ドル箱の北海道物産展が相次ぎ中止 大量の食材どこへ

東京や大阪など 4 都府県に出された 3 度目の緊急事態宣言を受け、域内の百貨店の催事は軒並み中止になった。 百貨店で最も人気が高いとされる北海道の物産展も相次いでなくなり、大型連休を見込んで仕入れた大量の食材などが行き場を失った形だ。 東武百貨店池袋本店は 4 月 15 日から開催中だった「大北海道展」を中断した。 北海道産のアスパラガスやチョコレートなど一部は地下の食料品フロアに移して販売を続ける一方、冷凍のカニなど保存のきくものは出店業者に持ち帰ってもらったという。

エイチ・ツー・オーリテイリングも、28 日から高槻阪急で予定していた北海道物産展の開催を中止し、納品を急きょキャンセルした。 松坂屋上野店でも 21 日からの「初夏の北海道物産展」を中断するなど、今回の緊急事態宣言で中断・中止された北海道の物産展は全国で少なくとも 6 件にのぼる。 各百貨店が代わりに力を入れるのは、通販サイトでの販売。 大丸松坂屋は自社のサイトで北海道の食品販売を始めている。 高島屋は最初の緊急事態宣言が出た昨年 4 月から「オンライン物産展」を通年開催しており、新宿店で予定していた「初夏の大北海道展」の出店業者の商品をこのサイトで扱う作業を進めている。

しかし、百貨店にとって店舗での催事が開けないのは痛手だ。 上層階に人を呼び込み、下層階に客を誘導して買い物してもらう「シャワー効果」が失われるからだ。 日本百貨店協会によると、催事で一番集客力があるのが北海道物産展で、多くの店が春と秋の開催を望む。 業者との調整や近隣店との競合回避のため、年初に日程を固めるのが通例で、コロナの感染状況を見て店ごとに時期を調整するのは難しいという。 「たまたま感染拡大期にぶつかり、開けない店は気の毒(業界関係者)」との声も漏れる。 東急百貨店は昨年 2 月からすべての店舗で、催事をほぼ開催できていない。 客が密状態になるのを避けるためで「感染状況が落ち着かない限り、店での開催は難しい(広報)」という。

北海道の生産者にも大きな影響 ネットでできることできないこと

九州や東海など緊急事態宣言の出ていない地域の百貨店は普通に営業しているとはいえ、書き入れ時の大型連休に大消費地での催事を失ったことは生産者にも影響が大きい。 北海道釧路市の昆布専門店は、毎年取引してきた都内の百貨店の北海道展の中止で、売り上げが落ち込んだ。 「うちのお得意さんには高齢者が多い。 ネットは不得意だろうし、送料がかかるのも敬遠される。 催事がないのは本当に困る。」とこぼす。 帯広市の水産加工品業者は 5 月下旬以降に都内での物産展に出店予定だといい、「緊急事態宣言が延長されないことを祈っている」と話す。

こうした生産者を支援する動きも広がる。 産直品の通販サイト「食べチョク」は、今回の緊急事態宣言を受けた支援策を 4 月に打ち出した。 まとめ買いをしてくれた消費者に最大 3 千円分のクーポンを付与して購入を促すほか、生産者には売り上げの入金時期を通常より半月程度、早めるという。

札幌商工会議所も生産者の販売支援サイトを昨年 3 月から運営している。 道内約 400 社の商品を紹介し、開設当初は月 200 万近い利用者がいた。 最近は利用者が減少気味というが、「改めて PR していきたい(担当者)」という。 流通経済研究所の山崎泰弘常務理事は「コロナで消費の冷え込みが続くなか、ネットの販売も今まで以上の工夫が求められる。 百貨店のバイヤーがライブ動画で商品説明をしたり、その時間帯だけの限定商品を企画したりするなど、リアルな物産展が疑似体験できるような仕掛けも必要ではないか」と話す。(伊藤弘毅、土屋亮、asahi = 5-1-21)

中止になった主な北海道物産展
東武百貨店池袋本店東京都豊島区大北海道展4月15日-5月5日(4月25日から中止)
松坂屋上野店同台東区初夏の北海道物産展4月21日-5月5日(同上)
高島屋新宿店同渋谷区初夏の大北海道展5月7日-18日(全日程が中止)
高槻阪急大阪府高槻市初夏の北海道物産展4月28日-5月4日(同上)
あべのハルカス近鉄本店大阪市阿倍野区大北海道展4月21日-5月4日(4月25日から中止)
高島屋大阪店同中央区初夏の北海道展4月28日-5月11日(全日程が中止)


福島の鮮魚、特急「ひたち」で東京へ輸送 県漁連が実施

福島県沖でとれた魚介類「常磐もの」を首都圏の消費者に広く知ってもらおうと、県漁連が 21 日、JR 常磐線の特急列車を使った鮮魚の輸送を初めて実施した。 出荷先の飲食店などの反応を見て、本格的に取り組むかどうか検討する。 県沿岸での「試験操業」が3月末で終わり、本格操業に向けて水揚げの拡大とともに消費を増やそうと、県漁連が JR 東日本と連携して企画した。

この日は、県漁連のトラックが、朝に沼之内漁港(いわき市)で水揚げされたヒラメとメバル計 17 キロを正午すぎに JR いわき駅に配達。 JR の社員が、コロナ禍の影響で休止している常磐線特急「ひたち」の車内販売のカートを置くスペースに積み込み、品川駅構内の総菜店など飲食店 3 店舗に届けた。 いわき - 品川間は、常磐線特急で片道約 2 時間半。県漁連販売課の山野辺昌志・課長代理は「取れたその日の夕方には店に届けられる。 鮮度の良さを首都圏の消費者にアピールしていきたい」と話した。 (古庄暢、asahi = 4-22-21)


JR 上越線の無人駅、旧駅務室が高校生向けの学習室に

【群馬】 3 年前に無人駅になった JR 上越線後閑駅(みなかみ町後閑)の旧駅務室が、高校生向けの学習室に生まれ変わった。 みなかみ町が改装し、20 日から利用できるようになった。 後閑駅は、町役場近くにあり、1 日の乗車人数は約 800 人。 町によると、このうち 8 割前後が前橋や高崎、沼田市などに通学する高校生という。

町の公共施設には学習スペースが少ないため、無人駅を有効に活用することにした。 協力した JR 高崎支社によると、同支社管内の駅舎に学習室を設けたのは初めてという。 夕方、列車を降りた高校生が訪れ、見学や利用登録をした。 約 70 平方メートルに 22 人分の机や椅子を用意した。 防犯カメラや空気清浄機を設置し、無料 WiFi も近く設置する。 運営は、移住や起業支援などをしている民間事業者に委託し、アルバイト情報の提供やイベント開催も検討する。 利用時間は平日午後 3 時 - 8 時半、土曜日午後 1 時 - 7 時(日曜祝日は休み)。 (遠藤雄二、asahi = 4-21-21)


稚内沿岸にニシンの「群来」 カモメは海面で争奪戦

北海道稚内市のノシャップ岬で 12 日朝、ニシンの「群来(くき)」が現れ、沿岸から沖に向かって白い帯のように広がっていった。 群来はニシンの群れが産卵で押し寄せ、ニシンの精子で海が白く濁る現象だ。 稚内灯台の東側の宗谷湾に面した海岸で、すぐ沖にある消波ブロック周辺の藻場で産卵したようだ。

地元の人がカモメの群れが騒がしく、海をみたら、一帯が白く濁っていたという。 カモメたちは、海面近くを泳ぐニシンの争奪戦を展開。 くちばしでニシンをとらえると、他のカモメに奪われないように慌ててのみ込んでいるカモメもいた。 稚内市での群来は昨年は 4 月 10 日で、日本海側の海水浴場近くで見られた。 (奈良山雅俊、asahi = 4-12-21)


トカラ近海地震 200 回超す 4 日目、
悪石島島民「いつ治まるのか」募る不安

トカラ列島近海で 9 日深夜から続発している地震は 12 日、200 回を超えた。 午前 9 時現在で計 208 回。 鹿児島地方気象台によると、十島村悪石島で震度 4 を 4 回観測した。 同島とその周辺で震度 3 が 15 回、震度 2 が 52 回、震度 1 が 137 回起きた。 同村によると、地震によるけが人や家屋損壊などの被害は確認されていない。 悪石島に住む元村議の有川和則さん (69) によると、当初は相次ぐ地震に動揺していた村民も次第に落ち着いてきた様子だが、「『いつ治まるのか』という不安の声が上がっている」と話した。 (南日本新聞 = 4-12-21)


北海道の根室新聞が休刊 「日本最東端」の地方紙

北海道根室市に拠点を置く「日本最東端」の地方紙、根室新聞が 3 月 31 日に休刊した。 発行する根室新聞社(岡野忠春社長)は 4 月いっぱいで解散する。 同紙の刊行を引き継ぐ企業などが現れない場合、廃刊となる。 地域の戦後復興や北方領土問題の動向を伝え、記録してきた道東報道機関の「退場」を惜しむ声は多い。 根室新聞の創刊は 1947 年 1 月 6 日。 基本 4 ページの夕刊紙で、日曜・一部祝日を除いて発行してきた。 休刊を伝える 3 月 31 日付の最終 2 万 2,249 号の記事は、「市政や北方領土問題、市民活動など」の報道を通じ、「地方紙としての社会的使命の一端を果たすことができた」とした。

明治初期の北海道で、根室は函館、札幌とともに 3 県を構成し、報道・出版活動でも古い歴史を持つ。 1889 年、自由民権運動の流れを受けて言論雑誌「北友」が創刊され、翌年に「根室新聞」と改題された。 その後、他の地元紙との統合を経て、1942 年、他の道内地方紙 10 紙とともに北海道新聞に統合された。 「根室新聞」の名は一時途絶えたが、戦後、その名を継ぐ形で印刷業者の能瀬稲美氏が創刊した。 当時、根室は北方領土の好漁場を失い、空襲の被害や引き揚げなど混乱を極めていた。 創刊の辞で能瀬氏は、「公正なる自由に生まれ出た言論こそは建設の言葉であると信ずる」と書いた。

赤字経営が続く中、71 年に経済界の有力者らが出資し、個人経営から法人会社へと変わった。 その後も地域の企業などから増資を受け、発行を続けてきた。 70 年代以降は取材記者 5 人体制を基本とした。 専門を水産、市政、北方領土など国・道政、経済界、教育の 5 分野に分け、各記者が長年にわたり取材。 きめ細かい報道の一方で迷いイヌ・ネコの紹介欄など、街の話題も充実させた。 だが、根室市の人口減や水産業の衰退で部数は減っていった。 人手不足もあり、近年は記者が取材 2 人、編集 1 人に縮小。 「経営的には何とかなるが、新聞社の特殊性から人材確保が難しかった」と岡野社長は話す。

根室市の石垣雅敏市長は「街だねを含む市の情報を詳細に伝え、そのまま市史的な役割を担った存在。 まだまだ続けて欲しかった。」と語る。 千島歯舞諸島居住者連盟の河田弘登志副理事長 (86) も、「北方領土問題原点の地の新聞として、返還運動をずっと熱心に報じてくれた。 本当に残念。」と話している。 (大野正美、asahi = 4-5-21)

北方の盛衰伝えた根室新聞の記事

根室新聞の記事からは、北方領土や漁業の盛衰に揺れた根室地域の戦後が生々しく伝わってくる。(組織・団体の名、肩書などはいずれも当時のもの)

数の子の配給ありません」 1948 年 12 月 正月につきものの数の子は戦時中も少量配給されたが、春ニシンの不況からついに今年は全然配給がない。
手袋で越境」 51 年 1 月 根室町の漁業者が羅臼町から漁船で戻る途中で乗せた男 2 人に「ピストルがある。 国後島へ行け。」と脅された。 男 2 人は国後沖合でソ連警備艇に乗り移ったが、その際、ピストルは、黒革の手袋をそれと見せかけたものとわかった。
米ソ空中戦」 54 年 11 月、根室上空で米軍の大型偵察機がソ連軍ミグ戦闘機に銃撃され、別海町の農家に墜落。 幸い、農家は留守中で人畜被害はなかった。
日ソ共同声明調印」 56 年 10 月、モスクワでの交渉で平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す合意が成立。 戦前に歯舞群島が属した歯舞村は「ちょうちん行列」で祝った。 半面、国後、択捉の返還促進団体は「悲痛な空気が流れ」、根室町議員協議会は祝賀行事を取りやめた。
心眼で島は見えた」 59 年 8 月、大日本水産会の高碕(たかさき)達之助会長は、ソ連によるコンブ漁民の拿捕(だほ)が続いた貝殻島水域を望む納沙布岬を訪問。 濃霧だったが、「心眼で島は見えた。 漁民の苦悩がよくわかった。」と語った。 その後、ソ連との安全操業交渉に尽力、63 年に協定を成立させた。


家賃が名古屋並み … 若者大量流出の「坂の街」解消なるか

全国の市町村で流出人口ワースト 1、2 位を争う長崎市が、中心市街地の建物の容積率を大幅に緩和した。 住民離れの一因とされる大都市並みの家賃を解消しようと、高層マンション建築を促して住宅の供給を増やそうという算段だ。 活性化をめざした容積率緩和は福岡市などでも進む。ねらい通り、人口減の歯止めの切り札となるか。

長崎市の人口は約 40 万 5 千人(3 月 1 日現在)。 市町合併で今の市域になって 15 年で約 5 万人減った。 総務省の住民基本台帳人口移動報告によると、2020 年は市を離れる人が転入する人を 2,025 人上回る「転出超過」だった。 愛知県豊田市に次ぎ、全国の市町村でワースト 2 位。 18、19 年は 2 年連続で全国最多だった。 40 歳未満の流出が目立っている。 敬遠される理由の一つと市が考えるのが「坂の街」ゆえの住宅難だ。 市街地の約 7 割を斜面地が占め、マンションやアパートの適地が少なく、家賃や分譲価格が高い。 19 年の小売物価統計調査では、民営住宅の月額平均家賃(3.3 平方メートルあたり)は 4,735 円。 福岡市の約 1.1 倍で、名古屋市などと同水準だった。

この難点解消のため市が考えた策が、容積率(敷地面積に対する延べ床面積の割合)の緩和だ。 容積率は都市計画法に基づき、自治体が独自に定める。 これを緩和して高層住宅を建てやすくすれば、部屋の供給が増えて家賃を下げられるというわけだ。

長崎市は 25 日付で都市計画を見直し、乱開発を避けるため上限を 200% にしていた地域の容積率を変更。 市中心部の路面電車沿線などで 400%、その周辺地域で 300% とした。 翌 26 日、緩和した容積率に基づき、建物の建て替えや新規の建設を認めると発表した。 市はこれにより、約 850 ヘクタール(福岡ペイペイドーム 121 個分)の床面積が新たに生まれると見込む。 田上富久市長は「若い人が長崎を選んでくれる環境づくりは、人口減対策の柱の一つ。 家賃や分譲価格が下がることで若い人が住みやすくなり、近隣から通勤・通学する人々の転入も期待できる。」と語る。

容積率緩和は、福岡市の「天神ビッグバン」など大都市の再開発を促すため実施されることが多い。 長崎県立大の西岡誠治教授(公共政策)は、人口減対策を目的とした緩和の例は「あまり聞かない」としつつ、長崎市について「住宅の供給を増やして市場原理が働くのを促すのは効果があると思う」と評価する。 ただ、市が昨年開いた住民説明会では「床面積が増えても価格が高ければ買えない」、「働く場所がなければ転入者は増えない」といった声もあった。 今後、人口変化の動向を調べ、効果を検証していくという。 (弓長理佳、asahi = 3-28-21)


活断層の真上にアリーナ? 検証せず着工、被害想定は

佐賀県が建設中の大型公共施設が、政府の機関が作った活断層を示す地図上で活断層のほぼ真上に位置していることが、関係者への取材でわかった。 県は、この活断層が動いた場合の大規模な被害想定も出していたが、建設にあたっては検証していなかった。 専門家からは調査の必要性を指摘する声も上がっている。

県が建設しているのは、4 階建て約 8,400 席の「SAGA アリーナ」。 JR 佐賀駅の北約 1 キロに位置し、総工費は 257 億円。2020 年に本格着工し、23 年の完成予定で現在は基礎工事が進む。 翌 24 年に開催する国民スポーツ大会・全国障害者スポーツ大会のメイン施設となり、コンサートやイベントでの利用も想定。 さらに防災拠点としても活用する。

県内では、佐賀平野を東西に約 38 キロにわたってのびる活断層「佐賀平野北縁断層帯」の存在が指摘されている。 政府の地震調査研究推進本部が 13 年、推定でマグニチュード 7.5 程度の地震が起きる恐れがあると評価した。 評価にかかわった複数の専門家によると、アリーナの建設場所は、活断層を示した地図で活断層のほぼ真上に位置している。 この活断層について、県は 13 - 14 年度、専門家や関係省庁などによる委員会を設け、大地震が起きた場合の震度を 7 と予測。 最悪のケースとして県内で建物の全壊・焼失が 5 万 8 千棟、死者は 4,300 人、負傷者は 1 万 6 千人と想定した。

アリーナの整備構想は 16 年に持ち上がり、県は専門家やスポーツ団体代表らによる委員会で、建設場所や規模などを話し合った。 候補地は、現在の場所から東へ 20 キロほど離れた鳥栖市や、北へ 5 キロほどの長崎自動車道付近も挙がったが、陸上競技場などの体育施設が集まる現在の場所を活用することで意見が一致。 県は基礎工事の参考として事前に地質を調べたが、活断層の存在は調べていなかった。 県庁内で、活断層についての指摘もなかったという。

山口祥義知事はアリーナを「九州の中心に位置し、アジアとも近い佐賀県だからこそ生きたものになる。 佐賀躍動の象徴だ。」などと主張。 昨年 6 月には安全祈願祭を開いた。 県 SAGA サンライズパーク整備推進課の山口俊裕技術監は取材に対し、「近くに活断層があるとは認識していたが、直下ではないという判断だった。 今にも動き出しそうな活断層であれば、詳細を検討したと思う。」と説明。 建設中のアリーナについて、「震度 6 強から 7 の地震にも耐えられる設計で倒壊する恐れはない」と話す。

専門家によると、佐賀平野北縁断層帯は、地表に現れている活断層と、地下の地質分析から推定された活断層をもとに想定している。 アリーナ建設現場付近の活断層は詳細な調査がされておらず、地震の周期、詳しい位置は不明という。 この断層帯を調査したことがある国立研究開発法人「産業技術総合研究所」の吉見雅行主任研究員(地震工学)は、佐賀平野は地盤が軟らかく、揺れが増幅されやすいと指摘。 「地下に活断層がある可能性があれば、大型の公共施設をつくるべきではない。 少なくとも着工前に詳細な調査をすべきだ。」と話している。

活断層上の大規模施設の建設については、規制する自治体もある。 徳島県では 12 年、活断層上の建設規制を盛り込んだ条例が施行された。 13 年には、県内を走る中央構造線断層帯約 180 キロのうち約 60 キロについて、幅 40 メートルを「特定活断層調査区域」に指定。区域内では学校や病院、ホテル、体育館など、多くの人が利用する一定規模以上の建物を建設しないことや、建設する場合は活断層を調べ、真上に建てないよう求めている。 (平塚学、asahi = 3-27-21)


壊滅した石垣島のサンゴ、奇跡の復活 立ち上がった住民

沖縄県の石垣島で、一時壊滅的な状態になっていたサンゴの一部が復活を見せている。 東京都の水中写真家、堀口和重さん (34) が 1 月下旬、健康に育った様子をとらえた。 専門家は、サンゴを食べるオニヒトデの駆除活動などが功を奏したとし「サンゴの多くが衰退の危機にさらされているなか、非常に貴重であり、健全な状態で維持していくことが大切」と話している。

堀口さんは、日本各地で 10 年以上サンゴの撮影をしてきた。 ほとんどの場所で、海藻やサンゴが減ったり、それまでにいた生き物がいなくなったりしているという。 そんななか、石垣島の崎枝湾のサンゴが「壊滅的な状況から奇跡的に復活した」と地元のガイドから聞いた。 2019 年に初めて崎枝湾のサンゴを撮影。 その後 10 回ほど同じエリアで撮影してきた。 1 月 20 日に潜ると、サンゴの群体が一面に広がっていた。 テーブル状の群体をつくるサンゴがこれだけ広範囲に生息しているのは今までに見たことがないという。 「生命の力強さを感じた。」

国連環境計画は昨年 11 月、地球温暖化に伴う海水温の上昇があるなか、化石燃料への依存を続けると、今世紀中に世界の海で全てのサンゴ礁が失われる恐れがあるとの報告書を発表。 日本についても「2024 年に大規模なサンゴ白化が常態化する可能性がある」としている。

壊滅していくサンゴ 「黙って見てはいられなかった」

環境省生物多様性センターの「モニタリングサイト 1,000 サンゴ礁調査」によると、石垣島を含む八重山地方ではこれまでに何度もサンゴの死滅と回復が繰り返されている。 オニヒトデの大量発生による食害や海水温の上昇、開発に伴う陸地からの赤土流出、十分な処理がされないままの生活排水や農畜産排水などが原因に挙げられている。 特に 01 年ごろから石垣島周辺ではオニヒトデが急増し、10 - 11 年にピークを迎えた。

地元では、ボランティアがオニヒトデの駆除活動に取り組んでいた。 石垣市も 14 - 16 年度に国の交付金を活用し、八重山ダイビング協会などに駆除活動を委託。 その後、一定の改善が見られたという。 環境省の調査などによると、16 年には夏場の異常高水温によって大規模なサンゴの白化現象が発生し、その多くが死に、ごく一部の海域を除いて十分な回復は進んでいない。 琉球列島のサンゴの調査研究に取り組む琉球大の中村崇准教授は、崎枝湾でのオニヒトデの駆除活動が現地のサンゴの復活を支えた一因とする。

崎枝湾など石垣島周辺のサンゴの多くは、石垣島や西表島、それらをまたぐ日本最大のサンゴ礁海域「石西礁湖(せきせいしょうこ)」から流れ着いたもの。 16 年の大規模白化の時期に流れ着いたサンゴの幼生が、オニヒトデの駆除の効果もあり食害を免れ、大きな群体に育ったとみている。 今後は、オニヒトデ大発生の原因解明や大発生の抑制につながる対策が重要だとしている。 石垣島周辺でもこれだけの復活を見せたサンゴ礁は多くないという。 中村准教授は「次世代のため、少しでも多くの健全なサンゴ群集を残しておくことが大切」と話す。

八重山ダイビング協会の理事、川島実さん (52) は、12 年ごろから崎枝湾などでオニヒトデの駆除活動にボランティアで取り組んできた。 「一面オニヒトデで全くサンゴがなかった時期があり、黙って見てはいられなかった。 どこまで効果があるかはわからなかったが、少しでも復活に役立てたならうれしい。」と話す。 堀口さんは、今後も同じ場所のサンゴを撮影する予定だ。 「今回撮影したサンゴも 1 年後にはまた違う姿に変わっている可能性もある。 サンゴがどのように変化していくかを見ていきたい。」 (島崎周、asahi = 3-26-21)


地獄蒸しプリン、全国 1 位に 隠し味は、別府温泉の蒸気

リクルートライフスタイル(本社・東京)の旅行情報誌「じゃらん」が 2 月に実施した「全国各地からお取り寄せして食べたいご当地プリン」アンケートで、大分県別府市の「地獄蒸しプリン(明礬温泉)」が 1 位を獲得した。 人気の岡本屋売店のプリンは、「苦みが利いたカラメルと濃厚な味わいがくせになり、昔ながらの少し固めの一品」と評価されている。

日本記念日協会が毎月 25 日を「プリンの日」に登録しているのにちなむ企画。 ネットアンケートに 47 都道府県の 20 - 50 代の男女 1,046 人が参加し、うち 29.2% が「地獄蒸しプリン」を選んだ。 2 位は「なかほら牧場ぷりん(岩手)」、3 位は「島プリン(沖縄)」、4 位は「善光寺ぷりん(長野)」だった。 じゃらんの担当者は、「観光地でご当地プリンがあったら食べてみたいと 7 割以上が答えるほど注目度は高い。 特に別府の地獄蒸しプリンは、天然温泉の蒸気を利用して作られた素朴で濃厚な味わいが愛されています。」と語った。 (加藤勝利、asahi = 3-26-21)


村野藤吾設計の信用金庫本店、改修・保存へ 北九州

建築家の村野藤吾 (1891 - 1984) が設計した福岡ひびき信用金庫の本店(北九州市)が保存されることになった。 老朽化した建物は改修して活用し、隣接する北九州市の柔剣道場跡地を取得して本部機能を拡充する方針だ。 同信金は合併に伴い本部のスタッフが増えており、一部機能は別に置いている。 効率化に向けて、集約が課題で、信金内では本店の建て替えも検討されていたという。 同信金は「八幡地区には村野建築が集まっており、見学者も多い。 価値ある建築物を残したい。」としている。

同信金の前身である旧北九州八幡信用金庫の本店として 1971 年に完成した。 八幡製鉄所での勤務経験もある村野が手掛け、建物の最上部には溶鉱炉を思わせる塔屋もある。 村野は、佐賀県唐津市出身で、北九州市で育った。 日本生命日比谷ビル(日生劇場)や新高輪プリンスホテルなどを設計した。 (北川慧一、asahi = 3-24-21)


茶の産出額、鹿児島が初の首位 50 年トップの静岡陥落

鹿児島県の茶の産出額が 2019 年は 252 億円になり、50 年以上トップであり続けた静岡県を抜き、初めて全国 1 位になった。 大規模な茶栽培で産出額が安定している鹿児島県は、20 年産でも勢いを維持している。 今月発表された農林水産省の統計データで明らかになった。

茶の産出額は、栽培農家が摘み取った「生葉」と、それを加工した「荒茶」の産出額の合計で表される。 農水省の生産農業所得統計で 19 年の産出額は鹿児島県が生葉 163 億円、荒茶 89 億円。 静岡県は生葉147億円、荒茶 104 億円。 農水省によると、茶の産出額の統計が残る 1967 年以降静岡県が全国 1 位を続けてきたが、19 年は鹿児島県が初めて 1 億円上回った。

静岡県では近年、茶の産出額の低下傾向に歯止めがかからない。 多くの茶畑が山の斜面や台地に集まり、大型機械が入りにくいために収穫量が伸び悩み、担い手の高齢化も進む。 19 年は春先の冷え込みで生葉の収穫量も落ち、産出額の低下を加速させたという。 一方の鹿児島県は、知覧茶の産地で知られる南九州市などの平地で、大型機械を使った大規模な茶栽培が盛んに行われている。 生葉の収穫量や荒茶の生産量は微増傾向で産出額も安定。 将来の経営見通しが立ちやすいことから担い手不足の問題も深刻化していないという。

農水省の統計データでは、15 年と比べた 19 年の産出額は鹿児島県が 25 億円増え、静岡県は 55 億円減った。 20 年産も生葉の収穫量は鹿児島県が 11 万 8,400 トンで静岡県を 5,800 トン上回った。 荒茶の生産量も鹿児島県が 2 万 3,900 トンで、静岡県にあと 1,300 トン差まで迫っている。 鹿児島県の担当者は「県内の茶の関係者が一丸となって頑張ってきた成果が出た。 産出額全国 1 位はうれしい。」と喜ぶ。 静岡県の担当者は「海外も含めた新たな販路の開拓などにより、産出額の低下を食い止めたい。」と話した。 (稲野慎、asahi = 3-23-21)

2019 年の茶の産出額の上位 5 府県 (生葉と荒茶の合計、農林水産省などへの取材に基づく)
1 位鹿児島県(252 億円)
2 位静岡県(251 億円)
3 位三重県、京都府(66 億円)
5 位福岡県(35 億円)


シン・エヴァの「聖地巡礼」 庵野さん地元にファン殺到

アニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の大ヒットで、山口県宇部市が注目されている。 総監督・庵野秀明さんの出身地で、映画でも風景が数多く登場する。 「聖地巡礼」するファンが市内を訪れている。 県南西部に位置する宇部市は下関市、山口市に次ぐ県内第 3 の都市。 瀬戸内海に面し臨海工業地帯を形成している。 市内を走る JR 宇部線の宇部新川駅は映画の中で同じ駅名で描かれ、宇部線の歴代車両とともに重要な場面で登場する。

映画が公開されると、宇部新川駅のホームや車両を撮影するファンが現れた。 熊本市の会社員山川拓真さん (27) と愛麗(あいりん)さん (38) 夫婦も今月 20 日、初めて宇部市を訪れた。 「駅の構内は映画そのまま。 アニメの世界をリアルに体験できた。 エヴァをきっかけに、宇部のことを身近に感じるようになった。」 愛麗さんは興奮気味に話した。 ホームの端でカメラを構え、南東側にある「松浜踏切」や「小串通踏切」を撮影する人も。 二つの踏切は映画のポスターのモチーフになったとされる。 同じく映画に登場する市内の大手化学メーカー「宇部興産」の工場に足を伸ばすファンもいた。

庵野さんは 1995 年放送のテレビ版から、監督としてエヴァ・シリーズを手掛けてきた。 これまでも宇部市を中心に展開するラーメン店「中華そば 一久」のカップ麺のほか、山口県岩国市に酒蔵がある日本酒「獺祭(だっさい)」がエヴァに登場した。 宇部線沿線では 3 月末まで、スマートフォンのアプリを使った県民限定のスタンプラリーを実施中で、「シン・エヴァ」に登場する車両の模型や、クリアファイルなどが抽選で当たる。 近年は利用客の低迷が続き、一時は軌道を撤去し、バス高速輸送システム (BRT) の導入も検討された宇部線。 利用促進協議会事務局を務める宇部市の担当者は「宇部線の盛り上がりにつながれば」と話した。

地元の映画館でも「エヴァ人気」が広がっている。 市内唯一の映画館「シネマ・スクエア 7」では公開初日の 8 日、平日にもかかわらず 1 日 9 回の上映がほぼ満席。 支配人の西本佳弘さん (47) によると、トランクケースを持って県外から来た人や上映後に立ち上がって拍手する人もいた。 「(映画で)改めて庵野監督の地元愛を感じた」と話す西本さん。 「劇場内の熱気がすごい。 宇部市が注目されるきっかけになってうれしい。」 (山崎毅朗、asahi = 3-22-21)


「廃虚の女王」旧摩耶観光ホテル、国の有形文化財へ

文化審議会は 19 日、神戸市の「旧摩耶観光ホテル」など 132 件の建造物を、新たに国の登録有形文化財に登録するよう、文部科学相に答申した。

文化庁や神戸市などによると、旧摩耶観光ホテルは「廃虚の女王」とも呼ばれるなど廃虚ファンに人気があり、有志や地域住民らが現状の雰囲気を保ちつつ保存・活用に取り組んでいる。 1930 年ごろに民間会社の福利厚生施設として完成。 地下 2 階、地上 2 階建ての鉄筋コンクリート造りで、当時流行していたアールデコ調のデザインを採り入れた初期の作例の一つとされる。

戦後、61 - 67 年にホテルとして営業し、74 年ごろから合宿施設となったが、93 年ごろに閉鎖となった。 建物の傷みは激しく、現在は摩耶山の活性化に取り組む地元住民でつくる「摩耶山再生の会」が、所有者の許可を得て建物の見学会を定期的に開き、各地からファンが訪れているという。 このほか松江市の島根県立図書館や、岡山県津山市の中山神社拝殿、鹿児島県屋久島町の屋久島灯台なども答申された。(丸山ひかり)

「負の遺産」から一転、聖地に

神戸の夜景スポットとして知られる摩耶山に廃虚として残る「旧摩耶観光ホテル」が、国の登録有形文化財になる。 民間会社の福利厚生施設として建てられ、戦後の 1961 年にホテルとして再スタートした時は大改修を施し、ステンドグラスなど豪華な内装を誇った。 ところがわずか 6 年後、豪雨による土砂災害で休業に。その後、合宿施設として使われた時期もあったが 93 年ごろに閉鎖され、朽ち果てるままになっていた。

建物を所有する大阪府箕面市の不動産管理会社「日本サービス」代表の三宮正裕さん (43) は「利用用途がみつからず、取り壊しにも多額の費用がかかるため、やっかいな『負の遺産』だった」と打ち明ける。 無断で侵入してガラスを割ったり落書きをしたりするいたずらも相次いだ。 一方で、長崎市沖の軍艦島(端島)などと並び、廃虚ファンから注目され、「廃虚の女王」とも称されるようになった。

これを観光資源として生かそうと日本サービスや有志らが 2015 年に「摩耶観光ホテル保存の会」を結成。 登録有形文化財をめざして、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングで、調査や劣化防止に取り組んできた。 保存活動に携わってきた NPO 法人「J-heritage」代表の前畑洋平さん (42) は「廃虚が国の登録有形文化財になるのは全国的にも珍しい。 まずは一安心だが、ここが活用に向けてのスタートです。」と話している。 (武田遼、asahi = 3-19-21)


小学生千人が装飾、道路は通行止め まちぐるみ結婚式

新郎新婦の門出をまちぐるみで祝う山口県光市の活動が、個性豊かで優れた地域の催しを表彰する「ふるさとイベント大賞」に入賞した。 市長が立会人を務める人前結婚式は、子どもたちの飾りが会場を彩り、吹奏楽の演奏がパレードを盛り上げる。 多くの市民が登場する「おせっかい」な結婚式は、若者の定住意識を高め、まちへの愛着を培ったと高く評価された。

「まちぐるみ Wedding」と銘打ち、住民有志でつくる光市おせっかいプロジェクトチームと光市が 2017 年に始めた。 募集したカップルの結婚式や会場の飾り付け、余興などを企画し、市民に協力を要請。 17 年に 120 人、18 年に 200 人が参列した。 1,600 人以上が参加した 19 年は、園児の歌に見送られて新郎新婦が JR 山陽線の岩田駅から出発。 島田駅近くでは線路沿いで住民 100 人が手を振って祝福した。 到着した光駅のホームで市川熙市長を立会人に人前結婚式が開かれ、その装飾は小学生千人が担当した。

さらに、道路を通行止めにし、中学生による吹奏楽の演奏でパレード。 虹ケ浜海岸では参列者も一緒に「亭主関白・かかあ天下争奪大綱引き」をし、新郎新婦による餅まきで締めくくった。 昨年は新型コロナの影響で中止となったが、今後も続けたいという。

ふるさとイベント大賞は一般財団法人地域活性化センター(東京)の主催。 25 回目の今回は全国から 125 件の応募があり、この活動は「ふるさとキラリ賞」に選ばれた。 チーム代表の佐々木淳志さん (40) は岡山からの移住者。 「『おせっかい』には相手を思いやる優しさがある。 光市には世話を焼きたがる人が多く、それを形にして発信したかった。」と話す。 受賞については「多くの方にボランティアで力を貸していただいた。 そのことが報われてうれしい。」と喜んだ。 (垣花昌弘、asahi = 3-13-21)


熊本地震で崩落した橋の下流に「新阿蘇大橋」が完成 開通式

関連死を含めて 276 人が犠牲となった熊本地震から 5 年となるのを前に、地震で崩落した熊本県南阿蘇村の阿蘇大橋の下流に新たな橋が完成し、7 日に開通式が行われました。 完成したのは新阿蘇大橋で、5 年前の 4 月に起きた熊本地震で崩落した南阿蘇村の阿蘇大橋のおよそ 600 メートル下流で、建設が進められてきました。 開通式は 7 日昼前、橋のたもとに国や県、それに工事関係者などおよそ 70 人が出席して行われました。

この中で熊本県の蒲島知事は「橋の開通で阿蘇地域をはじめ熊本県全体の観光や産業の復活に大きな効果をもたらすと確信しています」とあいさつしました。 式のあと、関係者を乗せたおよそ 60 台の車両が新たな橋を渡って、熊本市方面へと通り初めを行いました。 完成した橋は全長 525 メートルあり、熊本地震を教訓に大きな揺れの際、橋桁の落下などを防ぐため、橋の一部があえて壊れる損傷制御という工夫が取り入れられています。

開通式に訪れた南阿蘇村に住む 50 代の女性は「阿蘇大橋がなくなりこの 5 年近く地域住民は大変な思いをしてきました。 うれしいのひと言です。」と話していました。 新阿蘇大橋の完成で、鉄道や道路など熊本市などから阿蘇地域への主要なアクセスルートはすべて復旧したことになり、観光の振興や住民の利便性の向上に期待が膨らんでいます。

新阿蘇大橋を歩いて渡った人は

開通した新阿蘇大橋は午後 3 時から一般開放され、橋の上を歩く人も多く見られました。 5 年前の熊本地震で自宅が全壊する被害に遭ったという、近くに住む女子高校生は「地震で橋が落ちたときはとてもショックで、5 年間工事を見守ってきました。 開通によって、隣町の大津町にもずっと楽に行けるようになるので、本当にうれしいです。」と話していました。 また、熊本市内から 20 キロ近く歩いてきたという 50 代の男性は「誰よりも早く橋を歩いてみたいと思い、熊本市内からやってきました。 あいにくの雨でしたが、橋からの景色はすばらしかったです。」と話していました。

地元の商店では特産品販売のイベント

新阿蘇大橋から 500 メートルほど離れた場所で食料品店とガソリンスタンドを経営する「井手商店」では橋の開通を祝って、地元の特産品を販売するイベントが行われました。 イベントでは地元の農家や飲食店などが、地元で収穫された野菜や地酒などを販売していました。 また、イベントには新阿蘇大橋の開通を祝う寄せ書きも掲示され「橋を見るたびに元気づけられます」と書かれた紙が貼られていました。

このあと、午後 3 時に橋が一般車両向けに開通するとイベントに参加していた住民は店の前に並んで車に手を振っていました。 イベントを主催した「井手商店」の井手美佐子さんは「地震で橋がなくなるとは思っていませんで した。 新しい橋の開通で元の生活に戻るとともに橋が阿蘇地域のシンボルになってくれればうれしいです。」と話していました。

スイーツ店が入る展望所では

新阿蘇大橋のたもとにはスイーツ店が入る展望所が整備されています。 7 日午後 3 時すぎ、展望所には多くの人が訪れ、新阿蘇大橋の写真を撮影したり、スイーツを買ったりしていました。 スイーツ店の店長の後藤好子さんは「なくてはならない橋なので、この日を待っていました。 ことばでは表せないくらいうれしいです。 橋は南阿蘇村の入り口にあるので、村の活性化につながってほしいです」と話していました。

近くのガソリンスタンドでは

開通した新阿蘇大橋から 500 メートルほどの地点にあるガソリンスタンドでは、橋の開通に合わせて、およそ 40 人の村民が集まり、橋に向かって走る車両に向け沿道から手をふりりました。 ガソリンスタンド店長の丸野隆大さんは「建設中の橋は毎日店から見えていましたが、実際に開通して車が通るところを見ると感無量です。 橋が開通することでまた多くの人に南阿蘇村を訪れてほしいです。」と話していました。 (NHK = 3-7-21)

◇ ◇ ◇

「新阿蘇大橋」が 3 月 7 日に開通へ 熊本地震で崩落

2016 年の熊本地震で崩落した阿蘇大橋(熊本県南阿蘇村)に代わり、新たに建設が進んでいた新阿蘇大橋(仮称)について、国土交通省は 2 日、3 月 7 日に開通すると発表した。 地震で寸断された国道と県道が、すべて開通することになる。

全長約 206 メートルの旧阿蘇大橋は、16 年 4 月 16 日未明の熊本地震の本震で崩れた。 新しい橋はもとの橋の約 600 メートル南側に建設され、全長は 525 メートル。 橋脚の最大の高さは 97 メートルになる。 阿蘇地方では、昨年 10 月に、南阿蘇村で斜面が崩れて一部不通となっていた国道 57 号と、その代替として整備された新ルート(阿蘇市 - 大津町の約 13 キロ)が開通している。 (asahi = 2-2-21)