食品について、根拠論文の数や被験者数、有効論文と無効論文の比率などをもとに科学的根拠を A (十分)、B (かなり)、C (ある程度)の 3 段階で評価し、ウェブサイト で公表している。 これまでに 929 件の表示を調べたところ、A が 29%、B が 30%、C が 32%、その他が 9%。 その他には、被験者が 10 人未満の研究や統計方法が不適切と判断した研究などが含まれるという。 企業の協力が得られず、そもそも評価に至らなかった製品も 456 製品あった。

ただし、評価は「根拠」がどの程度信頼できるかを調べたもので、効果の大小を判定しているわけではない。 評価を担当する鈴木勝士・日本獣医生命科学大学名誉教授は「一般食品としての健康食品に比べれば、成分に関する根拠はほぼ示されているが、根拠の強さはさまざま。 広告の印象だけで利用を決めず、根拠にも目を向けてほしい。 運動や食事にも気を配り、そのうえでさらに『改善を助ける可能性がある』という感覚で捉えるべきだ。」と話す。 (小林未来、asahi = 10-8-20)


6.8 兆円 武田薬品のシャイアー吸収買収に潜む一抹の不安

⇒ 武田薬品工業のシャイアー買収には一抹の不安があると筆者は指摘する
⇒ 中外製薬が創製した新薬が血友病治療薬の勢力図を一変させる可能性が浮上
⇒ 血友病治療薬の分野で栄華を誇るシャイアーはあおりを食ってしまうという

6.8 兆円 - -。 国内製薬首位の武田薬品工業がアイルランドの製薬大手シャイアーを飲み込む。 日本企業の M & A (企業の合併・買収)では過去最大規模の買収額を投じるのだ。 5 月 8 日に基本合意に達し、今後は両社の臨時株主総会で承認されることを条件に武田はシャイアーを吸収合併する。 直近決算における武田の売上高は 1 兆 7,705 億円(2018 年 3 月期)、シャイアーは 1 兆 6,980 億円(2017 年 12 月期)。 2 社を合算すれば、武田グループの売上高は約 3 兆 4,000 億円となり、世界トップ 10 のメガファーマ(巨大製薬会社)へ仲間入りを果たす。

いま世界の血友病治療薬分野ではシャイアーが 45% のシェアを握りダントツだ。 血友病とは出血が止まらない、あるいは止まりにくくなる病気。 重症患者だと出血が年に 30 回も起こり、内部出血で関節が腫れ上がる関節出血などに悩まされる。 頭蓋骨や頸部(首)、せき髄などに出血が起きると呼吸困難、マヒなど命にも関わりかねない。 シャイアーの血友病治療薬の旗艦商品が年間売り上げ約 3,000 億円、シェア 35% を誇るトップブランド「アドベイド」である。 武田がシャイアーを傘下に収めれば、血友病治療薬の分野でその強みを謳歌できると見込んでいるだろう。

だが、そこには一抹の不安がある。 スイスのロシュ傘下である中外製薬が創製した新薬「ヘムライブラ」が血友病治療薬の勢力図を一変させる可能性が出てきている。

「2,000 億円は最低線」

すでに米国では昨年 11 月に、欧州では今年 2 月に承認されており、5 月 22 日にいよいよ国内発売となった。 国内は中外製薬が、大市場の米国・欧州など海外では連結売上高で製薬業界世界首位の親会社ロシュがグループの力を挙げて販売する。 日本投入をもって世界販売展開の体制は整ったといえる。 この薬のピーク売り上げ予想は 2,000 億円以上というのが、株式市場のコンセンサスだ。 効果、利便性、そのほかさまざまな点で、「ヘムライブラ」の商品力は既存薬を大きく上回る。 中外製薬は自信を深めており、「2,000 億円は最低線、血友病治療薬分野のシェアの 4 割、5 割は狙う」という声が社内からは出る。

血友病治療薬の推定市場規模は 2017 年度に 8,500 億円。 その半分は 4,000 億円台だ。 中外製薬の思惑通りに事態が進むなら、トップブランド「アドベイト」などを抱え、現在この分野で栄華を誇るシャイアーはあおりを食ってしまう。 6 月 1 日、中外製薬は「ヘムライブラ」の製品説明会を都内で行った。 小坂達朗社長 CEO (最高経営責任者)は「これまでにない作用メカニズムで患者に貢献する」と冒頭に挨拶した。 それだけでなく、記者やアナリストなどからの質疑応答までの 1 時間半、最後まで席を立つことはなく、説明会が終わってから寄ってくる記者の問いにも丁寧に答えていた。

多忙を極める製薬大手の社長がひとつの製品説明会でここまでするのは異例のことだ。 たとえば 4 月 12 日の、がん免疫チェックポイント阻害剤「テセントリク」の説明会には小坂社長の姿はなかった。 中外製薬が「ヘムライブラ」が極めて重要な商品である証左だ。 現在の世界の製薬技術の主流はバイオ医薬品だ。 武田など日本の大手製薬が得意の低化合物からバイオへの流れに乗り遅れたのを尻目に、中外製薬は独自の抗体改変技術を使ったバイオ医薬品に力を注ぎ、日本製薬業界では先行リードした。

2002 年に永山治会長がスイスに飛び、50% 以上の株式をロシュに渡しロシュグループに入る一方で、上場と独立経営を維持するという、世にもまれな資本業務提携をまとめた。 このロシュとの二人三脚での提携が大きくプラスに働いた。 「大きなエンジン」と小坂社長が言うロシュの潤沢な開発投資力と強力なグローバル販売力をうまく利用し、独自の抗体改変技術を生かして創製した、本邦初の抗体医薬品である関節リウマチ薬「アクテムラ」や抗がん剤「アレセンサ」などを大型商品に育て上げ、日本の製薬会社では珍しい中長期の高成長をキープしてきた。

既存薬の問題を解決する「夢のような製剤」

「ヘムライブラ」もこの流れにそって創製・開発されている。 二重特異性(バイスペシフィック)抗体技術を使った世界初の血友病治療薬で、今後 5 - 10 年にわたり間違いなく同社の成長を牽引する柱商品になる。 「患者にとって劇的に治療が改善する、夢のような製剤」と共同開発に携わってきた奈良県立医科大学の嶋緑倫教授は「ヘムライブラ」への期待を隠さない。

血友病患者には血液凝固に作用する特定の遺伝子因子の欠陥から起きる先天性の症状が多い。 その中でも圧倒的多数を占めるのが、血液凝固第 VIII 因子の不足・欠乏から起きる血友病 A だ。 国内での患者数は約 5,000 人。 ちなみにこれに次ぐ血友病 B は約 1,000 人だ。 「ヘムライブラ」はこの血友病 A の治療薬だ。

いま主流になっている予防(定期補充)療法で第 VIII 因子そのものを補充する既存薬は、週に 2 - 3 回の頻度で静脈注射する必要がある。 この治療を受けた患者のうち 15 - 30% 程度の人は薬を異物ととらえ自己免疫作用から体内に薬を攻撃する抗体を作ってしまう。 こうなると既存薬は効かなくなってしまう。

効かなくなった後は、頻繁かつ大量に投与し続けることで薬を異物と認識しなくする免疫寛容導入療法に移る。 この治療は患者の身体への負担や不便が大きく、この治療が効かない患者も 3 割程度残ると言われる。 この療法段階に至る患者だと一人当たりの年間治療費が年間 6,000 万 - 1 億円程度となることもざらだ。 高額医療費の患者負担を一定範囲に収める制度があるものの、血友病 A 治療薬全体の年間支払額は 630 億円超に達しており、ただでさえ悪化している健康保険財政上の重い負担になっているのも確かだ。

既存薬にはこのようにさまざまな問題がある。 対して「ヘムライブラ」は静脈注射にくらべ簡単で痛みも少ない皮下注射で投与できる。 とくに幼児の患者やその面倒をみる親にとっては負担が軽い、痛みが少ないなどメリットが大きい。 注射する回数も週 1 回ですむ。 さらに決定的なのは、既存薬が効かなくなる抗体を持つ(インヒビター保有)の患者にもこの薬は効くことだ。

それもこれも中外製薬が持つ高度の抗体改変技術が生み出している。 先述したバイスペシフィック抗体の説明を簡単にすると、2 つの手を持ち、ひとつの手が患者の第 X 因子を、もう片方の手が第 IXa 因子を掴み、両者を結合させることで血液凝固の作用をもたらす。

既存薬が患者の欠乏する第 VIII 因子を補充することで血液凝固作用を回復(その代わりに弊害として体内にもともとない異物ととらえ、抗体を作ってしまう患者がでる)させるのに対し、第 VIII 因子なしに血液凝固させるというまったく新しい作用機序(メカニズム)、つまりブレークスルーを実現しているのである。 これが出血抑制効果の向上や週 1 回の投与など既存薬にくらべ高い効能、利便性に繋がっている。

2 週に 1 回、4 週に 1 回へさらに商品性進化も

ただ、新薬開発に成功するまでの道のりは難路だった。 中外製薬の富士御殿場研究所でおこなった研究段階では 4 万以上のバイスペシフィック抗体の作成・スクリーニングや 2,000 以上の改変検討を試みて最後にやっと創製にこぎ着けた。 その先の臨床試験(治験) 1 相(国内)に進んだのが 2012 年。 その後の治験 1 相/2 相を経て、2017 年 7 月 - 8 月(グローバル共同治験)に最終の 3 相を終えた。

研究・創製段階から発売までは実に 17 - 18 年の歳月がかかっているという。 3 相以降は日米欧でのグローバル共同治験をロシュとグループ共同で実施する「勝利の方程式」で世界販売展開に進んだ。 今回の承認は第 VIII 因子を使う既存薬に抗体が出来るインヒビター保有者患者を対象にした適応だ。 いわば血友病 A 患者のうち 15% - 30% を占める市場に対してアプローチする体制が出来た段階だ。

これに加えてすでにインヒビターを保有しない、血友病 A 患者全体のマジョリティを握る患者(市場)に対する適応拡大や、インヒビター保有者も含めた用法・用量の追加適用でも 4 月に国内申請を出した。 従来の週 1 回の投与に加え、承認が取得出来ると 2 週に 1 回または 4 週に 1 回の投与もできるようになり、「ヘムライブラ」の対象市場の拡大や利便性・商品性の向上につながる。

6 月 5 日にはインヒビター非保有患者を対象に米国の FDA (食品医薬品局)から審査承認の手続きを迅速化する優先審査の指定を受けた。 世界最大市場の米国でもインヒビター非保有患者への適応拡大が今年 10 月 4 日までに承認される可能性がでている。 「ヘムライブラ」の商品性進化と市場浸透、シャイアーの商品への侵食が予想外に早まれば、武田がシャイアー買収を成功させたとしても、期待する効果の面で誤算が生じる可能性もある。 「ヘムライブラ」の動向は、中外 = ロシュ vs 武田 = シャイアーの熾烈なグローバルバトルに少なからぬ影響を与えそうだ。 (東洋経済 = 6-11-18)