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戦後 80 年、歴史認識は「引き継ぐ」 石破茂首相の所感全文 石破茂首相は 10 日夕、首相官邸で記者会見を開き、「戦後 80 年に寄せて」と題した所感を読み上げた。 歴代内閣が戦後談話で示した歴史認識は「引き継ぐ」とした上で、「なぜ、あの戦争を避けることができなかったのか」を「国民とともに考えたい」として検証する内容だ。 首相官邸が配布した所感の文書の全文は次の通り。 ☆ (はじめに) 先の大戦の終結から、80 年が経ちました。 この 80 年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。 今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。 私は、3 月の硫黄島訪問、4 月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6 月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8 月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。 これまで戦後 50 年、60 年、70 年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。 過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。 戦後 70 年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。 国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。 国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。 第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。 多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。 政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。 米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。 戦後 80 年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。 (大日本帝国憲法の問題点) まず、当時の制度上の問題が挙げられます。 戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。 大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。 内閣総理大臣の権限も限られたものでした。 帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。 それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。 武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。 丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。 元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。 第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。 1920 年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。 1920 年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。 軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。 従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。 文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。 (政府の問題) しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。 政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。 1930 年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。 政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。 しかし、1935 年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。 ときの岡田啓介内閣は学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。 このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。 (議会の問題) 本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。 その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。 斎藤議員は 1940 年 2 月 2 日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。 いわゆる反軍演説です。 陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成 296 票、反対 7 票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。 これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその 3 分の 2 が削除されたままとなっています。 議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。 1937 年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942 年から 45 年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。 その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。 戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子(メンツ)をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。 加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15 年間に現役首相 3 人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。 暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。 五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。 (メディアの問題) もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。 1920 年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。 しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。 戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。 1929 年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。 深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚(こうよう)し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。 主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。 こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか 1 年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。 新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。 日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937 年秋頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。 (情報収集・分析の問題) 当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。 例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939 年 8 月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。 国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。 (今日への教訓) 戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。 日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。 また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。 内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。 さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。 情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。 これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。 政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。 他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。 政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。 現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。 無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。 自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。 政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。 組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。 陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。 政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。 責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。 海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒(いや)すには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。 しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。 このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。 政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。 国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。 政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。 使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。 先の大戦でも、メディアが世論を煽(あお)り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。 過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。 安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。 これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。 過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。 ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。 民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。 だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。 自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。 私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。 現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。 同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱(ぜいじゃく)なものです。 一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。 文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。 政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。 斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。 翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。 どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。 歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は拓(ひら)けません。 歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。 戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。 私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能(あた)う限りの努力をしてまいります。 令和 7 年 10 月 10 日 核禁条約を後押しする世界の 524 都市 NY 「特別な責任がある」 核兵器を全面的に禁じた核兵器禁止条約の発効から 22 日で 1 年たった。 条約の批准国・地域は 59 まで増えたが、核保有国やその「核の傘」に頼る日本などは背を向けたままだ。 国際 NGO は世界の都市に対し、自国政府に核兵器禁止条約参加を促してもらう運動を展開し、核保有国でも賛同が広がっている。 ニューヨークが賛同「核被害者と連帯、特別な責任」 米国最大の都市ニューヨークの市議会は昨年 12 月、米政府に核禁条約への支持と参加を求める決議を賛成多数で可決した。 決議はニューヨークが、第 2 次世界大戦時、原爆が開発された「マンハッタン計画」が始まった場所であると言及し、「核兵器の使用や実験などによる全ての被害者との連帯を表す特別な責任がある」とうたう。 「1945 年に広島、長崎に投下された原爆が 20 万人以上を殺害した後も、数十万人が核兵器の実験による放射能にさらされてきた。 被爆者や核実験の影響を受けた人々の苦しみは受け入れられない」と指摘し、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことを保障する唯一の方法は核廃絶だ」と強調した。 そしてニューヨークを「非核地帯」と確認することや市の会計検査官に対し、市の公務員の年金基金を核兵器関連企業から分離することなども求めている。 決議を後押ししたのが、核禁条約制定の動きを先導し、2017 年にノーベル平和賞を受賞した国際 NGO・核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN) が 18 年から展開してきた「シティーズ(都市)・アピール」だ。 核兵器が使われれば被害を受ける恐れが強い都市から、条約への参加を自国政府に求めてもらう。 ICAN によると、今月 20 日現在、19 カ国 524 都市がアピールに賛同した。 米ワシントンやロサンゼルスのほか、広島、長崎両市、パリなどが名を連ねる。 米国内の人口 3 万人以上の 1,400 を超える都市で構成する全米市長会議も昨年 8 月、米政府に対し、核禁条約を歓迎し、核廃絶に向けた即時行動を求める決議を全会一致で採択した。 ボストン、グラスゴー … 核保有国の都市も続々と 昨年 1 月の条約発効も追い風になった。 ICAN によると、発効後、昨年末までに新たに賛同した都市は 119 にのぼる。 米国でニューヨークのほか、ボストン、デンバー、ミネアポリスなどが加わり、英国ではスコットランド最大の都市グラスゴーが賛同した。 世界の 8 千以上の都市が加盟する国際 NGO・平和首長会議(会長・松井一実広島市長)は、3 月にオーストリアで開かれる核禁条約第 1 回締約国会議に合わせ、自治体首長らが集う会合を現地で計画している。 日本からは広島、長崎両市長と被爆者の参加を検討している。 ICAN などと連携する案もあるという。 広島市平和文化センター平和首長会議運営課長の末広恭子さんは「締約国会議を絶好の機会ととらえ、自治体で連携し、各国の条約参加に向けた国際世論を高めていきたい」と話す。(三宅梨紗子、福冨旅史) 地方 627 議会「日本も条約参加を」 日本国内でも市民の請願などを受け、政府に核兵器禁止条約参加を求める地方議会が増えている。 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)によると、2017 年 7 月に核兵器禁止条約が採択されて以降、1 月 12 日現在、都道府県と市区町村の計 1,788 自治体のうち 35% の 627 議会が政府に条約への署名や批准を求める意見書を議決している。 条約発効後に 90 ほど増えたという。 岩手県では県議会と県内の全市町村が議決した。 一方、山口県、佐賀県はゼロとなっている。 被爆地の広島県は 75%、長崎県は 50%。 日本原水協は今夏までに全国の 5割まで伸ばしたいとする。 担当の前川史郎さんは「地方議会の議決は世論を裏付け、可視化するものだ。 被爆国の日本政府は国民の声を受け止めて、条約への署名、批准をしてほしい」と語る。(岡田将平) ICAN メンバー「自治体には役割がある」 ニューヨークでは市内在住の ICAN のメンバーらが運動を始め、30 人以上の議員の賛同を得て 19 年に決議案を提出した。 ICAN の国連担当で、運動の中心だったセス・シェルデンさんが朝日新聞の書面インタビューに応じた。 ニューヨークは、第 2 次世界大戦中の米国の原爆開発に至った「マンハッタン計画」が始まったところだ。 シェルデンさんはそうした歴史的な文脈に言及したうえで、「世界で最も重要な都市の一つであるニューヨーク市の表明には価値と責任がある。 (国家の)核政策の転換につながる可能性がある。」と述べた。 都市で核兵器禁止条約賛同の輪を広げるねらいについて、シェルデンさんは「核兵器は戦場の兵士だけではなく、都市や市民を標的とする」と指摘し、「地方自治体は核軍縮を前進させる役割があり、核兵器反対の声を上げる責任がある」と強調した。 3 月に初の条約締約国会議 核兵器禁止条約 米ロ英仏中の 5 カ国に核兵器保有を認めている核不拡散条約 (NPT) と異なり、国際法として初めて、核兵器の開発、実験、生産、保有、使用などを全面的に禁じた。 国連加盟の 6 割にあたる 122 カ国・地域の賛成で 2017 年 7 月に採択された。 20 年 10 月に批准国・地域が要件の 50 に達し、21 年 1 月 22 日に発効した。 今年 3 月にオーストリア・ウィーンで最初の締約国会議が開かれる。 締約国以外ではドイツなどがオブザーバー参加する方針だが、日本政府は慎重な姿勢だ。 (asahi = 1-22-22) 閲覧制限撤回「ほっとした」 はだしのゲン 「はだしのゲン」が元のように自由に読める - -。 26 日、松江市教育委員会が閲覧制限を撤回した。 名古屋市内の図書館では制限はしていなかったが、学校現場に強制と受けとられる要請をした松江市教委の事務局の対応には不信の声が上がった。 名古屋市名東区の「戦争と平和の資料館ピースあいち」は 31 日まで、「絵本はだしのゲン原画とマンガ展」を開いている。 同館の事務局長を務める宮原大輔さん (60) は「ほかの地域に閲覧制限が広がらず、ほっとした」と話す。 館内には、主人公ゲンの言葉や名場面をもとに作ったパネル、マンガ本などを展示。 松江市教委による閲覧制限が明らかになった後、「実際の描写がどんなものか知りたい」と見学に訪れる人もいたという。 宮原さんは「描かれているのはむごい内容だが、その事実から子どもの目をふさぐことは、原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さを伝える機会を奪う」と指摘する。 スタッフの一人は名古屋市内の図書館に問い合わせ、閲覧を制限していないことを確かめたという。 広島市で 4 歳の時に被爆した愛知県春日井市の水野秋恵(ときえ)さん (72) は「閲覧制限の撤回は当然」と憤る。 「実際の光景は漫画よりもっとひどかった。」 小中学校や高校で体験を伝える活動に取り組み、昨年からは愛知県内の被爆者でつくる愛友会の事務局長を務める。 「見るか見ないかを判断するのは子どもたち。 歴史認識について異論を唱える人が現れた途端に閲覧を制限するのではなく、そうした人とも話し合う姿勢が必要ではないか。」 (宋光祐、asahi = 8-27-13) 「戦争の残酷さ知らせねば」 ゲン描写へ中沢氏の思い 【聞き手・武田肇】 松江市教委事務局が「暴力的で過激な描写」と問題視し、閲覧制限を求める理由としたのは「はだしのゲン」 10 巻に登場する旧日本軍兵士の中国戦線での行為にかかわる描写だった。 昨年 12 月に死去した中沢啓治さんはこの場面をどんな思いで描いたのか。 中沢さんのそばにいて、「ゲン」の背景描きを手伝った妻のミサヨさん (70) が朝日新聞に語った。 兵士が中国人男性の首を面白半分に切り落とす。 妊婦のおなかを切り裂き、赤ん坊を引っ張り出す - -。 今から 30 年近く前、主人がこの場面を描いたとき、私もショックを受け「残酷すぎるのでは」と言いました。 主人の答えは「きれいな戦争というのはないんだ。 戦争の残酷な実態を知らせなければ、子どもに戦争というものが伝わらない。」 戦争の恐ろしさに小さな頃から触れ、大人になって戦争を防ぐ方法をじっくり考えてほしいというのは、死ぬまで変わらぬ思いでした。 自分が体験した被爆の場面でも、いろんな資料を集めて描いていましたが、体験のない戦場の場面を描くときは、特に多くの資料や文献を読み込んでいました。 描けば批判が来ると覚悟していました。 「ゲンはぼくの思いを託しているのだから、ヘンなことは描けないんだ」と言っていました。 (asahi = 8-27-13) 「はだしのゲン」閲覧制限、松江市教委が撤回 原爆や戦争の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」が松江市立小中学校の図書室で自由に読めなくなっている問題で、市教育委員会は 26 日、教育委員会会議を開き、手続きに不備があったとして、学校現場に求めていた閲覧制限を撤回し、学校の自主性に任せることを決めた。 この問題をめぐっては市教委が昨年 12 月、「作品中の暴力描写が過激」などとして、学校の許可がないと子どもたちが閲覧ができない閉架図書にするように市立小中学校の校長会で要請。 その後、学校により対応にばらつきがあったため、市教委は今年 1 月の校長会で閉架を徹底するよう再び要請していた。 閲覧制限は当時の市教委の事務局レベルの判断で決められ、教育委員会会議に報告されていなかった。 (asahi = 8-26-13) 「はだしのゲン」、アマゾンでベスト 10 入り 増刷も 【宮野拓也】 漫画「はだしのゲン」が、松江市教育委員会による閲覧制限問題を機に読み直されている。 ネット通販大手「アマゾン」では、10 巻セットがコミック部門で 10 位以内に入り、発行元が増刷を決めた。市内の図書館での貸し出しも好調だ。 単行本を初めて発売した汐文(ちょうぶん)社(東京)。 刊行するコミック版や愛蔵版全 10 巻セットの出荷数は、いつもの 7、8 月なら 2 千セットほどなのに、今年は 7 千セットになった。 今も 2 千セットの増刷をかける。 例年、終戦の日の 15 日を過ぎると売れ行きは落ちるが、今年は、昨年末に作者の中沢啓治さんが亡くなったことに加え、閲覧制限が注目され、今も全国から注文が相次いでいる。 (asahi = 8-24-13) はだしのゲン「自由に読ませて」 日本被団協も要請 漫画「はだしのゲン」が松江市内の小中学校の図書館で自由に読めなくなっている問題で、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は 23 日、閲覧制限を各校長に求めた松江市教育委員会に、従来通り自由に閲覧できるよう求める要請書を送った。 要請書で、日本被団協は「はだしのゲン」について「原爆の実相を伝える作品であり、国内外で原爆を知る必読の本として評価されている」と指摘。 これまで国連本部の図書館などに寄贈し、感謝を受けてきており「閲覧制限しなければならない理由はない」と松江市教委の対応を批判した。 (asahi = 8-24-13) はだしのゲン「私は 10 歳で読めて良かった」 米漫画家 レイナ・テルゲマイアーさん 【古田大輔】 「いくつかのシーンは読者を動揺させるかもしれない。 でも、私は 10 歳で『はだしのゲン』を読めて良かった。」 戦争や原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」について、米国の漫画家レイナ・テルゲマイアーさん (36) が「読まれるべきだ」と訴えている。 レイナさんはニューヨーク在住で「Smile (笑顔)」などのヒット作がある。 松江市教育委員会は「暴力描写が過激」として小中学校での「ゲン」の閲覧を制限しているが、レイナさんは「私の周囲の大人はその暴力性についても私と話し合い、学ぶ機会をくれた」と振り返る。 「ゲンを読んだときは、死や苦しみの描写に混乱しました。 同時に、これを読んだ人は皆、こんなことが二度と起きないよう努力するはずだと思いました。」 自伝的作品「Beginnings (始まり)」では、主人公の女の子が父からもらった英語版のゲンを読み、泣きながら訴えるシーンを描いた。 「何で爆弾を落とさなきゃいけなかったの?」 「世界中の人にこの本を読んでもらうようにしたいの。 大統領は特に読んで。」 「Beginnings」は日本語に訳され、18 日からレイナさんのウェブサイト(http://goraina.com/)で公開されている。 (asahi = 8-24-13) はだしのゲン、売れ行き 3 倍に 閲覧制限問題で注文増 松江市教育委員会が同市立小中学校の図書館での閲覧を制限した「はだしのゲン」の売れ行きが好調だ。 作者の中沢啓治さんが亡くなった翌年である上に、8 月半ばに閲覧制限問題で注目が集まったことも一因という。 「子どもにぜひ読ませたい」と版元に問い合わせも来ているという。 全 10 巻を刊行している汐文社(ちょうぶんしゃ、東京)は 7、8 月の 2 カ月弱で、例年同時期の約 3 倍にあたる各約 7 千冊を出荷。 中央公論新社(東京)の文庫版全 7 巻は例年の 2.5 倍程度出ている。 中央公論新社の電子書籍版は制限問題が起きてからランキング上位に入ったという。 同社の担当者は「中沢さんは子どもによく伝わるようにと表現に心を砕いていたとうかがっている」と話している。 (asahi = 8-23-13) 「はだしのゲン」閲覧制限 松江市教委協議、結論先送り 原爆や戦争の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」が松江市立小中学校の図書室で自由に読めなくなっている問題で、市教育委員会は 22 日午前、教育委員会会議を開き、閲覧制限を撤回し、作品を開架図書に戻すかどうかの協議をした。 市教委事務局の対応を巡って教育委員から質問が相次いだため、26 日に臨時会議を開くこととし、結論は先送りした。 会議は午前 10 時半から松江市役所で始まり、清水伸夫・教育長を含む教育委員 5 人が出席した。 最初に市教委が、学校側に閲覧制限を要請する昨年 12 月までの経過について説明。 閲覧制限の問題発覚後、校長を対象に、閲覧制限への意見や図書室での置き場所などを尋ねたアンケート結果を参考資料として配布した。 この問題をめぐっては昨年 8 月、小中学校から作品の撤去を求める市民の陳情が市議会にあったが、12 月初旬に不採択となった。 (asahi = 8-22-13) 「ゲン、買って読めばいい」閲覧制限陳情の男性 松江市議会に「はだしのゲン」の撤去を求める陳情をした自営業の男性 (35) は 21 日、朝日新聞の取材に応じた。 「市教委は、ぼくが(不採択となった陳情で)訴えた歴史認識の誤りではなく、描写を問題にしており、不満はある」、「こんな漫画を義務教育の学校図書館に置くべきでなく、読みたければ自分で買って読めばいい」と持論を述べた。 男性は、昨年 10 月まで松江市に住み、いまは高知市在住。 昨年 11 月には高知市議会と高知県議会にも「ゲン」撤去を求める陳情をしたという。 松江市教委を数回訪れ、「ゲン」撤去を要求して職員と押し問答する様子を撮影した映像を動画投稿サイトにも投稿。 自身の活動について「国益を損なう行為が許せない。 日本人としてふつうのことをしているだけ。」と述べた。 (asahi = 8-22-13) 「はだしのゲン、自由に読ませて」電子署名 2 日で 6 千人 戦争や原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」が、松江市の小中学校の図書室で自由に読めなくなったことについて、堺市北区の学童保育指導員、樋口徹さん (55) が、閲覧制限を指示した松江市教育委員会に「自由に読めるように戻してほしい」と求めるネット署名を呼びかけたところ、2 日間で 6 千人分が集まった。 樋口さんは 16 日夜、ネット署名サイト「Change.org」に、自身が学童保育で接している小学生が「ゲン」を読んで原爆の恐ろしさや平和を学んでいると記し、署名を呼びかけた。 署名はツイッターやフェイスブックを通じ海外在住者まで広がり、サイトを運営するハリス鈴木絵美さんは「これほど短期間に 5 千を超える署名が集まるのは極めて異例。」 樋口さんは署名が 1 万を超えたら松江市教委に提出する。 市教委によると、18 日夕までに全国からメール約 250 通が届き、その大半が市教委の対応を批判する内容だったという。 (asahi = 8-19-13) 「はだしのゲン」閲覧を制限 松江市教委「描写過激」 【藤家秀一、武田肇】 広島での被爆体験を描いた、漫画家の故中沢啓治さんの代表作「はだしのゲン(全 10 巻)」が、昨年 12 月から松江市内の市立小中学校の図書館で子どもたちが自由に見ることができない閉架の状態になっていることが分かった。 市教育委員会が作品中の暴力描写が過激だとして、各校に閲覧の制限を求めた。 市教委によると、描写が残虐と判断したのは、旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にしたりする場面。 子どもたちが自由に見られる状態で図書館に置くのは不適切として、昨年 12 月の校長会で全巻を書庫などに納める閉架図書にするよう指示したという。 現在は作品の貸し出しはしておらず、教員が校内で教材として使うことはできる。 市の調査では市立小学校 35 校、中学校 17 校のうち、約 8 割の図書館がはだしのゲンを置いている。 (asahi = 8-16-13) |