アジアの日系百貨店は「オワコン」か? 中国やタイ資本に猛追される理由
閑古鳥が鳴いていた上海高島屋だけでなく、バンコクに進出する伊勢丹や東急百貨店など、アジアの主要都市で集客に苦労する日系百貨店は少なくない。 人気を集めるタイ資本や中国資本の商業施設は、一体どこが優れているのだろうか? 「凋落する日系、台頭するアジア系」 - - そのコントラストが顕著に表れるのがバンコクの商業施設だ。 伊勢丹、東急百貨店など日系百貨店が進出するも、今やタイ資本のショッピングモールにすっかり圧倒され、その存在感は薄い。
タイ資本のショッピングモールに圧倒される日本の百貨店
巨大な売り場面積と洗練された館内コーディネート、最先端ブランドの入店とその集客力でプレゼンスを高めるタイ資本の商業施設。 経済成長とともに増え続ける「中間層」を惹きつける地元モールのキラーコンテンツは "食" だ。 タイ資本のモールは、とにかく "食の演出" がうまい。 地下には気軽なフードコート、上階にはちょっとリッチなレストラン街 - - バンコクのモールでほぼ共通するレイアウトだが、タイ最大といわれるモール企業「モール・グループ」が運営する「エムクオーティエ」(エンポリアム 2 号店)の地下フードコートは、モール全体の中で最も人を集めるフロアだ。
バンコク最大の繁華街・スクンビット地区に立地する同モールの地下には、タイのローカルフードはもとより、インド、広州、潮州、香港などの、ありとあらゆる "アジアの味" がずらりと並ぶ。 ホールの面積も広大で座席数も多く、内装もシンプルかつお洒落だ。 タイの 1 人当たり GDP は 7,187 米ドル(2018 年)と、中国の 9,608 ドルよりも低いが、このフードコートの 1 食当たりの平均価格は 100 - 200 バーツ(1 バーツ = 約 3.5 円)と、日本のファストフード程度並みの食事代を払える消費者層が存在する。
同グループは、サイアム地区に立地する巨大モール「サイアム・パラゴン」も経営する。 ここのフードコートは「バンコク最大」だといわれるが、文字通り "食のパラダイス" だった。 その充実ぶりは「ありったけのエネルギーとアイディアと資本を投入したのでは」と思わせるほど。 バンコクの市民はもとより外国人客も多いが、その選択はあまりにバラエティ豊かなので、誰もが "うれしい悩み" に頭を抱える。 こんな巨大なフードコートは日本ではお目にかかったことがない。
同じ商圏には日系百貨店もあるが、規模の小ささや施設の老朽化による "見劣り" がとても気になった。 フロア構成も "日本の伝統" を踏襲するが、果たして現地のニーズを反映したものなのかどうか。 肝心な食のフロアも単なる "食堂の集合" に近い。 日系百貨店といえば、かつては東南アジアの花形といわれた商業施設だったが、進出も早かっただけに、"売り場のレトロ感”は否めない。 すでに撤退した店舗もある。
閑古鳥が鳴いていた上海高島屋でも「デパ地下」だけは人気だった
"食" が人を集めるのは、中国の上海高島屋にも共通する。 上海高島屋百貨有限公司の清算騒動は物議を醸したが、6 年半前の開業時から一度も黒字を出せず、長らく「閑古鳥が鳴いている」と言われ続けていた同店で、唯一賑わいを見せていたフロアが "デパ地下" 部分だった。
同店の、食品スーパーやベーカリー、スイーツなどの売り場の充実ぶりには定評があった。 6 月の撤退宣言に近隣の住民は「残念なのは、"デパ地下" にあるパン屋の『ドンク』やサラダ・惣菜の『Rf1』がなくなってしまうこと」だと悲しんだ。 上階の飲食街には日本料理店やラーメン店が出店しており、昼食時になれば、近隣のホワイトカラーで席が埋まった。 多少値が張っても、おいしいものにはつい財布のひもを緩めてしまう - - 食のフロアには中国人たちの特徴ある消費動向がはっきりと映し出されていた。
ちなみに昨年、高島屋はバンコクの大型複合施設の中にアンカーテナントとして初出店した。 華々しい幕開けだったが、ほどなくして「(同店が立地する)チャオプラヤー川西岸に行くのは不便」という声が出始める。 上海高島屋同様、日本人居住者の間で話題になったのは、むしろその "立地" だった。
衣料品あり、日用品ありのフルラインが日本の百貨店のモデルだったが、アジア全体の市場を見渡せば、"百貨型" の売り場構成はもはや新鮮さを失いつつあるのだろうか。 昨夏、筆者はベトナム・ハノイのロッテデパート(韓国系)を視察したが、日本型の百貨店構造に酷似した同店もまた、地下の食品スーパーだけが賑わっており、一階から上の婦人服・紳士服売り場では買物客をほとんど見かけることはなかった。
レジャーサービス研究所(本社 : 東京・渋谷)の斉藤茂一所長の指摘は興味深い。 なんと、中国資本の百貨店では売り上げの半分を「食が占める」というのだ。 斉藤氏は「あくまで私がコンサルした範囲ですが」と前置きしつつ、次のように語る。 「北京の百貨店の売上構成比は、実に 58% を飲食が占めています。 地方では、朝 7 時に開店して朝食ニーズまで取り込む百貨店もあります。 お客さんは朝・昼・晩の食事のために百貨店を訪れるのです。 中国では、売り上げを支えているのは物販ではなく飲食であり、これが集客の原動力になっています。」
メインは飲食、物販はサブ - - この傾向は中国のみならず、アジア市場全体にも共通するのかもしれない。 アジアの人々が最も喜びと感じ、消費を惜しまないのは "食" をおいてほかにはない。 "百貨" から "一貨" に絞り込むのはさすがに極端な話だが、「思い切った発想の転換が必要」だと斉藤氏もいう。 いかに "食" に光を当てるかが、日系百貨店にとっての起死回生のカギとなりそうだ。
楽しさのプロデュースも計算ずく 東京はもはやアジア最先端ではない
最後に、アジアの各都市・各商業施設で筆者の心に残った集客スポットを紹介したい。 それはバンコクの「アジアティーク・ザ・リバー・フロント」だ。 東京ドーム約 2.5 個分という広大な敷地に約 1,500 もの小売店舗と約 40 店舗の飲食店を構える商業施設で、観覧車やお化け屋敷などのアトラクションとともに、ファミリーで 1 日楽しむことができる。 バンコクといえば、長らく「寺院」と「パッポン(男性向けの怪しげなスポット)」が観光の代名詞だったが、アジアティークはこの固定観念を払拭させる新名所の一つとなった。
古くは 19 世紀後半にチャオプラヤー川沿いに建造された船着き場だったが、2012 年に観光スポットとして再開発された。 古い倉庫や引き込み線を生かしたリノベーションは、横浜の「赤レンガ倉庫」を思い起こさせる。 両者ともに、「小売 + 飲食」のコンセプトは共通するが、アジアティークで世界から集まる観光客をひきつけていたのは、徹底的に充実させた「食」部門だった。
敷地内にはカジュアルから高級店までさまざまなジャンルの飲食店があり、ウォーターフロントならではの解放感が巧みに演出されていた。 さらに「夜市」的な食べ歩きスポットも非常に充実。 低予算でさまざまな味を訪ねて回れるという「食べ歩きスタイル」は、洋の東西を問わず観光客には大人気であり、最も賑わうエリアとなっていた。
その「夜市エリア」は屋根付きで照明が美しく、什器などのデザインも統一感があり、メニューはどれをとっても洗練されていた。 中でも "ワニ肉の解体ショー" は観光客をくぎ付けにし、スマホ撮影の人だかりができていた。 生バンドの演奏も観光客を楽しませるには十分に効果的であり、味はもとより、楽しさのプロデュースにも力が入る。 単なるテナントの寄せ集めではなく、施設全体が「楽しい時間と空間」を演出しているのだ。
魅力溢れる商業施設の出店ラッシュにあるバンコクは、外国からの訪問者を惹きつけてやまない。 バンコクには年間 2,300 万人が訪れ、「世界渡航先ランキング 2018(米マスターカード社調べ)」で 4 年連続 1 位を維持する。 気になる東京は約 1,300 万人で 9 位だ。 百貨店に限った話ではない。 かつて、アジアの諸都市を訪問すると、「日本がまだまだ上」という優越感を持つことが多かったが、今は違う。 すでにアジアに学ぶ時代が到来しているのだ。 (姫田小夏、Diamond = 9-9-19)
"中国茶葉" を守り続ける日本人 - 上海、広東で茶葉店経営の大高勇気さん
中国の上海や広州市(広東省)で茶葉の販売と茶の入れ方を教える茶芸教室を軌道に乗せた日本人がいる。 "中国茶ソムリエ" の大高勇気さん (33) だ。 10 年前、調理師から茶の世界に転身。 日本人ながら、お茶の本場の中国で、おいしい茶の入れ方を伝えながら、有機栽培の正統な茶葉の継承をライフワークとしている。
発端は「点心」修行の広州入り
中国には、シューマイ、餃子、春巻き、ゴマ団子など、中国茶とともに楽しむ軽食があり、「点心(ディエンシン)」と呼ばれている。 大高さんは「まるで無からの創造のような点心料理の技」にひかれ、当初は点心の専門職人「点心師」を目指し、東京の調理師専門学校に入学。 中華料理を学びながら都内の一流ホテルの中国料理店で実習生として働き始めた。
しかし、点心など各セクションのトップはみな、中国人調理師で、本場の技を身に付けなければ、彼らを乗り越えて昇進する道はなかった。 そこで、大高さんは中国での修行を決意した。 大高さんによると、茶を飲みながら点心を楽しむ「飲茶(ヤムチャ)」の発祥地は広州。 最初は、早朝、茶を飲みながら点心を食べる「早点(ゾウディム)」だったのだが、それがその後、香港に伝わり、海外からの観光客らにも人気の「飲茶」に発展していったという。 大高さんは 2002 年 8 月、点心の技をきわめるために広州の地を踏んだ。
老舗の飲茶レストラン休業で、中国茶販売を起業
大高さんは 03 年 5 月、業界団体の日本中国料理協会から広州きっての老舗飲茶レストラン「南園酒家」を紹介してもらい研修を始めた。 同レストランは庭園の中で「飲茶」を楽むという広州三大園林酒家の 1 つ。 大高さんは「見て盗んで学ぶ、昔ながらの教え方の日本と異なり、一流の点心師が気さくに何でも教えてくれた」と話す。
しかし、研修開始から間もない同年 6 月、南園酒家が経営不振で突然休業してしまった。 大高さんはしばらく途方に暮れていたが、点心のレシピについては「修行を終えていた」ため、「あとは、自分で技を高めて行くだけだ」と思い直した。 そこで、点心と不可分の関係にある、お茶について深く学ぶことにしたのである。
茶摘みをする親子
今度は、地元の華南農業大学で味や香りで茶を評価する「評茶(ピンチャ)」を教えていた陳国本教授に教えを請い、聴講を許してもらった。 そして、半年間、評茶を真剣に学ぶうち、大高さんは茶葉の販売で起業することを決意した。 自営業者だった父の影響もあり、「いつか経営者として独立することを子どものころから決めていた」からだ。
陳教授の授業を受けながら、広州市芳村区にある中国最大の茶葉市場に毎日のように通い、仕入先を探し、めどを立てた。 大高さんは 04 年元旦、市場で知り合った中国人の茶葉問屋の名義を借り、日本の中国料理レストランに茶葉を卸すビジネスをスタートさせた。
苦境を救ったメルマガとブログ
「その後の 1 年ぐらいは、茶が売れず、ものすごく苦労しました。」 大高さんは中国の茶葉農家に騙されたこともある。 その結果、一時は、所持金がわずか 3 元(約 50 円)になり、食費にもこと欠くありさま。 生まれて初めて親に金を借りた。 「あと 3 カ月やって結果がでなければ、茶の商売をやめようと思いました。」 大高さんは起業直後の苦しい時代をこう振り返る。
危機を救ってくれたのは起業と同時に初めたメールマガジンとブログだった。 そこに「金もうけよりも、本音を書くことを優先しよう」と、茶への思いや、中国の茶葉農家の苦労話などをつづるうち、ファンが増え、インターネットを通じて茶葉を買ってくれる個人客が少しずつ拡大していった。
反日デモから店を守ってくれた中国人貿易商に感謝
大高さんの茶葉店の名は「チャイニーズライフ」。 08 年、お茶をおいしく飲みたいお客向けに中国茶の入れ方を教える「茶芸講座」を開設し、12 年から「CLTS (チャイニーズライフ・ティースクルール)」と名付けた。 中国在住の日本人を中心に、これまでに計 618 人が茶芸を学んだ。 しかも、生徒の約 1 割は中国人。 40 - 50 代の富裕層で、ほとんどが女性。 外国人である大高さんが、中国茶の伝統を守り、発展させようとしていることに共感しているようだ。
12 年 9 月 16 日、広州でも大規模な反日デモが起き、日本料理店などが襲われた。 大高さんの茶葉店は店頭に日本語が書かれている。 このため、反日暴徒のターゲットになる恐れもあった。 そんな時だった。 CLTS の生徒で、茶葉をよく買ってくれる貿易商の 40 代の男性がやってきて「おれが一番大切にしているものが、壊されたくないから」と語り、店先に座り込んで警戒に当ってくれたのだ。 大高さんは胸が熱くなったという。
店舗と CLTS は現在、広州市に 2 カ所、広東省深セン市に 1 カ所、上海市に 2 カ所あり、大高さんの事業は順調に拡大している。 従業員も 46 人にまで増えた。 今年 5 月には、中国人パートナーの助けを借りて法人化も実現した。 茶葉は日本だけでなく、世界 10 カ国に輸出している。
中国の茶農家と一緒に作る "有機栽培茶葉"
「チャイニーズライフ」という名には、文学や思想で数多くの天才を産んだ古代中国の素晴らしいライフスタイルを現代に受け継ぎたいとの思いが込められている。 大高さんは「現在は、売れればいいとの拝金主義の風潮から、正しく作られた茶が姿を消している」と指摘。 茶の栽培から製茶法まで、古来の方法がないがしろにされていることを嘆く。 中国では、化学肥料で栽培した茶に、化学調味料などを加えた "おいしい茶" が流通しているそうだ。
チャイニーズライフは、中国各地の茶農家と協力し、有機栽培の茶葉だけを販売している。 大高さんは、年間 90 日を福建省などの茶葉の産地で過ごし、農作業を手伝いながら茶農家との信頼関係を築いている。 大高さんは 13 年、有機栽培の茶栽培を支援するため、NPO 法人を東京で立ち上げた。 ビジネスだけでなく、ボランティア活動により茶農家を支援しようとの発想だ。
適正な価格による公平貿易(フェアトレード)と寄付により、中国の茶葉農家に安定収入をもたらし、有機栽培を続けてもらうためである。 これに賛同する中国の茶農家の数を、福建省安溪県の茶葉農家を皮切りに、10 年間で 7 カ所に増やすことを目標にしている。 「これからも中国で、安心、安全な中国茶づくりに取り組んでいきたい。」 大高さんの夢は中国で果てしなく広がっていく。 (nippon.com = 9-16-14)
大高 勇気 OTAKA Yuki : 横浜市出身。 2000 年、東京調理師専門学校に入学し、中国料理を専攻、都内一流ホテルで実習。 中国での修行を決意し、02 年に中国に赴き、広州の中山大学で中国語を学ぶ。 03 年 5 月、同地の名店で修行を続行するも、店は経営不振で 1 カ月で営業停止となり、茶の道を選択。
04 年、中国茶の通販事業を立ち上げ、06 年 7 月に広州市芳村茶市場に茶葉店を開く。 その後、店舗を市中心部に移し、茶芸講座を開設。 12 年に上海にも進出し、13 年、有機栽培の中国茶農家支援のための NPO 法人「 茶畑みらいプロジェクト」を設立。 14 年 5 月に事業を法人化した。 茶葉は日本の他、世界 10 カ国に輸出している。
ファッション激戦市場の上海で日系ブランドが苦戦 - ユニクロ、無印良品は善戦
香港、台湾を含む中華圏の市場規模は 2013 年、何と、日本の 18 兆円の約 3 倍に当たる 50 兆円にまで拡大し、2020 年には 113 兆円規模の世界最大のマーケットに成長すると予測されている。 この中心に位置するのが中国最大の都市・上海で、各国のアパレル・メーカーや専門店が続々と進出しており、業界関係者の間で上海は「ファッションのワールドカップ開催地」と言われ、激しい競争が繰り広げられている。
今夏、上海の街ではスラッとまっすぐ伸びた素足を惜しげなく出して歩く女性たちの姿がそこかしこで見られた。日本同様、ショートパンツが流行したからだ。今世紀に入るころまでは、中国の流行の最先端を行く上海でも、「(若い女性が人前で素足を見せることは)はしたない」とされ、夏、サンダルを履く時も、足首までのストッキングで、素肌を出すことを慎んでいた。 当時を思い出すと、同じ国の風景とは思えない。
また、ショートパンツに加え、ここ数年、上海の女性に人気なのがロゴ入り T シャツとワンピース。 同じロゴ入りといっても、控えめを好む日本人とは異なり、中国人は大きくてはっきりし、一目でブランドがわかるデザインを好む。 また、ワンピースが人気なのは「身にまとえばそれなりに奇麗に見え、存在感が出るからだ」そうだ。 思い思いのファッションに身を包み、スマートフォンで友だちとチャット、タブレットで動画を視聴し、週に数回、友だちや恋人とショッピングや食事を楽しむ。 これが今の上海の若者たちのひとつのライフスタイルなのだ。
上海っ子は欧米志向・キーワードは「上質な生活」
ファッションの分野で上海っ子の目は東京、それも原宿に向いているといった説もあるが、日本貿易振興機構(ジェトロ)が 13 年、華東地域主要 7 都市(上海、蘇州、南京、無錫、杭州、寧波、合肥)の 20 代 - 50 代を対象に行ったライフスタイル調査によると、彼らの目はむしろ欧米を向いており、「注目する国のスタイルは欧米」と答えた人が約 40% を占め、次いで韓国、日本の順だった。 このため、欧米のデザインを参考にしている国内カジュアルブランドが少なくない。
上海でセレクトショップ「FASICART」を経営し、コンサルティング業なども行っている株式会社 Pubson の兒玉公人氏は欧米ファッションが好まれる理由について「高級感があり、かっこよくてスタイリッシュなデザインに加え、ドラマや映画の影響が大きい」と指摘する。 日本でも大ヒットした米国ドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」は中国人女性の心も捉え、ドラマの中の登場人物が着るセクシーでかっこいいファッションが上海でも厚い支持を得ているのである。
兒玉氏は「米国アップル社の iPhone や iPad を代表とするさまざまな商品、海外旅行、ドラマなどで触れる欧米のイメージは強く、彼らが求める上質なライフスタイルそのものなのだ」と語る。
ユニクロが躍進、中華圏店舗数は H & M 抑さえ No. 1
この中で、善戦しているのが日系ではユニクロと無印良品だ。 中国は世界展開するファストファッション大手の H & M、ZARA、GAP などがしのぎを削る国際市場なのだが、ユニクロは躍進を続け、中国での 6 月末総店舗数は 289 店と 2 位の H & M の 209 店を大きく上回り、頭ひとつ抜け出した。
中国人消費者にユニクロについて意見を聞くと、「手ごろな値段で品質が高い」、「店員のサービスが良い」と答える人が圧倒的に多い。 しかも、ある 20 代の女性は「ユニクロでは代金のおつりを両手で渡してくれるし、店員さんに商品の売り場を尋ねると、とても丁寧に教えてくれて、買い物していてとても気持ちいい」と答えた。 日本式サービスが中国人の心をつかんでいるのだ。
ユニクロとともに人気なのが無印良品。 中国で 100 店まで店舗数を増やしている。 シンプルでありながら優れたデザイン性を持つ商品と店内の雰囲気がよく、「買い物をすることで、上質な生活をしている自分を感じられる」のだそうだ。 ユニクロと無印良品の 2 社は、現在、中国の大型商業施設デベロッパーが最も誘致したい企業だといわれる。
日系ブランドの多くが苦戦・撤退の動きも
しかし、日系アパレル企業の "負け組" も少なくない。 「ユニクロや無印良品には及ばないものの、少しずつ成長している日本企業もある。 しかし、ここ数年、撤退の動きが活発化していて、特に今年に入ってから著しい。」 こう指摘するのは前出の兒玉氏だ。 今回の取材で、上海の買い物客に日系アパレルについて聞いてみたところ、「流行のデザインでもないのに値段が高い」、「中間色が多く、ぼんやり見える」、「体の線を隠すデザインのものが多く、中国人好みでない」といった意見が少なくなかった。
日本ブランドの洋服は「可愛い」、「シンプル」、「コーディネートしやすい」という特徴であることが多いが、中国人がよく好むのは「色が鮮やか」、「存在感がある」、「コーディネートしなくてもかっこよく見える」なのである。 こうした "ミスマッチ"、"ブランド力の欠如"、"資金力不足(で中国式の大々的な PR を展開できない)" といった事情から、戦いに敗れ、中国から撤退していく日系アパレル企業は後を絶たない。
伏兵・韓国企業は "韓流ブーム" を利用
これに対し、ここ数年、着実に伸びてきているのが韓国勢だ。 前出のジェトロの調査でも触れたが、中国の人たちが注目している国のライフスタイルということでは、韓国が欧米に次いでナンバー 2。 韓国ブランドの人気の背景には、韓流ブームや韓国企業の徹底したマーケティングと優れた PR 力がある。 中国では今年、「星から来たあなた」という韓流ドラマが大ヒットした。 すると、韓国アパレル各社は直ちに、この勢いに乗り、衣装提供によって出演者たちが着た自社商品をインターネットや店頭で宣伝・販売した。 この結果、店頭には商品を求める長蛇の列ができ、品切れが相次いだという。
日系アパレル企業が苦戦していることの背景には、日本のデザインがそのまま中国で売れると思っている日系企業が少なくないこと、販売店がメーカーから商品を買い取る大手日系ブランドのビジネスモデルが中国市場で倦厭されていることなどもある。 いまだに現場の決定権が小さく、迅速さが求められる中国ビジネスで後手を踏むことが多い。 たまにしか中国に来ない企業上層部と現場との意見に齟齬があることも大きな弱点だ。
日系アパレル企業が巨大市場中国で復活していくためには日本の慎重すぎる商業習慣を改め、メディア・コンテンツの発信や文化交流をさらに進め、それを両輪として進んでいくしかない。 政府も、民間企業も、よくよく考えてみなければなるまい。 (永島雅子、nippon.com = 9-8-14)
中国で活躍する日本人ファッション・ブロガー・TOKYO PANDA さん
中国ネット世代との架け橋
日中関係は冷却しており、中国ではちょっとしたことで反日運動が巻き起こる。 そうした中で、天性のファッションセンスと、明るく誠実な人柄で中国の若い女性から絶大な支持を集めるチャーミングな日本人ファッション・ブロガーがいる。 TOKYO PANDA さん (30) だ。 中国最大の電子商取引 (EC) サイト「淘宝(タオバオ)」の企画にも度々登場、今や、中国で最も影響力のある日本人の一人となっている。
上海を拠点に日中間を飛び回る
TOKYO PANDA さんは超多忙。 変化の激しいファッションの動向をウオッチ。 ブログを書き、取材を受け、ビジネスで中国各地や日中間を飛び回る。 フラストレーションも溜まっているはずなのだが、彼女は決して笑顔を絶やさない。 くりくりっとした大きな澄んだ目が印象的で、インタビューの際は、薄いグレーのフレンチスリーブといったラフな格好だったが、長い真珠の首飾りと 3 つ玉の真珠のイアリングでアクセントをつけ、エレガントな着こなし。 若い中国人女性たちが彼女のブログで推奨された、値段も手ごろなセンスのいい服の購入に走るのもうなずけた。
豪州で医学に目覚め、中国でファッションに挑戦
彼女は沖縄生まれの東京育ち。 会社員だった父と母、弟の 4 人家族で、2002 年に東京の高校を卒業し、オーストラリアのシドニーにある英語学校に留学した。 だが、アトピーと生理痛に悩まされ、当時、オーストラリアで注目され始めた東洋医学に興味を抱き、中国の医科大学への転進を決意。 日本に戻って中国語や理数系の科目を猛勉強し、05 年に中国の瀋陽にある医大を受験して見事合格した。 もちろん、医大での授業は中国語で、難しい専門用語も次々に覚えていかなければならない。
「医学の病名などは日本語と同じ漢字を使うことが多くて困りませんでしたが、化学の名称はまったく別で、本当に苦労しました。」 しかし、彼女は決してへこたれず、5 年間で卒業。 10 年 7 月からは医大の実習生として上級医師の指導の下で治療にもあたり、12 年には医大の修士課程を修了した。 こうした医学の勉学の傍ら 08 年から始めたのがネットを使った中国語でのファッションの紹介。 これが中国で活躍する日本人カリスマ・ブロガー「TOKYO PANDA」の誕生につながっていく。
「小さな子供のころからファッションが好きでしたね。 デザイナーだったおばあちゃまの影響かもしれません。」
「微博(ウェイボー)」のフォロワーは 10 万人を超える
TOKYO PANDA さんが瀋陽に来たばかりのころは、「(市内に)おしゃれ好きの女の子が満足できるようなお店がほとんどなかった」そうで、彼女は仕方なくネットで自分の好きな洋服を購入。 それを着て撮った写真をネットにアップし、コメントを書いたところ、「可愛い」、「私も買いたい」、「どこで買えるのか教えて」などの書き込みが多数寄せられた。 このため、彼女は 09 年夏、自らのファッションスタイルやライフスタイルを紹介するブログ「TOKYO PANDA & MR. PANDA」を正式に立ち上げた。
この名称は当時からのロシア人のパートナー、MR. PANDA (28) が付けてくれたもので、ブログの写真撮影は彼の担当。 この洒落た名前と彼女のずば抜けたファッションセンスが口コミで広がっていき、中国最大の電子商取引 (EC) サイト「淘宝(タオバオ)」の「紅人館」で紹介され、彼女は一躍、中国の人気ファッション・ブロガーの一人となった。 彼女のブログには多数のアクセスがあり、中国版ツイッターともいわれる「微博」のフォロワーは 10 万人を超える。
彼女はブログへの書き込みや質問には「できるだけ答える」との方針で、睡眠時間を削って答えており、これも人気の秘密。 が、ブログを開始した当初、TOKYO PANDA さんが日本人女性だという理由で、ブログに日本兵による残虐な写真をアップされたこともあったという。 彼女の抗議でこうした写真は直ちに削除されたが、彼女はひるまなかった。 中国人フォロアーの励ましの声の方がずっと大きかったからだ。
日系企業も TOKYO PANDA の影響力に注目
彼女のブログはその後、さらに支持者を集め、中国の人気女性雑誌『Ray (瑞麗)』でも大きく取り上げられ、彼女は中国でカリスマ・ブロガーとしての地位を固め、ブログの中で高い評価を与えると、その商品の売上が急増するようになったという。 TOKYO PANDA さんは現在、ファッション関係の仕事が忙しく、医療の方面は休業。 MR. PANDA と共に、活動の拠点を瀋陽から上海に移し、「淘宝(タオバオ)」内に自身がセレクトした商品を扱うネットショップ「Bonjour Petit Fashionista」をオープンするなど、活動の幅を広げている。
これに対し、中国の巨大なマーケットをにらむ日系企業も彼女の影響力に着目。 彼女は企業の求めに応じて中国向けファッション専用 EC サイト「fala*fala」の立ち上げにも全面協力。 彼女が提供する「ブランド訪問記・現地報道」のコーナーは特に好評で、同サイドの出店数は現在 30 程だが、年内には 100 店を目指しており、売上も着実に増えている(西山さん)」という。
「日中関係、信じています」 - 沖縄の対中民間大使にも就任
これは TOKYO PANDA さんがそれだけ中国の人たちに受け入れられている証拠で、そこに期待するのは何も日系企業ばかりではない。 生まれ故郷、沖縄県は「日中の架け橋」として活躍している彼女を「新ウチナー民間大使」に任命した。 沖縄のことをもっと知ってもらい、中国人観光客を増やすためだ。 そこで、彼女に首脳会談も開けない最近の緊張した日中関係について聞いてみた。
「民間レベルではこんなに進んでいます。 中国の方も、日本の方も、タイミングをみつけ、人として話し合い、訴えかけていけば、きっと改善すると思います。 信じています。」 この言葉に、反日感情を乗り越え、ネットを通じて中国の人たちとのコミュニケーションを図り、中国でファッションのカリスマ・ブロガーとなった TOKYO PANDA さんの自信のようなものを感じた。 (nippon.com = 8-4-14)
TOKYO PANDA : 1984 年沖縄県生まれ。 2002 年に東京の高校を卒業、オーストラリアに留学したが、2 年後、東洋医学に興味を抱いて中国の医科大学への転進を決意。 05 年中国・瀋陽の医大を受験して見事合格し、医大を卒業。 こうした傍ら 08 年から中国でファッション・ブロガーとしての活動を始め、今や「TOKYO PANDA」の名で中国の若い女性のファッションをリードしている。 著書に『《80 后・90 后》 中国ネット世代の実態(角川 SSC 新書)』などがある。
|