天安門事件 35 年、香港でも厳しい警戒 追悼の舞台は日本、台湾に

民主化を求めた学生らを中国政府が武力弾圧した天安門事件から 4 日で 35 年となった。 習近平(シーチンピン)指導部のもとで中国本土だけではなく、香港でも事件がタブー視され、厳しい警戒態勢が敷かれている模様だ。 2019 年まで毎年、追悼活動が開かれ、ピークには 10 万人以上が集まった香港のビクトリア公園や周辺では 4 日夜、多くの警官が周囲を警備していた。 記者が取材している間にも、黒い T シャツを着た若い男性が警察に連行された。

香港メディアによると、3 日夜には地元の芸術家の男性がビクトリア公園近くで事件の日付を示す「八九六四」を手で描くようなパフォーマンスをしたとして警察に一時連行された。 しかし、反体制的な言動を取り締まる 20 年の香港国家安全維持法(国安法)の施行などに伴って、香港では追悼集会は抑えこまれており、それ以外の目立った活動は公表されていない。 一方、園内では親中派による中国本土の各地の物産を紹介するイベントが開かれ、公園はブースで埋め尽くされた。

19 年まで追悼集会を主催していた市民団体「香港市民支援愛国民主運動連合会(支連会)」も幹部が次々と逮捕され、21 年に解散に追い込まれた。 元幹部の蔡耀昌氏 (56) は公園の物産イベントについて「この期間に他のことができないようにしたいようだ」と、追悼活動をさせないためだとの認識をにじませ、「もしそうならば、香港人が過去 30 年間続けてきたことへの侮辱だ」とも語った。

蔡氏はかつての追悼集会について「香港の重要な社会行動であり重要な歴史だった」と表現。 「人びとが長年、主体的に集会に参加し、意見を表明してきたことは誇るべきことだ」と述べた。 先月末には、追悼活動にからんで支連会の元幹部など 8 人が、国安法を補完する位置づけで制定された国家安全維持条例などに違反した疑いで逮捕された。 当局は「政府への恨みをあおる意図がある SNS 投稿をした」などとした。 蔡氏は「過去のような集会は行えないが、香港人の記憶には残っている。 (人びとの)思考も変わっていない。」と語る。

香港メディアによると、事件の「6 月 4 日」を暗示する「5 月 35 日」というバナーを掲げた書店前では、出入りする客に警察が職務質問を実施して締め付けを強めている。 一方、35 年前に事件の現場となった北京の天安門では、4 日の門への入場が全日中止に。 広場入場を予約するアプリも、表示は「空あり」なのに実際には予約できない状況になった。 当局はいかなる政治的動きも封じようと措置を講じている模様だ。

5 月上旬、天安門事件で家族を亡くした遺族でつくる「天安門の母」の活動に参加してきた尤維潔さん (70) の北京市内の自宅を記者が訪ねると、尤さんは玄関先で「いまは都合が悪い。 六四(6 月 4 日)が過ぎるまでは。 本当に申し訳ない。」」と両手を合わせた。 両脇には当局者とみられる男性 2 人が付き添っていた。 事件で当時 42 歳だった夫の楊明湖さんを亡くし、ほかの遺族とともに政府に事件の真相解明と国家賠償、責任者の追及を求め続けている。

「私が 35 歳のときに事件は起きた。 そこから同じ 35 年が過ぎたのに、問題はまだ解決していない。」とだけ述べ、目を潤ませた。 関係者によると、事件に関わりのあった一部の人は毎年この時期になると、当局から北京の外へと「旅行」に連れ出されているという。 「天安門の母」は 4 日に先立ち、中国国内からはアクセスできないホームページで「正義の日が来るまで、遺志を受け継ぐ」との声明を出した。 外国メディアを通じて声を上げることも困難な状況の中で、ぎりぎりの発信が続く。

そうした中、近隣の日本や台湾が、事件について公に語り継ぐことができる「最前線」となりつつある。 東京では 1 - 3 日にかけ、関連の集会が開かれた。 1 日の集会には、事件直後に指名手配された学生指導者 21 人の 1 人で、その後渡米した周鋒鎖さんが、米国から「天安門広場から近い東京で追悼集会を開くのは特別な意味がある」と語るビデオメッセージを寄せた。 中国出身の若者たちが中心となって JR 新宿駅南口で企画した「キャンドルナイト」では、主催メンバーの 1 人が「世代の隔たりなく、民主的で自由な中国を目指したい」と呼びかけた。

台北では、NGO 「華人民主書院協会」などによる追悼集会が 4 日、市中心部の中正記念堂そばの広場で開かれた。 同 NGO で活動する胡嘉穎さんは「彼ら(天安門事件の犠牲者たち)は記念され、記憶されるべきだ」と語る。 自身は 01 年生まれ。 「民主化が進んだ台湾で生まれた私たちがこうした活動をするのは、社会的な責任だ」と考えている。(畑宗太郎・香港、金順姫・台北、山根祐作、asahi = 6-4-24)

天安門事件 : 1989 年 4 月、中国共産党の改革派指導者だった胡耀邦(フーヤオパン)元総書記が死去。 その追悼集会を機に、多数の学生らが多くの都市でのデモや、北京の天安門広場でハンガーストライキや座り込みを行い、民主化を要求する大規模な運動に発展した。 ケ小平氏ら党指導部は運動を「動乱」と断定。 北京市に戒厳令を敷き、6 月 3 日夜から 4 日未明にかけて軍を投入し、運動を武力で制圧した。

当局は死者を 319 人と発表したが、「少なく集計された」と指摘されてきた。 事件は中国現代史の大きな転換点となった。 80 年代に党内外で取り組まれた政治改革の動きは挫折した。 一方、経済は一時冷え込んだものの、市場化改革と対外開放が 90 年代に再加速。一党支配体制下での経済大国化へとつながっている。


中国の矛盾示す戸籍制度、改革阻む社会不安の恐怖

[北京/香港] 中国中部の河南省で、ヤン・グアンさん (45) が一介の農民から外車を乗り回して 2 件の不動産を所有するビジネスマンへと飛躍できたのは、同国で誰もが欲しがる「都市戸籍」を入手したからだ。

河南省の省都、鄭州市に住むヤンさんは、医療や教育、ローンその他行政サービス給付が出生地と結びつき、農村から都市に移住するには許可申請手続きが必要な中国の戸籍制度(戸口)を、国家が全ての人民に牛の耳にあるような「識別票」を付けている、と表現する。 ヤンさんは「この識別票によって各人が享受できる権利にはさまざまな差が生まれ、果たすべき義務も違ってくる」と述べた。 一般的に都市戸籍は、農村戸籍よりも経済発展に伴う多くの恩恵に浴することができる。

2000 年代初め、鄭州市が住居を購入した人に対して、一時的に都市戸籍を付与する措置を打ち出すと、ヤンさんはその機会をとらえ、事業者登録をした上で同市全域に店を開いて、自らの運命を好転させたのだ。 1950 年代を起源とするこの戸籍制度がいよいよなくなるのではないか - -。 最近数カ月の当局の言動を受け、一部エコノミストの間にはこうした期待が広がっている。 背景には、不動産市場の不況が続き、消費が低迷する中で、より多くの人々を都市に呼び込んで経済のてこ入れを図ることが焦眉の急になっているという事情がある。

中国公安省は 8 月、人口 300 万人までの都市の戸籍制度廃止と、人口 300 万 - 500 万人の都市部での戸籍制度の大幅な制限緩和をすると宣言。 浙江省と江蘇省は、新たな居住者に対してほぼ完全に門戸を開く計画を発表した。 ただ、中央政府の戸籍制度に関する議論に参加している 2 人の関係者はロイターに、改革は停滞しており、特に大都市では大きく局面が打開される公算は乏しいと明かした。

その裏側には、戸籍制度改革を巡る当局のジレンマが透けて見える。 経済的な面からは改革に強い妥当性が認められる半面、社会の安定を損ねるのではないかとの懸念や、重い借金を背負う各都市にさらなる費用負担が加わる可能性が、改革を断固進めることに「二の足」を踏ませているからだ。 華夏新供給経済学研究院の創始者で、戸籍問題を含めて政府に政策助言を行っているジャー・カン氏は「戸籍改革はなかなか受け入れるのが難しい。 単純に望ましいというだけで可能になる話ではない。」と述べた。

ジャー氏によると、中央政府も地方政府も戸籍制度の制限緩和に反対ではないが、実行できるかどうかは各都市の予算と行政サービス能力に左右されるという。 複数の政策アドバイザーは、最大級の都市の場合は供給できる住宅が限られるし、環境汚染や渋滞に直面しており、それらがより多くの人口を吸収する上で制約になると説明した。 また、中小都市ならば新規住宅は有り余っているが、借金が膨れ上がっているので医療や介護、教育といったサービスを拡充する余裕はない。

2 人目の政策アドバイザーは「中国の都市化は質的にはみすぼらしい」と自嘲した。 中国では過去 40 年間で起業のチャンスが広がり、交通インフラや住宅への投資が実施されたのに伴って、大半の都市の規模が劇的に拡大したものの、いわゆる都市化率は先進諸国の 80 - 90% という水準をかなり下回っている。 現在、人口 14 億人のうち都市部に居住するのは約 65% と 2013 年の 55% から高まった。 だが、都市戸籍取得者は 48% で、実際の居住者とのかい離はずっと埋まらない。

中国の農村戸籍は土地使用権と結びついていて、農村から都市への出稼ぎ労働者が、特に経済が振るわない時期に都市戸籍を申請しようとしない原因とみられる。 農村戸籍のままなら、都市で仕事が見つからなくても地元に戻って農業で暮らしていけるという、ある種の保険の役割を果たしているのがその理由だ。 共産主義の中国は、土地の私有は認められず、使用権を自由に売買することもできない。 2 人目の政策アドバイザーは「土地制度の改革を前に進めなければならない。 多くの土地が有効活用されていない。」と提言したが、指導部は積極的に動いていないと付け加えた。

消費抑える出稼ぎ労働者

戸籍制度は、毛沢東政権時代の飢饉において、食糧配給と人民の出生地をひも付けし、飢えた農民が大挙して都市に流入するのを防ぐ目的で導入された。 この都市戸籍と農村戸籍を厳密に分ける仕組みにより、約 3 億人に上る出稼ぎ労働者の多くは、行政サービスを受けられる範囲が限られてしまう。 都市住民に比べれば医療費の還付額は少ないし、退職までの積立金でも雇い主からの拠出金は得られない。 結果として彼らは所得をより多く貯蓄に回し、マクロ的には当局が経済成長のより明確なけん引役になって欲しいと考えている家計消費が上向かない。

人民銀行(中央銀行)のアドバイザーの 1 人は、出稼ぎ労働者の消費額は都市戸籍取得者を 23% ほど下回っており、中国の国内消費に換算すると国内総生産 (GDP) の 1.7%、2 兆元(2,810 億ドル)を逸失している可能性があると推計する。 中国では、供給過剰に陥っている集合住宅の需要喚起も必要不可欠の課題だ。 GDP の約 25% を占める不動産市場は、民間デベロッパーの相次ぐデフォルト(債務不履行)で混乱が続いている。 ハーバード大学のマーティン・ワイト教授は、出稼ぎ労働者と都市住民の間での扱いがより公平になり、前者の雇用や福祉サービスの環境が上向き、住宅を買えるようになれば、不動産市場は相当程度改善すると予想した。

天国と地獄

ただ、中国指導部にとって、制御不能なほどの人数が都市に流入すれば、リスクをもたらしかねない。 2017 年には、北京で出稼ぎ労働者の居住地域に火事が発生した後、市当局は都市戸籍を持たない人々を「追放」する取り組みに乗り出し、中国では珍しい政府への批判が高まった。 北京や上海、深セン、広州といった巨大都市は、社会の安定や調和の観点からこの先何年も、新たな人口流入に窓を開く「チャンスはない」とジャー氏は言い切る。

こうした中でビジネスマンへの転身に成功した鄭州市のヤンさんは、都市戸籍取得の前と後では生活が一変したと改めて振り返った。 当初は地方からの出稼ぎ労働者が暮らす地域で無許可の小さなコンビニを営み、警察の目を逃れて公園にわらを敷いて眠った夜も少なくなかったヤンさんだが、都市戸籍を得ると先行きが急に明るくなったという。 今や事業を拡大するとともに、都市戸籍取得者だけが許される二つ目の住居を購入。 自家用車も手に入れて、活動的な社会生活を楽しんでいる。 (Yew Lun Tian、Kevin Yao、 Farah Master、Reuters = 12-10-23)


出稼ぎ労働者に寄り添う深センと重慶、冷酷な北京

北京市政府は閉鎖性と強権性を異様に強めている。 出稼ぎ労働者たちが住む郊外の村で宿泊所の火災が起きると、その村全体を潰してしまった。 では、中国の大都市にある「都市の中の村(城中村)」とはどのようなものであり、なぜ存在するのかを説明した。 そこでも触れたように、城中村は防火や住環境の面で大きな問題を抱えている。 深?市政府は 2009 年から城中村の改造に取り組んできた。 その方式には、(1) 取り壊して再建、(2) 機能の転換、(3) 総合的な整備、の 3 つがある。

第 1 の、取り壊して再建する方法は、城中村全体を地方政府が買い上げて取り壊し、道路を整備して建物の間に間隔を空けて立て直す方式で、深セン市では大衝村というところで 2002 年から実施された。 ただ、この方式にはいろいろな弊害が指摘されている。 村から土地・建物を買い上げるときの補償によって村民たちは大金持ちになる一方、アパートを借りて住んでいた人たちにとって再建されたアパートは高すぎるので、彼らは住む場所を失うことになる(楊・子・劉、2020)。 こうした現象は「ジェントリフィケーション」と呼ばれ、欧米の都市にも見られる。

深セン市政府はそうした弊害を認識して 2019 年の城中村整備計画では大規模な取り壊しを行わない方針を示した(劉、2021)。 その代わりに城中村の総合的な整備を行って、より安全で快適な場所に変える努力が行われている。 その一例が、福田区の水囲村の一部で建設された「人才アパート」である。 ここでは村民たちが建てたアパートのうち 29 棟を不動産業者の深業集団に貸与し、深業集団が消防施設や通路を整備し、1、2 階を商業施設に改造し、安全な電気工事を行うなど全面的なリノベーションを施したうえで福田区政府に貸与した。

福田区政府はそのアパートを人才アパートと称して単身者に貸し出して家賃を受け取る。 そして区政府は入居者から受け取った家賃に区の補助金を上乗せして深業集団に支払う。 深業集団は水囲村に地代を支払う。 このようにして、水囲村のアパートのうち 29 棟は城中村としての本質は変わらないまま、区政府の補助によって、家賃は安いが条件の良いアパートに生まれ変わった(楊・胡・劉、2020)。

ただ、この方式では城中村の狭隘さや安全上のリスクは根本的には解決されない。 2021 年に深セン市の「都市更新条例」が改正され、これまでは城中村の建物の所有者全員が同意しないと市政府による買収ができなかったのが、所有者の 95% の同意でも買収が可能となった。 これにより、城中村の買収が進み、それを取り壊して再建する動きが再び活発化すると見込まれている。 深セン市では 2018 年から 2035 年までの間に 170 万戸の住宅を供給する計画だが、その 6 割は人才アパートのような公的補助付きの民間アパートとするという(楊、2021)。

農村からの移住労働者を受け入れる重慶の公営団地

日本の高度成長期、すなわち都市化が急速に進展した 1950 年代後半から 60 年代にかけて、東京の近郊では大規模な公団住宅が建設され、とくに地方から東京へ就職したサラリーマンたちが多く住むようになった。 私の自宅近くにある荻窪団地は 1958 年に竣工したが、21 棟のアパートが立ち並び、875 戸が入居していた。 各棟の前には広々とした庭があり、児童公園も整備され、周辺には商店街もあり、1980 年代までは住民も多くてずいぶん活気があった。

深センの城中村の問題を解決するために、郊外に東京近郊にあるような公営団地を建て、城中村の住民たちもひと頑張りすれば手が届くような値段で賃貸・分譲したらどうだろうか。 深セン市は東京都とほぼ同じ面積に 1,766 万人も住んでいてすでに過密であるが、隣接する東莞市や恵州市であれば大規模な公営団地を建設する土地もあると思う。 ただし、深セン市の地下鉄は東莞市や恵州市まで延びていないので、東莞と恵州から深センへ通って仕事をするのはかなり無理がある。 公共交通ネットワークを隣接市にまで延伸し、ベッドタウンを造ることを検討するべきだと思う。

実は、郊外に大規模な公営住宅を建てている都市が中国にもある。 それは重慶市である。 重慶市には製造業の工場が多く立地し、そこで働くために農村から多くの人々が移住しているが、そうした人々の住む場所として重慶市は 2010 年から 4,000 万平方メートル以上の公営住宅を造ってきた。

こうした住宅は戸籍が重慶市にあるかないか、農業戸籍か非農業戸籍かの別にかかわらず、月収が 3,000 元以下の単身者、および合計収入が 4,000 元以外の夫婦であれば入居できる(胡・王、2022)。 公営住宅は 22 - 33 階建てと高層で、建ぺい率は 22 - 27 パーセントと敷地が広くとられている。 家賃は 60 平方メートルの住宅でも月 540 - 600 元(1 万 800 円 - 1 万 2,000 円)で、重慶市の同等の民間住宅の半分程度と格安である。

ただ、重慶市の公営住宅はコストを下げるために市の中心から 14 - 56 キロメートルも離れた場所に立地しており、バスや地下鉄など公共交通の便が悪く、通勤に 70 分以上かけている住民も多い。 公営住宅に住んでいるのは外地出身者ばかりなので、重慶市民との交流が生まれず、周囲の社会から浮いてしまっているそうだ。 公営住宅に整備したショッピングセンターは商店が入居せず、ガラガラな一方、路上で野菜を売る露天商が出現している。 買い物が不便で物価が高いことは入居者の不満の種である(胡・王、2022)。 一方、深センの城中村は、アパートは狭くて危険だが、通勤や買い物の便は良い。

巨大な「ギャップ」を埋める住宅を供給できるか

重慶のように郊外の大規模な公営住宅を建てる道と、深センのように市中心部の城中村を活用して住居条件を改善する道とがあるが、そのどちらかを選択するというよりも、条件の悪い住宅に住んでいる低所得階層に対し、公的補助によってより条件の良い住宅を安価に提供するさまざまな試みが並行して実践されるべきであろう。 なぜなら、深センや重慶のように産業が成長中の大都市にはこれからも人口の流入が続くだろうし、そうした新しい住民たちには安全で条件の良い住宅へ住みたいという願望があるだろうからである。

しかし、いま不動産バブルの崩壊で売れなくなっているマンションが、こうした階層にも手が届く水準まで値下がりする可能性はまずない。 住宅を所有できる階層に見放されて値崩れしているマンションの値段と、新市民や低所得階層に手が届く住宅の価格との間には、依然として巨大なギャップがある。 そのギャップを埋めるような価格帯の住宅を供給できれば、中国の不動産業はまだ成長する余地が大きいはずだ。

少し大風呂敷の話をすると、いま中国が直面している問題は、ヨーロッパ経済史でいわれている「勤勉革命 (industrious revolution)」という概念を想起させる。 近代のヨーロッパにお菓子やタバコといった嗜好品が出現したために、それを買うために人々はより勤勉に働くようになったという。 このことを経済史家は勤勉革命と呼んだのだが、高度成長期の日本では住宅がサラリーマンたちの勤勉革命をもたらしたのかもしれない。 サラリーマンたちはローンを背負って住宅を買ったので、会社に長く勤め、給料が増えるように奮闘せざるをえなくなった。

中国でも低所得の労働者たちが住宅を買うようになれば、会社で長く勤勉に働くようになる可能性がある。 だが、どうあがいても住宅が買えそうにないということであれば、彼らはやがて労働に疲れてやる気を失い、スラムに沈殿するか、貧しい故郷に帰ってしまうかもしれない。 住宅が手に届くかどうかは、農村から出てきた労働者たちが都市に定住し、長く勤勉に働くかどうかに影響すると思う。

閉鎖性と強権性を異様に強める北京市政府

深セン市と重慶市はいずれも都市に流入する人口に対して良好な住宅を供給するための努力を始めている。 一方、北京市と上海市は都市への人口流入そのものを止めている。 北京と上海の人口は 2013 年以降ほとんど伸びていない。 深セン市の人口が 2010 年から 2020 年の 10 年間に 726 万人増え、広州市も同じ期間に 603 万人増えたのとは対照的である。 私は、北京市が異様に閉鎖性を強めていることを 2017 年頃から意識するようになった。 北京市と隣接する天津市や河北省との間は何本もの道路でつながっているが、2017 年夏に天津市に工場見学に行ってバスで北京に帰ってくるとき、バスは突然、高速道路を外れて横の公安検査所へ向かった。

ところが、2017 - 19 年には天津市や河北省のどの道路から北京市に入るときにも車は「公安検査」という関所を通る必要があり、そこで車の乗員の身分証チェックが行われた。関所のところでは当然渋滞が発生する。 検査はテロ防止を目的としたものなのだろうが、これがあるために北京に車で入るのに渋滞も含めて 30 分は余計に時間がかかり、はたしてその膨大な無駄を必要とするほどの大きなリスクがあるのか、と首をひねってしまう。 この検査に象徴される北京市政府の閉鎖性と強権性は、出稼ぎ労働者たちが住む村に対しても容赦なく発揮されている。

2017 年 11 月に、北京市郊外の出稼ぎ労働者たちが住む村で簡易宿泊所の火災が起き、19 人が亡くなった。 火災が発生したアパートは東西 80 メートル、南北 76 メートルもある地上 2 階、地下 1 階の建物だった。 2 階には 305 の居室、1 階にはレストラン、商店、銭湯、アパレル工場などが入っていた。 その地下にあった冷蔵倉庫で電気のショートが発生したことが火災の原因だが、北京市政府が取った対策は火災を起こしたアパートの責任者を処罰するだけでなく、村の住民を 2 週間以内にすべて追い出し、村全体を潰すことであった。

4 万人が営んでいた生活と生産の痕跡

その村の名は「新建村」という。 深センの城中村とは違って、新建村は北京市の中心から南へ 20km も離れた田園地帯にある。 したがって、ここを城中村(都市の中の村)と呼ぶのは正確ではない。 この村に隣接した地域に 2002 年から地元の鎮政府がアパレル工場を誘致し、アパレル、電子、自動車部品などの工場が並ぶ工業団地ができた。 新建村はその工業団地で働く労働者たちの住む場所として発展し、東西 1.1km、南北 1km の場所に 2 階建てぐらいの簡易宿泊所などが集まっていた。

村にはスーパー、理髪店、服屋、携帯電話店、診療所、パン屋、理髪店、銭湯、中国各地の料理のレストランなど生活に必要な商業施設が完備し、従業員 5 - 30 人ぐらいの零細なアパレル縫製工場もたくさんあった。 村の人口は 4 万人ぐらいだったと推計される。 4 万人の生活と生産の場を北京市政府は違法建築を取り締まるという名目によってわずか 2 週間で潰してしまったのである。

 

都市化も住宅高度化も進まず、不動産業の低迷が続くおそれ

北京市政府は新建村に住んでいた人々に対してなぜここまで冷酷なのだろうか。 第 1 に、北京市政府は北京市戸籍を持つ人々のほうだけ見て仕事をしているからである。 北京市民の目からは、ほかの地域から流入する労働者たちは市の財政負担を増やす厄介者とみなされがちである。 もちろん大勢の人々を強権的に追い出すことに対して義憤を覚えた市民も少なくなかったが、そうした声は抑え込まれた。 第 2 に、市政府としてはアパレル産業のような低付加価値の産業を追い出し、北京市内ではもっと高付加価値の産業に集中したいという考えもある。 アパレル産業労働者や零細アパレル業者が安心して定住できるようにしようという考えはもともとないのだ。

北京市の新建村の例は、地方政府が強大な権限をふるって都市化を食い止められることを示している。 経済発展の趨勢からいえば中国の都市化はまだ今後も進むはずであるが、北京市政府みたいな地方政府ばかりになれば、都市化が現状のまま停滞することも考えられる。 深セン市や重慶市は労働者などとして流入してくる人口に対してより良い住環境を提供しようとしているが、北京市は流入労働者の住環境向上にはまるで関心がない。

北京市のような地方政府ばかりになれば都市化も住宅高度化も進まなくなり、不動産業の低迷が今後も長く続くだろう。 中国が国全体としてそうした政策選択の誤びゅうに陥り、日本の 1993年よりもまだだいぶ低い経済発展レベルであるにもかかわらず、「失われた 30 年」の扉を開いてしまう可能性は決して小さくない。 なにしろ 2017 年 11 月に新建村のお取り潰しを命じた張本人である蔡奇(当時の北京市共産党委員会書記)が、今や中国共産党のトップ 7 に名を連ねているのだから。 (中国学.com/NewsWeek = 12-9-23)